松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

竹田門の四天王のひとりに数えられた博学者・後藤碩田

2017-12-22 | 画人伝・大分

後藤碩田 水墨画山水 大分県立美術館蔵 

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、豊後の博学 後藤碩田、後藤碩田の偉業、大分県立先哲史料館研究紀要第16号「後藤碩田の情報収集」、大分県立芸術会館所蔵作品選

後藤碩田(1805-1882)の生家は乙海村(現在の大分市鶴崎)にあり、酒造、煙草や穀物売買などを手広く行なっていた豪商で、碩田の父・守只は、家業に励むかたわら、華道や茶道などの文化面にも高い関心を示し、各地の文人たちと広く交友していた。また、この地は海に面しており、船舶の出入りする港があったことから、文人墨客たちの往来も多く、田能村竹田も京都方面に出るたびに、必ず後藤家に立ち寄っていたという。

そんな文人・知識人たちが集う環境のなかに育った碩田は、幼いころから日出の帆足万里に儒学を、中津藩の渡辺重名や肥後藩の長瀬真幸に国学を学び、その後は京都に遊学して香川景樹、伴信友に師事した。碩田の学問に対する関心はさらに広がり、史学、考古学などの学問から、射法、砲術などの武芸、さらには茶道、生け花、歌道などの芸能まで、学んでいないものはないというほど、さまざまな学問を修学し、豊かな教養を育てていった。幕末には、肥後藩の宮部鼎蔵、岡藩の小河一敏らと尊王攘夷運動に走り、長州藩士ともつながり、豊後国内で尊王思想を広めた。

絵画と詩は田能村竹田に学んだが、竹田から受けた指導は期間も他の門人に比べ短く、碩田自身も南画に専念していたわけではないが、個性的な作画を続け、のちに高橋草坪帆足杏雨田能村直入らと並んで竹田門の四天王と称されるようになった。しかし、本格的な画人ではなく、むしろ南画をよくした碩学の学者として評価されている。

また、古刀、古器物、古記録などのコレクションマニアで、家が裕福だったこともあり、手当たり次第に買い集めて研究していたという。その集大成が代表作である『碩田叢史』といえる。『碩田叢史』は、碩田が編纂・収集した資史料で、原本455冊が大分県立先哲史料館に収められている。それらは、碩田が購入したもの、自分で写したもの、人に写させたもの、著述したものなどからなっており、日本や大分県の歴史を研究する上で欠かせない貴重な資料となっている。

後藤碩田(1805-1882)
文化2年大分郡乙津村生まれ。豪商・後藤守只の三男。名は真守、字は大化、通称は今四郎。別号に斌楽斎、耕雲主人、遊技三昧堂などがある。後藤家は諸藩御用達の商家で、酒造、煙草及び穀物売買など手広く行なっていた。日出藩の帆足万里に儒学を、中津藩の渡辺重名や肥後藩の長瀬真幸に国学を、京都では香川景樹、伴信友に師事した。絵と詩は田能村竹田に学び、竹田門の四天王のひとりに数えられた。明治4年に西寒多神社の神官となり、明治13年には権大講義に任命された。編纂・収集した『碩田叢史』のほか、画集『大化帖』を出している。明治15年、78歳で死去した。



南画の復興と後進の指導に尽力した田能村直入

2017-12-21 | 画人伝・大分

田能村直入 竹渓幽客図 大分県立美術館蔵

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵名品図録

田能村直入(1814-1907)の叔父・渡辺蓬島田能村竹田の初期の師のひとりということもあり、直入は幼いころから画に強い興味を示していて、9歳で竹田に師事した。竹田はその画才を愛し、直入は養子となり田能村姓を継ぐこととなった。以後は竹田と生活をともにし、竹田の画法だけでなく、その考え方にいたるまで広く感化を受けながら成長していった。

竹田に従って行動していた直入は、中央の文人墨客と接する機会も多く、天保5年には竹田に同行した大坂で大塩平八郎に出会いそのまま洗心洞に入塾、篠崎小竹や広瀬旭荘らとも親交を重ねた。

直入が22歳の時に師竹田が大坂で没したため、一時帰郷したが、26歳で故郷を出て堺におよそ7年間滞在、その後大坂の中心地に22年間住んだ。堺では画塾を開いていたが、大坂からの門人が増えたため画塾を大坂に移したという。明治元年からは京都に定住、展覧会にも積極的に出品し、内国絵画共進会や内国勧業博覧会などで受賞を重ね、京都画壇の重鎮としての地位を固めていった。

また、南画の指導者としても大きな業績を残している。明治11年には画学校設立の建白書を京都府に提出、明治13年に京都府画学校(のちに京都市立美術工芸学校と改称)が発足すると、初代校長をつとめた。さらに明治24年には自宅を増築して南宗画学校を設立、明治30年には富岡鉄斎らとともに日本南画協会を結成するなど、南画の復興と後進の指導に尽力した。

田能村直入(1814-1907)
文化11年竹田市生まれ。豊後岡藩士・三宮利助の三男。渡辺蓬島の甥。名は癡、のちに小虎。字は顧絶。別号に飲茶菴主人などがある。文政5年、9歳の時に田能村竹田に師事した。のちに田能村姓を継ぐようになった。天保5年には竹田に同行して大坂に行き、大塩平八郎の私塾洗心洞に入塾した。次第に京都や大坂の文人との交流を深めていき、天保10年には堺に居を定め、のち弘化3年には安土に移転、明治元年には京都に定住し、号を直入に改めた。明治11年、京都府に対し画学校設立の建白書を提出し、明治13年に画学校用掛に任じられて京都府画学校の設立に尽力した。明治24年には自宅に南宗画学校を設立、明治30年には日本南画協会の結成に参加した。明治40年、94歳で死去した。


最も正しく田能村竹田の系譜を受け継いだ門人・帆足杏雨

2017-12-20 | 画人伝・大分

帆足杏雨 雪景山水図 大分県立美術館蔵

文献:大分県の美術、帆足杏雨展、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

帆足杏雨(1810-1884)は、最も正しく田能村竹田の系譜を受け継いだ門人とされるが、その一方で、中国画学習を深め、自己の画技を進めていくなかで、独自の画風を確立した。天保9年以降はほとんど大分を離れることはなかったが、幕末から明治にかけて中央でも画名が高まり、嘉永元年に山水画二幅を天覧に入れ、明治6年にはウィーン万国博覧会にも出品している。

