松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

日本の画壇に新風をふきこんだ野田英夫

2017-11-30 | 画人伝・熊本

野田英夫 学園生活(ピードモント・ハイスクール壁画 部分)

文献:熊本県に美術、熊本の近代洋画

日系移民の子として米国に生まれた野田英夫(1908-1939)は、30歳で早世し、わずか10年たらずの画業だったが、日本の画壇に初めて登場した際には、そのアメリカ的、社会派的な特異な画風で、ヨーロッパ志向が強かった当時の日本画壇に新風を吹き込んだ。また野田は、壁画制作にみられるように、絵画を個人のものから大衆の共有財産として位置づける試みをみせ、芸術における新しい価値観を提示してみせた。

野田英夫(米国名ベンジャミン・ノダ)は、祖国日本で教育を受けさせたいという両親の意向で、3歳から18歳までを、父の故郷である熊本で過ごした。アメリカ国籍でありながら、日本の精神風土のなかで精神形成の時期を過ごしたことは、のちの制作活動に少なからぬ影響を与えたかもしれない。中学卒業後は単身渡米し、カリフォルニア美術専門学校に入学、2年で同校を中退して、ニューヨーク北部のウッドストック芸術村に住み、アート・ステューデンツ・リーグでディエゴ・リベラの壁画制作の助手をつとめた。以後、壁画、テンペラ画の研究を続けるようになった。

昭和9年に、ホイットニー美術館の全米美術展に出品したのちに帰国、翌10年、銀座の画廊で初個展を開催し、二科展にも出品した。翌年一時ニューヨークに戻り、母校ピードモント・ハイスクールの壁画を制作、ヨーロッパを経て帰国し、東京豊島区東長崎町の貸アトリエに住み、短期間だったが池袋モンパルナスの住民として過ごした。同年新制作派協会に出品、会員に迎えられた。昭和13年、銀座の日動画廊で個展を開催したのち、長野県野尻湖半を旅行、この頃から体調に変化が現われて入院、翌年1月30歳で早世した。

野田英夫(1908-1939)
明治41年カリフォルニア州サンタクララ生まれ。明治44年、教育を受けるために両親に連れられて帰国、18歳まで熊本で過ごした。大正15年、中学校卒業後に単身渡米、ピードモント・ハイスクールに入学。昭和4年に同校を卒業して、カリフォルニア美術専門学校に入学した。昭和6年同校を中退し、アーノルド・ブランチをたよってニューヨークに行き、ブランチのアトリエに奇寓したのち、ウッドストック芸術村に友人と3人で共同生活を送り、ここでアート・ステューデンツ・リーグのサマー・スクールに通った。昭和9年、26歳の時に帰国、東京中野区のアパート「清風荘」に居住し、銀座の青樹社画廊で初の個展を開催、二科展に出品した。同年、銀座のバー「コットンクラブ」の壁画を寺田竹雄と共同で制作した。昭和11年、28歳の時にニューヨークに戻り、翌年母校のピードモント・ハイスクールにフレスコ壁画《学園生活》を制作。同年ヨーロッパを経て、帰国、豊島区東長崎町の貸アトリエに居住、新制作派展に出品し、会員に迎えられた。昭和13年、銀座・日動画廊で個展、その後体調を崩し同年12月に入院、翌14年、30歳で死去した。


海老原喜之助と熊本の独立美術

2017-11-29 | 画人伝・熊本

海老原喜之助 殉教者

文献:熊本県に美術、熊本の近代洋画

熊本における独立美術協会の系譜は、戦災を避けて熊本に疎開し、以後15年間熊本に滞在した海老原喜之助を中心に展開していく。海老原は戦後を代表する作品のほとんどを熊本時代に描いており、一方で「海老原美術研究所」を開設して後進の指導にあたった。戦前から独立展に出品していた坂本善三、宮崎精一、戦後から同展に参加した三浦洋一らが海老原の薫陶を受けながら、熊本を代表する抽象画家として独自の画風を展開した。

海老原喜之助(1904-1970)
明治37年鹿児島市生まれ。大正11年中学卒業後上京、川端画学校に学び、翌年19歳で渡仏、パリで藤田嗣治に師事した。パリでは二科展、サロン・ドートンヌや日本の二科展に出品、エコール・ド・パリの次期担い手として嘱目された。昭和8年に帰国、昭和10年に独立美術協会会員となった。昭和20年、郷里の鹿児島市が空襲を受けたため、鹿児島県境寄りの熊本県水俣市湯の児に疎開、戦後も人吉市、熊本市に転居しながら昭和35年まで熊本県に在住、戦後の代表作《殉教者(サン・セバスチャン)》など、戦争犠牲者への鎮魂を主なテーマに制作を続けた。昭和45年、旅先のヨーロッパで病み、同年パリにおいて66歳で死去した。

坂本善三(1911-1987)
明治44年阿蘇郡小国町生まれ。中学卒業後上京、本郷研究所、帝国美術学校で3年間学んだ。独立美術協会には第1回展から出品した。昭和10年からの長い兵役の後、戦後は阿蘇郡坊中で制作、阿蘇の風景や静物をモチーフに半具象の作品を描いた。昭和22年に独立展独立賞を受賞、昭和24年に独立美術協会会員となった。以後独立展を中心に、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品、昭和51年には第1回長谷川仁記念賞を受賞した。昭和55年から59年にかけてヨーロッパで活動し個展などを開催、61年にはパリ国際版画展でグランプリを受賞した。昭和63年、76歳で死去した。

宮崎精一(1912-1996)
大正元年人吉市生まれ。昭和5年日本美術学校に入学、3年間学んだ。昭和12年独立展に初入選、昭和19年に独立展独立賞を受賞し、昭和23年独立美術協会会員となった。昭和20年、人吉市に転居してきた海老原喜之助に師事した。平成8年、83歳で死去した。

三浦洋一(1916-2012)
大正5年山鹿市生まれ。中学卒業後、九州医学専門学校に入学、在学中に油絵を描きはじめ、同校に美術部を創設した。帰郷後、熊本医科大学に勤務し、医療活動のかたわら作品発表を続けた。昭和25年に坂本善三、境野一之らと地元の前衛的な絵画グループ「杏美会」を結成するなど、若手の中心画家として活躍した。昭和27年独立展初入選、昭和37年には独立展独立賞を受賞し、昭和43年独立美術協会会員となった。一方、熊本県文化懇話会代表世話人や熊本県文化協会長を歴任、郷土の文化振興につとめ、平成5年に熊日賞を受賞、同年熊本県近代文化功労者として顕彰された。平成24年、95歳で死去した。


