松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

近代延岡における南画家の第一人者・小泉二山

2018-02-28 | 画人伝・宮崎

山水図 小泉二山 宮崎県立美術館蔵

文献:延岡先賢伝、延岡先賢遺作集、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

江戸後期から南画が盛んに描かれるようになった延岡では、明治期になると小泉二山が出て人気を博し、近代延岡における南画家の第一人者と称された。二山は延岡で鈴木月谷に学んだのち、江戸に出て川上冬崖、田崎草雲に学び、豊後の淵野桂僊にも学んでいる。画風は「山水は渡辺崋山、花卉は椿椿山、鳥は岡本秋暉の長所をそれぞれ消化してよくその長所を生かしている」と評され、延岡の好事家に多く所蔵されている。

また、同時期の宮崎の南画家として、延岡で鈴木月谷に学んでいた際の同門に、河野立巌、佐野徳輝、根井南華がいる。

小泉二山(1858-1936)
安政5年延岡恒富生まれ。父は延岡藩士。旧姓は遠山、名は国太郎、のちに正休と改めた。別号に霞堂がある。明治12年に小泉家の養子となった。小泉家も代々内藤家の家臣で、奥州磐城国平より内藤氏に随行して延岡に来たとされ、養父正直は御金御奉行御雇をつとめていた。明治4年から8年間鈴木月谷に学び、明治11年に上京して川上冬崖に師事。さらに田崎草雲、淵野桂僊にも学んだ。明治34年に延岡亮天社の毛筆図画教師として嘱託となり、明治36年の閉校までつとめた。明治35年から延岡女学校図画教師嘱託となり、明治39年からは延岡女子職業学校の指導も兼任した。昭和11年、76歳で死去した。

河野立巌(1855-1920)
安政2年日向市美々津町生まれ。家は船や多くの田地を持つ豪商。幼名は稜一、名は通紹、のちに介寿。初号は月竹。少年のころに鈴木月谷に師事し、明治18年に上京して画を学んだとされるが、師は不明。明治21年に帰郷して家業を継いだが、明治38年には財産を処分して広島に移住。大正8年に現在の宮崎市に移った。大正9年、65歳で死去した。

佐野徳輝(1858-不明)
安政5年延岡市岡富生まれ。竹谷と号した。明治7年に鈴木月谷に師事した。第1回内国絵画共進会に南北合派として「山水」「菊」を出品、第2回展に南宗派として「竹図」「山水図」を出品した。


延岡藩の南画家・岡部南圃

2018-02-27 | 画人伝・宮崎

百花百鳥図 岡部南圃 延岡市内藤記念館蔵

文献:延岡先賢伝、延岡先賢遺作集、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

延岡藩の最初の御用絵師・佐藤周鱗斎は狩野派だったが、その後の延岡の絵師は、周鱗斎の子の佐藤竹皐、孫の佐藤小皐をはじめ、そのほとんどが南画を学んでいる。延岡藩が南画王国だった豊後に近く、また飛び地もあったことから、その影響があったことも考えられる。

延岡の南画家たちは、谷文晁の流れを汲むものが多く、江戸に出て谷文晁の弟子や孫弟子に直接師事したものもいれば、修業して帰郷したものに宮崎県内で師事したものもおり、その流れは昭和まで続いた。主な画家としては、佐藤竹皐・小皐親子をはじめ、岡部南圃、塩月秋圃、鈴木月谷、小泉二山らがいる。

江戸後期の延岡画壇の第一人者・岡部南圃は、修業した時期や年齢は定かではないが、江戸で岡本秋暉に花鳥を学び、春木南湖に山水を学んだ。「延岡先賢伝」によれば、南圃の絵は、写生に意を用い、洋画の重ね塗りを思わせるところがあり、南画、北画、円山派を折衷した画風で、谷文晁、渡辺崋山らの影響を思わせるとされている。

岡部南圃(1807-1873)
文化4年生まれ。岡部秀七の四男。名は恒之、字は藤平。別号に介甫、南甫がある。江戸に出て佐藤竹皐と同じく岡本秋暉に師事して花鳥画を学び、春木南湖について山水画を学んだ。帰郷後は御画師として藩主・内藤政義につかえ、現在の延岡小学校東前の角あたりに住んでいた。代表作として「百花百鳥図」「寿老人」「名花十支の図」などが残っており、没後84年目には延岡で初の遺作展が開催された。門人に鈴木月谷、塩月秋圃、清水蓮溪、佐藤南巌がいる。明治6年、67歳で死去した。

鈴木月谷(1835-1906)
天保6年延岡生まれ。名は迂一、のちに厚。別号に霞峰がある。嘉永6年から岡部南圃に学び、江戸に出て岡本秋暉、福田半香、高久靄崖に師事した。のちに延岡に帰郷して、内国絵画共進会の第1回展、第2回展に出品した。明治31年に宮崎女学校図画教師嘱託となったのを機に宮崎市に移住、明治33年からは県立宮崎女学校嘱託となった。門人に小泉二山、河野立巌、佐野徳輝、根井南華がいる。明治39年、73歳で死去した。

塩月秋圃(不明-不明)
延岡生まれ。名は仁平。岡部南圃に学び、人物画や花鳥画を得意とした。晩年は延岡市内で凧や幟の絵を描いたという。71歳の時の作品が残されているが生没年は不明。