帆足は、臼杵領戸次市組(現在の大分市中戸次)の庄屋・帆足統度の四男として生まれた。生家は現在でも「帆足本家 富春館」として残っている。帆足家は当時の地方文化の担い手としての性格を持っており、一族で風流に親しみ、多くの書画を所蔵していた。田能村竹田は、京都・大坂に向かう旅の途中に、きまってこの富春館を訪れており、同家の家族と親しく交流していたという。

文政7年、帆足は正式に竹田に入門。2年先輩には高橋草坪がいた。帆足は竹田の方針で日田の咸宜園で広瀬淡窓に学び、日出の帆足万里にも師事した。文政11年には咸宜園を出て初めて京坂に遊び、大坂では兄弟子の草坪と同宿し、頼山陽篠崎小竹、浦上春琴らと交遊、草坪とともに刺激的な日々を過ごし、画技を進めていった。

天保6年、師の竹田が大坂で死去し、杏雨は奔走して竹田の遺稿をまとめた『自画題語』を刊行した。この頃から中国画学習をさらに深めるようになり、自己の画法を大きく進展させ、以後杏雨の画は急速に師風を脱していく。弘化期になると、この傾向はさらに強くなり、杏雨独自の画法として定着した。

杏雨は多くの豊後の南画家たちに影響を与えたが、杏雨に直接学んだ画人は少なく、本格的に画人としての人生を送った者の多くは10歳代半ばのわずかな期間に杏雨の最晩年に学んだだけである。県内の主な門人としては、加納雨篷、甲斐虎山、首藤白陽、阿部梅處らがいる。

帆足杏雨(1810-1884)
文化7年戸次市組生まれ。名は遠、字は致大、通称は熊太郎。別号に聴秋、半農道人などがある。代々酒造を営む庄屋の四男で、教養人に囲まれた高い文化的環境に育った。幼いころからたびたび生家・富春館に立ち寄る田能村竹田と接し、絵を好んで描いた。文政7年、15歳の時に正式に竹田に入門し、以後、直接・間接的に画技を学び、浦上春琴の教えも受けた。また、日田の広瀬淡窓、日出の帆足万里について学問を深め、のち頼山陽、篠崎小竹ら上方の文人墨客と交わるなかで、幕末から明治期にかけて画名が高まった。竹田の正統な後継者として杏雨に影響を受けた画人は多く、豊後南画の隆盛に貢献したひとりである。明治17年、74歳で死去した。


竹田門下の夭折の鬼才・高橋草坪

2017-12-19 | 画人伝・大分

高橋草坪 寒江独釣図 大分県立美術館蔵

文献:幻の南画家 高橋草坪、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、杵築の書画人名鑑、竹田荘師友画録、田能村竹田と上方文化、大分県立芸術会館所蔵作品選図録

田能村竹田が画才を認め、最も期待していた門人は、杵築の高橋草坪(1804-1835)とされる。いかに竹田が草坪の画才を認めていたかは、自著『竹田荘師友画録』に門人のなかで唯ひとり取り上げられていることや、画事に関する自身の考え方をたびたび書簡で草坪に送っていたことなどからも伺い知れる。また、頼山陽は草坪の画に「草坪腕底無一点塵」の賛を入れてその画技を讃え、篠崎小竹は才能豊かな草坪に姪を嫁がせようとし、浦上春琴は草坪の画を中国人の画と勘違いして弟子入りしたいと申し出た、などの逸話も残っている。

幼いころから画才を現わしていた草坪は、はじめ同郷の長谷部柳園(1780-1860)に画の指導を受けた。柳園は杵築地方の南画をはじめた人物のひとりとされるが、草坪の学習はこの時点ではまだ本格的なものではなかったとみられる。草坪の画運が急転するのは、田能村竹田との出会いからである。文政5年、杵築に来遊してきた竹田は、草坪宅の筋向いにある佐和屋・荒巻啓助宅に滞在し、柳園らと交遊した。この時に草坪は竹田によって才能を見出され、入門を果たし、竹田の帰途に同行して竹田荘に入った。

文政6年には、竹田に従って初めての京遊に出た。竹田の友人である菅茶山、頼山陽、雲華上人、浦上春琴らそうそうたる文人と接して学問や作画の指導を受けるなかで、草坪の画技は一気に深まっていった。その後は病のため一時帰郷することもあったが、京坂にたびたび訪れ、竹田の教え通りに世俗的な画風に染まることなく、勢力的に画技の追究を続けていった。天保元年、草坪は再び竹田と京遊に出るが、それ以降、師と離れ、没するまで大坂を中心に過ごした。この時期がもっとも画業が充実しており、完成度の高い作品を次々に世に送り出していった。

草坪に関する資料は少なく、生年も不確かだが、晩年になるとさらに曖昧になる。死の2年前の天保4年以降は、遺作も激減し、資料も途絶える。竹田は天保4年に2度大坂を訪れ比較的長く滞在しているが、その際の日記などにも草坪の記録は残っていない。草坪の最期を知る資料としては、豊後高田の画人・柏木蕗村(1807-不明)が、その著書『蕗村雑話巻之一』のなかで、草坪を見舞ったことや、その死を長谷部柳園に伝えたことなどを語っている。帰郷を勧める蕗村に対して、草坪はそれを拒絶して画に対する情熱を示したというが、その願いも叶わず32歳で早世した。

高橋草坪(1804-1835)
文化元年杵築生まれ。商家槙屋・高橋休平の二男。名は雨、字は草坪、元吉、通称は富三郎。初号は六山、のちに草坪と改号した。はじめ同郷の画人・長谷部柳園について画を学んだが、文政5年に田能村竹田が杵築を訪れたのを機に竹田に入門、竹田に同行して竹田荘に入った。翌年、竹田とともに京遊の旅に出て以降、竹田の指導を受けながら度々京坂に滞在し、頼山陽や浦上春琴、岡田半江らとの交遊を重ねるなかで、画技を上達させていった。天保元年竹田とともに京都に出て、それ以降は大坂を中心に活動した。次第に画名は高くなるが、天保4年病に倒れ、一時は死亡説が流れた。著書に家屋と人物描法のみを整理した『撫古画式』がある。天保6年、32歳で死去した。

長谷部柳園(1780-1860)
安永9年杵築町鴨川五田生まれ。名は馨、通称は清助。別号に箕山がある。長じて江戸に出て渡辺玄対に学び、帰郷して杵築西新町に住んで画を描いた。高橋草坪はそのころの門人とされる。画のほか俳諧もよくした。また、田能村竹田とも交遊した。万延元年、81歳で死去した。

