松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま北海道を探索中。

自己の信じる写実に徹した高島野十郎

2017-04-27 | 画人伝・福岡


文献:没後30年 高島野十郎展、福岡県の近代絵画展近代洋画と福岡県、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして

久留米生まれの高島野十郎(1890-1975)は、昭和50年に85歳で没するまで、どの団体にも属さず、福岡と東京で開いた数少ない個展を唯一の発表の場とした。「画壇と全く無縁になる事が小生の研究と精進」との信念のもと、美術の流行や画壇の趨勢には見向きもせず、自然のみを師とし、自己の信じる写実に徹した。生涯でその名が広く知られることはなかったが、近年開催された展覧会によって、その独自の画境が知られることとなり、自己の信念に誠実に生きた生涯が人々を魅了し、多くの愛好家を生み出した。

大正期から長年に渡り描き続けられた「蝋燭図」は、個展で発表することなく、知人や友人に分け与えられた。野十郎自身は生涯を通じて「絵は売り物ではない」という信念のもと活動していたが、東京帝国大学時代の学友たちがパトロンとなり絵を購入したり、知人に斡旋したりして活動をささえた。友人たちは、野十郎の絵が世に知れ渡り、彼の生活が維持できるようにと奔走したが、「高島野十郎」の名を生前に高めることはできなかった。

高島野十郎(1890-1975)
明治23年福岡県三井郡合川村(現久留米市)生まれ。本名は弥寿、字は光雄。裕福な醸造家の四男。父は南画をたしなみ、叔父の大倉正愛は東京美術学校西洋画科を出た洋画家。さらに長兄の詩人・高島宇朗は青木繁との交流があり、幼少時から絵に対する関心が培われる環境にあった。美術学校への進学を志したが、父の許可が得られず、明治45年東京帝国大学農学部水産学科に入学した。大正5年同学科を首席で卒業し、研究者としての前途を嘱望されたが、画家への道を選んだ。絵は師や画塾に学ぶことなく、すべて独学で、初期から一貫して細密な写実を手掛けた。坂本繁二郎ら久留米出身の画家たちとは交流があった。昭和3年、間部時雄や五味清吉らと「黒牛会」を結成、特定の芸術的主張を掲げたのではなく、互いの研鑽を計る少人数の集いにすぎなかったが、野十郎にとっては生涯唯一のグループ活動となった。

昭和4年、39歳の時に美術研究のために渡欧し、数年間欧州に遊んだ。アメリカを経由してパリに滞在、ドイツやオランダ、イタリアへも足を伸ばした。現地でも誰かに師事することなく、欧州に滞在していた日本人画家と交流することもなく、ひとり美術館や教会を見て周り、現地での制作に勤しんだ。昭和8年に帰国し、その後は故郷の福岡から東京の青山、そして千葉県柏市へと居を変えながら、小さなアトリエと旅先を行き来する生活を続けた。団体展などには出品せず、個展だけを発表の場とし、あまり他の画家たちと交わることもなかった。昭和50年、85歳で死去した。



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上田宇三郎と福岡の異色日本画家

2017-04-25 | 画人伝・福岡


文献:福岡県の近代絵画日本画 その伝統と近代の息吹き、久野大正水墨画展

戦後の福岡での最初の美術運動といわれる「朱貌社」は、洋画家の宇治山哲平、赤星孝、山田栄二と、日本画家の上田宇三郎(1912-1964)、久野大正(1913-1987)によって、昭和22年創設された。同社は新しい時代が求める新しい表現を、ジャンルを越えて探求しようとしたもので、この運動の中で上田も久野も独自の水墨画表現を展開することとなった。また、熊本に生まれ宗像郡で活躍した甲斐巳八郎(1903-1979)は、福田平八郎や菊池契月に学んだのち、独自の水墨画の世界を確立、主に個展を中心に活動した。八女郡生まれの井上三綱(1899-1981)は、坂本繁二郎に学び、洋画の技法を日本画の世界に持ち込み、和洋折衷の画風を確立、海外で高い評価を受けた。

上田宇三郎(1912-1964)
大正元年福岡市芥屋町生まれ。大正7年一家をあげて福岡市下名島町に移転した。のちにグループ「朱貌社」を結成することになる赤星孝、久野大正とは、大名尋常小学校、福岡中学校での同窓だったが、昭和4年に同中学を病気退学した。同年、京都在住の日本画家・平川晃生に師事し、気候のよい春と秋は平川宅へ、夏と冬は福岡で療養するという生活をしばらく続けた。戦後間もない昭和20年、西部美術協会の結成に参加。おなじく参加していた宇治山哲平が宇三郎の作品に目を留めたことがきっかけで、昭和22年宇治山哲平、赤星孝、久野大正、山田栄二と「朱貌社」を結成した。以後28年の解散まで出品し、同年代の洋画家たちとの交流の中で、大胆な輪郭線とやわらかい色彩で表現する抽象的画風を確立していった。昭和34年には日本表現派の会員となり、以後毎年出品。墨の濃淡と限られた色によって、樹木や水の流れを描き出し、意欲的な制作活動を展開していたが、病のため、昭和39年、52歳で死去した。

久野大正(1913-1987)
大正2年福岡市天神町生まれ。昭和5年に福岡商業学校を卒業後、南画家・小柴春泉に数年間学んだ。のちに三岸節子を知り、新制作協会に出品するようになった。昭和15年ペインターとして上海に渡り、終戦とともに帰国して福岡に住んだ。昭和22年上田宇三郎らと朱貌社を結成。また「如月会」水墨画グループを主宰し、後進の育成とともに発表の場とした。墨を生かした抽象的作品を描いた。昭和62年、74歳で死去した。