都城の四条派・赤池南鳳

2018-02-26 | 画人伝・宮崎

薩摩鶏 赤池南鳳

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

江戸後期になると、粉本主義に陥った狩野派は衰退していき、全国的に南画や写生主義の円山四条派がそれに代わっていった。都城でも四条派の絵が盛んに描かれるようになり、その先駆けである速見晴文をはじめ、鶏の絵を得意とした赤池南鳳、美人画の石坂古洲、洋式の肖像画や油絵も学んだ北郷南水らが活躍した。

赤池南鳳(1835-1912)
天保6年都城生まれ。島津家家臣・吉瀬種勝の子。明治の初めに母の実家・赤池家に入った。名は春一。別号に勃公子、啓關堂がある。鶏の絵を得意とした。11歳の頃から鹿児島の四条派・若松則文、竹村大鳳、税所文豹、三原文叢らに画法を学んだ。13歳の時には京都で絵の修業をするように藩命があったが、当時の赤鳳は粗暴なところがあり、遠く京都で問題を起こすことを恐れた両親は、これを辞退した。明治14年から3年間、伊予国の絵師・小波南洋が都城に滞在した際に円山派の画法を学んだ。内国絵画共進会の第1回展、第2回展に出品している。弟子に益田玉城、菊池栖月がいる。明治45年、78歳で死去した。

速見晴文(1821-1902)
文政4年生まれ。名は雄吉、晴章と称し、緑濃舎と号した。家は代々領主の秘書役であったが父の代に侍医も兼ねるようになった。画才のある祖母の影響もあり、幼いころから絵に興味を持っていたと思われる。やがて領主の命により鹿児島で絵と医術を学ぶようになり、絵は竹下寒泉、和田芸谷に師事した。晴文は常に「吾景文の写生を愛するも筆力は雄健を尚う」と口にし、四条派の祖・松村景文に傾倒していた。内国絵画共進会の第1回展、第2回展に出品した。明治35年、82歳で死去した。

石坂古洲(1843-1886)
天保14年生まれ。名は氏貫。別号に岳南がある。美人画には仙龍の号を用いた。若いころから鹿児島に出て学問や馬術などを修業したが、絵は誰にも師事せず、諸家の所蔵する絵を模写したりして独学した。速見晴文に学んだともされる。美人画の三畠上龍に私淑し、内国絵画共進会の第1回展と第2回展に出品した。明治19年、44歳で死去した。

北郷南水(1858-1913)
安政5年生まれ。幼名は左太夫、名は資包、のちに祥一。素影堂南水とも号した。画は速見晴文、石坂古洲に学び、赤池南鳳と同じく明治14年から3年間小波南洋に円山派の画法を学んだ。明治16年から2年間長崎に滞在し、洋式の肖像画や油絵を学んだ。内国絵画共進会の第1回展と第2回展に出品した。大正2年、56歳で死去した。


延岡藩の御用絵師・佐藤周鱗斎

2018-02-16 | 画人伝・宮崎

松鶴図 佐藤周鱗斎

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

経歴や作品が残っている延岡藩の御用絵師として、最も早い時期に名前が出てくるのは佐藤周鱗斎(1776-不明)である。周鱗斎の持ち物だった『狩野家累世所用画法』から狩野派の画を学んだことがわかるが、その習得の時期や方法はわかっていない。佐藤家は、養子の竹皋、その子・小皐まで3代続いた絵師だった。

周鱗斎の弟子には、片岡米山(1811-1897)がいる。米山は延岡の生まれではないが、12歳のころから周鱗斎に学び、のちに全国を遊歴、明治9年に帰郷して、八幡神社の宮司をつとめながら絵を描き、主に花鳥画を得意とした。

佐藤周鱗斎(1776-不明)
安永5年生まれ。延岡藩御用絵師。名は喜三郎、義雄。習得の時期や方法はわからないが、狩野派の画法を学んだと思われる。養子の竹皐、その子の小皐も絵を描いた。

佐藤竹皐(1819-1882)
文政2年延岡恒富生まれ。名は龍平。佐藤周鱗斎の養子。江戸に出て高久靄崖に師事し、主に山水画を学んだ。天保14年の靄崖没後は岡本秋暉に師事した。明治15年、64歳で死去した。

佐藤小皐(1861-1928)
文久元年生まれ。名は鶏太郎。明治13年に上京して渡辺小華や滝和亭に師事した。第2回内国絵画共進会に出品。明治19年に東京蠶業講習所を卒業し、延岡出身の宮崎の製糸場を経営していた遠山克太郎の勧めで、宮崎に移住した。大正9年北日本文明重要品博覧会で三等賞銅牌、全国大家名画監査会で二等賞銀牌を受けた。また、大正13年からは佐土原の根井南華の指導をした。昭和3年、69歳で死去した。

片岡米山(1811-1897)
文化3年日知屋原町生まれ。名は大学。泰雲亭米山と号した。文政6年から佐藤周鱗斎に師事し狩野派の画法を8年間学んだ。その後全国を遊歴し、明治9年に帰郷、富高新町の稲荷社の神官附属となり、それからは神職として過ごした。日向市内に作品が何点か確認されており、正念寺には天井画が残っている。明治30年、87歳で死去した。


飫肥藩の絵師・狩野派の横山惟儀、養徳親子

2018-02-15 | 画人伝・宮崎

東方朔図 横山惟義
東方朔とは、中国の前漢時代に武帝に仕えた文学者のことで、仙女の西王母の桃を食べたことから800歳にも及ぶ長寿を得たとの伝説がある。

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

飫肥藩の絵師としては、天保の頃、横山惟儀(不明-不明)、横山養徳(1799-不明)の親子がいた。惟儀は江戸で狩野派に学び、「花木、禽鳥可ならざるはなし」と言われたという。早くから山林愛護の大切さを説いたといわれ、時の藩主・祐相も惟儀の説を重んじて新年から門松を用いることを禁止したという。そのためか、飫肥地方には現在でも特殊な門松が伝わっている。

