松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま北海道を探索中。

消えた近代日本洋画の開拓者・藤雅三

2018-01-31 | 画人伝・大分

破れたシャツ 182.9×243.8cm 藤雅三 米国ジョスリン美術館蔵
この作品は、米国ネブラスカ州オマハのジョスリン美術館に所蔵されていたもので、来歴などの問い合わせを受けた愛知県美術館の高橋秀治美術課長(当時)の調査により、平成20年(2008)、藤雅三の作品であることが確認された。「破れたシャツ」は、明治21年(1888)にソシエテ・デ・ザルティスト・フランセのサロンに入選した藤雅三の代表作で、120年間所在が不明だった。調査の経緯については美術研究第396号「藤雅三《破れたシャツ》発見報告」で報告されている。なお、藤雅三のよみ方は「ふじ・まさぞう」ではなく「ふじ・がぞう」であることは、アメリカでの藤の活動を研究している瀧井直子によって明らかにされているが、この作品の作家名リストにも「FOUJI(G.)」とあった。

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県文化百年史、大分県地方史147号「日本近代洋画と藤雅三」(著者:後藤龍二)、明治美術学会誌 近代画説14「藤雅三の仕事-アメリカでの活動を中心に」・同15「美術史探訪 藤雅三の墓」(著者:瀧井直子)、美術研究第396号「藤雅三《破れたシャツ》発見報告」(著者:高橋秀治)

近代日本洋画の発展において大きな役割を果たした画家に黒田清輝(1866-1924)、そして久米桂一郎(1866-1934)がいる。彼らが渡仏後に日本にもたらした外光派風の画風は、やがて近代日本洋画の主流となり、のちの官展アカデミズムにも大きな影響を与えた。しかし、フランスで外光派を学んだ日本人は黒田、久米だけではなく、二人よりも早く外光表現を学び、黒田を画家の道に導き、久米に絵の指導をした人物がいた。その人物こそが、五姓田義松についで日本人で2番目にサロン入選を果たし、画家としての活躍が見えてきた矢先、なぜか消息を絶った藤雅三(1853-1916)である。

藤雅三は大分県臼杵市に生まれ、はじめ南画を学び、10代の頃には陶器の絵付けも手掛けた。その後上京して彰技堂に学び、ついで工部美術学校でイタイア人教師・フォンタネージに洋画技法を学んだ。同窓に、浅井忠、松岡寿、五姓田義松、山本芳翠らがいる。工部美術学校閉校後は工部省に就職、この頃、久米桂一郎が藤に弟子入りしている。藤にとっては一番弟子となる。久米の日記には、明治17年のほぼ1年間、藤に指導を受けた様子が記されている。

その後、藤は洋画研究のために渡仏、ラファエル・コランの外光派の作品に魅了され、コランの指導を受けることになった。藤が黒田と知り合ったのはこの頃で、黒田に通訳を依頼したことが切っ掛けとされる。黒田は藤より1年早くフランスに来ていて、当初の目的は法律を学ぶことであり、美術とは関係がなかった。しかし、藤は黒田に画学の修業を勧め、たびたび黒田を誘っては郊外に写生に行き、鉛筆画の指導をした。その結果、黒田もコランに弟子入りすることとなり、同年、藤を頼って渡仏した久米桂一郎を加え、3人でコランに学ぶようになった。

久米がパリに到着した翌日から、藤と久米は毎日のように会い、黒田も加えた3人は兄弟同然の付き合いをしていたという。しかし、その関係も、明治21年を境に次第に壊れはじめる。この年は「破れたシャツ」がサロンに入選した年で、さらに翌年にはパリ万国博覧会に出品するなど、藤が画家として活躍をしはじめた頃なのだが、藤は二人の前から突如姿を消し、消息を絶ってしまう。黒田は当時を回想して「結婚前までは私と久米と藤という間は兄弟同様の間でやって総て遠慮なく話し合ってをったが、結婚すると間もなく亜米利加に行って了ったと云うことを聞いたが、その後はハタと遠ざかって了った」と記している。

詳しい事情は定かではないが、黒田の書簡や久米の雑誌記事などから推測すると、藤はフランス人モデルとの結婚に失敗して悲惨な生活に陥り、師のコランとの仲も壊れてしまい、黒田と久米に相談することなく渡米したと思われる。アメリカに渡った藤は、ニューヨーク付近の陶器工場の図案主任として暮らし、そのまま日本に帰ることなく、大正5年、アメリカの自宅で没した。

帰国することのなかった藤が、近代日本洋画の発展に直接参画することはなかったが、藤の存在がなければ、画家としての黒田や久米の存在もなかったかもしれない。そうすれば、日本にラフェエル・コランの流れを汲む外光派の作風が持ち込まれることもなく、日本の洋画界は異なった道を歩いていたかもしれない。

藤雅三(1853-1916)
嘉永6年臼杵市生まれ。はじめ帆足杏雨に南画を学び、米岳という号で数点の画幅を残している。また、10代の頃から地元の陶窯丸山焼の絵付けも手がけた。明治9年上京し、わずかの間だが画塾彰技堂に籍を置き、明治10年に開設された工部美術学校に入学、イタリア人教師アントニオ・フォンタネージに師事した。同窓には、浅井忠、松岡寿、五姓田義松、山本芳翠らがいる。明治14年の第2回内国勧業博覧会に曽山幸彦、松室重剛とともにコンテ素描を出品して話題を呼んだ。明治16年工部美術学校が閉校となり、工部省に就職した。明治18年、工部省技手として洋画研究のため渡仏。リュクサンブール美術館に展示されていたラファエル・コランの作品に魅せられ、早速コランに入門して、古典的写実をベースに抑揚のきいた外光表現を学ぶことになった。翌19年には法律を学ぶために留学中の黒田清輝や、藤を頼って渡欧した弟子の久米桂一郎も加わって、ともにアカデミー・コラロッシのコラン教室に学んだ。明治21年ソシエテ・デ・ザルティスト・フランセのサロンに「破れたズボン」が入選。次第に画家としての活躍がみられるようになった矢先、フランス人女性との結婚問題がもとでコランや黒田、久米らとは疎遠になり、明治25年明治美術会春季展に黒田の「読書」とともに「婦人雪行」が参考出品されたのを最後に制作活動についての記録は途絶えてしまう。のちに渡米してニューヨーク近郊の製陶工場の図案主任となるが、大正5年、再び祖国の土を踏むことなく、62歳で同地で死去した。


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吉田四代の祖・吉田嘉三郎と不同舎で学んだ大分出身の洋画家

2018-01-30 | 画人伝・大分

海魚図 吉田嘉三郎 大分県立美術館蔵

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

中津市出身の吉田嘉三郎(1861-1894)は、彰技堂で洋画を学び、日本初の洋画美術団体・明治美術会の通常会員となるなど、活躍が期待されたが、33歳で没した。しかし、嘉三郎が福岡県立中学修猷館で教員をしていた時の教え子で、画才を見込んで養子とした吉田博(1876-1950)と、三女の実子・ふじを(1887-1987)は、ともに小山正太郎の開設した不同舎で学び、画家として名を馳せた。のちに、博とふじをは結婚し、長男の遠志(1911-1995)、二男の穂高(1926-1995)、さらにその子の亜世美(1958-)と吉田家は四代続いて多彩な画業を展開した。