甲斐巳八郎(1903-1979)
明治36年熊本市生まれ。有田工業学校図案絵画科を卒業後、大正11年に京都市立絵画専門学校に入学、福田平八郎、菊池契月に師事した。昭和2年に卒業後、中国山西省の雲崗石窟調査隊に参加。宗像郡で2年間の教師生活の後、昭和5年に中国東北地区に渡った。満州鉄道社員会報道部に所属して、中国各地の風俗をスケッチを添えて伝えるほか、中国の自然風土や人々の生活から受けた感銘を日本画で表現した。中国での生活は18年近くに及び、終戦後の昭和22年、妻の郷里である宗像郡福間町に引き揚げ、この地に永住した。昭和23年から再興美術院展に出品し、院友となったが、昭和30年を最後に出品をやめ、福岡県美術協会への参加や個展など、地元の活動に専念した。昭和54年、76歳で死去した。

井上三綱(1899-1981)
明治32年福岡県八女郡古川村生まれ。9歳の頃、村芝居で演じられた絵師・又平の姿が、絵を描く動機となった。大正8年に小倉師範学校を卒業後、母校の教師となるが、翌年本格的に画を学ぶために上京。本郷絵画研究所で学んだのち、昭和元年フランスから帰国した坂本繁二郎を訪ね、師事した。坂本を終生の師と仰ぎ、また青木繁にも尊敬の念を抱き続けた。大正5年に帝展初入選、以後も7回帝展、新文展に出品した。また、牧雅雄に彫刻を学び、日本美術院展に彫刻作品を2度出品した。昭和5年頃から日本画や書に親しみ、昭和14年頃からは万葉の世界をモチーフとした作品も手掛けるようになった。昭和25年から国展に出品し国画会会員になったが、昭和36年同会を退会、以後は無所属として活動した。晩年には屏風形式の作品にも取り組み、文字の生まれる過程や古代の音の響きを表現する作品も制作。東洋思想を墨色で表現した画風は海外でも注目された。昭和56年、82歳で死去した。


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児島善三郎と福岡の独立美術協会

2017-04-22 | 画人伝・福岡


文献:田園の輝き児島善三郎、福岡県の近代絵画展近代洋画と福岡県北九州市立美術館コレクション 1974-1991

日本の自然風景を装飾化、様式化することによって「児島様式」と呼ばれる日本的洋画を完成させた児島善三郎(1893-1962)は、昭和5年二科会を脱退し、日本のフォビスムを旗印に同志14名とともに独立美術協会を創設した。児島の活動拠点は東京だったが、独立美術協会を通じて多くの後進に影響を与え、福岡には児島に続く独立画家たちが多く現れ、そのグループを核にして福岡の洋画壇は活性化していった。福岡の独立美術協会の画家としては、粕屋郡生まれの赤星孝、福岡市生まれの山田栄二、青柳暢夫、大牟田市生まれの藤岡一、粕屋郡生まれの熊代駿、大宰府生まれの井上寛信、筑後市生まれの下川都一朗、それに高知県生まれで戦後に福岡に来て早世した今西中通らがいる。

児島善三郎(1893-1962)
明治26年福岡市中島町生まれ。紙問屋児島本家の当主・児島善一郎の長男。中学修猷館3年生の時に絵画同好会「パレット会」を作り、2歳年下の中村研一やその弟・琢二らと活動した。卒業後は画家を志望したが、父の許しが得られず、長崎医学専門学校薬学科に進学したが、ほどなく中退、店の売り上げを持ち出して家出して東京に向かった。大正3年岡田三郎助の本郷洋画研究所で二ヶ月ほど学び、東京美術学校を受験するが失敗、以後は師につくことなく独学で画を学んだ。大正10年二科展に初入選。翌年には二科賞を受賞するなど順調な歩みをみせるが、大正14年基礎を学ぶため渡仏。約3年の滞欧の後、昭和4年には二科会会員となるが、翌年脱退。西洋の模倣ばかりでなく、日本人は日本人の絵画を持つべきだとの信念のもと、同志たちと独立美術協会を結成した。洋画に学んだ基礎の上に、南画や琳派の研究によって得た作風を取り込み、日本の自然風景を、装飾化、様式化して描いた。活動の拠点は東京だったが、独立美術協会を通じて多くの後進に影響を与え、福岡には児島に続く独立画家が多く現れた。また、昭和8年の筑前美術会や昭和15年の福岡県美術協会結成にも大きな役割を果した。昭和37年、69歳で死去した。

足達襄(1911-1999)
明治44年福岡市中央区生まれ。中学修猷館在学中、福岡県商品陳列所で開催された児島善三郎の滞欧作品展に感銘を受け、画家を志すようになった。卒業後に上京、昭和5年帝国美術学校に入学、清水多嘉示に師事した。翌年、児島らが結成した独立美術展第1回展に初入選し、以後も出品を続け、昭和23年独立美術協会会員となった。この間、福岡独立作家協会の結成に参加。戦前は東京に住んでいたが、戦後は帰郷し大宰府にアトリエを構え、独立展の主要画家として、地元でも精力的に活動し、松田諦晶主宰の来目洋画道場の講師もつとめた。昭和32年には筑紫野市に筑後芸術学院を開設、後進の指導につとめた。平成11年、88歳で死去した。

山田栄二(1912-1985)
明治45年福岡市上新川端町生まれ。中学修猷館を卒業後、画家を志し上京。昭和8年二科展に、翌年独立展に初入選した。以後は発表の場を独立展に定め、昭和13年に独立賞を受賞、昭和22年には独立美術協会会員となった。また、同年、赤星孝、上田宇三郎、宇治山哲平、久野大正と5名による「朱貌社」を結成、約6年間、講習会や展覧会を続けた。昭和28年、朱貌社の解散とともに渡仏、約5年パリで学んだ。さらに昭和48年にも再渡欧し、昭和57年には滞欧15年を記念して福岡で大個展を開催した。73歳で死去した。昭和60年、73歳で死去した。

