松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

佐伯祐三と行動を共にしフランスで客死した横手貞美

2017-09-23 | 画人伝・長崎


文献:未完の青春 横手貞美、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝

昭和2年、横手貞美(1899-1931)は、東京美術学校を卒業したばかりの荻須高徳(1901-1986)、山口長男(1902-1983)とともに、横浜港からパリへ向かう旅客船に乗り込んだ。すでに2度目の渡仏を果たしパリに住んでいた佐伯祐三(1898-1928)を頼ってのパリ行きだった。荻須と山口は、東京美術学校での佐伯の後輩にあたる。横浜を出た船は、神戸に寄港し、ここで偶然乗り込んできた旧知の大橋了介(1895-1943)と合流した。約40日におよぶ船旅の末にマルセイユに上陸した4人は、夜行列車でパリに向かった。

すでにパリで制作していた佐伯は4人を歓迎し、佐伯と初対面だった横手はその親切さに感激したという。佐伯は彼らにパリ生活でのノウハウを教えたり、芸術論を説いたりした。すぐに佐伯を中心にしたサークルが形成され、パリ郊外で合宿して1日3点主義を実行するなど、風景画を中心に精力的な制作が展開された。パリ市内のグランド・ショミエールなどで人物画の研究もした。しかし、その旺盛なグループ活動も翌年の佐伯の死によって突然終わる。

佐伯と制作を共にし、佐伯の影響を強く受けていた横手は、佐伯の死とともに独自の表現を追求するようになるが、横手もまた、その3年後に31歳の若さでフランスで客死することになる。場所はスイス国境に近いフランス南東部の町オトヴィルのサナトリウムで、胸郭切除手術を受けた末での死だった。佐伯の後を追うような人生を送り、佐伯の影に隠れがちな横手の画業だが、近年見直されてきており、再評価の動きも見られる。

横手貞美(1899-1931)
明治32年宮崎市生まれ。父は大分県宇佐郡出身の判事で、仕事の関係で九州各地を移り住んだ。大正2年、14歳の時に父が死去したため、長崎で耳鼻咽喉科を開院していた次兄のもとに身を寄せ、翌年長崎市の私立海星中学校に入学した。同校のフランス人図画教師アルベール・ブレザッケルの指導で絵画に興味も持ち、大正8年同校卒業後に上京して小林萬吾の私塾・同舟社で石膏デッサンを学び、東京美術学校を受験するが「胸廊変態」と診断され入学を拒否されたという。この頃から岡田三郎助の本郷絵画研究所に通い人体写生を研究した。同研究所で山口長男、大橋了介らと知り合った。昭和2年、荻須高徳、山口長男とともに佐伯祐三を頼って渡仏、偶然同じ船に乗り合わせた大橋了介と4人で佐伯を訪ねた。以後佐伯と制作を共にし、佐伯の影響を強く受けるが、昭和3年に佐伯が死去したのちには、独自の表現を追求するようになる。昭和5年、革命祭の絵を最後に病床につき、翌6年、フランスにおいて31歳で死去した。


外光派の風景画家・山本森之助と早世した人気画家・渡辺与平

2017-09-19 | 画人伝・長崎


文献:長崎が生んだ風景画家 山本森之助展、渡辺与平展、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝

明治10年、山本森之助(1877-1928)は長崎市新橋町の料亭一力の長男として生まれた。明治27年に画家を志して大阪の山内愚仙に入門、翌年には上京して浅井忠の明治美術学校研究所に入り、さらに、東京美術学校で黒田清輝のクラスに学び、外光派の画家として画壇デビューした。自然を忠実に写し取るといういわゆるアカデミックな手法で、白馬会、官展、光風会を中心に発表、初期文展では3年連続して受賞し、当時の風景画の分野で第一人者と目されるほどだった。

山本が日本アカデミズムの風景画家として大成していったころ、長崎県出身の気鋭の新人が文展デビューした。長崎市生まれの渡辺与平(1889-1912)は、山本が三等賞を受けた第1回文展で初入選、山本が新審査員となった第4回文展で三等賞を受賞した。さらに第5回展にも入選し、将来を嘱望されたが、病を得て24歳で死去した。与平は文展出品作のほかにも、新聞や雑誌に掲載されたコマ絵で注目され、竹久夢二の「夢二式」に対して、渡辺与平の「ヨヘイ式」という言葉が生まれるほど人気を博した。