吉田博と吉田ふじをが学んだ不同舎での同窓として、大分県からは中本保策、井上長太郎、木付敏夫、山田英雄、宇佐美喜惣治が学び、不同舎に学んだかどうかは不明だが佐藤平太郎が小山正太郎に師事している。さらに、明治美術会には、吉田嘉三郎、中本保策、井上長太郎に加えて、県下から吉武丈作、岡部昇丸、大矢廣、鶴清氣らが参加した。

しかし、明治中期までの大分県出身洋画家のなかで、近代日本洋画界に名を馳せ、その動向に深くかかわった人物を見出すことはできない。中央画壇で活躍し、県美術界の浮揚に大きく貢献した洋画家としては、明治末期の片多徳郎の出現を待たなければならない。

吉田嘉三郎(1861-1894)
文久元年中津市生まれ。幼いころから画を好み、はじめ晴野鴻洲について日本画を学び、のちに京都に出て田村宗立に師事して3年間洋画を学び、さらに上京して彰技堂に入った。明治14年第2回内国勧業博覧会に大分県内の多くの南画の出品者にまじって、ひとりだけ中津から油彩画を出品した。明治15年と17年の内国絵画共進会には日本画を2点ずつ出品している。明治22年福岡県立中学修猷館に助教授として赴任、図画を指導するとともに、「中学図画帳」をはじめ図画教科書の編纂に携わった。また、教え子だった博の画才を見込み、養子とした。そのころ旧黒田藩主に要請されて肖像画を描いているが作品の所在は不明である。明治23年頃から福岡県福岡市薬院養巴之町に居を定め、明治22年に創立された日本初の洋画美術団体である明治美術会の通常会員となるなど、活躍を期待されたが、明治27年、33歳で死去した。

吉田ふじを(1887-1987)
明治20年中津市生まれ。吉田嘉三郎の三女。本名は藤遠。画才を見込まれて吉田家に養子に入った義兄・博の指導のもと、幼いころから画を描きはじめ、11歳で不同舎に入り本格的に洋画技法を学んだ。明治36年、16歳の時に太平洋画会に水彩画11点を出品、この年の暮れに、描きためた水彩画を携えて博とともに渡米、各地で兄妹展を開催して好評を博し、その売り上げをもとに、二人でヨーロッパ・アフリカの各地を巡った。帰国後に博と結婚した。明治40年、第1回文展に20歳で入選、第4回文展では褒状を受けた。大正8年女流洋画団体・朱葉会の第1回展から参加し、のちに会長をつとめた。戦後は抽象的な油彩画を描いた。昭和62年、99歳で死去した。

中本保策(不明-不明)
現大分市の出身。大分県出身者のなかでは一番早く不同舎に入学した。中本の名前は明治美術会2回展、3回展に出てくるが、詳しい経歴は不明。

井上長太郎(1870-1951)
明治3年三佐生まれ。明治24年大分県尋常中学校を卒業、翌25年から2年間妙心寺派第一中学校で教師をつとめた。はじめ大分県尋常中学校と大分県尋常師範学校で助教授だった大矢廣について学び、その後不同舎で3年間洋画を研究した。明治30年大分県大分尋常中学校杵築分校に着任して、図画、習字および地理を教えた。その後、北海道、富山、佐賀などで教職につき、大正3年には宇佐郡立実科高等女学校の校長となったが、翌年退職、間もなく慶応義塾の講師となり地理を教えた。地理に関する多くの著書がある。昭和26年、81歳で死去した。

木付敏夫(1880-不明)
明治13年玖珠郡森町生まれ。明治32年頃に不同舎に入学した。

山田英雄(1887-不明)
明治20年速見郡立石町生まれ。明治34年立石高等小学校を卒業。明治36年立石高等小学校教師の高橋貫治について用器画法を学んだ。その後県内の展覧会に絵画を出品、当時大分県師範学校助教諭だった藤原美治郎(竹郷)からも絵の指導を受けた。また、鉛筆画を御園繁に学んだ。明治38年に不同舎に入学。

宇佐美喜惣治(不明-不明)
臼杵町生まれ。明治30年頃不同舎に入学。同じ臼杵出身の実業家・荘田平五郎が保証人となり、小石川区林町の荘田の家から通学していた。

佐藤平太郎(1880-不明)
明治絵13年直入郡岡本村生まれ。東京で図画教育に専念した。小山正太郎に師事したが、不同舎との関わりははっきりしない。


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東京の画塾で学んだ大分の初期洋画家

2018-01-29 | 画人伝・大分

沈堕之瀧 諫山麗吉 大分県立美術館蔵
沈堕の滝は、雪舟も描いている豊後大野市にある名瀑で、諫山は大分県令(知事)・香川真一の依頼によりこの滝を描き、明治10年の県勧業博覧会に出品しているが、現在は残っていない。この作品は、その時の写生をもとに諫山がパリに住んでいた頃に描いたものである。

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

明治に入ると大分県からも東京の画塾で洋画技法を学ぶ若者が出てくる。初期洋画家についての資料は乏しく、その足取りを把握することは極めて困難だが、画塾に残っている控えなどによると、明治6年に高橋由一が開設した天絵楼に、佐伯出身の石井洌造(不明-不明)と大分市出身の矢野又彦(1855-1941)が学んでいる。石井については明治9年に入門したことが確認できるだけで、あとは生没年も含めて不明。矢野は帆足杏雨について南画を学んだあと西洋画法を独学し、その後天絵楼に入学したが、在籍期間は1年に満たない。郷里に帰ってからは三化と号して洋画、南画、日本画を描き分けたという。

明治8年に国沢新九郎が開設し、本多錦吉郎が引き継いだ彰技堂では、久留島通靖、甲斐鉄三郎、諫山麗吉、藤雅三、右田豊彦、小野民治、吉田嘉三郎らが学んでいる。そのうち、久留島通靖(1851-1879)は豊後国森藩最後の藩主であり、甲斐鉄三郎(1857-不明)はのちに大日本帝国海軍造船大監になった軍人である。画家としては、諫山麗吉(1849-1906)と藤雅三(1853-1916)はのちにパリに渡り、本場での油彩技法修得に励むが、異国の地で客死している。右田年英(1862-1925)は、のちに月岡芳年に師事して浮世絵に転じ、右田年英と号して挿絵画家として活躍した。小野民治(1848-不明)については、佐伯生まれで、33歳で彰技堂に入学したことはわかっているが、その他の経歴は不明である。

諫山麗吉(1849-1906)
嘉永4年中津市生まれ。雅号は扇城。明治8年、24歳の時に上京して彰技堂に入学、国沢新九郎に油彩技法を学んだ。明治10年、画材店主・村田宗清によって第1回内国勧業博覧会に「王子割烹店ノ図」を出品、褒状を受けた。またこの年の夏、大分県令の香川真一の依頼により、大野町の沈堕の滝を描き県勧業博覧会に出品した。現存する「沈堕之瀧」は後年パリにいた諫山がこの時の写生画をもとに制作し直したものである。明治13年頃に清国に渡り、数年上海に滞在したのちロンドンを経て、明治25年頃パリに渡り、肖像画を描いたり扇城と号して花鳥図などの日本画を手がけた。明治33年には渡仏した浅井忠とパリで再会。晩年は病を得て、明治39年、パリにおいて55歳で死去した。

