松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

来舶四大家、伊孚九・張秋谷・費漢源・江稼圃

2017-08-30 | 画人伝・長崎


文献:九州南画の世界展

18世紀の後半から19世紀の中頃になると、渡来の途絶えた黄檗僧に代わって清人が盛んに渡来するようになった。彼ら来舶清人によって南画の画風が伝えられると、長崎の画家のみならず、各地の文人たちに注目され、空前の中国ブームが出現した。江戸時代に長崎にやってきた清の画家のうち、伊孚九、張秋谷、費漢源、江稼圃は、来舶四大家と称され、なかでも何度も来日した伊孚九は、日本の文人たちと交流し、その詩書や南画の教養は、池大雅や田能村竹田らの南画家に大きな影響を与えた。

伊孚九(1698?-不明)
中国呉興の人。名は海、字は孚九、莘野、莘野耕夫と号した。別号に匯川、也堂、雲水伊人、養竹軒などがある。本業は船主。享保5年から延享末頃にかけて来航した。延享4年8月付の『伊孚九書上船員名簿』には「船主伊孚九年五十歳」とあり、生年は康熙37年だと推測され、最初の来舶時は23歳だったと思われる。

張秋谷(不明-不明)
中国仁和の人。名は崑、字は秋谷。幼いころから画を好み、天明年間に来日。帰国後は名を莘、字を秋穀と改め、倪雲林の山水、呉鎮の蘭竹を手本とした。来舶四大家の中では、中国で最も名の通った画人であり、椿椿山や渡辺崋山らに大きな影響を与えた。天明8年に長崎遊学した春木南湖は、唐大通事清河栄左衛門の紹介で弟子となった。南湖の手記『西遊日簿』によると、秋谷は背が高く痩せ型で、静かな人物だったという。

費漢源(不明-不明)
中国茗渓の人。名は瀾、字は漢源、浩然と号した。宝暦6年頃までの間に数回来舶したとみられる。南京船主としての最初の来舶は、元文2年とされるが、嘉永4年刊行の『続長崎画人伝』や寛政2年刊行の『玉洲画趣』などでは、享保19年に初めて来舶したとされている。初来日は、信牌目録に名をとどめないような立場で来航したのかもしれない。長崎では建部凌岱、楊利藤太などに画法を授けた。

江稼圃(不明-不明)
中国臨安の人。名は泰交、字は大来、連山。張栄蒼らに書や画法を学んだ。文化元年から6年まで財副として来舶し、以後数回来舶が記録されている。長崎三画人と称される鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門らが画法を学んでおり、長崎南画の発展に貢献した。長崎遊学した菅井梅関に南画を教えた。梅関の号は江稼圃より梅の図を贈られたことに由来する。


シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀

2017-08-28 | 画人伝・長崎


文献:肥前の近世絵画、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、シーボルトと町絵師慶賀

文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

川原慶賀(1786-不明)
天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

川原慮谷(不明-1872)
川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

田口慮慶(不明-不明)
絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。


洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家

2017-08-23 | 画人伝・長崎


文献:石崎融思筆 唐館図蘭館図絵巻肥前の近世絵画、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、唐絵目利と同門、長崎画史彙伝

長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。

原南嶺斎(1771-1836)
明和8年生まれ。諱は治堅。別号に南嶺、南嶺堂などがある。河村若芝系の画人で河村姓を名乗ったこともある。唐絵の師は山本若麟あたりだと思われる。自ら蛮画師と称していたほど油彩画も得意とした。天保7年、66歳で死去した。

西苦楽(不明-不明)
経歴は不詳。原南嶺斎らと同時代の人と思われる。作品「紅毛覗操眼鏡図」が残っており、西肥崎陽東古河町住西苦楽という落款が入っている。

城義隣(1784-不明)
天明4年生まれ。経歴は不詳。君路と刻んだ印が残っており字と思われる。絵事を好み、唐絵、油絵、泥絵などを手掛けた。他地方で泥絵が発見されたため、泥絵作家として知られているが、泥絵の作品は必ずしも多くはない。大徳寺に天井画が残っている。