山本森之助(1877-1928)
明治10年長崎市生まれ。長崎市新橋町の料亭一力の長男。13歳の頃に長崎の洋画家・田口松之助に洋画の手ほどきを受け、明治27年、17歳の時に大阪に出て山内愚僊の門に入った。翌年上京、明治美術学校研究所に入り、浅井忠、山本芳翠の指導を受けた。翌年同校を卒業し、その後、天真道場で黒田清輝の指導を受け、その翌年新設された東京美術学校西洋画選科に入学、黒田教室に学んだ。同校在学中から白馬会展に出品し、のちに文展に出品、第4回展からは審査員をつとめた。大正元年、35歳の時に岡野栄、中澤弘光、小林鐘吉、跡見泰、三宅克己、杉浦非水らと光風会を創設した。昭和3年、51歳で死去した。



渡辺与平(1889-1912)
明治22年長崎市生まれ。旧姓は宮崎。宮崎徳三の二男。はじめ日本画を学ぶため京都市立美術工芸学校に入学、在学中に鹿子木孟郎の私塾にも通った。卒業後の明治39年に中村不折にあてた鹿子木孟郎からの紹介状を持ち上京、太平洋画会研究所に入り、中村不折から本格的な洋画の指導を受けた。この年はじめて『ホトトギス』にコマ絵が掲載された。明治41年の第2回文展で初入選。翌年の42年に不折の仲人で満谷国四郎門下の女性画家・渡辺ふみ子(のちの亀高文子)と結婚し、以後渡辺姓を名乗った。明治43年第4回文展で三等賞を受け、翌年の第5回展にも入選した。また、コマ絵の仕事では、竹久夢二の「夢二式」に対して「ヨヘイ式」と呼ばれた画風で人気を博し、将来を嘱望されたが、大正元年、病のため24歳で死去した。


存命中に遺作展を開催された長崎洋画の先駆者・彭城貞徳

2017-09-14 | 画人伝・長崎


文献:生誕150年記念 彭城貞徳展、長崎の肖像 長崎派の美術家列伝

長崎出身の明治初期の洋画家としては、まず彭城貞徳(1858-1939)の名があげられる。彭城は、18歳の時に画家を志して上京、高橋由一が主宰する天絵楼に学び、さらに、初の官立美術学校である工部美術学校の第一期生として入学、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージから本格的に油絵の基礎を学んだ。同期には浅井忠、小山正太郎、山本芳翠ら、のちに初期日本洋画史を彩る錚々たる画家たちがいた。しかし、彭城の名が語られるのはこの時代までである。明治26年にはシカゴ万博出品総代として渡米、さらにヨーロッパを歴遊し、フィラデルフィア美術学校にも学んだが、滞欧生活7年の帰国後は、中央画壇と離れ、展覧会などに出品することもほとんどなく、晩年には筆を折ったまま生涯を終えた。

美術業界から遠ざかりすぎたためか、存命中でありながら遺作展が開催されたことがある。昭和7年、銀座の画廊で開催された「榊貞徳画伯遺作展」に出品されていたのは、彭城貞徳の作品だったのだが、作品を売りにきた外国人が言う「サカキテイトク」という画家の名前を画廊主が知らず、榊貞徳と誤って表記したものだった。さらに、その外国人が「画家はとっくに死んでいる」と言ったため、遺作展となった。2年後、彭城本人が画廊に現れ、その作品が自分のものだと告げて発覚したという。

手記などで伝わる彭城の活動範囲は広く、多彩な才能を持ち、絵画だけでなく音楽や踊りなどにも通じていたことが分かる。にこやかに笑う人物画や、猫が三味線をひくユーモラスな作品を手掛けるなど、サービス精神も旺盛だが、その反面、集合写真に参加しないなどの協調性のなさも垣間見える。長崎では近隣の者たちに絵を教え、求めに応じて絵を描いていたが、活動は絵画だけにとどまらず、政治家を志し、商売人の道へと進むことになった。画家を志して上京し、工部美術学校一期生というエリートコースを歩みはじめたはずが、やがて中央画壇から忘れ去られ、晩年には存命中に遺作展を開催されることとなってしまったのである。