官展系の熊本の洋画家

2017-11-28 | 画人伝・熊本

山田隆憲 祭日の村娘

文献:熊本県に美術、熊本の近代洋画

黒田清輝に師事した山田隆憲(1893-1953)は、外光派のスタイルをよく受け継ぎ、大正7年文展に初入選、昭和10年には帝展無鑑査となった。京都画壇から画業を始めた間部時雄(1885-1968)は、浅井忠の指導を受け、明治40年に開設された第1回文展で初入選し、以後官展で活躍した。

昭和に入ると、熊本在住者による中央展への出品が始められ、昭和5年、第11回帝展に玉名中学校の教師・横山繁行(1894-1946)が入選した。また、東京在住の頃から帝展に出品していた横山に対し、まったくの地方発信として官展に入選した画家としては、田代順七(1900-1985)が、昭和8年の第1回東光展に続き、翌9年の帝展でも初入選した。田代は、日展や東光会入選を目指すグループ「銀光会」を主宰しており、戦前の帝展入選第1号に続き、戦後も熊本在住者として日展特選第1号も果たしている。昭和10年代には、田代のほか、清原武則、太田黒幸、松岡正直、永田珠一、中田林五郎、内田宗男、吉里静らが熊本から出品し入選している。

すでに戦前に帝展特選を果たし、中央画壇で官展画家としての地位を築いていた井手宣通(1912-1993)は主に東京で活躍、井手の影響により熊本では野田健郎、坂田憲雄らがこれに続いた。また、中央では櫻田精一、田中春弥らが活躍した。

山田隆憲(1893-1953)
明治26年熊本市生まれ。供合尋常小学校から県立中学済々黌に進学した。3年の時に筋炎を患い足が不自由になったが、そのことが画家として身をたてる転機となった。済々黌を卒業後に上京し、黒田清輝の主宰する葵橋洋画研究所に入り、黒田の推薦により東京美術学校西洋画科に入学した。卒業後は、黒田から学んだ外光派の手法をよく受け継ぎ、官展に入選を重ねた。その後右手に痙攣が生じ制作できなくなり、帰郷して左手に筆を持つなど苦しい制作を続けたが、昭和17年頃には事実上、制作活動に終止符を打つこととなった。昭和28年、60歳で死去した。

間部時雄(1885-1968)
明治18年熊本県上益城郡生まれ。明治31年熊本県工業学校染織工科に入学したが、翌年母とともに京都に転居、京都市染織学校機織科に転入した。明治35年創設された京都高等工芸学校に一期生として図案科に入学、浅井忠の指導を受けた。その間、浅井が主宰していた聖護院洋画研究所で学んだ。明治39年に関西美術院が創設され、浅井が初代院長となった際には行動をともにした。浅井の没後も同院で指導にあたり、その一方で関西美術会展で油彩、水彩画を、農商務省展覧会では図案を出品して褒状を重ねた。大正9年に渡欧、各地を遊歴し、サロン・ドートンヌにも出品した。大正14年の帰国後は、東京に転居し、以後は官展にも時折出品したが、白日会を主な発表の場とした。昭和43年、83歳で死去した。

横山繁行(1894-1946)
明治27年玉名郡小天町生まれ。玉名中学校卒業後上京し、東京美術学校に入学した。彫刻科にも1年間籍を置いたが、大正10年西洋画科を卒業し専攻科に進んだ。外山佐傳のあとを受けて大正15年から昭和10年まで玉名中学校、ついで満州に渡り奉天で終戦まで図画教員をつとめた。玉名時代の教え子に川本末雄がいる。立教大学校庭の《夕陽を受けた》は帝展初入選作である。昭和21年、52歳で死去した。

田代順七(1900-1985)
明治33年玉名市山田生まれ。昭和3年、映画看板業に弟子入りして7年間過ごし、この頃独学で油絵を始めた。その後、検定試験を受けて資格を取り、神尾小学校、横島小学校で図画教師をつとめた。昭和8年東光会の第1回展に入選、以後斎藤与里の指導を受けるようになり、翌年帝展に初入選した。東光会の支部的な役割をもつ銀光会を結成し、戦後の東光会、日展に出品を続け、昭和30年日展特選を受けた。昭和35年には私立高校を定年退職し、田代絵画研究所を開設、後進の指導にあたった。昭和60年、85歳で死去した。

井手宣通(1912-1993)
明治45年上益城郡御船町生まれ。大正13年熊本県立御船中学校に入学、富田至誠の指導を受け画家を目指すようになった。昭和5年東京美術学校西洋画科に入学、長原孝太郎、小林萬吾に学び、3年から藤島武二教室に入った。昭和8年小絲源太郎に師事、この年から公募展出品を許され、同年帝展、光風会展に初入選。昭和10年東美を卒業後、同校彫刻科に再入学、朝倉文夫、北村西望に学んだ。その後文展特選、日展文部大臣賞と受賞を重ね、昭和41年に日本芸術院賞受賞、昭和44年には日本芸術院会員となり、昭和52年日洋展を創立、運営委員長をつとめた。平成2年文化功労者となり、平成3年からは日展理事長をつとめた。平成5年、82歳で死去した。


熊本近代洋画の発展に寄与した青木彜蔵と伊藤直臣

2017-11-27 | 画人伝・熊本

青木彜蔵 孔子画像 熊本県立済々黌高等学校蔵

文献:熊本県の美術、熊本の近代洋画

熊本洋画は黎明期を経て、次第に近代化への道を進んでいくが、その啓蒙的な役割を担ったのが、美術学校で学んだのち郷里に戻ってきた洋画家たちだった。彼らの働きにより、熊本洋画は飛躍的な発展をみせるようになる。

明治25年に上京し、小山正太郎主宰の不同舎に学び、アカデミックな技法を身につけて帰郷した青木彜蔵(1872-1940)は、熊本における初の総合美術団体である「九州美術会」を中心になって創設、毎年秋に「九州美術展覧会」の名称で展覧会を開催した。これが熊本での初めての公募展とされており、青木をはじめ、武藤直、美作武雄、志賀九十郎、富田至誠らが洋画部門で指導的役割を果たした。

また、伊藤直臣(1892-1980)が結成した「カスミ画会」は、東京から黒田清輝、岡田三郎助らの作品を借用し、自分たちの作品とともに、熊本市の物産館において展覧会を開催した。日本の近代洋画先駆者の作品を熊本に紹介したことは、以後の熊本洋画史に少なからぬ影響を与えた。さらに伊藤は「フィデリオ社」を結成、東京の細川家からセザンヌ、マチスらの洋画を借用して県会議事堂で展示、熊本ではじめて本物の西洋絵画を紹介した。伊藤の投じた一石は青木同様、熊本近代洋画の発展に大きく寄与したといえる。