柏木蕗村(1807-不明)
文化4年豊後高田田染町大字蕗生まれ。名は章。別号に豊渓、豊陽外史、高蔭などがある。幼いころに田能村竹田に学び、20歳の時に京都に住み、岸岱に師事した。天保8年頃に帰郷したが、2年ほどで再び京都に行き、再び帰らず京都で死去した。


近世日本最大規模の私塾・咸宜園を開いた日田の広瀬淡窓

2017-12-18 | 画人伝・大分

長三洲 長三洲顕彰会蔵

文献:大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、三洲長光著作選集、廣瀬淡窓(高橋昌彦編著)

日田豆田魚町の商家に生まれた広瀬淡窓は、幼いころから漢学・漢詩を学び、24歳の時に家督を弟に譲り、寺の学寮を借りて塾を開いた。塾は移転し、名を「成章舎」「桂林園」と変え、文化14年には、叔父・月化の隠宅である秋風庵の土地に桂林園の建物を移築し、新たに「咸宜園」を開いた。淡窓は晩年まで咸宜園で直接指導し、淡窓没後も末弟の広瀬旭荘、養子の広瀬青邨、さらに旭荘の長男・広瀬林外らが引き継ぎ、塾は明治30年まで存続、全国から集まった塾生は5000人とも言われ、近世日本最大規模の私塾となった。

咸宜園の咸宜(かんぎ)とは「すべてのことがよろしい」という意味で、門下生一人ひとりの個性を尊重する教育理念が塾名に込められている。また、入門時に年齢、学歴、身分を問わないとする「三奪法」や、月ごとの成績によって等級を付ける「月旦評」、寮の共同生活で全員に役割を与える「職任制」などの独自の教育システムを確立、儒学者や教育者、医者、政治家など多岐にわたる人材を輩出した。

淡窓は教育者であるとともに、儒学者、漢詩人でもあり、漢詩人としては『遠思楼詩鈔』など多くの名作を残し「海西の詩聖」と称された。菅茶山、頼山陽とともに江戸後期の三大漢詩人にも数えられる。咸宜園の塾生の中には、漢詩人と関わりの深い南画家たちの数も少なくなく、田能村竹田の子である田能村如仙、竹田門人の高橋草坪、帆足杏雨らをはじめ、竹田に私淑した僧・平野五岳、書画をよくした長三洲、筑前の吉嗣拝山らが淡窓のもとで学んだ。

また、淡窓のもとには田能村竹田頼山陽、長崎の木下逸雲ら多くの文人墨客が訪れた。淡窓と竹田は、お互いの才能を高く評価しており、竹田は頼山陽に淡窓に会うように勧めたり、自分の息子の太一や、門人を咸宜園に入塾させた。二人の初対面は、日記などによると、文政2年、竹田が豊後日田の森荊田宅を訪ねた時だった。その後、竹田は文政8年にも日田に赴き、何度か淡窓と会っている様子が日記などに残されている。この年の8月、淡窓は大病に苦しんでおり、これを見舞ったのが最後と思われる。その際、淡窓は「田君彝来寓亀陰、以詩及画見恵、賦此以謝」という五言律詩を作っている。

広瀬淡窓(1782-1856)
天明2年日田市豆田魚町生まれ。豪商博多屋・広瀬三郎右衛門の長男。名は簡、のちに建、通称は寅之助、長じて求馬。字は廉卿、子基。別号に苓陽、青渓、遠思楼主人がある。幼いころから漢学、漢詩を学び、16歳で福岡の亀井塾に学ぶが、18歳で病のため退塾し、以後療養しつつ独学した。文化2年、24歳の時に病弱であったため家督を弟の久兵衛に譲り、自らは講学をもって身を立てることを決心し、文化2年、長福寺の学寮を借りて塾を始めた。これがのちに桂林園、咸宜園へと発展していく。文化14年に開いた咸宜園は独自の教育方針を打ちたて、全国から塾生が集まり、その数は5000人とも言われている。門生の中には維新時に大成したものも多い。『遠思楼詩鈔』『柝玄』『義府』などの著書がある。安政3年、75歳で死去した。

長三洲(1833-1895)
天保4年日田郡馬原村生まれ。長梅外の長男。名は炗、字は世章、通称は富太郎、のちに光太郎。別号に蝶生、韻華、秋史、紅雪、南陽がある。弘化2年、13歳で咸宜園に入門し、広瀬淡窓に師事した。嘉永2年には、この時の月旦評の最高位となるなど、同門の広瀬林外、田代俊次らとともに咸宜園の三才子と呼ばれた。咸宜園を出たあとは、大坂の広瀬旭荘の家塾の都講となり、京坂の地において名を馳せた。幕末には尊王論を説いて高杉晋作らと国事に奔走する一方、帆足杏雨、平野五岳らと親交した。維新後は太政官、文部大丞、文部省などの要職を歴任し、日本の近代教育制度の確立に尽力した。明治12年にすべての公職から身を引き、以後各地を遊歴して、書画に親しんだ。明治28年、61歳で死去した。

田能村如仙(1808-1896)
文化5年直入郡竹田村生まれ。田能村竹田の子。医師。幼名は太一郎、のちに太一。名は如仙、字は孝耟。別号に小花海がある。藩校由学館に学び、16歳の時に京都に出て小石元瑞に学んだ。翌年父竹田に従い日田に行き、帆足杏雨とともに咸宜園に入塾した。文政12年再び京都に行き、再び小石元瑞に医を学び、天保5年帰郷して由学館の医生講所の会頭となった。明治維新後は藩の医学寮の助教となり、家塾を開いて後進を指導した。明治29年、89歳で死去した。


耶馬溪の名付け親・頼山陽と豊前中津青村の曽木墨荘

2017-12-16 | 画人伝・大分

頼山陽 耶馬溪図巻 長巻(部分)1829年
頼山陽が初めて耶馬溪を訪れて描いた耶馬溪図巻は焼失してしまったため、残っていたデッサンをもとに、その10余年後に改めて描かれたもの。この大作には記文と詩を新たに添えた。その記文が「耶馬溪図巻記」で、のちに山陽の文稿を代表するものとなった。これによって耶馬渓の名は高まり、天下の名勝となった。 

文献:没後百五十年頼山陽展図録、「海路」頼山陽・田能村竹田らと交流した多能な才人 手永大庄屋 曽木墨荘の生涯

田能村竹田が生涯もっとも親しく交遊したのが頼山陽(1781-1832)である。山陽は日本外史を著したことで知られる漢詩人で、大坂で生まれ広島で育ったが、その後、居を京都に定め、多くの文人・画人と交流した。竹田と同郷の雲華上人とも旧知の仲だった。