彭城貞徳(1858-1939)
安政5年長崎市生まれ。家業は代々続く唐通事。幼いころから彭城家第10代唐通事になるべく英才教育を受けたが、明治維新とともに唐通事の役目が終わった。13歳の頃に長崎広運館でフランス語を学び、同時期に通っていた西園寺公望と交友を持った。15歳の時、京都のフランス語学校で、教師が所蔵していた油彩で描かれたナポレオン三世の肖像画をみて、その迫真性に驚き、洋画家を志すようになった。明治8年、18歳の時に上京、高橋由一が主宰する天絵楼に入門し、油絵を学び始めた。さらに明治9年に日本初の官立美術学校である工部美術学校が創設されると第一期生として入学、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージから本格的に油絵の基礎を学んだ。同期には、浅井忠、小山正太郎、山本芳翠らがいた。21歳の時、フォンタネージが帰国したのをきっかけに同校を退学、石版会社・玄々堂に就職した。明治17年長崎に帰り、市会議員や絵画教師など様々な職に就いた。明治26年にはシカゴ万国博覧会出品総代として渡米、さらにヨーロッパを歴遊し、明治33年に帰国、神戸で外国人向けの作品を描いた。明治36年に長崎に帰り洋画塾などを開いたが、大正4年病のため筆を折り、上京して海産物問屋を営んだ。昭和14年、82歳で死去した。


長崎版画と版下絵師

2017-09-11 | 画人伝・長崎


文献:長崎版画と異国の面影、長崎の肖像、神戸市立南蛮美術館図録Ⅲ

長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所などを題材にしていたのに対し、当時外国への唯一の窓口だった長崎では、その特殊な土地柄を生かし、オランダ人、中国人、オランダ船、唐船など、異国情緒あふれる風物を主題とした。広義には、長崎や九州の地図も長崎版画に含まれる。

現存する初期の長崎版画は、輪郭の部分を版木で黒摺りしてから筆で彩色したもので、その後、合羽摺といわれる型紙を用いた色彩法が用いられるようになった。長崎市内には、針屋、竹寿軒、豊嶋屋(のちに富嶋屋)、文錦堂、大和屋(文彩堂)、梅香堂など複数の版元があり、制作から販売までを一貫して手掛けていた。版画作品の多くに署名はなく、作者は定かではないものが多いが、洋風画の先駆者である荒木如元、出島を自由に出入りしていた町絵師・川原慶賀や、唐絵目利らが関わっていたと推測される。

天保の初めころ、江戸の浮世絵師だった磯野文斎(不明-1857)が版元・大和屋に婿入りすると、長崎版画の世界は一変した。文斎は、当時の合羽摺を主とした長崎版画に、江戸錦絵風の多色摺の技術と洗練された画風をもたらし、長崎でも錦絵風の技術的にすぐれた版画が刊行されるようになった。大和屋は繁栄をみせるが、大和屋一家と文斎が連れてきた摺師の石上松五郎が幕末に相次いで死去し、大和屋は廃業に追い込まれた。

江戸風の多色摺が流行するなか、文錦堂はそれ以降も主に合羽摺を用いて、最も多くの長崎版画を刊行した。文錦堂初代の松尾齢右衛門(不明-1809)は、ロシアのレザノフ来航の事件を題材に「ロシア船」を制作し、これは初めての報道性の高い版画と称されている。二代目の松尾俊平(1789-1859)が20歳前で文錦堂を継ぎ、父と同じ谷鵬、紫溟、紫雲、虎渓と号して自ら版下絵を手掛け、文錦堂の全盛期をつくった。三代目松尾林平(1821-1871)も早くから俊平を手伝ったが、時代の波に逆らえず、幕末に廃業したとみられる。

幕末になって、文錦堂、大和屋が相次いで廃業に追い込まれるなか、唯一盛んに活動したのが梅香堂である。梅香堂の版元と版下絵師を兼任していた中村可敬(不明-不明)は、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬は、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)と同一人物ではないかという説もあるが、特定はされていない。
長崎三画人後の三筆、守山湘帆・中村陸舟・伊東深江

磯野文斎(不明-1857)〔版元・大和屋(文彩堂)〕
江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人。江戸・長崎出身の両説がある。名は信春、通称は由平。文彩、文斎、文彩堂と号した。享和元年頃に創業した版元・大和屋の娘貞の婿養子となり、文政10年頃から安政4年まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめた。当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした。また、江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である「長崎八景」を刊行した。過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵を意識したものだった。安政4年死去した。