青木彜蔵(1872-1940)
明治5年熊本市生まれ。洋画を志すため中学校を退学し、同校教授だった笠井直について学んだ。明治25年に上京、笠井の勧めで小山正太郎の不同舎に入門した。ここで中村不折と出会い、親交を深めた。明治27年熊本に帰り、済々黌、九州学院で図画を教えた。九州学院在職中、九州美術会(熊本美術会から改名)を組織し、毎年秋に総合的な分野にわたる公募展「九州美術展覧会」を開催、熊本の美術活動の隆盛に貢献した。晩年は水墨画も手掛けた。昭和15年、68歳で死去した。

伊藤直臣(1892-1980)
明治25年宇土市生まれ。家は代々細川藩宇土支藩藩士。八代中学校在学中にグループ「カスミ画会」を結成。卒業後上京し、早稲田大学文科予科に入学したが2年で中退。この頃知遇を得た高村光太郎に師事した。一時期日本美術院で彫刻も学んだ。その後、文芸雑誌客員、通信記者、美術雑誌編集者などを経て、大正10年熊本に帰り、詩作と画作に没頭、この頃「フィデリオ社」を結成した。昭和7年から約5年間富士山麓にアトリエを構え、富士山を描き続け、昭和12年から3年間は阿蘇宮地で制作。以後熊本市に定住した。戦後は、九州文化人協会の創設に参加、ここから美術部門を独立させて熊本県美術協会を設立、創立委員となった。昭和30年には伊藤洋画研究所、真美社を主宰し後進の指導にあたった。昭和55年、88歳で死去した。

武藤直(1880-1944)
明治13年熊本市生まれ。15歳のころから近藤樵仙について絵を学んだ。明治36年済々黌を卒業し上京、東京美術学校西洋画科に入学した。卒業後は熊本に帰り、鹿本中学校の図画教師となった。大正15年同校を辞職し、九州女学院の創立とともに同院につとめた。鹿本中学校時代の教え子に大森商二、大津逸次らがいる。昭和19年、64歳で死去した。

大津逸次(1891-1961)
明治24年山鹿市生まれ。鹿本中学校卒業後上京、大正3年に東京美術学校西洋画科に入学した。卒業後は文部省留学生として里見勝蔵らとともに渡欧し、この間にマルケに強い影響を受けた。帰国後しばらく郷里で生活するが、昭和3年写生旅行のため朝鮮に渡り、そのまま終戦まで朝鮮で教職についた。昭和20年熊本に帰り、翌年熊本県美術協会の創立委員になった。以後、鹿本高等学校、信愛女学院で美術教師をつとめた。昭和36年、70歳で死去した。

外山佐傳(1892-1955)
明治25年菊菊池市七城町生まれ。旧姓隈部。明治43年鹿本中学校卒業後、東京美術学校西洋画科に入学。卒業後は、千葉県、広島県の中学校教員を経て、熊本に帰り、玉名中学校、鹿本中学校で図画を教えた。教員時代の教え子に川本末雄(玉名中時代)、大塚耕二(鹿本中時代)がいる。晩年は仏画を描いた。左利きの剣道の名手としても知られた。昭和30年、63歳で死去した。

富田至誠(1897-1949)
明治30年鹿本郡鹿本町生まれ。旧制は松尾。大正4年鹿本中学校卒業後、東京美術学校西洋画科に入学。卒業後は熊本に帰り、没するまで御船中学校につとめた。九州美術会後半のメンバーとして活動した。御船中学校時代の教え子に、井手宣通、浜田知明らがいる。昭和24年、52歳で死去した。


熊本洋画の先駆的人物・光永眠雷が描いた西郷隆盛

2017-11-25 | 画人伝・熊本

光永眠雷 西郷隆盛肖像

文献:熊本県の美術、熊本の近代洋画、中京大学文学会論叢内論文 光永眠雷「西郷隆盛肖像」の成立(中元崇智)

熊本洋画の黎明期をになった画家としては、明治12年に上京し、イタリア人画家・キヨッソーネのもとで油絵を学んだ光永眠雷(1867-1928)が挙げられる。眠雷は東京で油絵を学んだのち、長崎、鹿児島に遊学、その後再び上京して代表作「西郷隆盛肖像」を描き、話題になった。

眠雷が「西郷隆盛肖像」を描くきっかけになったのは、洋画の師であるキヨッソーネの西郷像に対しての反発からきている。キヨッソーネの西郷像は、上野にある西郷の銅像の原型になったものとされるが、眠雷は「西洋人たる南洲翁(隆盛の雅号)とでもいふべき画であって、日本人たる南洲翁の肖像では無かった」と批判している。その後、明治37年に上京し、政界を引退していた板垣退助を訪問、板垣の勧めを受ける形で西郷の肖像を描くようになった。

西郷像に関しては、それまでにも実際の西郷には似ていないのではないかと説く研究者もいたが、上野の西郷隆盛銅像の除幕式に出席していたイト夫人が「アラヨウ、宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの人はこんな人ではなかったのに)」と叫んだことが決定的となり、疑惑は深まっていった。

そんななか、明治40年、眠雷が描いた西郷隆盛肖像は、板垣や西郷家、関係者から「最も能く真を得たり」と評価され、西郷の「真像」として認められたという。そして明治43年、日韓合併を記念し、東京神田今川橋青雲堂から眠雷西郷像が、印刷・発行されるに至ったのである。

また、眠雷は肖像画を描く際の筆の長さにこだわっており、のちに自ら創案した槍のような七尺の長筆をもって人物、静物などを描いたとされる。その事に関して、明治42年発行の『東京エコー』では「洋画はもと六尺以上の距離を以て見るべきものなれば之を描く際にも之を見ると同様の距離を以て画くでなければ其欠点を完全に修補することの出来ないのは当然の理である」と語り、筆の長さに対する執着をみせている。

光永眠雷(1867-1928)
慶応2年生まれ。明治12年上京し、翌年東京工部大学校教授のジケローに入門し、洋画を学んだ。その後、明治17年に印刷局御雇のイタリア人画家キヨッソーネのもとで鉛筆デッサンや油絵を学んだ。また、長崎、鹿児島にも遊学、この間、長崎では洋画家の益田暁園に、熊本では当時第五高等学校教授だった笠井直らに学んだ。その後再び上京して、代表作とされる「西郷隆盛肖像」を制作、話題になった。のちに自ら創案した槍のような七尺の長筆をもって人物、静物などを描いたとされる。眠雷の作品として「竹崎茶屋」「竹崎順子」の肖像画が残っている。昭和3年、62歳で死去した。