大分(33)-ネット検索で出てこない画家

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福田平八郎の登場、そして高山辰雄へと続く大分出身の日本画家

2018-01-26 | 画人伝・大分

漣 福田平八郎

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

大分県の近代日本画史の上に占める福田平八郎の存在は大きい。大分県では明治末期まで幅広い南画の展開がみられ、明治30年代における新日本画運動も弱々しいものだったが、平八郎の登場により、大分画壇はにわかに活気づき、平八郎に学ぼうと、せきを切ったように画家を志す若者たちが京都に向かうようになった。

平八郎の目指したものは、日本美術の伝統を踏まえたうえで、自然や対象を凝視し、本質的な美しさを表現することだった。それが結実したのが、昭和7年第13回帝展に出品された「漣」だった。それは徹底した自然観照による堅実な写実に、桃山美術にみられる大胆な装飾性や様式性を統合させたもので、その後も平八郎は、対象をより把握するために単純化、装飾化、様式化を試み、古典を乗り越えた、新しい日本画様式へと画風を展開していったのである。

平八郎に続き、大分市から高山辰雄が出て日本画壇をリードした。高山は、戦後の日本画滅亡論や危機論が飛び交うなか、画壇の先頭にたって絶えず新鮮な制作を続けた。高山の目指すものは、終戦を境にしてより鮮明になった。それは、単なる日本画の洋画化ではなく、既成の絵画区分をこえた新しい日本画を創造しようというものだった。昭和54年に文化功労者に選ばれた際も「日本画と洋画の間の障壁除去に努力した」が推挙理由となった。

平八郎と高山はともに大分市の出身で、実家は数百メートルしか離れていない。しかも、高山が通っていた大分県師範学校付属小学校の前に、平八郎の実家があった。平八郎の父は学童相手に文房具店を営んでおり、店内には当時新進気鋭の画家だった平八郎の写生画も飾られていた。高山は幼いころから平八郎の絵を見て感性を育み、小学校5年生の時に講堂に陳列された平八郎の「安石榴」や「鶴」に感銘を受け、画家になる決意を固めたという。

他に戦後に活躍した大分県出身の日本画家としては、帝展から院展に舞台を変えた池田栄廣、福田平八郎に師事した正井和行、川端龍子に師事し東方美術協会を創設した佐藤土筆、そして日田出身で日展の重鎮として活躍した岩澤重夫らがいる。

福田平八郎(1892-1974)
明治25年大分市王子町生まれ。本名が平八郎。初期は素仙、九州の号を用いた。明治43年画家を志し大分中学を3年で中退し、中学2年修了で入学資格のある京都市立絵画専門学校の別科に進み、翌年京都市立美術工芸学校に入学した。大正4年に同学を卒業、同年京都市立絵画専門学校に入学、大正7年に同校を卒業した。大正8年帝展に初入選。大正10年帝展で「鯉」が特選となり、一躍画壇の注目をあびた。昭和11年京都市立絵画専門学校教授となるが、翌年病気を理由に辞退、画業に専念する。昭和22年帝国芸術院会員となった。昭和24年第1回毎日美術賞を受賞。昭和33年日展が発足し常任理事となった。昭和36年新日展に出品、これが日展最後の出品となった。同年文化功労者となり、文化勲章を受章した。昭和44年日展が改組され顧問となった。昭和49年、82歳で死去した。

高山辰雄(1912-2007)(「高」は正しくは「はしごだか」)
明治45年大分市中央町生まれ。昭和5年大分県立大分中学校を卒業後上京、荻生天泉、小泉勝爾に画の手ほどきを受けた。昭和6年東京美術学校日本画科に入学、在学中に松岡映丘の画塾・木之華社に入門した。卒業後は映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが結成した瑠爽画社に参加、同会解散後は旧会員を中心とした一采社を結成。川崎小虎、山本丘人らの国土会にも出品した。昭和9年帝展初入選。第2回・5回日展で特選となり、その後も日展で受賞を重ね、日展では昭和50年から52年まで理事長をつとめた。昭和35年日本芸術院賞、昭和40年芸術選奨文部大臣賞、昭和45年日本芸術大賞を受賞。昭和47年日本芸術院会員、昭和54年には文化功労者となり、昭和57年文化勲章を受章した。平成19年、95歳で死去した。

池田栄廣(1901-1992)
明治34年広島県呉市生まれ。本名は栄。大分の牧皎堂や古庄九汀の指導を受けた。京都に出て堂本印象、のちに安田靫彦に師事した。昭和2年第8回帝展に初入選。昭和21年第2回日展で特選となった。翌22年からは院展に出品し受賞を重ね、日本美術院特待となった。平成4年死去した。

正井和行(1910-1999)
明治43年兵庫県明石市生まれ。本名は幸蔵。昭和3年京都市立絵画専門学校に入学、福田平八郎に師事した。在学中の昭和9年に第15回帝展に初入選するが、昭和12年に病を発し、大分市に転居して療養生活を送った。実家にアトリエを構えた平八郎のもとに通い、大分県美術協会を舞台に活躍。大分県立別府第二高校で後進の指導にもあたった。昭和28年から画壇に復帰し、昭和47年・57年の改組日展で特選。平成元年京都市芸術功労賞受賞。平成2年には京都府文化功労賞を受賞した。平成11年、88歳で死去した。

佐藤土筆(1911-2004)
明治44年大分郡狭間町生まれ。本名は博。大分県師範学校卒業後、京都市立絵画専門学校で学び、在学中の昭和12年第9回青龍社展に初入選。卒業後は川端龍子に師事した。昭和21年と22年には同展で奨励賞を受賞。昭和25年青龍社の社人に推挙された。昭和41年川端龍子の死によって青龍社が解散するまで同展に出品し、その後は社人有志ととともに東方美術協会を創立し、以後会員として同展に出品した。平成16年、93歳で死去した。

岩澤重夫(1927-2009)
昭和2年日田市豆田町生まれ。昭和27年に京都市立美術専門学校を卒業、その後堂本印象に師事し東丘社に入塾した。在学中の昭和26年第7回日展に初入選。以後日展で受賞を重ね、昭和47年日展会員になり、その後常務理事をつとめるなど日展の重鎮として活躍した。昭和60年第8回山種美術館賞展で大賞を受賞。第17回日展で文部大臣賞受賞。平成2年京都府文化功労賞、平成4年第5回MOA岡田茂吉賞大賞、平成5年第49回日本芸術院賞、平成6年京都市文化功労賞を受賞。平成12年日本芸術院会員、平成21年には文化功労者になった。平成21年、81歳で死去した。


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京都の大分県画壇の草分け・高倉観崖と牧皎堂

2018-01-25 | 画人伝・大分

高倉観崖

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

福田平八郎が画壇で注目を受ける以前に、京都で活躍した大分県出身の日本画家として、高倉観崖と牧皎堂がいる。彼らは京都での大分県画壇の草分けともいえる存在で、大分県内で藤原竹郷や松本古村らが興した近代日本画化へのその後の流れに、少なからぬ影響を与えた。

高倉観崖(1884-1957)は、京都市立美術工芸学校に学び、竹内栖鳳に師事した。竹内栖鳳は四条派に洋風様式を取り入れて新しい画風を開いた人物で、観崖はその影響を強く受け、四条派と南画風に写実味を加えた、独自の世界を切り開いた。