松尾齢右衛門(不明-1809)〔版元・文錦堂〕
文錦堂初代版元。先祖は結城氏で、のちに松尾氏となった。寛政12年頃に文錦堂を創業し、北虎、谷鵬と号して自ら版下絵を描いた。唐蘭露船図や文化元年レザノフ使節渡来の際物絵、珍獣絵、長崎絵地図などユニークな合羽摺約130種を刊行した。文化6年、50歳くらいで死去した。

中村可敬(不明-不明)〔版元・梅香堂〕
梅香堂の版元と版下絵師を兼務した。本名は利雄。陸舟とも号したという。梅香堂は、幕末に文錦堂、大和屋が相次いで廃業するなか、唯一盛んに活動し、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬の詳細は明らかではないが、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)は、諱が利雄であり、梅香の別号があることから、同一人物とする説もあるが、特定はされていない。


長崎三画人後の三筆、守山湘帆・中村陸舟・伊東深江

2017-09-06 | 画人伝・長崎


文献:九州南画の世界展、長崎絵画全史

長崎三画人らによって大成された南画は、その後も門人たちによって引き継がれ、鉄翁祖門に学んだ守山湘帆と中村陸舟、三浦梧門に学んだ伊東深江の三人は、長崎後の三秀とも崎陽後の三筆とも称された。ほかにも、鉄翁の門からは松尾琴江、立花鉄嵒、木下逸雲の門からは、池辺蓮谿、小曽根乾堂、池島邨泉、成瀬石痴らが出て、長崎南画の画系は引き継がれた。大正、昭和に入ってからも鉄翁直系の正統を継いだ帯屋青霞が長崎南画の第一人者として活躍、伝統継承と後進の育成につとめた。

守山湘帆(1818-1901)「帆」は正式には「馬+風」
文政元年長崎生まれ。通称は愛之助、諱は吉成、字は士順。伊東甚八義重の三男、のちに桜町の守山家の養子となった。出島組頭をつとめた。幼いころから鉄翁祖門について南画を学んだ。明清画家の作品も独習し、文久年間に徐雨亭が来舶すると、画法、書法を学んだ。明治34年、83歳で死去した。

中村陸舟(1820-1873)
文政3年生まれ。本名は利雄、通称は六之助、字は浄器。別号に梅香がある。家は代々遠見番で、家業を継ぎ長崎奉行組下遠見番役人をつとめた。高島晴城について西洋の砲術を学び、ほかにも、造船学、航海学、機関学、算術などを修めた。その一方で、鉄翁祖門について南画を学んだ。明治6年、54歳で死去した。

伊東深江(1835-不明)
天保6年生まれ。通称は福太郎、諱は孝正、字は中甫。別号に春農がある。伊東家は代々町乙名の家系であり、深江も恵比寿町乙名の役をつとめ、幕末には居留地係となり、明治元年には長崎取締助役となった。養豚業に従事するも失敗、以後、長崎を去り神戸に移住した。三浦梧門に南画を学び、山水図と芦雁図を得意とした。

松尾琴江(1836-1865)
天保7年生まれ。松尾其賞の兄。通称は禎造、諱は正、字は端士。鉄翁祖門に南画の画法を学んだ。病気がちで、生涯独身で通した。慶応元年、30歳で死去した。

松尾其賞(1839-1907)
天保10年生まれ。通称は恵三太。三歳年上の兄である琴江に書画を学んだ。守山湘帆の影響を受けた松画を得意とした。また、唐船を描くことのも巧みだった。晩年は引地町に居を構え、風雅な生活を楽しんだ。明治40年、69歳で死去した。

立花鉄嵒(不明-1892)
鉄翁祖門に南画を学び、拙嵒に書を学んだため、鉄嵒と号した。嘉永5年から明治25年まで、41年間、観善寺の第13代住持をつとめた。明治25年死去した。

池島邨泉(1844-1907)
弘化元年生まれ。通称は嘉吉、のちに正造に改めた。初号は尊泉。15、6歳のころに木下逸雲に南画を学んだ。芦雁の絵に打ち込み、自宅でも飼育していた。慶応2年に父の池島正兵衛が没したため、その跡を継いで池正という名の骨董商としても成功した。東京、京阪方面にも進出した。明治40年、63歳で死去した。