子の養徳も狩野派に学び、『飫肥藩先人伝』には「蜜画をよくし、父の右に出づ」とある。飫肥城歴史資料館に初代飫肥藩主を描いた「伊東祐兵画像」が残っている。弟子に学者であり教育にも携わった門川加世子(1798-1882)がいる。門川は、玉瑛と号し、酒をたしなみ、酒の間に軍書を談じたという。

江戸時代後期になると、土佐派の図師舟堂(1828-1910)が飫肥藩画壇の中心となって活躍した。舟堂は江戸に出て、奥絵師の板谷桂舟について画法を学んだ。和歌もよくしたという。

横山惟儀(不明-不明)
天明頃生まれ。金治郎とも称した。年少の時に江戸に出て、師が誰であったかは不明だが狩野家で数年間学び、山水、人物、花鳥などみな得意とした。帰郷後は17石の禄を受け、中小姓をつとめながら藩士子弟に絵を教えた。「東方朔図」が残っている。

横山養徳(1799-不明)
寛政11年生まれ。儀右衛門とも称した。横山惟儀の子。父の後を継ぐべく江戸に出て狩野家で数年間絵を学んだ。師の名前は不明。『飫肥藩先人伝』には40歳にもならないうちに没したとあるが、66歳の時に描いたとされる「大黒図」が残っており、没年は定かではない。

図師舟堂(1828-1910)
文政11年生まれ。門川長兵衛の二男。図師助六郎の後を承けて中継養子となり、菅六郎と称した。嘉永元年江戸に出て、奥絵師の板谷桂舟について3年間住吉派の絵を学んだ。その後小田切直介という絵師にもついたが、その死によって再び桂舟の門に戻り、文久3年に帰郷した。明治2年に測量絵図方、のちに地図調方をつとめた。明治15年国内絵画共進会に出品した。その後戸長や飫肥小学校で画学教員などをつとめた。明治13年、82歳で死去した。


佐土原藩の絵師・狩野永諄

2018-02-14 | 画人伝・宮崎

出山仏 狩野永諄 臨済宗妙心寺派大光禅寺蔵
「出山仏」とは、雪山(ヒマラヤの異称)を出る釈迦のことで、雪山で6年間の苦行を試みたが、苦行では悟りを開くことができないという考えに至った釈迦が下山する様を描いている。この後、釈迦は尼連禅河のほとりの菩提樹の下で悟りを開いた。

文献:郷土の絵師と日本画家展

佐土原藩では狩野永諄(1652-不明)が絵師としてつとめた。永諄は佐土原藩の家臣ではなく、絵師として招かれて佐土原に来た人物と思われる。作品は、佐土原町の大光寺に残っている「出山仙」「維摩居士図」など3点、宮崎県立図書館の杉田文庫に三幅対のものが1点残っており、いずれも署名は法橋狩野永諄とある。法橋の位を与えられ、狩野の姓と師の永の文字を名前に許されており、佐土原藩は優秀な人材として永諄を日向国に迎えたと思われる。

狩野永諄(1652-不明)
承応元年生まれ。本姓は石田、名は里信、通称は九郎右衛門。作品の署名には尖信の名もみられる。中橋狩野家の狩野右京時信に師事した。時信没後は、その子・永叔主信を時信の弟子だった狩野昌運季信とともに後見した。晩年は帰国した。


高鍋藩御用絵師を代々世襲した安田家

2018-02-13 | 画人伝・宮崎

竹鶴図 安田甫行(利忠) 宮崎県立美術館寄託(個人蔵)

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ

高鍋藩では、安田義成(不明-1696)を初代とする安田家が、代々世襲で御用絵師をつとめた。初代義成は、木挽町狩野家の狩野尚信の門人だったが、高鍋藩二代藩主・秋月種春に招かれて寛文7年に高鍋にきた。それ以来、安田家は代々御用絵師を世襲し、二代義正、三代義行、四代甫行、五代義方、六代義為、七代守義、八代守世と続いた。また、絵だけではなく、地図書き、剣術、砲術などで仕えたものもいた。李仲という号は初代義成が師の尚信から与えられた号だが、初代のほかに、五代義方、八代守世が名乗っており、二代義正、二代義為、七代守義は李仙という号を名乗った。

安田義成(李仲)(不明-1696)
安田家初代。幼名は利左衛門。江戸木挽町狩野家の狩野尚信に師事し、「狩野李仲」の名を賜った。二代種春、三代種信に仕えた。「自画像」が安田家に保存されており、これは79歳の時に手鏡に姿を写して描いたといわれている。元禄9年死去した。

安田義正(李仙)(不明-1706)
安田家二代。正信ともいった。幼名は利左エ門。号は李仙。狩野養朴常信に師事し、三代種信、四代種政に仕えた。作品は残っていない。宝永3年死去した。

安田義行(不明-1747)
安田家三代。信行ともいった。幼名は利左衛門、のちに義貴。狩野如川周信に師事し、また、示現流中位免許を受けた。四代種政、五代種弘、六代種美に仕えた。「不動明王図」が安田家に伝わっている。延享4年死去した。

安田甫行(利忠)(1712-1771)
正徳2年生まれ。安田家四代。幼名は利平次。利忠、修竹斎と号した。狩野随川甫信に師事し、五代種弘、六代種美、七代種茂に仕えた。「竹鶴図」「涅槃図」が安田家に伝わっている。明和8年、60歳で死去した。