観崖の親友である、牧皎堂(1884-1954)も日本画家を目指し、大分中学校を中退して京都市立絵画専門学校に入学した。卒業後は主に京都で制作に励んだが、大正11年に帰郷し、第一高等女学校で教鞭をとった。

彼らは、写実と装飾、南画と新日本画など様々な問題のはざまに立ち、その解決にむけて努力をしたようだが、新しい日本画の確立とまではいかず、それを達成するには福田平八郎の出現を待たねばならなかった。観崖は「辛」を抱きしめる武士のような心境で作画に臨んでいたのかもしない。

高倉観崖(1884-1957)
明治17年大分市白銀町生まれ。旧姓は安東、本名は孫三郎、通称は宏明。京都市立美術工芸学校に入学、竹内栖鳳に師事した。大正3年第8回文展に「鴨川の春」が初入選し褒状を受けた。同作品は、同年のサンフランシスコ万国博覧会でも金牌賞を受賞した。以後、第9回文展に「蜜柑」、第10回文展に「春の遊び」、第12回文展に「浙江所見(水郷春色、官苑の夏、山寺春色)」が入選した。昭和3年には中華漫遊画集『蘇江所見』を出版した。絵のかたわら俳句もよくした。昭和32年、73歳で死去した。

牧皎堂(1884-1954)
明治17年大分郡判田村生まれ。名は照蔵。別号に扇岳がある。大分中学校を中退して京都に出て学び、明治39年京都市立美術工芸学校、大正9年京都市立絵画専門学校を卒業した。この間の大正6年第11回文展で「孔雀」が入選した。卒業後、諸地方を遊学、東京の寺崎広業について画技を進めた。その後帰郷し、大分市に居をかまえ、大分高等女学校で教鞭をとった。また、大分県美術協会の幹事を長年つとめ、同会の設立や大分県の美術界に貢献した。昭和29年、70歳で死去した。


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福田平八郎の師から弟子になった首藤雨郊

2018-01-24 | 画人伝・大分

冬の日の叡山 首藤雨郊 大分県立美術館蔵

文献:雨郊・首藤積、大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選、大分県立芸術会館所蔵名品図録

近代日本画の大家・福田平八郎(1892-1974)の才能をいち早く見出し、絵画の道に導いたのは、当時小学校の教諭をしていた首藤雨郊(1883-1943)である。首藤は、大分県師範学校を卒業後、大分師範付属小学校で訓導をしていたが、その時に下宿していたのが福田平八郎の家だった。当時の平八郎は、これといって特徴のない平凡な少年だったというが、首藤は、平八郎の非凡な才能を見抜き、絵の指導をし、美術学校へ行くことを強く勧めた。平八郎は当時を回想して「先生の部屋で先生の勉強ぶりを見て画道に進むことになった」と話している。その後、平八郎は大分中学を3年で中退し、中学2年修了で入学資格のある京都市立絵画専門学校の別科に進み、翌年京都市立美術工芸学校に入学した。

首藤と平八郎の関係は、その後も続き、首藤が小学校を休職して京都市立絵画専門学校に入学した時は、銀閣寺近くの農家に間借りして平八郎と共同生活を送っている。首藤は図画教師の資格を取り、同校を1年で退学して帰郷することになったが、平八郎は若き日のある一日を回想して「島原に外人旅行家が公開飛行を行なったのもこのころで、先生と私は銀閣寺からの往復二里余を歩いて見に行った。ところが入場料の二十銭の金が無く、外から見たが肝腎の飛行機の発着は幕が張り巡らされて見ることが出来なかった。帰途腹がペコペコになって神楽坂の焼芋屋で二銭宛出し合って焼芋を買って食ったが今でもあのうまかった味は忘れられぬ」と親密な共同生活ぶりを語っている。

教育者として優れていた首藤だったが、画家としての情熱が衰えることはなく、42歳の時、教師をやめて画家としてやり直す決意を固め、再度京都に向かった。その時に師となったのは、かつての教え子・福田平八郎だった。当時、平八郎は大正10年、11年と連続して帝展で特選を取り審査員に推挙されており、京都市立絵画専門学校では助教授をつとめていた。かつての師弟関係がまったく逆転したわけである。しかし、平八郎は「先生、先生」といって首藤を指導し、首藤はうれしそうにかつての教え子の指導を受けていたという。二人の関係を知る日本画家の溝辺有巣は「福田先生と首藤先生の関係は親子か兄弟のようだった。よそ目にもうるわしく、うらやましかった」と語っている。

平八郎の成功は、首藤にとっても喜びであり、誇りだったと思われる。首藤は「九方皐」という別号をよくつかっていたが、これは、伯楽が子馬を見出して育てたら天下の名馬になったという故事から取ったものである。

二人の関係は生涯続き、万寿寺にある首藤の墓には、平八郎の字で「首藤先生墓」と刻まれている。これは首藤が晩年最も崇拝していた田能村竹田の墓を模したもので、平八郎が、竹田の墓の写真を参考に、篠崎小竹の筆に似せて書いたものとされている。

首藤雨郊(1883-1943)
明治16年大分市生まれ。旧姓岐津、本名は積。別号に九方皐がある。明治38年大分県師範学校を卒業、県内の小学校や大分県師範学校の訓導を勤めた。休職して京都市立絵画専門学校に学んだ後、復職して大分県立臼杵中学校、大分県師範学校などの図画教員になった。その後、画道に専念しようと退職して再び京都市に転居した。第6回帝展で初入選。以後、第9回、第11回帝展に入選した。四条派風の作品を描いていたが、晩年は深く田能村竹田に私淑し、南画の近代化を目指した作風へと変わっていった。昭和18年、61歳で死去した。


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大分県に近代日本画を持ち込んだ藤原竹郷と松本古村

2018-01-23 | 画人伝・大分

菅原道真 藤原竹郷 竹田津小学校蔵

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

南画でなければ日本画ではないという空気の強かった南画王国・大分県に、新しい日本画を持ち込み、美術教師として県内に広めた最初の人物は、東国東郡出身の藤原竹郷(1872-1963)とされる。藤原は、明治31年に東京美術学校日本画科を卒業、同年から大分県師範学校に赴任し、明治40年まで在職した。その間の教え子に、のちに大分県日本画界の指導的立場につく田川豊山や首藤雨郊がいる。

藤原が東京美術学校に学んでいた時は、岡倉天心や橋本雅邦らが教授をつとめており、校内は新しい日本画の創造を目指す気運に満ちていたと思われる。藤原も、洋画の陰影法や豊富な色彩を取り入れた新日本画を象徴するような作品を制作しており、竹田津小学校に残っている藤原作「菅原道真」は、大分県で最も古い近代日本画と考えられている。

藤原と同じ東国東郡出身の松本古村(1874-1946)は、明治35年東京美術学校図画講習科を卒業し、翌年から大正5年までの間、大分県立大分中学校で教壇に立ち図画を教えた。教え子からは、片多徳郎、権藤種男、菅一郎、福田平八郎ら、後の大分画壇をリードする画家たちが出ている。