文政元年、山陽は父春水の法要をすませ、九州遊歴の旅に出た。この遊歴は1年あまりにも及び、旅の終わりに中津の正行寺に友人の雲華上人を訪ね、16日間滞在している。この時に雲華上人は、当時まだ「耶馬溪」の名はない山国渓谷を、奇観、景勝好きの山陽に案内した。山陽は山国渓谷の景観を見て絶賛し、「耶馬溪の風物、天化に冠たり」と、その景観を耶馬溪と名付けた。そしてその景観を描き、雲華上人に贈るが焼失してしまったため、文政12年、残っていたデッサンをもとに8メートルにも及ぶ大作《耶馬溪図巻》を描いた。これが文人の間で評判となり、一躍耶馬溪の名が広まることとなった。

この際、雲華、山陽に道案内をしたのが曽木墨荘(1772-1838)である。墨荘は、小倉藩で村の農政に治績をあげた為政者であり、書画を愛する文人でもあった。耶馬溪の青の洞門で知られる青村の出身で、奇観、景勝の地などに詳しく、《耶馬溪図巻記》にある漢詩文には、墨荘の名前が随所に記されている。『竹田荘師友画録』によると、墨荘は、梅を愛し、うしろの庭に数株を植え、そばに書斎を造り、中に鉢の蘭を置いていた。終始正座して、詩を作り、書画をかき、それに倦きると琴を奏でた。書や画は必ずしも苦心して作らない。書画を作るのは、民を治め政に従わせるやり方と同じで、すべてこれを自然にまかせるという具合だったという。

頼山陽(1781-1832)
安永9年大坂生まれ。父は儒者の頼春水。名は襄、字は子賛、のちに子成。通称は久太郎、にちに徳太郎、さらに久太郎に戻した。別号に三十六峰外史がある。その居を水西荘、山紫水明処、三面梅花処と名付けた。父・春水が広島藩儒に登用されたため広島に移住し、7歳から叔父・杏坪に学び、寛政9年に杏坪が藩命で江戸に赴く時も従った。江戸では尾藤二洲、服部栗斎に学び、翌年広島に戻った。寛政12年脱藩して京都に逃げるが連れ戻され自宅に幽閉された。享和3年に幽閉が解かれ、頼家を廃嫡された。その後菅茶山の廉塾の塾頭となるが、ここを逃亡、京都に戻って私塾を開き、文人グループの中心的人物として多くの文人・画人と交遊した。著書に『日本外史』などがある。天保3年、53歳で死去した。

曽木墨荘(1772-1838)
安永元年下毛郡曽木村生まれ。家は代々の大庄屋。曽木円助の長男。幼いころから学問を好み家業を継がず、医学を志し、漢学も学んだ。豊後中津藩の儒者・野本雪巌、杵築の三浦梅園らに学んだ。その後、熊本に遊学して高本紫溟に漢学や漢詩、画を学び、村井琴山について医学を学んだ。この頃、田能村竹田と親交を深めた。頼山陽、田能村竹田、恒遠醒窓、松川北渚、また中津藩で甲州流兵学や山片流馬術の師範をつとめた八條半坡、そして末広雲華上人などと交遊した。梅や蘭を愛し、盆栽蘭を作り、それを描いた。天保9年、67歳で死去した。


田能村竹田と豊後杵築ゆかりの儒者・篠崎小竹

2017-12-15 | 画人伝・大分

田能村竹田 梅花宿鳥図 大分県立美術館蔵
竹田が深山桜と名付けた大坂の寓居で描かれたもので、右上にある落記には親友の頼山陽と篠崎小竹の着語を待つと記されている。その言葉どおりに篠崎小竹は左上に詩を書いているが、頼山陽のほうは実現せず、替わりに山陽の弟子である後藤松陰が右下に詩を書いている。

文献:杵築の書画人名鑑、陶説5月号「青木木米の交流(7)篠崎小竹」、大分県立芸術会館所蔵名品図録

篠崎小竹(1781-1851)は、近世後期の大坂を代表する文人で、漢詩、漢文に優れ、書家としても高名である。父親が豊後杵築の出身ということもあり、田能村竹田とは京坂の文人グループで親しく交遊し、よく遊歴に同行している。小竹は、竹田の生涯の友である頼山陽(1781-1832)とも親しく、小竹と頼山陽が、それぞれ18歳と19歳の時に大坂で知り合って以来親しく交遊し、山陽が菅茶山の廉塾から逃げ出して来た時も、小竹の大坂の家に身を寄せている。

『杵築の書画人名鑑』によると、若いころ杵築に帰って生家に住んだ小竹は、故郷を愛し、大坂を訪れた杵築人の世話をよくし、杵築藩主教育係となった小川含章も小竹が世話をした学者だったという。

小竹の父・加藤周貞の出身地である豊後杵築は、代々の藩主が学問を奨励していたため、文教の地として名高く、豊後三賢の一人である三浦梅園をはじめ、その子・三浦黄鶴、麻田剛立、石川遠明ら多くの優れた学者を輩出している。

篠崎小竹(1781-1851)
天明元年生まれ。幼名は金吾、名は弼、字は承弼、通称は長左衛門。別号に南豊、了橋、棠陰、退庵、異堂、紅相居主人などがある。父親の加藤周貞は、若くして医学を修め、のちに大坂に移って開業した。小竹は9歳の時に大坂の儒者・篠崎三島について学び、才能を認められて13歳で養子となった。寛政11年江戸に遊学に出たが、養母が没したため帰郷。同年から父に代わって阿波の藩老稲田家に出講釈をし、以後毎年行った。享和3年、23歳の時に九州、四国を遊歴、文化5年には再び江戸に出て昌平坂の学問所で古賀精里に学んだが、同年父三島が病んだため、梅花社を継いだ。嘉永4年、72歳で死去した。


田能村竹田と豊前中津の雲華上人

2017-12-14 | 画人伝・大分

雲華 蘭竹図 頼山陽・篠崎小竹賛 出光美術館蔵

文献:出光美術館研究紀要第14号「末弘雲華の画業について」、海路7号「末弘雲華上人の生涯」

雲華上人(1773-1850)は、姓を末広(弘)といい、豊前国中津の正行寺第十六世住職をつとめた僧である。江戸後期の東本願寺教学の最高学職である講師をつとめ全国を遊説する一方で、田能村竹田(1777-1835)をはじめ、頼山陽、浦上春琴、篠崎小竹ら同時代の文人たちと交流した。