赤星孝(1912-1983)
明治45年粕屋郡古賀町生まれ。福岡中学校を卒業後、昭和7年に上京、武蔵野美術大学で学んだ。同年独立展に初入選し、昭和15年に独立賞を受賞、昭和23年に独立美術協会会員となった。昭和16年召集され、久留米で4年間の兵役生活を送る中、戦時下の必勝美術展覧会会合で坂本繁二郎に出会い、これを機に八女のアトリエを訪れるようになり、私淑した。「朱貌社」の結成にも参加、昭和24年には福岡県美術協会の再興に参加するなど、福岡の美術界活性化に貢献した。昭和58年、71歳で死去した。


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古賀春江と福岡の二科会

2017-04-20 | 画人伝・福岡


文献:福岡県が生んだ画家たち展福岡県の近代絵画展、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして

大正3年、文部省展覧会から分離して、在野の洋画団体として二科会が誕生した。その創立会員に久留米出身の坂本繁二郎が名を連ねていた関係で、坂本を慕う同郷の若い画家たちの多くが二科会に参加した。こうした画家たちの筆頭が、久留米生まれの古賀春江(1895-1933)である。古賀は、当時の日本に新潮流として紹介されるさまざまな表現を吸収し、新しい表現を追求、前衛画家として活躍した。また、最も深く坂本に心酔していたのは、浮羽郡生まれの伊東静尾(1902-1971)で、伊東は最後まで久留米にとどまり、福岡の若手による二科西人社の創立に参加するなど、指導者として多くの後進に影響を与えた。この伊東の努力により久留米に二科会の大きな拠点ができ、山本和夫、上野与一郎、安達実夫、大石隆、酒見敏雄、川原貫一らが二科展を舞台に活躍した。一方、福岡地区での二科会の中核は福岡市生まれの伊藤研之(1907-1978)だった。伊藤は、二科会九室会で早くから有能な新人として注目されたが、中央に進出することなく、郷里福岡で終生二科会の発展のために尽力した。この地区からは、粕屋郡生まれの今長谷巌、福岡市生まれの真隅太荘などのほか、終戦直前にビルマで戦死した佐賀県生まれで福岡市に移り住んだ椎野修らがいる。

古賀春江(1895-1933)
明治28年久留米市寺町生まれ。本名は亀雄。父は久留米市浄土宗善福寺住職。明治43年中学明善校に入学した頃から松田諦晶に画を習い始め、2年後には明善校を中退して上京、太平洋画会研究所で学び、大正2年には日本水彩画会研究所に入り、石井柏亭に師事した。上京後も松田を兄のように慕い、松田らが結成した来目洋画会の展覧会にも毎年のように作品を送り続けた。大正6年に二科展に初入選、以後落選が続いたが、大正11年に二科賞を受賞、同年中川紀元、浅野孟府ら二科展出品の若手作家13人によるグループ「アクション」を結成した。初期には水彩画を好んで描いていたが、二科賞受賞頃から油彩画にも力を注ぐようになり、キュビスム、表現主義、構成主義、シュルレアリスムなど、当時の日本に新潮流として紹介されるさまざまな表現を吸収し、作品に昇華させていった。昭和5年に二科会会員となった。詩作にも才能を発揮し、画作と連動した詩を多く発表するなど、独自の境地に評価も高まっていたが、昭和8年、38歳で死去した。

伊東静尾(1902-1971)
明治35年福岡県浮羽郡水縄村生まれ。本名は静。中学明善校在学中に画家を志し、大正8年に同校を中退して上京、日本美術学校に入学した。大正13年に同校を卒業し、その後は久留米に戻り終生この地に住んだ。同年、フランスから帰国して間もない坂本繁二郎を訪ね弟子入りを志願したところ、画友ならいいという返事をもらい親交を深めた。翌年には来目会展に出品し、松田諦晶との交友も始まった。坂本、松田の影響もあり二科展に出品するようになり、昭和8年に初入選、昭和29年に二科会会員となった。初入選の翌年には福岡の若手による二科西人社の創立に参加し、中心的な役割をになった。また、昭和24年には自宅に江南画塾を開き、毎年展覧会を開催するなど、後進の育成につとめた。昭和46年、68歳で死去した。

伊藤研之(1907-1978)
明治40年福岡市大名町生まれ。中学修猷館で美術部に所属し、大正12年に初めて福岡に巡回展示された二科展に感銘を受けた。卒業後、昭和4年に早稲田大学に入学すると、寄宿先の近くにかつて二科展で作品を見て惹かれた酒本博示がおり、指導を受けて本格的に絵を勉強するようになった。昭和5年に1930年協会展に出品、翌6年に二科展に初入選、昭和13年二科会の前衛的な画家による九室会の創立に参加した。昭和15年には二科特待賞を受賞、同年上海に渡り、画作を続けながら昭和21年まで過ごしたのち郷里に帰った。昭和26年には二科会員となり、昭和33年からは福岡支部長をつとめ、終生二科会の発展のために尽力した。昭和53年、71歳で死去した。


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実直な写実を貫いた中村研一と福岡の官展系洋画家

2017-04-18 | 画人伝・福岡


文献:中村研一回顧展、福岡県の近代絵画展、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、福岡県西洋画 近代画人名鑑