安田義方(李仲)(1752-1815)
宝暦2年生まれ。安田家五代。名は利平次、のちに義門。安永10年から李仲と改め、好竹斎と号した。狩野常川幸信と狩野閑川昆信に師事し、七代種茂、八代種徳、九代種任に仕えた。安永10年綾部永英らとともに弾琴松の碑を立てた。寛政4年木城の比木神社が大風で崩壊したとき、祝詞殿の天井画を復元し、その功により一代小給を認められた。「白鷺の図」「源氏物語絵巻(写)」などが残っている。文化12年、56歳で死去した。

安田義為(李仙)(1782-1832)
天明2年生まれ。安田家六代。幼名は利平次、のちに利左衛門。李仙と号した。狩野友川寛信に師事し、九代種任に仕えた。作品は残っていない。天保3年死去した。

安田守義(李仙)(不明-1841)
安田家七代。幼名は兵吉。李仙、閑鶴斎と号した。橋口無尽院の二男で、六代義為の娘婿となり安田家を継いだ。狩野探信守道に師事し、九代種任に仕えた。花鳥画の名手とされた。高鍋町の弥専寺に「聖徳太子像」などが残っている。天保12年死去した。

安田守世(李仲)(1830-1908)
天保元年生まれ。安田家八8代。守義の長男。幼名は利平次。李仲、閑春斎、龍川と号した。狩野守玉探龍に師事し、九代種任、十代種殷、十一代種樹に仕えた。画業のほか長沼流砲術免許、西洋砲術中位ならびに免許を得た。万延元年西洋砲術頭取に任命され、その後郷兵教示方、砲術副師の職を歴任した。明治になって藩内分郷絵図取調、宮崎県勧業課地図認め、日向国地図調整、高鍋学校幹事、上江小学校学務委員などの職に就いた。作品は比較的多く残っており、「折衷和漢図」「群鶴図」、最晩年の「仙女西王母図」などがある。現在の木城町比木神社の天井絵「双竜の図」も守世の作とされる。明治41年、79歳で死去した。


都城における江戸期最後の狩野派・中原南渓

2018-02-09 | 画人伝・宮崎

山水図 中原南渓 都城市立美術館蔵

文献:都城市史、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ

中原南渓(1830-1897)は、都城領主・島津久静の命により、鹿児島の狩野派・能勢一清に師事し狩野派の画法を学んだ。長峰探隠以来の名手とされ、久静のお抱え絵師となり、狩野派らしい筆法で多くの名作を世に出した。しかし、南渓の代で江戸時代も終わり、都城画壇に君臨した狩野派もやがて衰退、円山派や谷文晁派の絵師たちが勢いを増していった。

都城において江戸期最後の狩野派となった南渓だが、維新後は庄内に住み後進を育てており、晩年の弟子に、のちに宮崎県画壇に大きな足跡を残す山内多門がいる。多門は、南渓に師事したのち、東京で狩野派の橋本雅邦の門人となり、都城の狩野派を継承した。

中原南渓(1830-1897)
天保元年生まれ。名は美母呂、幼名は荘太郎、のちに正蔵、貞邦と称した。別号に挹霞堂、石峯軒、愛松盧がある。都城領主島津家25代久静の命によって鹿児島の能勢浄川軒一清に狩野派の画を学び、長峰探隠以後の名手といわれるまでになった。御用絵師になるが、明治維新により録を離れた。明治15年の内国絵画共進会に「牡丹」他3点を出品している。弟子に山内多門がいる。明治30年、67歳で死去した。



鍛冶橋狩野派に学んだ山路探定と長峰探隠

2018-02-08 | 画人伝・宮崎

竹林七賢 長峰探隠 都城市立美術館寄託(個人像)

文献:都城市史、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ

18世紀初めまでは、都城に数多くの絵師の名前が残っているが、18世紀中頃から19世紀前半の間に名前が見られるのは、山路探定(1728-1793)と長峰探隠(1785-1861)の二人だけであり、ともに鍛冶橋狩野家に学んでいる。

山路探定は都城島津家の家臣だったが、木村探元の晩年の弟子となり、ついで江戸に出て鍛冶橋狩野家の狩野深林に学び、深林没後は子の探牧の後見をつとめた。子どもの頃、探定が地面に絵を描いていると、たまたま通りがかった永井慶竺が探定の絵を見て「彼に絵を描かせよ。天性の画才あり」と家人に勧めたという逸話が残っている。

長峰探隠は、はじめ山路探定の子探渓に学び、のちに江戸で鍛冶橋狩野家の狩野探淵に師事した。都城領主島津家22代久倫と24代久本に仕え、神人流薙刀三法を修め、俳句もよくした。作品は数点現存しており、白谷卜斎の豊太閣図を模写したことでも知られている。

山路探定(1728-1793)
享保13年生まれ。名は通虎、通称は喜平八。別号に守行、松石子、探渓、探陽がある。都城の家臣だったが、絵の功により本府の士となった。鹿児島の木村探元に学んだのち、江戸の出て鍛冶橋狩野家の狩野探林に入門した。探林没後はその子探牧の後見となった。天明4年大進法橋に叙せられた。鹿児島に東條探竺、川畑探濬、南郷元安らの弟子があり、子の山路探英、探渓の絵師となった。寛政5年、66歳で死去した。