松村は、明治40年に大分県で初めて美術展覧会を開催し、横山大観や川合玉堂らの新日本画を紹介するなど、大分県美術界の発展に寄与する多くの業績を残している。大正8年には、パリ講和条約会議に政府使節団の随員として渡仏し、それ以降は、さらに西洋美術のよさを取り入れ、豊富な色彩を多用した新しい画風を展開するようになった。大正10年には大分県美術会を創設し、副会長をつとめるなど、大分県の日本画界を牽引し、隆盛をきわめた南画主導の時代に一区切りつけたといえる。

藤原竹郷(1872-1963)
明治5年東国東郡竹田津生まれ。名は美治郎。号は竹郷の後に竹卿。別号に半農、鳳兮居士。明治31年東京美術学校日本画科を卒業後、同年9月から大分県師範学校助教諭として赴任、毛筆画および用器画科を教えた。教え子に田川豊山、首藤雨郊らがいる。明治40年には熊本県第一師範学校に転勤した。のちに東京に戻って洋画家として活動した。東京市西巣鴨町宮仲に住んでいた。昭和初年、甲州向嶽寺大天井に黒飛龍の作品を残している。昭和38年、91歳で死去した。

松本古村(1874-1946)
明治7年東国東郡来浦生まれ。旧姓は吉武、本名は弘。明治35年東京美術学校図画講習科卒業後、明治36年から大正5年まで県立大分中学校で教壇に立った。その間の教え子に片多徳郎、権藤種男、菅一郎、福田平八郎らがいる。明治40年に、日本赤十字社大分県支部を会場として大分県ではじめての美術展覧会を中心になって開催した。大正8年、パリ講和条約会議に政府使節団の随員として渡仏。大正10年に大分市で九州沖縄八県連合美術展が開催されたのを機に、大分県美術会を創設し、副会長をつとめた。昭和21年、73歳で死去した。

田川豊山(1881-1958)
明治14年杵築市生まれ。本名は豊。大分県師範学校在学中、藤原竹郷に画の手ほどきを受けた。のちに上京して岡田秋嶺に師事した。明治38年に文部省の検定試験に合格して、翌年福岡県立中学校修猷館に教諭として赴任。以後、長崎県立中学校嶋学館、長崎県の大村実村高等女学校教諭を経て、明治45年から大正3年まで藤原美郷の後任として、大分県師範学校に赴任した。退職後は杵築に帰郷して筆をとった。大正2年には松本古村らと九州各県連合第3回図画教育大会を大分市で開くなど、大分県の美術教育の普及につとめた。昭和33年、77歳で死去した。


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大正・昭和期に活躍した大分県の南画家

2018-01-22 | 画人伝・大分

甲斐虎山

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

大正・昭和期に活躍した大分出身の南画家としては、早い時期から活動を始めていた十市王洋をはじめ、京都画壇で南画の復興に尽くした田近竹邨、東京で真美会を舞台に力を発揮した甲斐虎山、加納雨篷、白須心華らがいる。ほかに、竹邨の門で学んだ草刈樵谷、衛藤晴邨は京都で活動したのち、帰郷して地元の南画発展に尽くした。この時代の南画家たちの作品は、写実的な表現を取り入れた新日本画の影響を感じさせるものではあったが、新しい時代に適した南画を興すまでには至らなかった。

甲斐虎山(1867-1961)
慶応3年臼杵生まれ。名は簡、字は厚甫。幼いころから画を好み、旧大分郡松岡村浄雲寺城陽師に侍して画を修め、明治13年加納雨篷とともに戸次に行き、帆足杏雨に画を学んだ。また、村上姑南、広瀬濠田らに漢学を学んだ。明治30年頃に京都に出て活動、明治39年に白須心華が東京で南画塾を始めると、加納雨篷とともに賛助員として参加した。朝鮮半島、中国北部を訪れるなどして画技を深め、独特の作風を確立した。杏雨門下の高弟として名高く、亀川の瑠璃荘に筆をとった。33歳の時に京都において私立文中園女学校を創立して教導にもあたった。その半生を大分の地を転々として作画活動をした。昭和36年、95歳で死去した。

加納雨篷(1866-1933)
慶応2年臼杵生まれ。名は彦松、字は士秀。初号は雨峯、のちに雨篷と号した。12歳の時に藩の児玉白石に画を学び、雨峯と号した。のちに菊川南峯塾に漢学を修め、15歳の時に甲斐虎山とともに戸次に行き、帆足杏雨に2年間師事した。その後日田に行き、手島家に寓して、また村上姑南に従学し、あるいは久留米・梅林寺猷神師に参禅し、長崎で大徳寺に寓して守山湘帆に画を修めるなど、各地を転々として画技を深めた。明治39年、白須心華の南画塾に甲斐虎山とともに賛助員として参加し、しばらく東京に住んでいた。この間、明治40年に南画会に出品した「晩秋富岳」が宮内省買上になった。昭和8年、68歳で死去した。

白須心華(1870-1939)
明治3年臼杵生まれ。儒者・白須梧園の四男。名は貞、字は季鑑。明治25年、海軍省に出仕し、日清・日露戦争でも軍令部に勤務した。画は明治30年代頃から始めたとみられ、明治35年の真美会で活躍が始まり、明治39年には真美会委員となり、東京小石川に南画塾を設立した。明治41年に退官したが、それから画道を志し、小石川南画塾に入って画を学び、のちに甲斐虎山に師事した。晩年は別府に住み、田能村竹田の画風を学ぼうとした。昭和14年、69歳で死去した。

草刈樵谷(1892-1993)
明治25年竹田市生まれ。本名は辰生。はじめ郷里の佐久間竹浦に師事し、大正8年京都に出て田近竹邨の門に入った。昭和20年まで京都在住の間、日本南画院に出品した。昭和3年大禮記念京都大博覧会に出品。昭和12年第1回南画連盟展で奨励賞を受賞。昭和17年新文展に初入選した。昭和20年に帰郷、翌年竹田荘に入り、以後16年間同荘の経営管理に従事した。かたわら田能村竹田の研究に情熱を傾け、その画風を慕って南画制作を続けた。それら功績が認められ、昭和49年竹田市在住者としては初めての名誉市民に選ばれた。平成5年、101歳で死去した。

河村李軒(1896-1953)
明治28年徳島県生まれ。のちに大分県別府市に永住した。名は豊太郎、別号に如水、雲烟室主人、来章堂がある。若いころから画を志し、池田春渚、甲斐虎山に師事し、大正9年からは別府に永住して画業に励んだ。大正13年日本南画院に入選、昭和2年と5年には帝展に入選した。昭和28年、58歳で死去した。

衛藤晴邨(1898-1971)
明治31年竹田市生まれ。本名は喜一郎。18歳の頃から竹田在住の佐久間竹浦に南画を学んだ。大正9年には京都に出て田近竹邨に師事、のちに水田竹圃の門人となった。また、関西美術院にも通った。大正13年日本南画院展に初入選し、以後同展に出品した。昭和2年帝展に初入選、以後帝展、文展に数度入選した。昭和12年新興南画院、昭和13年南潮社、昭和17年大東南画院の結成に参加した。戦時中は佐伯市鉄砲町に疎開し、以後同地に没するまで健筆をふるい、後進の育成に尽くした。昭和46年、73歳で死去した。