宗像郡生まれの中村研一(1895-1967)は、東京美術学校で岡田三郎助に師事し、早くからその才能が注目され、卒業の年には帝展に初入選した。美校在学中から留学を希望し、大正12年についに渡仏したが、パリ画壇で湧き起こっていた新表現を標榜する潮流には目も向けず、モーリス・アスランに私淑して実直な写実を学んだ。帰国後も手堅い写実による人物画などを発表し、在野の二科や独立の画家たちが、西洋の新しい手法を取り入れて勢いを増すなか、確固たる技術を守るべきだという姿勢を貫き、官展の重鎮として活躍した。実弟の中村琢二(1897-1988)は、東京帝国大学経済学部を卒業後、フランスから帰国した兄に勧められ画家として立つことを決意、安井曾太郎に師事した。兄とは異なりマチスを愛し明るい色彩と簡潔は筆致で独自の画風を開拓した。ほかに福岡の官展系の洋画家としては、八女郡生まれで文化勲章を受章した田崎廣助、京都郡出身の遠山五郎、鞍手郡生まれの山喜多二郎太をはじめ、倉員辰雄、福田新生、手島貢、萩谷巌、高宮一栄、木下邦子、加治邦子、高野達、高田力蔵、伊勢幸平らがいる。

中村研一(1895-1967)
明治28年宗像郡南郷村生まれ。郷里の宮田村尋常小学校から東郷高等小学校を経て、明治42年中学修猷館に入学した。在学中に2年先輩の児島善三郎に誘われて絵画同好会「パレット会」に参加し絵に親しんだ。大正3年に同校を卒業、美術学校進学を希望したが父の許可が得られず、三高受験準備の名目で京都に出て鹿子木孟郎の内弟子になった。翌年孟郎の口ききにより父から美術学校受験の許可を得て上京、岡田三郎助が主宰する本郷絵画研究所に学び、同年東京美術学校西洋科に入学した。大正9年に同校を卒業し、同年帝展に初入選、翌年特選を受賞した。美校在学中から留学を希望しており、大正12年ついに渡仏、モーリス・アスランに写実を学んだ。昭和3年に帰国し同年から帝展に2回連続で特選、昭和5年には帝国美術院賞を受賞した。以来、戦後の日展まで官展で活躍、昭和33年からは日展常務理事をつとめた。また、昭和3年からは光風会会員として光風会にも所属した。戦後は美術団体連合展、現代日本美術展にも出品。昭和25年日本芸術院会員となった。昭和42年、72歳で死去した。

中村琢二(1897-1988)
明治30年新潟県佐渡郡生まれ。中村研一の実弟。明治39年、9歳の時に祖父母や兄研一のいる福岡県宗像郡の郷里に移住した。明治44年中学修猷館に転入、兄や児島善三郎に影響されて油絵を始めた。大正13年東京帝国大学経済学部を卒業。昭和3年にフランスから帰国した兄に勧められ本格的に絵筆を握ることを決意し、兄の紹介により昭和5年安井曾太郎に師事、同年から二科展に連続入選した。昭和12年には安井らが創設した一水会展に出品、昭和16年一水会の新文展参加に伴い、第4回新文展に出品し特選を受賞した。昭和17年一水会会員に、昭和21年同委員となった。昭和28年一水会展出品作で芸能選奨文部大臣賞を受賞。昭和38年日本芸術院賞、昭和56年日本芸術院会員に推挙された。日展では、昭和55年に日展参事、昭和57年からは日展顧問をつとめた。昭和63年、90歳で死去した。

田崎廣助(1898-1984)
明治31年八女郡北山村生まれ。本名は廣次。八女中学時代に図画教師・安藤義重に勧められ美術学校進学を志すが、父に反対され、大正5年福岡師範学校に入学した。翌年卒業して教員となったが、画家への思いが再燃し、大正9年県立高校への転任の話を捨てて上京、本郷駒本小学校の図画教師をしながら坂本繁二郎に師事した。関東大震災を機に京都に移り、大正15年二科展に初入選、いったん再上京したのち、昭和7年に渡仏してパリにアトリエを構えた。約3年間の滞在ののち帰国し、昭和11年に創設された一水会に第1回展から出品、昭和14年に会員となった。昭和36年日本芸術院賞を受賞、昭和42年芸術院会員。昭和50年文化勲章を受章した。昭和20年代終わり頃から始まる阿蘇山の連作をはじめ、大自然の崇高を象徴する山々を描き続けた。昭和59年、85歳で死去した。

遠山五郎(1888-1928)
明治21年京都郡豊津村生まれ。明治41年県立豊津中学を卒業、軍人を志すが病気のため断念、画家を志して上京し、白馬会洋画研究所に入った。翌年東京美術学校西洋画科に入学。在学中に文展に初入選。大正3年に同校を卒業して米国経由で欧州に向かおうとしたが、第一次世界大戦のためやむなく大正8年まで米国に滞在し、翌年パリに渡りアカデミー・ジュリアンやアカデミー・コラロッシで学んだ。大正11年帰国し、同年の帝展で特選を受賞、翌年中村研一らの金塔社展にも出品した。同社の光風会合流を機に同年光風会会員となった。昭和3年、41歳で死去した。

山喜多二郎太(1897-1965)
明治30年鞍手郡山口村生まれ。植木尋常小学校から直方高等小学校に進み、明治42年早良郡に移り、草ケ江高等小学校を経て、明治44年県立福岡工業学校に入学した。大正4年同校卒業とともに上京し、東京美術学校西洋科に入学、藤島武二に師事した。在学中に寺崎広業にも師事した。大正9年同校を卒業、同年から帝展に入選を重ね、昭和9年に特選、翌年の二部会展で文化賞特選を受賞、昭和12年文展無鑑査、昭和33年日展評議員となった。大正14年から光風会展にも出品、昭和33年光風会理事となった。また、筑前美術会、福岡県美術協会の結成に参加した。晩年は水墨画の手法を取り入れた独自の画風を展開した。昭和40年、68歳で死去した。