長峰探隠(1785-1861)
天明5年都城生まれ。名は正秋。幼名は良八、のちに子説といった。初号は等隠。享和年中に都城領主島津家22代久倫の命により山路探溪に学んだ。弘化3年に御医師格御記録方絵師になった。その後、島津家24代久本の命により江戸に出て狩野探淵の門に入った。はじめは等隠と号していたが、嘉永3年師の深淵より探の一字を与えられ探隠と改号した。俳句もよくし、俳号を碧水といった。文久元年、77歳で死去した。


狩野常信門下の四天王のひとり・永井慶竺

2018-02-07 | 画人伝・宮崎

百猿図 永井慶竺 宮之城町歴史研修センター寄託(個人蔵)

文献:都城市史、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ

都城には竹之下信成と同時代の絵師として永井実益(1637-1696)がいた。系図によると実益の父・利挙は二度結婚しており、一人は能賢の弟子・湛慶の娘で、もう一人は白谷卜斎の娘であり、実益は白谷卜斎の縁戚にあたる。実益の子・永井慶竺(1685-不明)は、はじめ津曲朴栄に学び、14歳の時に朴栄に呼ばれて江戸に出て狩野常信に師事し、新井寒竹、長谷川常時、大石古閑とともに、常信門下の四天王と称された。

数々の秀作を残しており、「朝鮮の役図屏風」は享保4年、都城領主島津家19代久龍の命によって鹿児島にある本画を模写したものであり、木村探元の「島津義弘公朝鮮征伐図屏風」がその本画とみられている。また、慶竺が模写したと伝えられる「高麗虎狩図屏風」も都城市の旧家に残っている。都城の欇護寺が保管している「釈迦涅槃像」は天和2年の作で、島津藩の吉貴に仕える前の作といわれる。「黄瀬川の対面図」「百猿図」なども代表作である。

永井慶竺(1685-不明)
貞享2年生まれ。永井実益の次男。名は常喜、はじめ実次ともいった。通称は熊千代丸、善左衛門。初号は慶竹、のちに慶竺とした。元禄11年、14歳の時に津曲朴栄に呼ばれて江戸に出て朴栄と同じく狩野常信に師事した。新井寒竹常償、長谷川養辰常時、大石古閑常得らとともに、常信門下の四天王のひとりに数えられた。10年後に帰郷し、宝永5年に鹿児島藩主島津家21代吉貴に絵師として召し抱えられ谷山郷士となった。弟子に坂元常有、川井田正蔵がいる。

永井実益(1637-1696)
寛永14年生まれ。都城の家臣。名は利修、実寿。通称は善吉郎、善右衛門。別号に等慶がある。白谷卜斎の縁戚にあたる。永井慶竺の父。師は不明だが、狩野派に学んだと考えられる。元禄9年、60歳で死去した。


木挽町狩野家に学んだ都城の絵師・竹之下信成

2018-02-06 | 画人伝・宮崎

和田合戦の図 竹之下信成 都城市立美術館寄託(城市立明道小学校蔵)

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ

都城島津家の絵師たちは、ほとんど狩野派に学んでいるが、白谷卜斎にやや遅れて出た内藤等甫(不明-1664)、竹之下信成(1639-1682)、津曲朴栄(1654-1701)は木挽町狩野家に学んでいる。等甫は狩野尚信に師事し、のちに鹿児島宗藩・島津光久に仕えた。信成は晩年近くになってから江戸に行き、狩野常信の門人になった。これは、信成の先輩である内藤等甫が常信の父・尚信の門人であったことと関連があるかもしれない。この尚信から常信へと続く木挽町狩野家は、奥絵師四家のなかでもっとも繁栄した家であり、そのつながりが都城出身の絵師から深まったことは、注目すべきことである。

信成の作品とされる「和田合戦の図」は、都城の藩校明道館に所蔵されていた屏風で、明治になり都城・小学明道校(現在の都城市立明道小学校)に伝わり、現在は都城市立美術館寄託となっている。六曲一双の屏風だが、左隻は所在不明である。鎌倉幕府の重臣だった和田義盛が、健保元年北条氏の横暴を怒り、兵を挙げ門に押し寄せているところを描いたもので、戦いの様子を華麗に破綻なくまとめている。山内多門が明道校に勤めていた時(1894年)に縮小して模写したものが都城市(個人蔵)に残っている。

竹之下信成(1639-1682)
寛永16年生まれ。通称は助之進。晩年に江戸に出て狩野常信に師事した。作品は都城市立明道小学校に「和田合戦の図」が残っている。また、都城市の諏訪神社に残る「紙本著色諏訪神社縁起」は天和2年、44歳の時の作である。正徳3年、73歳で死去した。

内藤等甫(不明-1664)
都城の家臣。名は利実、通称は善左衛門。狩野尚信について学んだ。自閉斎と号した。慶安年中に島津光久に召し抱えられて本府の士となった。弟子に山口等月がいる。等月はもと入来の家臣だったが、師の等甫同様、光久に召し抱えられて本府の士となった。寛政4年死去した。

津曲朴栄(1654-1701)
承応3年生まれ。名は常好、通称は利左衛門。狩野常信に学び、島津家20代綱貴に召されて本府の士になった。都城古今墨蹟に山水画が収められている。元禄14年、49歳で死去した。


都城島津家の最初の絵師・白谷卜斎

2018-02-05 | 画人伝・宮崎

豊太閣図 白谷卜斎画・長峰探隠模写

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展

宮崎の美術の中で、まず最初に狩野派の絵師として登場するのが、都城藩の白谷卜斎(不明-1658)である。白谷卜斎は都城領主・北郷忠能に仕え、文録の頃、京都に出て狩野宗家に学んだ。卜斎の作品「豊太閣図」は、宮崎県に残る日向国の絵師の一番早い時期の作例とされているが、原画は西南戦争で焼失したとみられており、その前に幕末の絵師・長峰探隠(1785-1861)が虫食いまで丹念に模写したものが伝わっている。