梅香堂可敬(不明-不明)
絵事をよくし、唐人、紅毛人、丸山遊女、異国人、異国女などを描いている。肉筆も版画も残っており、長崎版画の中にも可敬の描いた画がある。『長崎系洋画』には「本名は中村利雄、陸舟とも号したと言ふ」とあるが真意は定かではない。

玉木鶴亭(1807-1879)
文化4年生まれ。通称は官平、字は又新。別号に一源、九皐、錦江などがある。明治に入って、鶴亭を通称とした。幼いころから画を好み、北宗画にも、南宗画にも通じ、洋画も得意とした。代々西築町に住み、唐船掛宿筆者の役をつとめた。明治12年、73歳で死去した。


長崎洋風画の先駆者・若杉五十八と荒木如元

2017-08-16 | 画人伝・長崎


文献:肥前の近世絵画、長崎絵画全史、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、百花繚乱の世界-江戸・化政期の絵画-

キリスト教の禁止令とともに、西洋画もその弾圧の対象とされ、さまざまな制約が加えられるようになった。唯一の開港地だった長崎では、西洋や中国の文化が流入する得意な環境のもと、オランダ人やオランダ船などの西洋の風俗が描かれていたが、それは従来の日本画の手法によるものだった。これに対し、蘭学の流行とともに西洋の絵画を理論的に研究し制作しようとする気運が高まり、江戸では司馬江漢や亜欧堂田善らによって洋風画が描かれるようになった。

長崎で洋風画が本格的になるのは、江戸より遅れて、寛政年間の若杉五十八(1759-1805)が初めであり、ついで文化年間の荒木如元(1765-1824)がそれを完成させた。五十八と如元の作品は、その多くがカンヴァス地に油彩で描いた本格的なもので、ときには輸入の油絵具を使うこともあった。彼らは、同時代の秋田や江戸の洋風画家たちがなしえなかった本場の洋画技法を用いていたが、西洋原画の模写と構成に終始し、題材や手法も洋画に酷似していることから、独自性に欠けていたともいえる。

若杉五十八(1759-1805)
宝暦9年長崎生まれ。父は左斎といい鍼療を営む盲人だった。母は久留米藩用達の井上政右衛門の妹。師承関係は判明していないが、直接オランダ人に画法を学んだともいわれ、麻布油彩の本格的な西洋風俗画を描いた。唐絵目付の画家たちと違い、在野の画家だったため、画業を明らかにする資料は、遺作以外ほとんど残っていない。明和8年、その前年に従兄の若杉敬十郎が没したため、その後を受けて長崎会所請払役並となり、安永9年には、敬十郎の実子登兵衛が成人したのでこれに職を譲り、さらに会所請払役の久米豊三郎の養子となって再び会所請払役見習となり、のち寛政6年養父豊三郎の隠退とともに請払役に昇進した。文化2年、47歳で死去した。



荒木如元(1765-1824)
明和2年生まれ。通称は善十郎、のちに善四郎、字は直忠。もと一瀬氏。唐絵目利の荒木元融に絵を学び、養子となって元融の跡を継いだが、短期間で辞職し再び一瀬氏に戻った。洋風画は、その表現から長崎系洋風画の先駆者・若杉五十八に洋画法を学んだと思われる。長崎系の中でも最も西洋画に近い作品を残した。文政7年、60歳で死去した。



南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人

2017-08-08 | 画人伝・長崎


文献:沈南蘋と南蘋系絵画展、江戸の異国趣味-南蘋風大流行-、宋紫石とその時代

南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。

熊代熊斐(1712-1772)
正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。

沈南蘋(1682不明)
清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。

高乾(不明-不明)
清の浙江省の人。字は其昌、萍菴と号した。沈南蘋の門弟。師とともに長崎に渡来した。一説には南蘋が帰国した年の翌年渡来。

鄭培(不明-不明)
清の浙江省呉興県苕溪の人。字は山如、号は古亭。沈南蘋の門弟。享保16年に沈南蘋とともに来日したと伝えられてきたが、宋紫岩と一緒に来日したとする説もある。