倉員辰雄(1900-1978)
明治33年八女郡上陽町生まれ。郷里の尋常小学校に入学したが、2年生の時に両親とともに朝鮮に渡った。大正初頭、単身帰郷して県立中学明善校に学び、大正8年同校卒業とともに台湾銀行に就職。大正12年同行を退き、画家を志し、大正14年東京美術学校西洋画科に入学、岡田三郎助に師事した。昭和4年同校を卒業、同年から帝展に入選を重ね、昭和10年二部会展文化賞特選、翌年から新文展で3回連続で特選を受賞した。昭和35年日展評議員となり、創元会常任委員もつとめた。昭和53年、78歳で死去した。


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筑前洋画の先覚者・吉田嘉三郎とその後継者・吉田博

2017-04-14 | 画人伝・福岡


文献:近代洋画と福岡県福岡県西洋画 近代画人名鑑、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして、福岡県立美術館所蔵品目録

筑後洋画の先覚者が森三美なら、筑前洋画の先覚者は吉田嘉三郎(1861-1894)だろう。大分県生まれの嘉三郎は、京都で田村宗立に学んだのち、上京して彰技堂で本格的に西洋画を学んだ。明治22年に福岡市に移り、中学修猷館で教鞭をとったが、のちに生徒だった吉田博(旧姓上田)を養子に迎えて後継者とした。吉田博(1876-1950)は、養父と同様に京都で田村宗立に学び、のちに上京して小山正太郎の不同舎に入った。不同舎では、青木繁、坂本繁二郎の先輩にあたる。吉田は明治美術会系の洋画家として活動、明治35年には太平洋画会の創立に参加した。また、文展には明治40年の第1回展から出品、同じ福岡県出身で東京美術学校卒の庄野伊甫(1876-1958)とともに福岡県の官展系の先駆者となった。以後、太平洋画会研究所を通じての生徒だった示現会の光安浩行、太平洋画会の多々羅義雄や佐々貴義雄らがそのあとに続いた。

吉田嘉三郎(1861-1894)
文久2年大分県中津生まれ。旧中津奥平藩士。中津中学校に学んだのち、明治10年に京都に出て田村宗立に西洋画を学び、さらに明治19年上京して彰技堂の本多錦吉郎に学んだ。この間、内国勧業展覧会、国絵画共進会などに出品した。中津中学校の助教諭を経て、明治20年に福岡に移り、明治22年から25年まで中学修猷館で助教諭として勤務、同校美術部の初代部長をつとめた。のちに生徒だった吉田博(旧姓上田)を養子に迎えて後継者とした。著書に「大成習画帖」などがある。明治27年、33歳で死去した。



吉田博(1876-1950)
明治9年久留米市生まれ。明治12年に浮羽郡に転居。吉井小学校に入学したが、明治20年に一家をあげて福岡市に転居した。中学修猷館に学び、当時同校の図画教師をしていた吉田嘉三郎に画才を見込まれ養子となった。明治26年に京都に出て田村宗立に入門。この頃三宅克己と知り合い水彩画を描き始め、三宅の勧めで翌年上京して不同舎に入った。明治30年頃に明治美術会会員となった。明治32年1回目の欧米遊学し2年後に帰国。翌年太平洋画会の結成に参加した。明治40年第1回文展から出品して3等賞、翌年から連続2等賞を受賞し、明治43年から審査員をつとめた。帝展審査員も3度つとめ、その後、二部会展、新文展に連続出品した。大正9年新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い、木版画を手掛けるようになり、海外での展覧会も開催した。昭和8年筑前美術協会の創立に参加、昭和11年足立源一郎らと日本山岳画協会を結成した。昭和13年から3年連続で従軍画家として中国に赴いている。昭和22年太平洋画会会長となった。山岳風景を好んで描き、取材のため内外を幾度となく旅行した。昭和25年、74歳で死去した。

庄野伊甫(1876-1958)
明治9年福岡市生まれ。東京美術学校西洋画科に入り、浅井忠に師事した。明治33年に同校を卒業したが、明治39年まで同校研究科に籍を置き、洋画を研究した。その間、明治34年明治美術会展、翌年パリ世界大博覧会に入選。また明治36年の内国勧業博覧会で褒状を受け、翌年ルイジアナ世界大博覧会に入選した。明治40年の第1回文展に入選。在京中は、夏目漱石、高浜虚子、中村不折、石井柏亭らと交友があった。大正初頭に帰郷し、大正11年大分県日田中学に図画教師として赴任し、昭和8年まで勤務。同年帰郷して西公園下に住んだ。昭和28年日展に入選したものの、晩年は県美術協会会員としての県展出品が主な作品発表の場となった。昭和33年、82歳で死去した。

光安浩行(1891-1970)
明治24年福岡市席田郡生まれ。中学修猷館を卒業後上京して太平洋画会研究所に入り、中村不折、岡精一に師事した。大正9年に帰郷したが、大正14年に再上京して翌年帝展に初入選した。昭和16年新文展無鑑査、25年日展特選を受賞し、昭和42年日展評議員となった。また、太平洋画会にも出品し、昭和4年から太平洋美術学校教授をつとめた。昭和22年示現会の創立に参加した。昭和45年、79歳で死去した。

多々羅義雄(1894-1968)
明治27年福岡県能古島生まれ。明治34年姪浜尋常小学校を卒業。明治43年佐賀県小城町に移り、洋画を学びはじめ、放浪中の青木繁を知った。同年画家を志して上京、満谷国四郎に師事し、かたわら太平洋画会研究所に学んだ。明治45年から太平洋画会展に入選を重ね、大正8年会員に、昭和25年代表になった。大正2年文展初入選、以後入選を重ね、大正7年特選を受賞、昭和5年帝展無鑑査となった。昭和27年光陽会を創立、のちに初代会長となった。昭和43年、74歳で死去した。