この原画は卜斎が師に従って工事中の伏見城内の襖絵を描いていたとき、たまたま秀吉の巡視があり、その際こっそり写生した(あるいは秀吉がちょっと立ち止まり写生させたとも)というもので、その後の描かれた多くの太閤像は、この時の卜斎の絵がもとになっているという。

模写を描いた長峰探隠は都城島津家の記録方絵師で、江戸に留学して狩野探淵に入門し、師の探の字を与えられた。都城の画家としては、江戸時代を通じて特筆される存在だった。

白谷卜斎(不明-1658)
名は利光。大炊左衛門と称した。文録年間に京都で狩野宗家の光信に学んだ。一説には狩野興以の弟子だったとされる。都城領主の北郷家12代忠能、14代忠亮、15代久直、16代久定に仕え、都城の中尾口に住んでいた。明暦4年死去した。




異色の抽象画家・荒井龍男と昭和期の大分県の洋画家

2018-02-02 | 画人伝・大分

過失に於ける歓喜への頌歌 荒井龍男 目黒区美術館蔵

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

昭和に入ると、それまで官展中心だった大分県出身の洋画家のなかでも、在野団体で個性的な作品を発表し、名をなす者が出てきた。荒井龍男(1904-1955)は中津市に生まれ、幼くして家族とともに朝鮮に渡り、独学で絵を修得、急逝するまでの23年間に次々と問題作を発表し、常に日本洋画壇の先頭に立って活躍した。

昭和7年に二科展に初入選して画業を開始した荒井は、昭和9年にはシベリア経由で渡仏し、デュフィやザッキンのアトリエを訪問して指導を受けた。帰国後は、東京に居を定め、昭和12年に山口薫、長谷川三郎、村井正誠、難波田龍起らと自由美術家協会(のちに自由美術協会と改称)を設立するが、昭和25年、左翼的リアリズム派とは同調しかねるとの理由から、山口薫、村井正誠、小松義雄らとともに自由美術協会を脱退、同年モダンアート協会を結成した。この年を境に自然形態は簡略化され、詩的な抽象へと画風が変化していった。

昭和27年には米国へと旅立ち、昭和30年に帰国するまで、ニューヨーク、パリ、サンパウロなど各地で個展を開催し好評を博した。その後の活躍も期待されたが、昭和30年の帰国後、同年ブリヂストン美術館で開催した個展の直後、ガンのため急逝した。

ほかには、独立美術協会の結成に尽力した日本的フォーヴの代表的画家のひとり・林重義、官展を脱退して同志と新制作派協会を創立して反官展の気勢をあげた佐藤敬、版画から油彩画に転じて異色な純粋抽象画家として国際展などで活躍した宇治山哲平、心象絵画の表現を続け、独自の画境を確立した糸園和三郎らが次々と登場してきた。

また、武藤完一と武田由平は、ともに岐阜県生まれだが、武藤は県師範学校に、武田は中津中学校に教員として赴任し、教育者として、または版画家として多くの後進を育て、大分県の美術振興に尽力した。

戦後は、荒井龍男、佐藤敬、宇治山哲平、糸園和三郎に加え、国画会の重鎮として重厚な画境を示した熊谷九寿、「狂女シリーズ」などを発表しユニークな活動を続けた美術文化協会の幸寿らも、独自の表現様式を求め、充実した創作活動を展開した。なかでも宇治山哲平は戦後ほとんどの時期を大分の地で制作し、地元美術界に大きな影響力を持った。

荒井龍男(1904-1955)
明治37年中津市生まれ。幼くして家族とともに朝鮮に渡り、朝鮮総督府の官吏となったが、二科展や朝鮮美術展に入選したのを機に職を辞して30歳の時に渡仏、彫刻家のオシップ・ザッキンと親交を持った。帰国後、昭和12年自由美術家協会の結成に参加し、戦後までここを主な作品発表の場とした。戦後は美術団体連合展や読売アンデパンダン展でも活躍するが、作風は次第に抽象化の方向に傾いていった。昭和25年村井正誠、山口薫らとともに自由美術協会を退会して、新たにモダンアート協会を設立。昭和27年にアメリカ、フランス、ブラジル、翌28年にはニューヨークのリバーサイド美術館、パリのギャラリークルーズ、翌29年にはサンパウロ近代美術館と各地で個展を開催、大きな成功をおさめて翌30年に帰国した。帰国直後、サンパウロ・ビエンナーレに出品。また、ブリヂストン美術館で帰朝展を開催して将来を嘱望されるが、病を得て、昭和30年、51歳で死去した。

林重義(1896-1944)
明治29年兵庫県神戸市生まれ。大正2年中学を中退して庭山耕園塾に入門。翌年京都府立絵画専門学校に入学するが、大正5年同校を退学して関西美術院に入った。翌年強度の神経衰弱のため父の郷里である大分県臼杵市に帰った。大正9年京都に出て鹿子木孟郎に師事した。大正11年小林和作とともに上京。翌年第10回二科展に初入選。大正14年には第6回中央美術展で中央美術賞を受賞した。翌年1930年協会の会員となるが、まもなく古賀春江らと脱退した。同年二科展で二科賞を受賞。昭和3年小林和作らと渡仏。昭和4年二科会会員となった。翌年フランスから帰国し、二科展で渡欧作20点を陳列するが、同年退会して独立美術協会の結成に参加した。昭和12年に同会を脱退。以後は主に新文展に出品し、昭和17年国画会会員となった。昭和19年、49歳で死去した。