竹田と上人は、同じ豊後岡藩に生まれた同郷であることから、特に親しく交遊していたとみられる。『雲華草』には雲華が竹田の居宅・竹田荘で詠んだ詩などがいくつか収録されており、竹田の日記や書簡資料からは、二人が京都で頻繁に会っていた様子がうかがえる。竹田より一足早く京都で文人たちと交流していた同郷の雲華は、竹田にとって頼りになる存在だったようである。

竹田が著した『竹田荘師友画録』によれば、雲華は酒を飲まず、煎茶を好み、また、こよなく蘭を愛したという。蘭を数多く栽培していて、中国産の素心蘭が長崎に着いたと聞けば、人をやって持ってこさせ、朝夕これに向かって愛玩し、そのそばで寝起きしたという。深く蘭の性質に精通していたため、心は蘭と一体化しており、蘭を描く時は、仰向けになったり、うつ伏せになったり、横向きになったりし、手のままに筆を走らせた。自然に出来上がったその画は、天真爛漫の赴きがあったという。

末広(弘)雲華(1773-1850)
安永2年豊後国岡藩竹田村生まれ。正行寺第十六世住職。満徳寺第十四世寺主・円寧の二男。名は信慶、または大含。別号に染香人、鴻雪斎がある。天明12年、12歳で実父円寧と死別して、父の兄である日田広円寺の円門法蘭師のもとで成長した。19歳の時に実姉の夫である中津正行寺に移った。筑前の亀井南冥、中津藩儒者の倉成龍渚に学んだ。嘉永3年、78歳で死去した。


豊後南画の隆盛・田能村竹田の出現

2017-12-13 | 画人伝・大分

田能村竹田 歳寒三友双鶴図 大分県立美術館蔵
頼山陽が賛を入れ、満徳寺法要のために豊後竹田に来ていた中津正行寺の雲華上人も追賛。さらに岡藩儒者・角田九華も賛し、竹田の自賛も入っている。   

文献:大分県史、山中人饒舌、竹田荘師友画録、大分の美術千年展、田能村竹田と上方文化、大分県立芸術会館所蔵作品選図録

田能村竹田(1777-1835)が正統南宗画法によって本格的に南画を描き始めた年には、すでに与謝蕪村、池大雅は没しており、南画では浦上玉堂、岡田米山人、青木木米らが作画を行なっていた。そこに、次世代として浦上春琴、岡田半江、頼山陽らが出現、まさに南画の隆盛が始まろうとしていた時だった。そして、二豊(大分県)の地においても、竹田の出現を得て、豊後南画が開花することとなるのである。

この時期は1810年代から1840年代に設定できるが、この間、二豊の地には竹田を核として、各地から優れた南画家が出現した。竹田の出身地である岡をはじめ、日田、府内、鶴崎などは竹田がたびたび訪れ、中津、杵築にも『豊後国志』編纂のため訪れている。それらの地の南画家たちは、竹田から直接、間接の感化を強く受けて画技を進めている。直接の門人としては、高橋草坪、帆足杏雨、田能村直入、後藤碩田らがいる。

二豊の地だけでなく、各地を旅した竹田は、その芸術生活において、読書や旅の重要性を説いている。中国の文人・董其昌の「万巻の書を読まず、万里の路を行かずんば、画祖とならんと欲するも、其れ得べけんや」という言葉を引き、よい絵を描くには、多くの書物から得た知識や、旅を通しての体験や見聞が必要とし、それを実践した。竹田の画業は、旅と各地の文人との交流の積み重ねの上にあるといっていい。

竹田の旅の始まりは25歳の時だった。寛政10年、藩命により編纂していた『豊後国志』を幕府に納める準備のため、初めて江戸に向けて旅立った。途中、大坂で木村蒹葭堂に、江戸で谷文晁と面識を得て、翌年帰藩した。享和4年、28歳の時には熊本に遊学、高本紫溟、村井琴山を訪ね、教えを受けた。そして翌年、29歳で長崎を振り出しに京都に向かい、帰ってきたのは31歳の時だった。その間、儒者・村瀬栲亭に学んだほか、中島棕隠、浦上玉堂、岡田米山人、上田秋成らと親しく交流した。

35歳で再び京坂遊歴の旅に出て、途中備後に菅茶山を訪ねてから、大坂に行き、そこで初めて頼山陽に会った。竹田と山陽はその後も親しく交流し、生涯の友としてお互いを刺激しあう仲となった。そして、紀州に野呂介石を訪ね、半年後に国に帰った。その年岡藩の領内で百姓一揆が起こり、竹田は二度にわたり藩政に意見を述べたが受け入れられず、37歳で藩から退隠することとなり、ここから竹田の本格的な作画活動が始まる。

文政6年、47歳の時に長男太一と門人高橋草坪を伴って京都を訪れ、頼山陽、雲華上人、浦上春琴、青木木米、岡田半江、小石元瑞、篠崎小竹ら多くの文人墨客と交遊し、京都・大坂に1年ほど滞在した。文政9年、長崎に遊び、1年あまり滞在し、木下逸雲、鉄翁祖門らと交遊するとともに清人・江芸閣らと詩文書画の交わりをし、中国から舶載された書画によって眼識を高めた。翌10年に熊本、鹿児島を巡って帰郷した。文政11年以降もたびたび上方とを往復し、京都・大坂の文人たちと交流した。

天保3年、豊後竹田を出発し、大分、別府、立石、宇佐などを経て中津に入った。そこに滞在中に、頼山陽の訃報を聞いた。天保5年、58歳の時に大坂で新しい友人・大塩平八郎と会い、意気投合した。いったん帰郷し、翌天保6年に再び上方を訪れたが、病を得て、大坂において59歳で死去した。

田能村竹田(1777-1835)
安永6年豊後国竹田(現在の大分県竹田市)生まれ。岡藩医師・田能村碩庵の二男。幼名は磯吉、のちに玄乗、さらに行蔵。名は孝憲、字は君彝。居宅を竹田荘・墨荘と称し、その室に花竹幽窓、緑苔窩、補拙廬、雪月楼、秋声館などと名付け、それらを号とした。ほかに別号として九畳仙史、九畳外史、九峰衲子、随縁居士、紅荳詞人、六止草堂、三我主人、藍渓釣徒、藍渓狂客、西野小隠などがある。家業は代々藩医で、兄周助死去のため18歳で医業を継いだ。幼い時から藩校・由学館に学び、画を同郷の画人・淵野真斎、渡辺蓬島らに学んだ。寛政10年、22歳の時に藩命により医業を廃し、由学館の儒員となり、唐橋君山に従い『豊後国志』の編纂に携わった。のちに村瀬栲亭の門に入り詩文を学び、浦上玉堂、岡田米山人らの知遇を得た。文化8年に岡城下で起こった農民一揆のことから政治を忌避し、文化10年隠居、この頃から本格的に南宗画法による作画を始め、以後京都・大坂など各地に遊歴し、文人と交遊、詩書画に高い評価を得て画名が高まった。『山中人饒舌』『竹田荘師友画録』など多くの著書がある。天保6年、59歳で死去した。