佐々貴義雄(1890-1987)
明治23年東京浅草生まれ。号は不屈。明治38年不同舎に入門、翌年には太平洋画会研究所に入り、中村不折に師事した。大正2年から不折の紹介により桂五十郎陶磁器コレクションの図録を5年間にわたり描いた。大正14年太平洋美術学校教授に就任。昭和8年文展無鑑査となった。昭和13年、14年の2回従軍画家として、吉田博とともに中国各地をスケッチした。昭和23年に大牟田に移住し、私設美術研究所を開設。翌年二科十朗に染色を学び、以後福岡県展工芸部門に出品した。昭和37年大牟田綜合美術工芸部常任委員に、昭和42年に福岡県工芸美術家協会会員となった。また、同年太平洋美術会関与となり、昭和53年には同会の西日本支部長となった。昭和62年、97歳で死去した。


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青木繁・坂本繁二郎を指導した筑後洋画の先覚者・森三美

2017-04-12 | 画人伝・福岡


文献:森三美-筑後洋画の先覚、近代洋画と福岡県福岡県西洋画 近代画人名鑑、西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そして

福岡県久留米市とその周辺は、筑後洋画壇とよばれる独特の芸術風土を持ち、明治以来青木繁や坂本繁二郎ら多くの優れた洋画家を輩出してきた。そうした芸術風土や人脈形成にはさまざまな要因が考えられるが、京都で学んだ洋画の技法を久留米の地にもたらした森三美(1872-1913)の功績が大きいといえる。森三美は、京都で明治最初の美術学校・工部美術学校出身の小山三造に洋画と石版画の技術を学んだのち帰郷、久留米高等小学校および久留米高等女学校の図画教師を務めるかたわら、自宅で洋画塾を開き、後進たちの指導にあたった。この画塾からは、青木繁、坂本繁二郎をはじめ、松田諦晶、大野米次郎ら多くの洋画家が出ており、彼らによって筑後洋画壇の基礎が築かれていった。

森三美(1872-1913)
明治5年久留米市生まれ。明治20年京都府立画学校に入学、翌年から小山三造に師事して3年間洋画を学び、明治24年に帰郷して久留米に洋画塾を開設した。明治27年から久留米高等小学校図画教師となり、明治30年からは久留米高等女学校教師を兼務した。明治34年に師範中学、高等女学校の図画の検定試験に合格し、同年県立東筑中学に赴任し久留米を離れることになった。久留米在住中は、少年時代の青木繁、坂本繁二郎らに模写を中心とした洋画の基礎を指導するなど、後進に大きな感化を与え、筑後画壇発展の礎を築いた。明治40年には佐賀県立佐賀中学校の教諭となり、その後も佐賀県の小学校教員検定委員臨時委員をほぼ毎年つとめたが、大正2年病気のため依願退職、同年、41歳で死去した。



青木繁(1882-1911)
明治15年久留米市生まれ。荘島尋常小学校から久留米高等小学校を経て県立中学明善校に入学した。在学中は森三美に洋画の手ほどきを受けた。明治32年同校を中退して上京、小山正太郎の不同舎に入門した。翌年東京美術学校西洋画科選科に入学、在学中は上野の図書館で神話、伝説などの書物に親しみ画想を練った。徴兵検査のために一時帰郷したが、のちに坂本繁二郎とともに再度上京した。明治36年第8回白馬会に出品した「黄泉比良坂」など画稿数点が第一回白馬会賞を受賞。翌年東京美術学校を卒業し、その夏、坂本繁二郎らと房州に取材して「海の幸」を制作、同年第9回白馬会展に出品して高い評価を受け、一躍、青木の名を有名にした。しかし、明治40年の東京府主催勧業博覧会に出品した「わだつみのいろこの宮」は青木の期待にそわず3等賞に終わり、さらに同年開催された第1回文展にも落選。同年父の死去のため帰郷し、失意と苦難のうちに九州各地を放浪の末、明治44年、29歳で死去した。

坂本繁二郎(1882-1969)
明治15年久留米市生まれ。両替尋常小学校から久留米高等小学校に入学、同級に青木繁がいた。在学中から森三美の手ほどきを受けた。卒業後は久留米高等小学校図画代用教員となったが、帰省中の青木繁に触発されて、青木とともに上京、小山正太郎の不同舎に入門した。明治40年に第1回文展で入選、43年、44年と連続受賞した。大正2年二科会の創立に参加、昭和19年まで所属した。大正10年に渡仏し、シャルル・ゲランに学び13年に帰国後は久留米市に住み、昭和6年には八女郡に転居、戦後はどの団体にも所属せず、終生この地で幽玄質実の絵画を追究した。昭和21年芸術院会員に推挙されたが辞退、昭和31年文化勲章を受章した。昭和44年、87歳で死去した。

松田諦晶(1886-1961)
明治19年久留米市生まれ。本名は実。1歳の時に一家をあげて浮羽郡に転居したが、明治32年に久留米に戻り、久留米高等小学校に転入した。同校で図画教師の森三美の教えを受けた。明治33年久留米商業学校に入学、この頃からほとんど独学で洋画の研究を行ない、盛んに絵を描いていた。同校卒業後は、久留米市役所や絣同業組合に就職していた。明治44年太平洋画会展に初入選。大正2年来目洋画会の発足に参加。翌年の第1回二科展から連続入選、二科賞候補にもなったが、大正10年の同展入選を最後に中央画壇から遠ざかった。その後は来目洋画会の中心メンバーとして、久留米洋画研究所を開設するなど、筑後の後進の育成につとめた。昭和36年、75歳で死去した。