佐藤敬(1906-1978)
明治39年大分市生まれ。大正14年上京し川端画学校で学び、翌年東京美術学校西洋科に入学した。在学中から帝展に出品。昭和4年第10回帝展に初入選した。昭和5年渡仏。翌年東京美術学校を卒業した。パリではサロン・ドートンヌに出品する一方、帝展にも作品を送り続け、昭和7年第13回帝展では特選となった。昭和9年帰国。翌年帝展改組にともなう第二部会の設立に参加、同年の第1回文展で文化賞を受賞、新会員に推挙された。昭和11年猪熊弦一郎、伊勢正義、脇田和、中西利雄、内田巌、小磯良平らとともに新制作派協会を創立、以後この会で活躍した。戦時中は軍の報道班員として戦争記録画を描いた。昭和27年再び渡仏し、以後はパリを中心に個展を開催したほか、ヴェニスベ・ビエンナーレ、日本国際美術展などに出品した。昭和53年、71歳で死去した。

宇治山哲平(1910-1986)
明治43年日田市豆田町生まれ。本名は哲夫。昭和4年日田工芸学校描金科に入学、漆芸蒔絵の技術を習得した。昭和6年次第に版画の世界に引き付けられ、この年の第一美術協会展に木版画作品を出品、初入選となった。昭和14年国画会で油彩画が入選。昭和18年国画会会友に推挙され、翌年には会員になった。昭和25年国画会中堅会員らと型生派美術協会を結成。昭和46年毎日芸術賞を受賞。同年大分県立芸術短期大学長に就任した。昭和48年西日本文化賞を受賞。昭和61年、75歳で死去した。

糸園和三郎(1911-2001)
明治44年中津市生まれ。昭和2年、16歳の時に上京し父の勧めで川端画学校に通い、昭和4年には前田写実研究所に入った。昭和8年、塚原清一らと四軌会を結成、翌年飾画と改称した。昭和13年、飾画の作家を中心に創紀美術協会を結成した。昭和14年美術文化協会の創立に参加。昭和18年井上長三郎の呼びかけにより新人画会の結成に参加。昭和22年美術文化協会を退会し、自由美術家協会に移った。昭和39年自由美術協会を退会し、以後無所属となった。昭和44年前田寛治門下生による涛の会、自由美術協会時代の友人と樹会を起こした。平成13年、89歳で死去した。

武藤完一(1892-1982)
明治25年岐阜県鷺田村生まれ。川端画学校洋画科に入学し、藤島武二に師事した。大正14年大分県師範学校の図画教師として赴任、以来美術教育に従事した。そのかたわら、平塚運一の講習会を機に木版画の制作を始め、昭和6年日本版画協会展に入選。同年版画誌「彫りと擦り」(のちに九州版画と改題)を創刊した。この頃からエッチングを制作、官展に出品した。昭和14年日本版画協会会員。翌年日本エッチング協会創立に参加した。昭和35年棟方志功、永瀬義郎、武田由平らと日版会を創立した。著書に『大分風景五十景版画集』『創作版画集』がある。昭和57年、89歳で死去した。

武田由平(1892-1989)
明治25年岐阜県高山市生まれ。大正3年岐阜師範学校卒業後、13年間教壇に立った。大正6年頃山本鼎に感銘を受け、版画制作に入った。昭和4年、大分県立中津中学校の図画教師となった。日本版画協会展、春陽会展、新版画集団展などに出品、昭和11年文展に初入選した。以後、新文展、日展に出品し、国際展にも出品した。昭和10年中津市耶馬渓クラブで個展した。平成元年、97歳で死去した。

熊谷九寿(1908-1993)
明治41年中津市生まれ。本名は久寿夫。関西美術院を卒業。昭和17年梅原龍三郎、福島繁太郎の推薦により国画会会員に迎えられ、以後同展を主な作品発表の場とした。昭和25年国画会の杉本健吉、香月泰男、須田剋太、原精一、宇治山哲平、国松登らと型生派美術家協会を結成した。翌26年第2回秀作美術展、第5回美術団体連合展、昭和30年第6回秀作美術展に出品。昭和37年渡欧し、帰国後も杉本健吉、須田尅太らとグループ展を続けた。平成5年、84歳で死去した。

幸寿(1911-2003)
明治44年大野郡千歳村生まれ。早稲田大学中退後、独学で絵を学んだ。昭和11年独立展に初入選。3年間出品を続けた。昭和15年から美術文化協会展に出品し、昭和18年同展で受賞し会員となった。戦後、昭和31年から2年間大分の精神病院に起居し、「狂女シリーズ」を描いて特異な画風を確立した。昭和33年新象作家協会の創立に参加。昭和35年現代日本美術展に出品したのをはじめ東京、九州各地で精力的に個展を開いた。平成15年、92歳で死去した。


片多徳郎と西ヶ原グループ

2018-02-01 | 画人伝・大分

秋果図 片多徳郎

文献:豊後高田市史、大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

明治40年に開設された文展に大分県出身の洋画家として初めて入選したのは豊後高田市出身の片多徳郎(1889-1934)だった。片多は、東京美術学校在学中の明治42年、第3回文展に「夜の自画像」が初入選し、以後褒状を連続して獲得、早熟な画才は周囲の注目を集めた。大正に入ると、独自の東洋風で日本的な表現を展開、大正8年には第1回帝展で無鑑査出品、大正11年には33歳で帝展の審査員をつとめた。