高鈞(不明-不明)
霽亭と号した。沈南蘋の門弟。師とともに長崎に渡来した。

宋紫石(1715-1786)
正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。

鶴亭(1722-1785)
享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。

黒川亀玉(初代)(1732-1756)
元禄15年生まれ。江戸の人。名は安定、字は子保。号は松蘿館・商山処士。はじめ狩野派を学び、のちに沈南蘋の筆意を慕った。宝暦6年、55歳で死去した。

真村蘆江(1755-1795)
宝暦5年生まれ。長崎の人。名は斐瞻、通称は長之助。別号に耕雲山人がある。熊斐に画を学んだ。寛政7年、41歳で死去した。

大友月湖(不明-不明)
長崎の人。名は清、通称は内記。別号に沈静がある。熊斐に画を学び、山水を得意とした。

熊斐文(1747-1813)
延享4年生まれ。熊斐の長男。通称は銭屋利左衛門、名は章。繍山と号した。文化10年、67歳で死去した。

熊斐明(1752-1815)
宝暦2年生まれ。熊斐の二男。名は斐明、通称は神代陽八。繍滸、竹菴と号した。父に画を学んだ。文化12年、64歳で死去した。

諸葛監(1717-1790)
享保2年生まれ。江戸両国の人。通称は清水又四郎、字は子文、静齋または古画堂と号した。名は来舶清人の諸葛晋にちなんだもの。長崎に行くことなく、独学で南蘋風を学んだと思われる。寛政2年、74歳で死去した。

松林山人(不明-1792)
長崎の人。姓ははじめ松林、のちに林、名は儼、字は雅膽。熊斐に師事した。着色に秀で花鳥を得意とした。安永年間に江戸に出て浅草に住んでいた。寛政4年、江戸で死去した。

宋紫山(1733-1805)
享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。

藤田錦江(不明-1773)
江戸の人。出羽国庄内藩酒井家藩士。名は景龍、包擧ともいった。字は瑞雲、錦江は号。通称は宇内。画を宋紫石に学んだと伝わっている。安永3年死去した。

森蘭斎(1740-1801)
元文5年生まれ。越後の人。名は文祥、字は九江・子禎。別号に鳴鶴がある。本姓は森田氏。長崎に出て熊斐に学んだ。熊斐没後の安永2年に大坂に移り、『蘭斎画譜』8冊を刊行、江戸に移り没後の享和2年に『蘭斎画譜続編』が刊行された。熊斐の画風を遵守し、南蘋派が受け入れられるところに移動していったと思われる。享和元年、61歳で死去した。

董九如(1745-1802)
延享元年生まれ。名は弘梁、字は仲漁。別号に廣川居士、黄蘆園などがある。宋紫石に画を学んだ。享和2年、59歳で死去した。

勝野范古(不明-1758)
長崎の人。柳溪と号し、二蔵と称した。師系は不明だが、南蘋の画法を学んだと思われる。宝暦8年死去した。

宋紫崗(1781-1850)
天明元年生まれ。宋紫山の子。名は琳、字は玉林。別号に雪溪、聴松堂がある。嘉永3年、70歳で死去した。

洞楊谷(1760-1801)
宝暦10年生まれ。長崎の人。片山楊谷。名は貞雄、通称は宗馬。沈南蘋の画法を学んだ。寛政5年因州の茶道家・片山宗杷の家を継いだ。享和元年、42歳で死去した。
紫の糸で長い髪を束ね、大道を闊歩した鬼才・片山楊谷

福田錦江(1794-1874)
寛政6年生まれ。長崎の人。名は範、字は君常、通称は範二郎。別号に竹園がある。はじめ画を熊斐に学び、のちに南蘋の画法に倣った。明治7年、81歳で死去した。

鏑木梅溪(1750-1803)
寛延2年生まれ。長崎の人。名は世胤・世融、字は君冑・子和、通称は弥十郎。はじめ田中氏、また平氏を名乗った。江戸に出て鏑木氏の養子となった。荒木元融の門人で、沈南蘋に私淑したと思われる。享和3年、59歳で死去した。