大野米次郎(1884-1920)
明治17年久留米市生まれ。荘島尋常小学校を卒業し、久留米高等小学校に進んだ。在学中から森三美に洋画の手ほどきを受けた。同校を卒業後、明治39年森三美、青木繁、坂本繁二郎を名誉会員として洋画グループ「審美会」を結成したが続かず、発展的に解消して大正2年松田諦晶らと来目洋画会を組織して中心的役割を果たした。大正3年の第1回二科展から連続3回入選し、前途を期待されたが、大正9年、36歳で死去した。


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官展で活躍した福岡県の近代日本画家

2017-04-10 | 画人伝・福岡


文献:福岡県日本画 古今画人名鑑日本画 その伝統と近代の息吹き

官展で活躍した福岡県の近代日本画家としては、ます最初に吉村忠夫(1898-1952)が挙げられる。吉村は北九州市に生まれ、東京美術学校を首席で卒業、のちに松岡映丘に師事し、師と同様に歴史風俗画を得意とし、官展の重鎮として活躍した。また、福岡市生まれの水上泰生(1872-1951)は、東京美術学校で寺崎広業に師事し、首席で卒業後は文展で3回連続受賞するなど活躍、故郷の日本画界の発展にも貢献した。鞍手郡生まれの阿部春峰(1877-1956)は京都で菊池契月に師事し、第1回文展から入選を重ね、後年は琳派に心を寄せて絢爛な作風を展開した。糸島郡生まれの松永冠山(1894-1965)も菊池契月に学び、第5回文展入選後から官展に出品、風景画に新生面を拓いた。福岡市生まれの小早川清(1899-1948)は、水上泰生に学んだのち、鏑木清方に入門、官展での活動のほか、新版画運動にも参加して美人画で人気を博した。

吉村忠夫(1898-1952)
明治31年遠賀郡黒崎町生まれ。本名も忠夫。姉に池田蕉園がいる。幼いころに一家をあげて上京し、府下の小学校を卒業して東京美術学校に図書係として勤務した。同校の校長に画才を認められ、大正4年同校日本画科に推薦入学、大正8年に首席で卒業して研究科に進んだ。同科後は松岡映丘に師事した。在学中の大正7年に文展初入選、以後文展を舞台に活躍した。大正10年正倉院御物研究のため特別拝観の許可を得て以後10年の間研究に励んだ。昭和13年、師の没後は国画院で指導にあたり、翌14年日本画院を創設した。大和絵の伝統を生かした歴史風俗画を多く描いた。昭和27年、55歳で死去した。

水上泰生(1872-1951)
明治5年筑紫郡住吉村生まれ。福岡県立修猷館に入学し、この頃に荒木墨仙、松山雪童について画を学んだ。明治34年同校を卒業して上京、東京美術学校に入学し、寺崎広業に師事、広業門下十哲の第一人者と称された。明治39年同校を首席で卒業して帰郷。大正2年文展初入選、翌年から連続で文展3等賞を受賞した。大正5年頃再び上京し、大正8年には帝展審査に反発して島田墨仙、山内多門、石井林響らと如水会を結成し、東京や大阪で作品展を開催したが、その後も官展に出品し、大正15年に帝展委員になった。日本画会常任幹事もつとめた。また、筑前美術展、福岡県展にも委員として出品し、郷土の日本画界の発展にも貢献した。昭和26年、70歳で死去した。

阿部春峰(1877-1956)
明治10年鞍手郡植木町生まれ。名は清太郎、字は寛明、または子熒。明治26年頃大阪に出て、四条派系の深田直城に師事、その後師の勧めにより菊池芳文に入門した。明治40年文展初入選、以後官展を舞台に活躍、大正15年帝展委員となった。昭和12年京都市展に出品し、のちに同展委員になった。昭和15年八幡市に移住し、福岡県美術協会の再興にも参加した。その後また京都に戻り、昭和31年、80歳で死去した。

松永冠山(1894-1965)
明治27年糸島郡前原町生まれ。名は関蔵。初号は冠山で、のちに「冠」の「寸」の部分を「刂」の漢字に改めた。明治44年京都市立美術工芸学校絵画科に入学、大正3年同校を卒業し、京都市立絵画専門学校本科に入学、大正9年に研究科を卒業、大正11年に菊池契月に入門した。その間、大正6年に文展初入選し、その後も官展に出品、日展委員となった。昭和19年には帰郷し、西部美術協会委員となった。また、福岡県美術協会再興に常任理事として参加するなど、地元日本画壇の主導者として活躍した。昭和41年、73歳で死去した。

小早川清(1899-1948)
明治28年福岡市出来町生まれ。本名も清。初号は清水。一説には明治30年生まれ。明治43年頃地元で水上泰生に半年余り師事。明治45年頃上京して鏑木清方に師事した。大正13年帝展初入選、長崎を舞台とした異国情緒溢れる美人画を描き、昭和8年には特選を受賞するなど、官展で活躍した。また、新版画の分野にも進出、美人画版画で人気を博した。一方、筑前美術展や福岡県美術協会展にも会員として出品した。昭和23年、50歳で死去した。


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新南画ともいえる独自の画風を開拓した冨田溪仙

2017-04-07 | 画人伝・福岡


文献:福岡県日本画 古今画人名鑑日本画 その伝統と近代の息吹き

福岡県を代表する近代日本画家としては、福岡市生まれの冨田溪仙(1879-1936)が挙げられる。溪仙は、上田鉄耕に学んだのち、京都に出て四条派の都路華香に入門、25歳で華香門を独立した。明治45年、文展初入選作が横山大観に認められ、大正4年には再興日本美術院の同人として迎えられ、その後は院展を舞台に活躍した。仙厓義梵、池大雅、与謝蕪村らに傾倒し、南画、大和絵、仏画にいたるまで修練、さらに仏教、キリスト教、儒教、日本古典を研究し、新南画ともいえる独自の画風を開拓した。昭和10年の帝国美術院改組により日本画部新会員となったが、翌11年、帝展改組に対する処置を不満とする横山大観らとともに帝国美術院会員を辞任、同年、58歳で急逝した。溪仙の最初の師である上田鉄耕(1849-1914)は、博多に生まれ村田東圃の門人であった父に南画を学んだのち、京都で中西耕石や日根対山にも学んだとされる。明治20年頃に博多に帰ってから画塾を開き、門下からは溪仙のほかに今中素友(1886-1959)、彫刻家の冨永朝堂らが出ており、教育者としての功績は大きい。