大正・昭和期の熊本の日本画家

2017-11-24 | 画人伝・熊本

福島峰雲 球磨川真景(部分) 熊本県立美術館蔵 

文献:熊本県の美術、熊本の近代日本画

明治後期から大正にかけて、京都や東京の美術学校や画塾で学んだ青年画家たちが次々と帰郷し、大正・昭和期の熊本日本画壇を担った。東京美術学校を卒業後、母校の教師となった甲斐青萍(1882-1974)、福岡県で図画教師をつとめた下林素光(1885-1940)をはじめ、松田蘇雪、大畑壺畔らは、中央画壇で作品を発表することはほとんどなく、熊本での制作活動に終始し、美術教育の指導者として尽力した。また、東京で堅山南風に絵の指導をしていた福島峰雲(1877-1948)も、その後帰郷し熊本に定着した。

彼らは、洋画家の青木彜蔵らによって組織された「九州美術会」の日本画部門の幹部的立場として、同会の存続と発展に少なからぬ役割を果たし、熊本美術界の発展に貢献した。

東京在住で活動した日本画家としては、東京美術学校に学び、ともに日展を舞台に活躍した川本末雄(1907-1982)と浦田正夫(1910-1997)がいる。川本は落選続きだった花鳥画に見切りをつけ、自然の素直な描写による風景画に転向してから開花、日展で受賞を重ね、日本芸術院恩賜賞を受賞した。高橋廣湖を伯父に持つ浦田は、画家の家系に生まれ、5歳で上京、東京美術学校日本画科と共に洋画も研究、画風に幅を広げ、日本芸術院会員となり日展重鎮として活躍した。また、石井了介(1898-1984)は東京美術学校日本画科に学び、平福百穂に師事したが、従姉婿である山本鼎に版画を学び、晩年は多色刷の木版画を制作した。

福島峰雲(1877-1948)
明治10年熊本市生まれ。名は利信。はじめ杉谷雪樵の門下高木樵峯について四条派を学んだ。明治40年上京し、諸家を訪ね絵の研究を重ねた。この頃熊本で堅山南風に絵の指導をしていた。その後は熊本に定着し、熊本での発表にとどまったが、九州美術会の幹事の一人として活躍した。昭和23年、71歳で死去した。

甲斐青萍(1882-1974)
明治15年熊本県上益城郡生まれ。名は英雄。はじめ熊本で高橋廣湖に学んだ。県立熊本中学校を経て、東京美術学校日本画科に入学、下村観山、小堀靹音に師事した。明治42年卒業し、翌年から昭和14年まで、母校熊本中学校の美術教師をつとめ、この間、九州美術会日本画部門の中心人物として活躍した。家系が細川藩に仕えた武士であったせいもあり、美術学校時代から有識故実に興味を抱き、特に菊池一族に題材を得た武者絵、歴史画を多く手がけている。馬の名手といわれ、自らも馬に乗って通勤したこともあったという。昭和49年、92歳で死去した。

下林素光(1885-1940)
明治18年熊本市生まれ。本名は繁夫。中学卒業後、東京美術学校日本画科に入学、寺崎広業、結城素明らに学んだ。卒業後、福岡県の中学校の図画教師としてつとめた。中央への出品はほとんどなく、九州美術会を主な発表の場とした。昭和15年、55歳で死去した。

川本末雄(1907-1982)
明治40年熊本県玉名市生まれ。玉名中学校を卒業後上京し、東京美術学校日本画科に入学、松岡映丘に師事した。卒業後、一時会社につとめた後、都内の中学校で教鞭をとった。この間、松岡映丘、山口蓬春に師事し、帝展、新文展に応募するが落選の連続だった。兵役の後、農耕生活を経て、昭和23年日展初入選。以後日展で受賞を重ね、昭和51年に日本芸術院恩賜賞を受賞した。昭和57年、75歳で死去した。

浦田正夫(1910-1997)
明治43年熊本県山鹿市生まれ。祖父は浦田長次郎。伯父は高橋廣湖。大正4年、5歳の時に両親とともに上京した。中学卒業後に松岡映丘に師事、一方で本郷絵画研究所にも通った。昭和4年、東京美術学校日本画科に入学、在学中に帝展に初入選した。津田青楓の主宰する上野洋画研究所の夜学にも通った。昭和26年、山口蓬春に師事、日展で特選、白寿賞、菊華賞、文部大臣賞など受賞を重ね、昭和53年、日本芸術院賞を受賞、昭和63年に日本芸術院会員となった。平成9年、87歳で死去した。

石井了介(1898-1984)
明治31年熊本県玉名郡南関町生まれ。大正5年、旧県立玉名中学校卒業後、京都絵画専門学校で2年間学んだのち、東京美術学校に入学。従姉婿の山本鼎の紹介で平福百穂に師事した。卒業後は、山本鼎の主宰する日本農民美術研究所を手伝い、山本に木版画を学んだ。以後は日本画を描く一方、木版画も制作、従兄にあたる北原白秋の著書の挿絵、装丁も担当した。第8回帝展に日本画で入選、59歳の時には日展に木版画で入選し木版画で10回入選した。85歳の時に《白秋詩歌版画集》を刊行した。昭和59年、86歳で死去した。


肥後画家大系を著した日本画家・野田鋤雲

2017-11-22 | 画人伝・熊本

野田鋤雲 弦月瀑布図

文献:熊本県の美術、熊本の近代日本画

野田鋤雲(1877-1929)は熊本市に生まれ、はじめ熊本の画家・小山聴雨に師事し南画を学んだ。その後京都市美術工芸学校に入学、菊池芳文、山元春挙、竹内栖鳳に学んだ。卒業後は帰郷し、熊本市で画塾を主宰、後進の指導にあたった。京都で学んだ四条派のスタイルをよく受け継ぎ、花鳥、山水の分野を得意とした。また、大正から昭和にかけて熊本で展開した「九州美術会」の日本画部門の幹事としても活躍した。また、野田の業績で最も特筆すべきことは、『肥後画家大系(1)~(10)』を著したことといえる。同著は、加藤清正時代から明治にかけての熊本の画家たちを系統的にまとめたもので、熊本の画家を調べるうえで貴重な資料となっている。

野田鋤雲(1877-1929)
明治10年熊本市生まれ。名は又夫。明治28年、京都市美術工芸学校絵画科に入学。在学中、新古美術展覧会に出品し、三等賞銅牌を受賞した。卒業後は熊本に帰り、明治37年から38年まで日露戦争に従軍。この間、画塾「時習画会」を開設した。一時期、宮本武蔵紛いの絵を手がけていたことで非難を浴びたこともあったというが、美術学校に学んだものの先駆として、熊本の近代日本画の発展に大きな役割を果たした。昭和4年、52歳で死去した。