豊後南画の黎明期・田能村竹田の一世代前の画家たち

2017-12-12 | 画人伝・大分

田中田信 秋景山水図 大分県立美術館蔵

文献:大分県画人名鑑、大分県史、竹田荘師友画録

江戸後期になると、粉本主義に陥った狩野派が精彩を欠くなか、文人たちの興味は、新たに中国大陸からもたらされた南画に移っていった。二豊(豊後と豊前)においても、田能村竹田(1777-1835)より一世代前の画人たちが求めたのは同様の絵画だった。

豊後岡藩に備中の画家・淵上旭江(1753-1816)が訪れたのはその頃である。旭江は、各地の名勝を訪ねながら、長崎を目指したと思われる自由な身分の画人だった。岡藩の文人たちはこの遠来の画人を歓待し、画技を学んだ。旭江に直接学んだものとしては、のちに岡藩絵師となる淵野真斎と、終身町絵師として活動した渡辺蓬島がいる。また、二人と共に学んだ小林藍溪(不明-不明)は、佐伯で最も古い画人のひとりとされ、旭江の来遊を聞きつけ、はるばる佐伯から岡まで足を運んだものと思われる。

また、中津の田中田信(1748-1825)もかなり早くから南宗画法を意識していたと思われる。田信は、医業のかたわら、書画骨董を好み、唐風に親しんだ。自ら描く画も唐風を模し、京坂の間を行き来して池大雅らと交遊、画法を研究した。また、料理研究家でもあり、日本で最も古いとされる中華料理書を出版している。日田の豪商・森五石(1747-1822)も、雪舟派から新たに南画に転じ、南蘋派の技法を学んだ。五石は後年、田能村竹田とともに社を起こし、日田画壇の基礎を作った。

田中田信(1748-1825)
寛延元年生まれ。実家は中津の商家。名は信平、字は子孚、のちに以成。別号に田子孚がある。長崎で医学や画法を学んだとみられる。医業のかたわら書画をよくし、印刻、碑碣などの彫刻、板画彫刻なども得意だった。唐風を好み、家具や文具なども唐風にしていた。唐風料理を重んじ、卓子式と号して中華料理書を著述出版した。これがわが国におけるもっとも古い中華料理書とされる。若いころから京坂の間を行き来し、池大雅らと交遊、県内では末広雲華、田能村竹田らと交流があった。竹田とは岡に訪ねるほどの仲で、竹田の『竹田荘師友画録』にもその親交が記されている。文政7年、77歳で死去した。

森五石(1747-1822)
延享4年生まれ。初代伊左衛門の長男。名は常勝、通称は三良左衛門、のちに二代伊左衛門。俳号に梅舎を使い、狂歌号に登果亭栗丈を用いた。別号に准陰漁叟、悠然亭がある。享和3年、57歳の時に家督を長男・春樹に譲り、悠然亭に隠棲したが、文政5年には、町三老の筆頭にあげられて町年寄役をつとめた。文政5年、76歳で死去した。

小林藍溪(不明-不明)
岡の淵野真斎、渡辺蓬島とともに淵上旭江に学んだ。佐伯における最も古い画人のひとり。のちに大坂に遊び、画技を進めた。竹田とも交流があり、『竹田荘師友画録』には、唐橋君山が豊後国志を編纂する際、竹田も同行して佐伯に行き、藍溪に交歓された旨が記されている。


豊後杵築藩絵師・光琳派の足立秋英

2017-12-11 | 画人伝・大分

足立秋英 牡丹孔雀図屏風 大分県立美術館蔵

文献:大分県画人名鑑、大分県史、大分県立芸術会館所蔵作品選図録

中津藩と同じく杵築藩でも狩野派の藩絵師の存在は確認できない。時代は下るが、杵築藩第九代藩主・松平親良(1810-1891)が狩野勝川に、藩絵師の足立秋英(1825-1895)が狩野探原に一時期学んでいるが、秋英はその後、光琳派の池田孤邨について画技を深め、藩主・親良もその秋英を師としている。秋英の初期の師である田辺文琦(1801-1869)は、谷文晁に師事し、茶道をもって仕え、のちに藩絵師となった。文琦のいとこも文晁に師事、養子となって谷文三と名乗った。

足立秋英(1825-1895)
文政8年生まれ。杵築藩絵師。幼名は国太郎、諱は祐之、字は子英。別号に臥龍軒、臥雲、蕃龍庵、純々石などがある。はじめ画を十市石谷に学び、のちに田辺文琦に学んだが、23歳の時に、藩主に従って江戸に出て、狩野探原に師事、さらに光琳派の池田孤邨について画技を深めた。茶道、禅道なども修め、後年は藩主・親良の師をつとめた。維新後は、姫島村戸長となり、同地の大帯八幡の祠官も兼ねた。明治11年に姫島戸長を辞職し、明治15年には狩宿村の御ノ池付近に移住した。明治28年、73歳で死去した。

松平親良(1810-1891)
文化7年江戸桜田邸生まれ。杵築藩第九代藩主。八代藩主・松平親明の子。幼名は龍之助。16歳で家督を継いだ。文武両道で、馬術、槍術、砲術などに加え、歌謡、能曲、茶道、華道にいたるまで奥義を極めたとされ、弘化2年、炎上した江戸城本丸の再建落成の祝儀として御能会が催された際には、大広間で御能の舞台をつとめた。画は狩野勝川、田辺文琦、足立秋英に学び、詩、書、和歌などもよくした。慶応4年隠居して杵築に帰った。明治24年、82歳で死去した。

田辺文琦(1801-1869)
享和元年国東郡富永村生まれ。名は喜文治、通称は義琦。別号に富川翁、孖川翁、青霞がある。祖父は絵を好み、父は茶楽斎と号して茶道を、叔父は茶道をもって藩に仕えた。いとこ(のちの谷文三)と共に江戸に出て、谷文晁に師事した。茶道をもって仕え、のちに絵師となり、晩年は守江の藩の御茶屋に引きこもり画作にいそしんだ。明治2年、69歳で死去した。