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豊後大野で江戸系南画を描いた石野玉僲

2018-01-19 | 画人伝・大分

群仙図 石野玉僲

文献:孤高の絵旅人 石野玉僲、大分県立芸術会館所蔵作品選

石野玉僲(1883-1949)は、福岡県の出身だが、金光教の布教のために訪れた大分県の久住町や大野町に長く住み、大野町の金光教教会長として活動を続けるとともに、江戸系の南画を描いた人物である。残された作品や活動履歴から、本格的な技法を学び、長く描き続けていたことが分かっているが、南画が盛んな豊後地方において、宗教家としてはもちろん、画人としても玉僲の名を知る人は少ない。

玉僲は、東京で川端玉章、岡田秋嶺らに師事し、谷文晁以来の江戸系南画の技法を本格的に学んでいる。堅実な技法で描き、洒脱な一面を併せ持つ魅力的な画風だが、豊後南画の表現様式との違いから、豊後地方ではあまり受け入れられなかったのかもしれない。また、交際範囲があまり広くなかったとも伝わっている。それでも、大正初期頃には、都甲九峯、田中蕉雨、衛藤半仙ら豊後の南画家とかなり親しく接しており、画会を共に開き、合作も多数描いている。

玉僲の終焉の地である大野町は、雪舟が「鎮田滝図」を描いた沈堕の滝で知られている。北画の大家である雪舟ゆかりの大野町に、北画色の強い玉僲が根付き、江戸系南画を描いていたことになる。地元の口伝によると、玉僲もそのことは意識しており、雪舟ゆかりの地でもっと北画系南画を広めようとしていたとも伝わっている。

石野玉僲(1883-1949)
明治16年福岡県遠賀郡戸畑生まれ。本名は監三。13歳の時に木村耕巌につき絵画の基本を学んだ。明治34年戸畑尋常小学校準教員に採用されるが、師木村耕巌の助言により画業を磨くため大阪に出て、中川蘆月、佐藤健四郎に師事した。同年大阪市明治尋常小学校代用教員に採用され、その後小中学校の図画教員として大阪、東京等各地を遍歴、その間、川端玉章、岡田秋嶺、荒木寛畝に師事し本格的な技法を学んだ。やがて金光教と出合い、大正11年から大分県久住町に住み金光教の布教を開始、昭和4年から教義についての再修業のため東京に移るが、それを終えた昭和8年からは大分県大野町に居を構え、以降同町の金光教教会長として活動を続けた。そのかたわら関西系南画が中心の大分県にあって江戸系南画の作画活動を行なった。昭和24年、66歳で死去した。


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官展、日本南画院展で新しい南画を模索した幸松春浦

2018-01-18 | 画人伝・大分

老子 幸松春浦

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選、豊中市史(美術)

田近竹邨らが創設した日本南画院の第1回展に出品した南画家に、大分市出身の幸松春浦(1897-1962)がいる。春浦は、官展に出品するとともに、日本南画院が解散する昭和11年まで毎回出品を続けた。幸松の現存する作品はあまり多くないが、初期から中期にかけては、古法にのっとった写実的な作品を残している。

春浦も、南画と日本画のはざまにあって、新しい南画を模索した南画家のひとりだが、目指したものは田近竹邨と同様、あくまでも伝統的な画法を否定せず、それを継承していくことによって新たな展開を模索するものだった。画風も初期の抒情的なものから、中期にはやや写実的な方向へすすみ、自然の情趣をとらえた詩情的なものへと変化していった。

戦後は日展に委嘱作家として出品したが、この時期には、新しい日本画の影響を感じさせる明るい色彩を用いた作品も描いており、画風も新しい南画を追求した春浦独特のものとなっている。

幸松春浦(1897-1962)
明治30年大分市中央町生まれ。本名は猪六。家業は酢の醸造をしていた。郷里で佐久間竹浦や秦米陽について南画の手ほどきを受けた後、大正5年、19歳の時に大阪に出て姫島竹外に師事した。その後、竹外の門下生だった京都の水田竹圃の主宰する菁莪会に入塾した。大正9年第2回帝展に初入選、翌年には田近竹邨らが創設した日本南画院に出品した。のちに同人に推挙され、同会が開催する昭和11年まで毎回出品した。帝展では、大正15年第7回帝展で特選、翌8回展でも特選となった。官展を中心に活躍し、戦後は日展に出品した。昭和37年、65歳で死去した。


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衰退する南画の復興をはかり日本南画院を創設した田近竹邨

2018-01-17 | 画人伝・大分

春雲・秋靄 田近竹邨 第8回文展出品 大分県立美術館蔵

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、田近竹邨七十年祭遺墨展、大分県立芸術会館所蔵作品選

江戸後期から全国的な流行をみせた南画だったが、明治中頃になると急速に衰えていった。その要因としては、南画理解に不可欠な漢詩の素養が、時代の推移とともに一般的になくなってきたことや、絵画鑑賞が床の間から展覧会へと移行したことなどがあげられる。しかし、もっとも大きな影響を与えたのは、明治20年代に起こった岡倉天心やフェノロサが唱えた国粋主義による南画への圧迫だったといえる。旧態依然とした南画は「つくねいも山水」と揶揄され、新しい日本画運動の波に飲まれていったのである。

衰退する南画を復興させようと、田能村直入、富岡鉄斎らが、明治29年に日本南画協会を結成して、南画家の奮起をはかろうとしたが、ほとんどの南画家が新時代に即した南画を創り出すことはできなかった。この日本南画協会も明治34年の第8回を最後に有名無実の存在となった。その後を継いだのが、直入の門人である田近竹邨だった。当時、京都南画界の重鎮として活躍していた竹邨は、大正10年に東京の小室翠雲らとともに日本南画院を結成、京都、大阪、東京の南画界の再結束をはかろうとするが、結成の翌年、58歳で没してしまう。

竹邨が注目されるようになったのは、文展によってである。明治40年に始まった文展は、横山大観らの「新しい日本画」を目指す新派と、南画などの旧派が対立しており、新派の勢力が強く、旧派は押され気味だった。そのような状況下にあって、旧派に属する竹邨は、第2回・3回文展で連続して三等賞を受賞。さらに5、6、7、8回展でも褒状を受け、衰弱しつつあった南画界のなかでひとり気をはいた。

竹邨が目指したものは、時風に合った奇抜な創出ではなく、古法に学んだ穏健な革新だった。師の直入はもとより、その師の田能村竹田帆足杏雨ら、郷土の先人たちの画法を積極的に取り入れ、さらにそれを進展させた。南画の技法を近代日本画の画面に活かすことで、新しい南画の可能性を模索したのである。

田近竹邨(1864-1922)
元治元年竹田生まれ。国学者・田近陽一郎の二男。名は岩彦。幕末期勤皇の志士だった父から薫陶を受け、学を修めていった。幼いころから画才に優れ、淵野桂僊について学び、のちに京都に出て田能村直入に師事した。直入の世話により入学した京都府画学校で本格的な画学習を開始、のちに直入が創立した南宗画学校の教授となった。明治28年内国勧業博覧会で褒状、明治31年全国絵画共進会で四等銅印、明治38年には再度内国勧業博覧会で褒状を受けた。明治41年文展三等賞受賞、以降大正3年まで毎年同展で入賞を続け、京都南画壇での地位を確固たるものとした。大正10年、小室翠雲らと日本南画院を京都に創設し、中心的役割を果たしたが、翌大正11年、58歳で死去した。