高橋廣湖から堅山南風へと日本美術院の系譜をつないだ山中神風

2017-11-21 | 画人伝・熊本

山中神風 血河の巷 熊本県立美術館蔵

文献:熊本県の美術、熊本の近代日本画

高橋廣湖の周辺にいた画家に山中神風(1883-1928)がいる。神風は、はじめ淵上誠方、淵上武貫に土佐派を学び、明治35年頃上京して梶田半古に師事した。その頃東京では、郷里の先輩・高橋廣湖が頭角を現わしており、その影響からか神風も巽画会や二葉会に加わっている。巽画会の展覧会ではたびたび受賞しているが、日本美術院に一度入選したほかは目立った画歴はない。神風の場合、その画業よりも中央と熊本を結ぶパイプ的な存在としての業績のほうが大きく、のちに日本画壇の重鎮として活躍する堅山南風を画家として導いた先輩として語られることのほうが多い。

神風に連れられて明治42年に上京した堅山南風(1887-1980)は、神風の紹介で廣湖に師事し、本格的に画業をスタートさせた。南風は、廣湖の影響のもと歴史画に取り組んだが、廣湖に師事していた頃は、文展には落選続きで巽画会のほかは目立った画歴はない。皮肉にも南風が注目されるのは、廣湖の死後だった。大正2年、それまでの歴史画を離れ画風を一変させた「霜月頃」が、第7回文展で初入選で最高賞という結果となり、無名の南風が一躍脚光を浴びることとなった。これを機に、南風の受賞を強く推した横山大観に師事し、日本美術院に活動の場を移すこととなる。

熊本における日本美術院の系譜は、中心的存在としてその足跡を残した高橋廣湖を筆頭に、次代を担った山中神風、堅山南風、そして南風の門下生である真道黎明、高木古泉、若木山、松山春秋、宮崎東里らへと続いた。

山中神風(1883-1928)
明治16年熊本市生まれ。名は千吉。はじめ淵上誠方、淵上武貫に土佐派を学び、明治35年頃上京して梶田半古に師事した。明治37年から38年の日露戦争に従軍し、この時に大山巌元帥から神風の号をもらった。いったん熊本に戻り、明治40年に再上京して巽画会に加わった。明治42年、26歳の時に「清正公300年祭記念絵画展」を企画し熊本で開催。同年熊本に山中神風後援会が発足した。大正11年日本美術院展に初入選した。昭和3年、45歳で死去した。

堅山南風(1887-1980)
明治20年熊本市生まれ。名は熊次。はじめ熊本で四条派を修めた福島峰雲に学んだのち、明治42年、郷里の先輩・山中神風に連れられて上京、神風の紹介で同郷の高橋廣湖に師事した。当初文展には落選続きだったが、師の廣湖の突然の死後、歴史画を離れ写実から絵を組み立てる画風に一変させ、大正2年文展初入選し、二等賞を受賞した。以後は横山大観に師事し、日本美術院を中心に活躍、大正13年日本美術院同人に推挙された。昭和33年日本芸術院会員に、昭和38年文化功労者となり、昭和43年文化勲章を受章した。昭和55年、93歳で死去した。

真道黎明(1897-1978)
明治30年熊本県宇土市生まれ。中学卒業後上京、日本学園卒業後、太平洋画会に通い中村不折に洋画を学ぶが、たまたま見た菱田春草の作品に感動し、日本画に転向を決意、郷里の先輩・堅山南風に師事した。大正4年日本美術院展初入選、大正10年、24歳の時に日本美術院同人に推挙された。昭和50年院展内閣総理大臣賞を受賞。昭和53年、81歳で死去した。

高木古泉(1878-1963)
明治11年熊本県菊池郡生まれ。名は左直。熊本県師範学校卒業後、東京美術学校に入学したが中退。文部省図画科検定試験に合格し、以来旧制中学校、高等女学校で教鞭をとったのちに辞職、福田平八郎、堅山南風に師事した。院展、霹靂展、明朗展などに出品し、鯉の名手として知られた。昭和38年、85歳で死去した。


杉谷雪樵の路線を継承し熊本日本画の近代化を担った近藤樵仙

2017-11-20 | 画人伝・熊本

近藤樵仙 葉山別荘之景 永青文庫蔵

文献:熊本県の美術、熊本の近代日本画

杉谷雪樵によって幕が開いた熊本における日本画近代化の流れは、門人である近藤樵仙によって引き継がれた。

熊本市に生まれた近藤樵仙(1865-1951)は、郷里で杉谷雪樵に師事し、その後雪樵とともに上京、日本画会、日本美術協会の中堅画家として、文展に出品し、宮内省の御用絵画や明治神宮壁画の制作などに携わり、画壇的地位を固めていった。しかし、大正3年の第8回文展の落選をきっかけに忽然と中央画壇から姿を消し、京都、鎌倉地方を遊歴しながら、のちの半生を送ることになる。

当時の日本画壇は、明治40年の文展開設に端を発し、旧派と新派が対立するようになり、日本画壇を二分する組織的な分裂をみせていた。樵仙の属した日本画会、日本美術協会は旧派に、同郷の高橋廣湖が属した巽画会、日本美術院は新派に加わった。やがて、時代の趨勢は新派に傾きはじめ、旧派は自然壊滅的な道をたどることとなり、新派に多くの人材が流れていったのである。

熊本関係の樵仙の門人としては、中村樵華、後藤樵月、宮原素江、下田樵蘇、古田報春らがいたが、報春を除き、目立った足跡はみられない。その報春も、のちに横山大観に師事し、新派である日本美術院に活動の場を移した。

近藤樵仙(1865-1951)
慶応元年熊本市生まれ。倉重仁三郎の長男。名は静吾。明治2年に近藤家の養子となり、その姓を継いだ。杉谷雪樵に師事し、明治20年、22歳の時に雪樵とともに上京、5年ほど東京に居ていったん熊本に帰り、雪樵の没した明治28年に細川家に召されて再度上京した。以後細川家の御用をつとめながら、日本美術協会、日本画会を中心に作品を発表、宮内省買い上げや受賞を重ね、画壇的地位を固めていった。初期文展に入選を果たし、明治40年には御前揮毫をおこなうなど、華やかな足跡を残したが、大正3年の文展落選を境に忽然と画壇から身を引き、東京、大阪、山梨、鎌倉などに居住しながら画壇とは関係のないところで仕事を続けた。昭和26年、86歳で死去した。


37歳で急逝した新進気鋭の新派画家・高橋廣湖

2017-11-17 | 画人伝・熊本

浦田天鹿(高橋廣湖の前号)青砥藤綱探銭図 熊本県立美術館蔵

文献:熊本県の美術、熊本の近代日本画、千住に愛された日本画家-高橋廣湖

熊本における日本画近代化の流れは、杉谷雪樵がその堰を切り、雪樵没後は門人である近藤樵仙がその路線を引き継いだ。そして、また別の流れの源となったのが高橋廣湖である。