谷文三(不明-不明)
東国東郡富永生まれ。田辺文琦のいとこ。画を江戸の谷文晁に学び、養子となり、文晁の子、文一、文二についで、文三と命名された。後年は江州の粟津家の養子となり、画をもって本多膳所侯の画員となり、画名を高くしたが、壮年で没した。

荘野南崖(1835?-1905)
仲町生まれ。名は諸平。家は代々の薬種商で屋号は須磨屋。八代の当主。石川流の茶道に優れ、俳句をよくし、画は足立秋英に学んだ。明治38年、70歳で死去した。

岡春英(不明-不明)
明治7年東国東郡安芸町生まれ。名は正宣、通称は豊。初号は御舟、のちに英豊、さらに春英と改めた。はじめ足立秋英に学び、のちに十市石田につき、さらに末永天山、安部梅処らに師事して画技を深めた。


豊前中津藩絵師・円山派の片山東籬

2017-12-09 | 画人伝・大分

片山九畹 一品當朝図 大分県立美術館蔵

文献:大分県画人名鑑、大分県史、大分県立芸術会館所蔵作品選図録

豊前中津藩では、円山派の絵師・片山九畹が、天明5年に「御絵師御茶之間詰」に任命されている。九畹は別号に東籬があり、東籬は片山家歴代龍名の号らしく、子の九皐もまた東籬と号した。九皐の子・藤憧も父に学び、東籬と号し、藤憧の子・藤一も父のあとを継いで画をよくし、家流の円山派を継いだ。

中津藩江戸詰の家臣・大西圭斎は、たびたび中津藩の御用をしていたが、藩絵師だったかどうかは定かではない。そのほか、中津地方には、田中田信、末広雲華らの画人が出ており、『竹田荘師友画録』に登場する曽木墨荘、津田小石らが画をよくした。

片山九畹(不明-不明)
中津藩の画員。本姓は千原氏。名は弘、または藤弘。別号に東籬がある。京都に出て円山応挙の門で画を学んだ。師の姓をもじって、姓を片山と称して、家姓に改めた。中津藩儒者・倉成龍渚と親交があった。

片山九皐(不明-不明)
中津の人。片山九畹の子。東籬と号した。父に画の手ほどきを受けたのち、円山応挙にも学んだ。

大西圭斎(1773-1829)
安永2年江戸生まれ。中津藩江戸詰家臣。名は允、または西允。字は叔明。別号に幽溪、一簑烟客、小痴道人、再生翁などがある。家は代々中津藩家臣。画ははじめ沈南蘋の画を模し、のちに宋紫石・宋紫山に師事し、その後、谷文晁に学んだという。門人に岡本秋暉、矢島群芳らがいる。文政12年、58歳で死去した。

大西仙洲(不明-不明)
大西圭斎の子。父の後を継いで、画をよくした。別号に酔仙がある。はじめ江戸藩邸に仕え、維新後は中津に住んだ。明治9年頃に中津市学校の書道教師をつとめた。その後、再び東京に移住した。

津田小石(1790-1872)
寛政2年生まれ。中津藩執政。藩士・丸岡東馬の子で、藩士・津田以貞の養子。幼名は雅之助、のちに伊恵次郎。名は苑曹、または粛。字は以義、通称は半蔵。藩務のかたわら詩文、画をよくした。田能村竹田と親交があり、大坂では岡田半江、貫名海屋らとも交流があった。明治5年、83歳で死去した。


豊後岡の町絵師・渡辺蓬島

2017-12-08 | 画人伝・大分

渡辺蓬島 松下弾琴図

文献:岡藩の絵師たち-淵野家と渡邊家-、大分県史

岡藩絵師・淵野真斎とともに備中の画人・淵上旭江に学んだ、渡辺家の初代・渡辺蓬島(1753-1835)は、藩に仕えることなく、終身町人絵師として活動した。子の拈華は父の後を継ぎ画家となり、田能村竹田に学び、師の画風をよく継承し、画技をもって士分に取り立てられ、藩絵師をつとめた。

渡辺家は、岡藩在町玉来の出身で、渡辺蓬島の祖父の代に竹田にきたが、父・喜左衛門の代から家業が傾きだしたため、蓬島は新たに表具を家業とし渡辺家を建て直した。淵上旭江に学び、淵野真斎とともに岡藩における新しい絵画学習の先駆けとなった蓬島は、田能村竹田に先輩として影響を与え、竹田とは米船社・竹田社で研鑽を積んだ仲間として晩年まで親しく交流した。

渡辺蓬島(1753-1835)
旧竹田町の人。名は寧、字は文邦。別号に華亭、壮華亭、果亭、和鼎などがある。画のほかに狂歌などもよくし、栗邦、猿麿呂などとも号した。表具を業とし、屋号を播磨屋と称した。学問を好み、岡藩の学者・清原雄風に学んだ。26歳の時に、たまたま来遊した淵上旭江に画を学び、のちに北山寒巌らについて画を修め、画家になった。終身藩には仕えず、町絵師として活動した。茶道もよくした。天保9年、83歳で死去した。

渡辺拈華(1799-1872)
岡藩絵師。渡辺蓬島の長男。幼名は大太郎、名は節、字は遇節。別号に老嶽、大多楼などがある。父の跡を継いで画家となり、父の業である表具業を業とした。幼いころから父に画の手ほどきを受け、さらに田能村竹田に学び、同門の帆足杏雨、田能村直入らとも親交があったとされる。18歳のころに、二人の弟とともに病の父を背負って、藩外の物見遊山に出て、父を旅中でなぐさめるなど、その親孝行ぶりは有名で、しばしば報賞を受けたという。20代のころから画技をかわれて藩校由学館の詩会に供する画の制作を担当するようになり、そうした業務に携わる者たちの指導者的立場にあったと思われる。60代で長年の功績により、一代限りの藩絵師として召し抱えられた。人物画をよくしたが、藩の需要に応じてさまざまな流派の模写も行なっていたようで、画技の幅は広い。明治5年、74歳で死去した。


豊後岡藩絵師・淵野真斎

2017-12-07 | 画人伝・大分

淵野真斎 太公望図 大分県立美術館

文献:岡藩の絵師たち-淵野家と渡邊家-、大分県史

竹田市域の大部分を支配した岡藩は、江戸後期から近代にかけて田能村竹田をはじめ多くの画人を輩出した。竹田の初期の師とされる淵野真斎(1760-1823)は藩絵師をつとめ、真斎を初代に淵野家は幕末まで岡藩絵師を四代つとめた。真斎の子・天香は、大坂で岡田米山人に学び帰郷、さらに谷文晁に学ぼうと江戸に出る途中29歳で没した。天香が若くして没したため、娘婿の香斎が跡を継ぎ、さらに香斎の養子・桂僊がその跡を継いだ。桂僊は、江戸、大坂、京都に遊び、技を進め、27歳で家に帰り藩絵師となった。淵野家は、四代桂僊のころには「画道家筋」と称されるようになった。