唐絵目利広渡家の画系

2017-08-02 | 画人伝・長崎


文献:唐絵目利と同門、長崎絵画全史

唐絵目利四家のひとつである広渡家は、武雄鍋島藩で御用絵師をつとめていた初代広渡心海に学んだ広渡一湖(1644-1702)に始まる。一湖は熊本の生まれだが、24歳で長崎に移り住み、心海が一時長崎に滞在していた際に画法を学んだ。一湖は末次姓だったが、心海とは親族の間柄だったため、心海の許しを得て、氏を広渡に改めることとなった。さらに一湖は、長崎に渡来した陳清斎にも学び、元禄12年唐絵目利兼御用絵師に命じられた。その後も広渡家は代々唐絵目利職を世襲し、長崎画壇の中心として活躍した。

広渡一湖(1644-1702)
正保元年生まれ。通称は小左衛門、熊本の人。細川越中守のお抱え絵師・末次弥次兵衛の弟。寛文7年、24歳の時に長崎に移り住んだ。その後、広渡心海が長崎に来遊して滞留していた際に、師事してその画法を受けた。一湖と心海は同族だったため、心海の許可を得て、広渡と改姓した。さらに延宝年間には、長崎に渡来していた唐人・陳清斎に画法を学んだ。長崎奉行所の御用などを勤めていたが、その功労によって、元禄12年、長崎奉行大島伊勢守在勤の時に、唐絵目利兼御用絵師に命じられた。元禄15年、59歳で死去した。

広渡湖笛(不明-1746)
広渡一湖の子。湖春の兄。玉壺斎と号した。本覚寺の山伏になり、成実坊と称した。花鳥人物山水すべて得意とし、自ら一家を成した。延享3年死去した。

広渡湖春(不明-1746)
広渡一湖の子。通称は伴助。長崎奉行永井讃岐守在勤の時に、父一湖の後を継いで唐絵目利兼御用絵師となった。延享3年死去した。

広渡湖亭(1717-1762)
享保2年生まれ。広渡湖春の子。通称は小平太。延享3年、長崎奉行田附阿波守在勤の時に、父湖春の後を継いで唐絵目利兼御用絵師となった。安永2年、46歳で死去した。

広渡重次平(不明-不明)
広渡湖亭の子。宝暦7年、長崎奉行坪田駿河守在勤の時に、唐絵目利見習役を命じられた。

広渡湖秀(1737-1784)
元文2年生まれ。通称は八平太、字は元厚。長崎画人伝によると、石崎元章に師事したとあり、古画備考25名画の部には、熊斐の弟子とある。宝暦12年唐絵目利見習となり、翌年唐絵目利兼御用絵師となった。天明4年、48歳で死去した。

広渡猪三郎(不明-不明)
広渡湖秀の子。石崎元章に師事した。

広渡湖月(不明-1807)
広渡湖秀の子。通称は八左衛門、字は清輝。熊斐の高弟である真村蘆江に師事して南蘋風の画法を修めた。文化4年死去した。

広渡虎蔵(不明-不明)
石崎融思に学び、唐絵目利になった。

広渡作三郎(不明-不明)
石崎融思に学び、唐絵目利になった。

広渡為八郎(1795-1860)
寛政7年生まれ。石崎融思に学び、唐絵目利となった。文久元年、66歳で死去した。

広渡湖峰(不明-不明)
広渡系の画人に師事して広渡の名称を譲り受けたと考えられる。

広渡大輔(1806-1844)
文化3年生まれ。通称は大輔、諱は元貫。出島組頭を勤めていた川村伊兵衛の子で、唐絵目利の広渡為八郎の養子になった。弘化元年、39歳で死去した。

広渡丈輔(1826-1846)
文政9年生まれ。大輔の跡を継いで唐絵目利になった。弘化3年、21歳で死去した。

広渡桂洲(1833-1866)
天保4年生まれ。もと小林氏。はじめ敬蔵といい、さらに盛之助と改めた。諱は宗信、字は子恭。居を吟秋軒と称し、吟秋軒主人とも号した。はじめ叔父の荒木千洲に画法を学び、養子となり、さらに広渡姓を名乗った。広渡氏由緒書では広渡大輔の弟となっいる。嘉永元年、大輔の跡を継いで16歳で唐絵目利となった。慶応2年、34歳で死去した。

黒川正山(不明-不明)
『長崎人書画源流』に広渡一湖の弟子とある。

西村嬾竜(不明-不明)
『長崎人書画源流』に広渡一湖の弟子とある。