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杵築南画の創始者・十市石谷と十市家

2018-01-16 | 画人伝・大分

浅絳山水図 十市王洋 大分県立美術館蔵 

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵名品図録

杵築の十市家は、杵築南画の創始者と称される十市石谷(1793-1853)をはじめ、子の王洋・古谷、及びその子たちも画をよくした。杵築藩家臣の家に生まれた十市石谷は、幼いころから画に親しみ、中国の名画をはじめ、内外諸大家の名作を写し取り、粉本は数千枚にも及んだという。田能村竹田とも親しく交流し、画技を深めたとみられる。しかし、藩の重職についていたため、画業に専念することはかなわず、藩務のかたわら作画活動を行なった。

画業に強い情熱を持ちながらも、ついに士官を離れることができなかった石谷の思いは、子の十市王洋(1832-1897)にそそがれた。早くから王洋の画才を見出していた石谷は、王洋に熱心に画法の指導をし、王洋もその期待に応えて画技を進めていった。やがて、臨終を迎えた石谷は、王洋への遺言として「おまえは画才に秀でている。今からその技を研き四方に雄飛して志をまっとうせよ。家政のことは二男の謙二にまかせてよい」と言ったという。

その言葉どおり、王洋は弟に家督を譲り、親子二代にわたる夢であった本格的な画家生活を始めた。王洋は、遺言に従って諸国に遊び、多くの文人墨客たちと交流、詩文、和歌なども修め、自らの画技を深めていったと思われる。大阪を中心に活動し、幕末の混乱期でありながらも、新たな南画の様式を追い求め、関西の南画界で注目される存在となった。

十市石谷(1793-1853)
寛政5年杵築町南台生まれ。杵築藩家臣の子。名は賚、字は子元、通称は恕輔。初号は霞村、のちに石谷と改めた。幼いころから画を好み、中津藩絵師・片山東籬について画を学び、また臨模をよくし、内外諸大家の名作を写し取り、粉本は数千枚にも及んだという。田能村竹田とも親しく、竹田の杵築紀行の際には最も厚く親交した。早くから藩務を退いて画業に専業することを希望していたが許されず、生涯仕官の身だった。門人には本草学者の賀来飛霞をはじめ、財津天民、中根青藍、松本此君、渡辺楽山らがいる。嘉永6年、61歳で死去した。

十市王洋(1832-1897)
天保2年杵築生まれ。十市石谷の長男。幼名は錫、字は安居、諱は祐之。別号に汪洋がある。嘉永5年、22歳で家督を継ぐが、28歳で弟に家督を譲り、画業に専念した。明治12年に東京に遊び、多くの名士と交流し、画技を進めた。明治14年には内国勧業博覧会で褒状を得て、明治17年には内国絵画共進会で審査官となり銅賞を受賞した。画業のかたわら、詩書を修め、歌道に精錬するなど、名声は次第に上がったが、閑寂を好む傾向にあったようで、やがて帰郷して久保坂に閑居し、門人を育てた。明治30年、66歳で死去した。

十市古谷(不明-1886)
杵築生まれ。十市石谷の二男。十市王洋の弟。名は謙二、通称は九十九。幼いころから画を父に学んだが、のちに兄王洋に代わって十市家をついで家業に専念した。家業のかたわら画もよくし、彫刻もよくした。明治19年死去した。

十市石田(1864-1894)
元治元年杵築生まれ。十市石谷の孫、十市古谷の子。名は遠、通称は為一郎。幼いころから画を好み、祖父及び父について画を修め、画技が進むつれて国内諸方に遊歴して筆をとった。明治27年、31歳で死去した。

十市羽谷(不明-不明)
杵築生まれ。十市王洋の長子。父に学び画をよくしたが、あまり作品は残っていない。


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臼杵生まれの挿絵画家・右田年英

2018-01-15 | 画人伝・大分

新橋元禄舞 梧斎(右田年英)

文献:右田年英と明治の挿絵画家展、原色浮世絵大百科事典第2巻、日本の版画Ⅰ1900-1910 版のかたち百相、臼杵史談21号「右田豊彦(年英)寅彦兄弟」(著者:久多羅木儀一郎)、こしかたの記(著者:鏑木清方)

報道錦絵などで人気を博した挿絵画家・右田年英(1862-1925)は臼杵の生まれで、14歳の時に東京に出て、歌川派の月岡芳年の門に学び、水野年方、稲野年恒とともに芳年門の三傑と称されるようになった。芳年門からは多くの優れた美人画家を出ており、水野年方の門からは美人画の大家・鏑木清方が出て、さらに伊東深水へと続き、浮世絵系美人画の中核をなした。また、稲野年恒の門からは、のちに画壇の悪魔派と呼ばれる北野恒富が出て、大阪画壇の美人画を牽引した。

臼杵には歌川派の開祖・歌川豊春の出身地説があるが、のちに鏑木清方は、臼杵出身の年英について、その著書『こしかたの記』の中で、「(年英は)私の師(水野)年方と同門であるが、浮世絵という概念からはかけはなれて、至極健康に、おおどかな筆致を有っていた。それについて想い起すのは歌川派の始祖豊春が豊後の臼杵の出で、右田氏と同郷である。そこに相通じる郷土性のゆたかさを見る」と語っている。

年英は、美人画、役者絵などの錦絵や日清・日露戦争の報道錦絵を手掛ける一方で、朝日新聞の専属画家として40年近くも新聞小説の挿絵を描き続けたが、画家としての地位や名誉には無欲だったこともあり、あまり画名は高まらなかった。活躍期が浮世絵の衰退期から挿絵画家という職業の地位確立前だったことから、名を残すには不利な状況だったのかもしれない。

右田年英(1862-1925)
文久2年豊後国臼杵生まれ。名は豊彦、俗称は豊作。別号に晩翠楼、一穎斎、梧斎がある。14歳の時に叔母と弟寅彦とともに東京に出て、明治の儒学者・高谷龍州の斎美校、三菱商業学校に学び、ついで国沢新九郎、本多錦吉郎に洋画を学び、その後、歌川派の月岡芳年に入門した。明治20年頃からは、「東京朝日新聞」の前身である「めさまし新聞」の社員として、新聞挿絵や役者・風俗画、また日清・日露戦争の錦絵を描いた。明治27年の日清戦争の際には、戦場を克明に写し取る「報道錦絵」は、重要な情報源として大変な人気だったが、写真版などの発達により、その後錦絵の分野での活躍は少なくなった。門人には、鰭崎英朋、河合英忠、山本英春、笹井英昭らがいる。大正14年、63歳で死去した。


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歌川派の開祖・歌川豊春はやはり豊後臼杵出身なのか

2018-01-13 | 画人伝・大分

観梅図 歌川豊春 大分県立美術館蔵

文献:郷土史杵築第138号「歌川豊春と臼杵」(著者:古賀道夫)、浮世絵芸術167号、臼杵史談第7号「歌川豊春及び同豊国について」・臼杵史談第26号「歌川豊春の臼杵出身地説続考」(著者:久多羅木儀一郎)