淵野真斎(1760-1823)
宝暦10年生まれ。岡藩絵師。諱は世龍、字は玉鱗、通称は三郎兵衛、蘭渓。別号に嶰谷、檉園、雲山叟、棠園などがある。岡藩士・淵野宇吉仲業の三男。幼いころから画を好み、画家になろうとしたが、藩内に学ぶべき師がなく、外遊して学ぼうとしたが父が許さず、父は真斎に嫁をとらせたが、家を出て嫁をかえりみなかったという。たまたま備中の画人・淵上旭江が来遊した際に、渡辺蓬島とともに学び、画技を深めた。その画技上達への姿勢は、渡辺蓬島と並ぶ岡藩における新しい絵画学習の先駆けとして、田能村竹田らに影響を与えた。34歳の時に武家奉公人として岡藩に召し抱えられ、江戸に出て渡辺玄対や笹山養意に学び、画技を進め、藩絵師となった。藩命による主な作品は『豊後国志』の《八郡絵図》、《三佐権現御寄附絵馬》《三宅山御鹿狩絵巻物》などがある。文政6年、64歳で死去した。

淵野天香(1797-1825)
寛政9年生まれ。岡藩絵師。淵野真斎の長男。名は世麒、字は玉麒。別号に豊国などがある。幼いころから画を好み、父について学んだ。田能村竹田と親しく、竹田門下と自称した。文政元年に絵図方勤務を命じられたが、画技を深めるために文政4年に脱藩し、江戸の谷文晁に学ぼうと家を出た。途中下関で数年過ごした後、広島滞在中に病のため、文政8年、29歳で死去した。

淵野香斎(1794-1835)
寛政6年生まれ。岡藩絵師。淵野真斎の女婿。諱は成教、通称は賢平。別号に弘斎がある。実父は府内町市兵衛で町絵師だったと思われる。文政5年に御目見以下坊主主格で召し出され、すぐに藩絵師として活動した。前年の淵野天香脱藩を受けたものだと思われる。画技は田能村竹田が自分の絵の批評を求めるほどに巧みだったという。天保6年、42歳で死去した。

淵野桂僊(1814-1881)
文化11年生まれ。岡藩絵師。岡藩士・宗路芳の子。のちに淵野香斎の養子になった。名は定、字は子静、通称は龍斎。別号に慶川、淵定、桂仙がある。8歳で淵野香斎の養子となり、香斎に従って画を学んだ。19歳の時に、江戸で岡本秋暉に画を学び、さらに京都、大坂で遊び、小田海僊に学んで画技を進めた。27歳で帰郷し、藩絵師となった。明治維新後、藩絵師が廃止になると各地を遊歴した。晩年四国を訪れた際、伊予・谷世範の家で病み、明治4年、57歳で死去した。


豊後日出藩の狩野派

2017-12-06 | 画人伝・大分

安藤梅峯 富士図 大分県立美術館

文献:大分県画人名鑑、暘城人物伝、大分県立芸術会館所蔵作品選図録

豊後三賢の一人にかぞえられる儒者・帆足万里(1778-1852)らを輩出した日出藩は文教の地として知られるが、その基礎は、第三代藩主・木下俊長(1648-1716)の学問奨励に由来するとされる。俊長は、民衆に倹約を促し、殖産に尽力するとともに、文武両道を奨励した。自らも深く学問を好み、関東学士・人見竹洞を招くなどして藩文教の興隆を図った。また、詩書を学び、画は狩野常信に師事した。さらに、画才を認めた藩士には藩命により狩野派の絵師につけて学ばせた。

日出藩士・利光常尹(不明-不明)は俊長に画才を認められ、命を受けて狩野常信に学んだ。画名は諸侯衆士の間に広く知られていたという。遺作は少ないが、日出町大神の宝積寺に今寺宝として極彩狩野派密画十数幅が残されている。松田周修(不明-1730)も俊長に画才を認められ、狩野周信について学び、一家をなした。また、日出藩絵師は、江戸に住み狩野師信に師事した安藤梅峯(1777-1825)がつとめた。

木下俊長(1648-1716)
慶応元年生まれ。日出藩第三代藩主。幼名は千勝、のちに主計。諱は俊長。大年、豊大年、江北散人などと号した。姓は豊臣。日出中興の名君と称された。文教・殖産に力を用い、自らも詩文、画を学んだ。学問を好み、関東学士・人見竹洞を招いて藩文教の興隆を図り、よく江戸藩邸・観蘭亭に竹洞を招いては詩書を学び、狩野常信に師事して画を修めた。日出松屋寺に千体観音が残っている。享保元年、69歳で死去した。

木下俊泰(1729-1768)
享保14年生まれ。日出藩第九代藩主。第四代木下俊量の第四子。藩務のかたわら狩野派の画をよくした。明治5年、40歳で死去した。

安藤梅峯(1777-1825)
安永6年生まれ。日出藩絵師。冨田石見守源吉盛の三男。名は圀儀。別号に真龍斎がある。幼いころから画を好み、のちに安藤をついで江戸に住み、狩野師信に学んだ。文政8年、49歳で死去した。

利光常尹(不明-不明)
日出藩士。通称は伝右衛門。藩主・木下俊長に画才を認められ、命を受けて狩野常信に学び、画名は諸侯衆士の間に広く知られていたと言われる。享保12年、日出若宮八幡宮に「項羽」「辨慶」の図を奉納したと伝わるが現存していない。大神軒ノ井の宝積寺に大幅の仏画が残っている。

松田周修(不明-1730)
日出藩士。通称は新次左衛門。別号に素軒がある。藩の目付・武頭などをつとめた。藩主・木下俊長に画才を認められ、狩野周信について学んだ。日出若宮八幡宮に「蜀三傑ノ図」「雲龍ノ画」「黄石公張良ノ図」などを奉納したと伝えられるが現存していない。享保15年死去した。

山本玄洞(不明-1900)
日出藩士。家は代々木下家の衣紋職。宇喜田新平の長男。幼名は栄次郎、その後は珪作。諱は俊晴、字は玄洞。観海堂と号した。山本家をついでのちに安来ともいった。幼いころ大石江北に書を学び、その後、府内藩の二代木崎隆川に画を学び、狩野派の絵師になった。仏像、人物、山水などをよくした。明治33年死去した。