若くして目覚しい活躍をする片多の周辺には多くの大分県出身たちが集まるようになった。彼らは、当時片多が東京都北区西ヶ原に住んでいたことから「西ヶ原グループ」と総称された。この集まりは、片多が指導者的役割を果たしていたわけではなく、自由気ままな親睦会的なものだったようである。しかし、こうした官展系の画家たちの同郷意識に基づくゆるやかな人間関係は、地元大分画壇にも影響を与え、片多を媒介としたこの人脈が中心となって、後の大分の洋画界は展開することになる。

西ヶ原グループの主なメンバーとしては、東京美術学校の同級生だった権藤種男をはじめ、菅一郎、長野新一、池辺一夫、後藤真吉、保田善作、三浦直政、江藤純平らがいた。また、彫刻家や歌人たちも多く集まった。

若くして画才を発揮し、将来を嘱望された片多だったが、酒を好み、それが次第に体をむしばむにつれ作品も生気を失っていき、44歳の若さで自ら命を絶つこととなってしまった。

片多徳郎(1889-1934)
明治22年豊後高田市生まれ。明治34年大分中学入学、図画教師の松村古村に指導を受けた。明治40年東京美術学校に入学。明治42年の第3回文展で「夜の自画像」が初入選。在学中に3回連続で文展に入選し2回褒状を受けた。以後、大正6年第11回文展と12回文展で連続特選となった。大正8年安宅安五郎、牧野虎雄、高間惣七らと新光洋画会を創設、大正9年には明治40年に東京美術学校の同期と四十年社を結成した。この頃から酒を好み、晩年は中毒症状が出て入退院を繰り返した。早くから南画に興味を持ち、またセザンヌに多大な影響を受けながら、独自の東洋風で日本的な油絵を模索し続けた。昭和9年、44歳で死去した。

権藤種男(1891-1954)
明治24年大分市長池町生まれ。明治45年東京美術学校図画師範科を卒業。同級生に片多徳郎がおり、二人は一時日暮里に同宿して勉学に励んでいた時期があり、その後も極めて親しい交友関係を続けた。大正6年第11回文展に初入選。以後帝展、新文展にも入選を続けた。大正9年第2回帝展と昭和5年第11回帝展で特選を受けた。その他、第一美術協会展、春台美術展などにも出品した。第二次大戦後は郷里に帰り、大分県美術協会会長として郷土の美術の発展に尽力した。昭和29年、63歳で死去した。

菅一郎(1894-1975)
明治27年佐伯市生まれ。明治45年大分中学校を卒業後上京、大正8年同郷の先輩の彫刻家・片岡角太郎の家に寄宿しながら川端画学校に通い、また片多徳郎宅へ出入りした。大正10年第3回帝展に初入選し特選を受けた。その後たびたび帝展に出品し、昭和12年以降の新文展では無鑑査となった。大正15年から昭和17年まで佐伯中学校の図画教師として郷里の美術教育に貢献した。昭和50年、81歳で死去した。

長野新一(1894-1933)
明治27年速見郡日出町生まれ。大正9年東京美術学校図画師範科卒業後、山口県師範学校、東京第五中学校などで教壇に立った。大正8年第1回帝展に初入選。大正13年から昭和5年まで連続して7回帝展に入選した。以後、帝展のほか中央美術展、春台美術展にも出品を続けた。昭和4年東京美術学校助教授になるが、昭和7年に辞職し、翌8年、39歳で死去した。

池辺一夫(1895-1952)
明治28年大分市生まれ。大正8年東京美術学校図画師範科卒業後、一時大分県女子師範学校で教えていたが、大正12年再度上京し、片多家に出入りした。昭和3年第9回帝展に初入選した。昭和27年、57歳で死去した。

後藤真吉(1896-1961)
明治29年佐伯市生まれ。大分工業学校を卒業後、上京して川端画学校に入学して洋画を学んだ。昭和4年には渡欧し3年間画技の研鑽に励んだ。中央美術、光風会、文展などに出品した。昭和36年、62歳で死去した。

保田善作(1897-1992)
明治30年佐伯市生まれ。明治44年宮崎県立尋常高等小学校高等科卒業。大正13年第5回帝展に初入選。その後も帝展、新文展に出品した。昭和5年聖徳太子奉讃美術展に出品。その他、春台美術展、第一美術協会展などに出品、戦後は日展委員もつとめた。平成4年、95歳で死去した。

三浦直政(1897-1988)
明治30年速見郡日出町生まれ。大正10年東京美術学校図画師範科を卒業。その頃片多家をよく訪問した。一時熊本県第二師範学校に勤務したが、昭和3年から7年まで母校の美術学校で手工・自在画を教えた。昭和17年第5回新文展に初入選。ほかに創元会展、光風会展に出品した。戦後は郷里に帰り、大分県の美術教育に貢献した。昭和62年、91歳で死去した。

江藤純平(1898-1987)
明治31年臼杵市生まれ。大正5年臼杵中学校卒業後、同郷の彫刻家・日名子実三を頼って上京し、岡田三郎助に師事した。大正12年東京美術学校西洋画科を卒業。大正13年第5回帝展で初入選。その後、昭和3年、4年、8年と帝展で特選を受けた。また、春台美術展、第一美術協会展にも出品した。昭和12年には光風会会員に迎えられ、以後出品を続けた。戦後しばらくは郷里の臼杵で生活したが、昭和27年に再び上京し、日展、光風会展を中心に活躍した。昭和62年、89歳で死去した。