高橋廣湖(1875-1912)は、雲谷派の画家・浦田長次郎(1846-1913)の長男として熊本県山鹿市に生まれた。父の長次郎は矢野家六代良敬に学び、雪翁、雪長と号した。また、「観松堂」の堂号を持つ画家たちの領袖で、山鹿、菊水地域の神社拝殿にはその観松堂一派による絵馬が数多く残っている。浦田家は代々画家の家系で、廣湖の弟である二男と四男も画家であり、四男・四郎(号は湖月・廣香)の子は、東京美術学校に学び、日展の重鎮として活躍した浦田正夫(1910-1997)である。

廣湖は、天性の資質に加え、絵描きを生業としていた家庭環境の中で育ち、矢野派の絵画様式を幼いころから父に学んだ。20歳の時に熊本市に出て教師をしていた時、熊本を訪れていた女優・高橋こうと出会い、画才に感銘を受けた高橋の導きで明治30年に上京、歴史画の松本楓湖に師事した。その3年後には独立して、巽画会や日本美術院二十日会に参加、明治34年の春と秋の日本美術院に出品した「天孫降臨」で銅章を受け注目され、岡倉天心に認められるようになった。

廣湖は、天心率いる新派の画家として、歴史画を中心としたさまざまなジャンルを研究し、また果敢に革新に挑み続けた。近代絵画としての写実性と表現性に着目し、横山大観、菱田春草らが提唱した朦朧体の手法や西洋画の遠近・陰影法などにも取り組み、ときには裸婦を描くなど前衛的な制作活動を展開した。その一方で巽画会の中心的画家として評議員、審査員をつとめ、初期日本美術院をはじめ、紅児会、二葉会などにも参加した。明治42年の日英博覧会においては今村紫紅と共に内務省から出品を依嘱されるなど、画家としての評価を高め、画壇的地位を確立していった。

新進気鋭の画家として、郷里熊本の若者たちの目標的存在となった廣湖だったが、明治45年、朝鮮公使をつとめていた花房義質から依頼された《花房一代記絵巻》制作のために朝鮮・満州を取材で訪れ、その際に罹患した猩紅熱のため、帰国後、37歳で急逝した。

高橋廣湖(1875-1912)
明治8年熊本県山鹿市生まれ。本名は浦田久馬記。のちに女優・高橋こうの養子となり高橋姓を名乗った。父長次郎は、矢野良敬に学んだ雲谷派の画家で、画塾「観松堂」を開き県北で一家を成していた。明治25年、17歳の時に熊本在住の南画家・犬塚松琴に師事した。その3年後に初号である「天鹿」を名乗って熊本市に出て、絵画研究所「共進舎」の教員となった。この頃、熊本を訪れていた女優・高橋こうと出会い、廣湖の画才に感銘した高橋の勧めで上京して絵の修行をすることになる。明治30年、22歳の時に単身上京、松本楓湖の画塾「安雅堂」に入門した。24歳の時に日本美術院に初入選、二等褒状を受けた。この頃、楓湖から「廣湖」の雅号を授かり改号した。その後日本美術院、巽画会を中心に、二葉会、紅児会、歴史風俗展などの展覧会に出品、受賞を重ねた。特に巽画会では、中心的画家の一人として活躍、評議員、審査員をつとめた。明治44年、36歳の時に巽画会主催で上野竹之台陳列館で個展が開催された。明治45年、取材のため朝鮮・満州を訪れたが、現地で病に倒れ、帰国後37歳で死去した。

浦田長次郎(1846-1913)

弘化3年山鹿市生まれ。雪翁、雪長と号した。矢野家六代矢野良敬に雪舟流雲谷派の画法を学び、山鹿で画塾「観松堂」を主宰していたが、その伝記は明らかではない。観松堂と号した絵馬が、山鹿、菊水地方の神社拝殿に多く残されている。大正2年、68歳で死去した。


肥後熊本藩最後の御用絵師・杉谷雪樵

2017-11-16 | 画人伝・熊本

杉谷雪樵 水車山水図 永青文庫蔵

文献:杉谷雪樵 熊本藩最後のお抱え絵師、熊本県の美術、肥後の近世絵画

幕末から明治における熊本画壇は、南画と復古大和絵系が二つの大きな流れを作っていたが、熊本藩の御用絵師をつとめていた矢野派の画家たちも画壇の一翼をになっていた。その矢野派本流のなかで、明治以降も活躍したのは、熊本藩最後の御用絵師・杉谷雪樵(1827-1985)である。

雪樵は、御用絵師だった父に手ほどきを受け、矢野家六代の矢野良敬に入門した。19歳の時に父が没したため、杉田家の当主となり、その後藩御用絵師となった。安政元年、27歳の時に藩命により江戸に出向き、藩邸の事務に従事、この8年間は画事から遠ざかった。帰郷後、再び絵筆をとるが、40歳の時に明治維新を迎え、藩の仕事を失い、時代は南画隆盛のため、北画的な雪樵の画風は世間に受け入れられず、生活苦を余儀なくされた。

当時の南画ブームに対して画論を書いて反論したり、ひたすら雪舟流雲谷派の復興に没頭する雪樵だったが、生活苦のためか南画的な傾向に走った時期もあったとされる。そんな苦境のなか、宋元画、明清画、四条派、大和絵など古典的な作品を研究し、一様式を確立すべく努力を重ね、御用絵師時代の画風から脱却をはかり、画業を充実させていった。

明治20年、60歳の時に上京、旧藩主細川家の援助を受ることとなった。以後没するまで同家で8年間筆をとり、日本画近代化の覚醒期の中央画壇の刺激を受けながら画業を展開した。その間、宮内省から御用画をたびたび受け、細川家においては同家日本館の杉戸絵制作をおこなうなど精力的に活動、次第に東京でも名を知られるようになっていった。

杉谷雪樵(1827-1985)
文政10年熊本生まれ。杉谷行直の長男。名は敬時、通称は一太郎。別号に洞庭子がある。はじめ藩御用絵師だった父行直に学び、のちに矢野家六代良敬に入門した。弘化2年、19歳の時に父が没したため杉田家の当主となり、その後藩絵師として召し抱えられた。明治維新後は、藩の仕事を失い生活苦を余儀なくされたとされるが、細川家や松井家からの仕事があったとする資料もある。明治20年からは上京して旧藩主細川家の援助を受けて制作活動をおこなった。明治22年に宮内省の用命によって孔雀図を制作、以後もたびたび御用画を受けたという。また、細川家においては明治25年に新築完成した同家日本館の杉戸絵制作をおこなうなど、没年まで同家で絵筆をとった。門人に近藤樵仙らがいる。明治28年、東京において68歳で死去した。