歌川豊春は、浮世絵の一大流派である歌川派の開祖にあたり、門下からは、初代豊国や豊広らが出て、さらにその画系からは国貞、国芳、広重など傑出した絵師を多く輩出している。豊春の作画活動においては、初期には春信風の美人画を描いていたが、安永頃に西洋の遠近法透視図法を応用した「浮絵」の作品を発表し、浮絵再興の絵師としても知られている。天明期以降は肉筆画に専念し、その作品は内外から高い評価を得ている。

豊春の経歴や活動については不明な点が多く、出生地に関しては、江戸、但馬豊岡、豊後臼杵の3説がある。文献は少ないが、もっとも早く出ているのが『浮世絵考証』で、式亭三馬の書き加えのなかに「但馬屋ト云」という記述がある。これは出生地を表わしているとはいえないが、遅れて出版された『无名翁随筆』の中に、これを参考にしたと思われる豊春に関する記述があり、「但馬産ト云」及び「江戸の産也」とある。

「但馬産ト云」に関しては、豊春の俗称が但馬屋庄次郎であったことから、「産」と「屋」を写し間違ったともとれる。また、「江戸の産也」については、当時から江戸は人が集まる場所だったことから、早い時期に江戸に移り住んでいた場合も、「産」と記述されるかもしれない。以上のことから、豊春は「なんらかの事情で江戸に出て但馬屋の養子となった」と考えられなくもない。

そこで、臼杵出身説をみてみると、初出は関根只誠著『名人忌辰記』で、明治27年発行の同書には「豊春は豊後臼杵の人」と記されている。以降、豊春を臼杵出身と記述する文献が多くなっているが、その典拠となる史料は明らかにされていない。具体的な資料を提示して推測したのは、臼杵の郷土史家・久多羅木儀一郎で、上記文献にある『臼杵史談』の中で仮説を展開している。

臼杵には資料とともに口伝が残っており、そこから久多羅木が豊春の前身と推測したのは、豊後臼杵藩主稲葉家に仕えた土師権十郎という人物である。権十郎の家系は代々絵師で、祖父の土師元雪、父の土師善八、弟の田原與三郎らの作画活動は確認できている。権十郎の活動を示す資料はないが、稲葉家に伝わる『宝暦以来小侍部分明細記』によると、権十郎に関する一文の中に「明和元年申四月五日於/江戸欠落」との記載がある。この「江戸欠落」を「江戸に行ったため家系図から除外」と解釈すると、権十郎はなんらかの事情で家を出て江戸に行ったことになる。これは、地元に残る豊国に関する口伝で「豊国は、描いてはならない画を描いたため、勘当となって江戸に出たが、のちに天下に謳われる画師となった」という話とよく合致しており、言い伝えているうちに豊国と豊春を混同したと解釈できなくもない。

また、豊春と臼杵を確実に結びつけるものとして掲出の「観梅図」がある。この作品は臼杵藩ゆかりのもので、力のこもった豊春の代表作ともいえる傑作である。久多羅木はこの作品を描いた時の豊春の心境を推測して、「この幅はもと臼杵藩の御納戸方であった梅村太兵衛良昌が、藩侯より拝領して、同家に伝わったものであるが、これが藩侯の手許にあったことは、想うに豊春が一家をなした後、若かりし日の不首尾を追懐し、名誉回復の一端として、旧主へ献納したものではなかろうか」としている。

以上、臼杵出身説寄りの推測をまとめたが、出身地を特定できる文献はいまだ出ていない。

歌川豊春(1735-1814)
享保20年生まれ。名は昌樹、俗称は但馬屋庄次郎、のちに新右衛門と改めた。別号に一竜斎、潜竜斎、松爾楼などがある。若年時に京都で鶴沢探鯨に学んだとされる。明和初年頃には江戸に転居して鳥山石燕についたとも、西村重長についたともいわれる。安永頃から「浮絵」に傾注するが、天明期以降は肉筆画制作に専心するようになる。寛政年間には日光東照宮修復にも参加している。歌川派の祖とされ、役者絵、劇場風景、江戸名所風景などの版画のほか、肉筆美人画を数多く描いた。門下からは、豊広、豊国が出て、さらのその門下から広重、国貞、国芳らが出て、歌川派は明治時代までも続いた。文化11年、78歳で死去した。


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国東地方にちょっとした京風美人画ブームをもたらした吉原真龍

2018-01-12 | 画人伝・大分

語らい美人図 吉原真龍 

文献:大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選、大分県立芸術会館所蔵名品図録、京の美人画展

豊後出身の美人画家としては、西国東郡真玉町の吉原真龍(1804-1856)があげられる。真龍は文政期頃に京都に出て三畠上龍に入門し美人画を学んだ。京都を中心に活躍し、嘉永2年には宮中への出入りを許され、法橋に叙された。しかし、幕末の騒然とした京都を避け、嘉永6年には宮中画家を辞して国東に帰郷、その後は郷里で風月を楽しむ自適の日々を送った。京都での門人および帰郷後に教えた門弟の数は100名を越え、なかでも如龍、賀来木龍、大庭春龍、神田単龍らが高弟とされる。

真龍の師である三畠上龍(不明-不明)は、江戸後期の京都にあって、活躍期は少しずれるが、祇園井特と人気を二分した美人画家だった。井特が、女性の顔をリアルに描き、安易に美化することを拒んだのに対し、四条派の岡本豊彦に学んだとされる上龍は、四条派の花鳥表現を女性の衣装に取り入れ、華麗な画風で人気を博した。上龍が確立した美人画様式は、幕末から明治の京都画壇に大きな影響を与えた。

真龍の画風は、上龍の美人画様式を忠実に継承しながらも、真龍独自の色彩感覚とのびやかな描線を加えた優美で品格を漂わせるものだった。こうした真龍風の美人画は、帰郷後の門人たちによって描かれ、その期間はごくわずかだったが、幕末の国東地方に、京風美人画のちょっとしたブームをもたらした。

吉原真龍(1804-1856)
文化元年豊後国西国東郡真玉村生まれ。名は信行、通称は与三郎。別号に玉峰、桃隠、臥雲などがある。幼いころから書画を好み、仲間と戯れるのを好まなかったという。文政期頃に京都に出て三畠上龍に入門し美人画を学んだ。以後は肉筆の美人風俗画を専門に描き一家を成した。嘉永2年、宮中への出入りを許され、法橋位を得た。嘉永6年以降は真玉に帰り、同地で門人の育成につとめた。安政3年、51歳で死去した。没後の安政5年、法眼に叙された。

三畠上龍(不明-不明)
京都の人。天保期(1830-1844)を中心に活躍した。字は真真。別号に乗龍、襄陵がある。四条派の岡本豊彦に学んだとされる。四条派風の花鳥画を美人画の衣装に大胆に取り入れ、華麗な美人画様式を確立した。真龍ら多数の弟子によって、上龍風の美人画は明治に至るまで京都では大きな影響を与えた。

如龍(不明-不明)
京都の人。姓は野畑とも伝えるが定かではない。幕末期に活躍した。画を吉原真龍に学び、真龍によく似た美人画を多く描いた。

神田単龍(1821-不明)
文政4年東国東郡豊崎村生まれ。画を吉原真龍に学び、美人画を描いた。

大庭春龍(不明-不明)
出生地は不詳。真玉町にある吉原真龍の墓石に門人として名を刻まれている。真龍の画風を忠実に受け継いだ作品を残している。


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