大倉雨邨(1845-1899)
弘化2年生まれ。名は行、字は顧言、越後の南画家。生家は代々医者。松尾紫山に画を学び、長崎では鉄翁祖門のもとで学んだ。明治5年清にわたり中国絵画の習得にいそしんだ。明治32年、55歳で死去した。

江上瓊山(1861-1924)
文久元年生まれ。幼名は辰三郎、名は景逸、字は希古雨。守山湘帆に師事した。のちに京都に移り住んだ。大正13年、63歳で死去した。

阿南竹坨(1864-1928)
元治元年豊後竹田生まれ。旧姓波多野。本名は衡。別号として酔竹山人、臨泉、二雄、龍洞がある。長崎で守山湘帆に南画を学んだ。長崎市八幡町に住み、のちに兵庫県に、さらに名古屋、東京に移り住んだ。昭和3年、65歳で死去した。

立花素嵒(1869-1951)
明治2年生まれ。立花鉄嵒の子。昭和26年、83歳で死去した。

帯屋青霞(1889-1977)
明治22年長崎市銭座町生まれ。本名は善三郎。初号は梅窓。旧海星商業卒業後、三菱長崎造船所に入所した。大正5年24歳の時に立花素嵒に南画を学び、鉄翁直系の正統を継いだ。はじめは梅窓と号して梅図を得意とした。昭和8年頃から青霞に改号した。長崎県・市展審査員を歴任し、長崎南画の伝統継承と後進の育成につとめた。昭和52年、87歳で死去した。


幕末の長崎三画人、鉄翁祖門・木下逸雲・三浦梧門

2017-09-01 | 画人伝・長崎


文献:肥前の近世絵画、九州南画の世界展、長崎絵画全史

来舶四大家のひとり江稼圃は、文化元年から6年頃まで来日し、弟の江芸閣とともに長崎の南画興隆の基礎をつくった。さらに続いて来日した徐雨亭、王克三らによって長崎の南画は一段と本格的なものになっていった。幕末の長崎三画人と称された、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も江稼圃に学んでいる。江稼圃の来日前は、鉄翁祖門と木下逸雲は石崎融思に、三浦梧門は渡辺鶴洲にそれぞれ漢画の画法を学んだが、江稼圃の渡来後は彼について南画を学び、これを大成した。南画は全国に広まり、池大雅、与謝蕪村、田能村竹田、谷文晁らが活躍、江戸後期の日本画壇に主要な地位を占めた。

鉄翁祖門(1791-1872)
寛政3年長崎市銀屋町生まれ。俗姓は日高。鉄翁の号は30歳代半ばから用いた。文政3年から春徳寺の第14代住持をつとめ、嘉永3年に退隠した。はじめは石崎融思に師事したが飽きたらず、28歳の頃に来日した江稼圃について南画の画法を習得、特に退隠後は画禅三昧にひたり、蘭図を得意とし、蘭の鉄翁と称された。田能村竹田らとも交友し、多くの門人を育てた。明治4年、81歳で死去した。

木下逸雲(1799-1866)
寛政11年長崎市八幡町生まれ。通称は志賀之助、名は相宰、諱は隆賢。別号に養竹山人、如螺山人、物々子などがある。18歳で八幡町乙名をつとめ、文政12年退役。本業は内科外科を兼ねる医者だった。亀山焼の発展に寄与し、日中文化交流の長崎丸山花月楼清譚会の世話人もつとめた。画法は、鉄翁と同じく最初は石崎融思に学び、のちに最も影響を受けた江稼圃について南画を学び、鉄翁とともに幕末長崎南画界の大御所的存在となった。
天保3年に建てられた諏訪神社の能舞台には、大和絵風に松の絵を描くなど、広く画法を学び、西洋画にも関心を寄せた。篆刻も巧みで、鉄翁にも印を贈っている。慶応2年、江戸に遊び、横浜から長崎への帰路、海上で遭難し、68歳で死去した。

三浦梧門(1808-1860)
文化5年生まれ。本興善町乙名三浦惣之丞の長男。通称は惣助、諱は惟純。別号に秋声、荷梁、香雨などがある。邸内に植えていた梧桐のなめらかな美しさを愛し、梧門と号したという。長崎本興善町乙名や長崎会所目付役などをつとめた。渡辺鶴洲や石崎融思に画法を学び、さらに中国の名画を独学で研究し、南画の大家と称された。土佐派の画や肖像画も得意とした。万延元年、53歳で死去した。