杉谷行直(1790-1845)
寛政2年生まれ。熊本藩御用絵師。名は一右ヱ門。別号に雲峯堂がある。衛藤良行に師事した。初号は行宗。行宗時代に肥後狩野派薗井守供の画系に属する安武貞幸と共に描いた《加藤清正一代記絵》が本妙寺に残っている。弘化2年、56歳で死去した。


遅れてきた南画家・竹冨清嘯、流浪の南画家・山田王延章

2017-11-16 | 画人伝・熊本

竹冨清嘯 越山雪中景図

文献:竹冨清嘯 遅れてきた南画家、熊本県の美術、肥後書画名鑑

竹冨清嘯(1833-1899)は、梶山九江とともに、明治期の熊本南画の双璧と謳われているが、九江が藩御用絵師の家に生まれ、門人も多数育成、明治中期の南画界を背負ってたった存在だったのとは対照的に、貧苦のなかで独学したが、郷里では認められず不遇のなかに旅先で客死した異才の南画家である。

清嘯は13歳の時、熊本に出て商家に丁稚奉公した。ここでの仕事は12年に及び、25歳の時に結婚を機に独立、豆腐屋や綿打業を営んだが長く続かずに廃業、続いて筆墨、書画刀剣の行商に転じた。書画への情熱が高まったのはこの頃からであり、明治初年、理三と改名し、嘯山と号したが生活は困窮を極めた。

清嘯が本格的に南画を描くようになったのは、明治10年の西南戦争の後に清国に渡り、一年間胡公寿に師事してからである。この清国行きの費用は、西南戦争官軍戦没者の墓碑名の揮毫を依頼され、その多額の報酬をもとにしたという。天野方壺、清水赤城とともに長崎を経て中国に渡り、念願の清国遊歴を果たした。帰国後は号を清嘯に改め、画事に専念、九州各地や京阪地方を訪れ、各地の文人墨客と交友して画技を磨いた。

また、同世代の南画家に菊池の山田王延章(1831-1903)がいる。王延章は家業を継いで医師となったが、やがて詩書画に専念するようになり、諸国を漫遊して南画精神を培った。生涯田能村竹田の精神を学ぶことを目標にしていたといい、儒学を精神的支柱として画業を展開した。

竹冨清嘯(1833-1899)
天保4年五十五家荘(現在の球磨郡五木村)生まれ。名は祥、字は子謙、通称は理三。のにち嘯山、清嘯と号した。弘化4年、13歳の時に熊本市の豊前屋に丁稚奉公し、安政5年、結婚を機に豊前屋から独立、豆腐屋、綿打業を営んだ。明治10年、西南戦争官軍戦死者の1000余基の墓碑名を揮毫し、報酬を得てそれを元に清国に渡り一年間滞在した。この間、胡公寿に師事、帰国後に清嘯と号した。家人に行く先も告げずに、ふらりと家を出る癖のあった清嘯は、その後もたびたび熊本を離れ、明治32年、広島において66歳で死去した。

山田王延章(1831-1903)
天保2年菊池市生まれ。名は終吉。家業は代々医者。別号に北岳外史、王鶴、一楽翁、鶴洲王孟経などがある。父守敬は医業のかたわら私塾「精義堂」を開き、漢学、医学を教ていた。兄が病身のため途中から家業を継いだが、のちに医業を離れて詩書の専念するようになり、諸国を遍歴して詩文書を習得した。生涯その目標とするところは田能村竹田の精神を学ぶことにあったと伝えられる。明治36年、73歳で死去した。


熊本南画の第一人者・梶山九江

2017-11-15 | 画人伝・熊本

梶山九江 寒山萬木図 島田美術館蔵

文献:熊本の近代日本画、肥後書画名鑑、熊本県の美術

熊本近代南画は、幕末から明治初期に活躍した佐々布篁石を嚆矢として、明治南画家の双璧と謳われる梶山九江、竹冨清嘯らに引き継がれ、熊本画壇において南画は一大勢力となった。

熊本南画の第一人者と称される梶山九江は、祖父、父ともに細川藩の絵師をつとめた。祖父の良恭(号桂谷)は、矢野良勝の弟子で、矢野派の画家だったが、良勝より先に法橋に叙されたため、良勝から破門された。その養子の九嶽は、京都に出て岸派を学んだ。しかし、九江は幕末から明治にかけての南画ブームの中で南画に親しみ、はじめ父の勧めで豊後の淵野桂仙の門に入り、熊本に帰ってからは南画・大和絵の田中亀水に学んだ。その後上京して、長三洲らと交友し画技の研鑽に励み、後年は長崎で鉄翁祖門に学んだ。

九江は祖父良恭を初代とする梶山家の画系を広げた人物であり、詩書画同好の団体「雲煙社」を主宰するなど多くの門人を育て、明治中期の南画界の中心人物として南画隆盛に貢献した。九江の主な門人としては、御船半山、栗山鴻山、小川葵園、堤石鼎、憑耕雨、内海羊石、野村雨山、小川葵山、牧野淡山、上田丹崖、松岡叢雲、三宅紫山、西條深江、関根江左、鬼木槐堂、高見杏園、堤雲崖、福田畳翠らがいる。

梶山九江(1840-1890)
天保11年熊本生まれ。祖父梶山良恭、父梶山九嶽ともに細川藩に絵師として仕えた。名は知、字は子遇、通称は栄太。別号に一岳、崖泉、無牛山人、愛雨園などがある。安政3年、16歳の時に父の勧めで豊後の淵野桂仙の門に入った。19歳で熊本に帰り南画・大和絵の田中亀水に学んだ。24歳の時、門人の内海羊石とともに、中国、四国を遊歴、約3年間この地方を訪ね歩いた。明治11年、38歳の時に再度、中国、四国地方を遊歴するが、父九嶽の死去のため熊本に帰った。この間、2度にわたって竹添井々や雲林院蘇山らと上京し、長三洲を訪ねた。明治23年、三度目の上京をするがコレラにかかり、50歳で死去した。

雲林院蘇山(1837-1914)
天保8年熊本生まれ。俳人・柳水草月の子。名は彌四郎。のちに雲林院の養子となって家を継いだ。はじめ梶山九嶽に学び、のちに淵野桂仙に学んだ。明治42年、第43回日本美術協会展で三等褒賞を受けた。大正3年、77歳で死去した。

関根江左(1847-不明)
弘化4年生まれ。名は献。上盆城郡の人。直入、梅翁の門に入り、のちに梶山九江、竹冨清嘯に従い南宗画を研究した。

栗山鴻山(1855-1918)
安政2年生まれ。はじめ杉谷雪樵に学び、のちに梶山九江に師事した。山水を得意とした。大正7年、64歳で死去した。

牧野淡山(1856-1932)
安政3年春日町生まれ。通称は俊明。はじめ梶山九江に南画を学び、のちに帆足杏雨に師事した。昭和7年、77歳で死去した。


近代熊本南画の嚆矢・佐々布篁石

2017-11-14 | 画人伝・熊本

佐々布篁石 松林群鶴図 熊本県立美術館蔵

文献:熊本の近代日本画、肥後書画名鑑、熊本県の美術

江戸時代後期、熊本は時習館、再春館を擁し学問の府として知られ、熊本に学ぶべく各地から多くの文人墨客が訪れた。天明2年には佐竹蓬平が長崎から熊本に入り、文政元年には頼山陽、小田海僊、文政10年には田能村竹田が熊本を再訪した。彼らは学問を通じて当時の熊本の学者たちと交流し、次第に熊本にも南画受容の基盤が培われていった。そして、幕末から明治にかけての全国的な南画ブームを迎えることとなるのである。

熊本における南画の祖としては、野田鋤雲『肥後画家大系』では、藩医で再春館医学監となった村井樵雪を挙げており、その門人に肥後土佐派の祖と称された福田太華がいる。そして太華の門人で、熊本で最初に南画を本格的に学んだ人として挙げられるのが、佐々布篁石(1817-1880)であり、近代熊本南画の嚆矢と称されている。

篁石は、代々二百石の藩士の家に生まれたが、18歳の時に藩政上の意見の相違から同士数名とともに閉門蟄居の身となり、終生仕官することができなくなった。そのため、絵によって身を立てるべく、父の反対を押し切り福田太華の門に入った。この頃の絵は、大和絵系の武者絵であったらしく、子孫の家に伝わっている。その後、安政年間に長崎を経て熊本を訪れた斎藤畸庵との出会いによって南画に転向、のちに長崎にわたって畸庵に師事した。佐々布篁石の門人には後に熊本南画界の第一人者と謳われる梶山九江がいる。

佐々布篁石(1817-1880)
文政14年熊本古京町生まれ。名は直方、通称は準助、のちに才三郎と改めた。はじめ福田太華の門に入り、花鳥、人物の画技を学んだ。その後、長崎を経て熊本を訪れた斎藤畸庵と出会い師事、南画に転向した。明治5年、55歳の時に熊本を離れ、三重、山梨の各地を転々としたあと、明治13年長野に向かったが、同年、伊那において63歳で死去した。


肥後土佐派の祖・福田太華

2017-11-13 | 画人伝・熊本

福田太華 蒙古襲来絵詞模本 菊池神社本

文献:肥後の近世絵画、肥後書画名鑑、熊本の近代日本画

熊本における復古大和絵の展開は、文政11年に福田太華(1796-1854)が《蒙古襲来絵詞》の模写を始めたことが始まりとされる。太華は専門の絵師ではなく、熊本藩の馬医だったが、故実に通じ、《犬追物絵巻》《後三年合戦絵巻》なども模写し「肥後土佐派の祖」と称されるようになった。明治に入ってもその流れは、門人で大和絵を専門に描いた淵上誠方や淵上武貫らによって継承され、南画とともに明治の熊本画壇のもうひとつの流れを作っていった。

また、熊本の場合、大和絵の復古主義的な考え方に国学が密接につながっているとも考えられる。当時の代表的な国学者である林桜園、中島広足、長瀬真幸、高本紫溟らの系譜のなかにも絵を描くものが出てきた。中島広足に学んだ小山聴雨、吉永千秋らは南画風の作品を残しているが、思想的背景から復古大和絵の流れの中にあるといえる。

福田太華(1796-1854)
寛政8年熊本生まれ。名は川象、字は収蔵、子壽。通称は儀右衛門。別号に無量、観山、湘雨などがある。村井蕉雪に学んだ。熊本藩の馬医だったが、故実学をよくし武器書画などの御用を仰せつかったと思われる。元寇での竹崎季長の活躍を描いた《蒙古襲来絵詞》を模写したことで知られ、「肥後土佐派の祖」と称されている。嘉永7年、59歳で死去した。

村井蕉雪(1769-1842)
明和6年生まれ。福田太華の師。名は烜、字は士陽、通称は冠吉。別号に玉蟾がある。熊本藩に仕え、再春館医学監となった。天保12年、73歳で死去した。

渡辺竹窓(1810?-1882)
名は左工門。福田太華に学び、花鳥人物を得意とした。篆刻もよくした。明治15年、73歳で死去した。

小野蘇堂(1824-1897)
文政7年生まれ。名は教蔵、字は伯虎。別号に用古堂がある。福田太華に学んだ。明治30年、74歳で死去した。

淵上誠方(1833-1915)
天保4年熊本市生まれ。名は勝彦、誠方。汲古堂と号した。別号に桂舟釣夫、守頑逸人がある。福田太華に学び、復古大和絵の継承者として明治画壇を担った。晩年は出水神社の社司もつとめた。大正4年、83歳で死去した。

淵上武貫(1845-1913)
弘化2年生まれ。淵上誠方の甥。名は清太郎。武貫、竹翠と号した。渕上誠方に学び、武者絵をよくした。大正2年、65歳で死去した。

岡田楳顚(1803-1877)
享和3年生まれ。はじめ村井蕉雪に学び、のちに福田太華に学んだ。梅を得意とした。明治10年死去した。

古山衲琴(不明-不明)
名は時次郎、字は穀臣。福田太華に学び、山水を得意とした。

田中亀水(1820-1867)
文政3年生まれ。名は市兵衛、字は暢。初号は亀泉。別号に文郷、生暢、武古などがある。はじめ福田太華に学び、のちに京都に遊び吉田公均について南宗画を学んだ。また、土佐家に出入りして彩色をなした。彫刻も得意とした。慶応3年、48歳で死去した。

香山梧堂(1812?-1891)
名は新八。別号に壽山、蘇叟がある。福田太華に学んだ。明治24年、80歳で死去した。

小山聴雨(1816-1893)
名は市太郎、のちに多乎理と改名した。字は士泉。別号に栗園、栗屋、醉月、硯耕堂、川景、川蔭などがある。はじめ矢野良敬に学び、のちに福田太華に学んだ。国学を中島広足に学んだ。明治26年、78歳で死去した。

吉永千秋(1818-不明)
文化15年生まれ。熊本市に藤崎八幡宮の神官・秀俊の子。のちに十三代神官となった。幼名は秀和、のちに千秋を改名し、賢木園と号した。長瀬真幸、中島広足に歌学を、林桜園に神道を学び、画は福田太華に学んだ。

園田鑑江(不明-不明)
八代の人。名は俊蔵、川臣。字は子平。福田太華に学び、山水、四君子を得意とした。

福田藍園(不明-不明)
福田太華の子。名は熊次郎、のちに範蔵。字は桃郷。父に学び、彫刻もよくした。