冨田溪仙(1879-1936)
明治12年福岡麹屋町生まれ。名は鎮五郎、字は隆鎮。初号は雪仙のちに華仙。別号に溪山人、燕巣楼、久彭などがある。13歳頃から衣笠守正に狩野派を学び、のちに上田鉄耕に師事した。18歳で画家を志して京都に出て、翌年四条派の都路華香に入門し、雪仙の号を華仙に改め、さらに溪仙に改号した。明治32年日本絵画協会・美術院連合共催会展に入選。翌年新古美術10年回顧展で3等受賞。明治34年日本絵画協会展、翌年後素協会展などに入選した。明治35年富岡鉄斎に「神功皇后釣鮎図」の時代考証の教示を仰ぎ、翌年大阪内回内国勧業博覧会に同作を出品、褒賞を受けた。同年、25歳で華香門から独立した。明治40年の2度目の紀州旅行をきっかけに平安仏画などを研究。また仙厓義梵、池大雅、与謝蕪村らに傾倒し、南画、大和絵、仏画にいたるまで修練した。明治42年に台湾・中国を旅行して研鑽に励んだ。明治45年の文展初入選作が横山大観に認められ、大正3年再興院展に京都派から初参加。翌年日本美術同人に迎えられ、院展に出品しながら、さらに仏教、キリスト教、儒教、日本古典を学び、独自の画風を確立した。大正11年詩人で中日仏国大使・クローデルと知り合い、詩画集を合作。また、大正末から博多幻住庵の仙厓旧居再興に尽力した。昭和10年帝国美術院改組により日本画部新会員となったが、翌11年、文部大臣平生鋭三郎の帝展改組に対する処置を不満とする横山大観ら13名とともに帝国美術院会員を辞任。同年、58歳で死去した。

上田鉄耕(1849-1914)
嘉永2年筑前博多生まれ。名は要三郎。父の桂園は村田東圃に師事した南画家で、父に南画の手ほどきを受け、のちに京都に出て中西耕石または日根対山に師事したとされる。明治20年に博多矢倉門町に画塾を開いた。門下からは冨田溪仙、今中素友、彫刻家の冨永朝堂らが出ており、教育者としての功績は大きい。研究心旺盛で、南画だけではなく中央の新傾向を取り入れてしたという。明治32年に結成された九州美術協会の中心的存在として活躍した。大正3年、66歳で死去した。

今中素友(1886-1959)
明治19年福岡市鳥飼村字谷六本松生まれ。名は善蔵、字は知章。別号に草江軒がある。修猷館を受けたが不合格となり、母校の教師だった波多江幸次の勧めにより上田鉄耕について画を学んだ。さらに、明治38年上京して川合玉堂に師事した。明治41年文展初入選、以来文展、帝展に出品、昭和8年帝展無鑑査となった。昭和34年、74歳で死去した。


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近代大和絵の黎明期を担った川辺御楯

2017-04-05 | 画人伝・福岡


文献:川辺御楯と近代大和絵の系譜柳川の美術Ⅰ福岡県日本画 古今画人名鑑

筑後国山門郡柳川上町(現在の柳川市)に生まれた川辺御楯(1838-1905)は、守住貫魚、山名貫義、川崎千虎らと共に近代大和絵の黎明期を担った、明治初期を代表する大和絵歴史画家として知られている。しかし、同時期に活躍した他の大和絵師に比べ、御楯の系譜はのちの近代日本画の展開の中で次第に薄れていった。最晩年の弟子・中村岳陵は、例外的に一人気を吐いたが、将来を嘱望された長男の白鶴は22歳で早世、二男の佐見は筑水と号して日本美術協会展に何度か出品したが、結局実業界に進んだ。家督を継いだ三男の川辺旭陵美楯(1879-1931)は日本美術協会展を舞台に活動し、意気盛んに父の画業を継ごうとしたが、画家として大成はならなかった。

川辺御楯(1838-1905)
天保9年筑後国山門郡柳川上町生まれ。幼名は源太郎。別号に鷺外、墨流亭、都多の舎、後素堂などがある。旧氏名を古賀源太郎と称し、家号を砥屋といった。6歳の時に狩野永錫の門人であった父に画を学び、ついで12、3歳から久留米藩御用絵師六代三谷勝浦友信の三男・三谷三雄にも学んだ。また、柳河藩中では平田篤胤の門人・西原晁樹に国学と有識故実を学んだ。他藩士から甲冑武術の故実や越後流の兵法などを教わり、さらに真木和泉にも故実、兵書を学んだ。安政6年、父が没して家督を継ぐがのちに脱藩して真木和泉について上京を図るが失敗。一時国事を断念したが、各藩の志士は御楯を頼って身を寄せたため出費がかさんで資産を失った。また、平野国臣、高杉晋作、村田蔵六らと交わり、朝鮮にも渡ろうとしたがならず、帰藩を乞い許されたという。明治維新後は藩命により上京して太政官に出仕した。この頃、土佐派の土佐光文に大和絵の画法を学び、狩野永悳に狩野元信の画法を学んだ。また、大国隆正と宝田通文に国学を、薗田守宣に故実を習い、近代大和絵の研究を深め、有識故実に精通した大和絵歴史画家として画名を上げた。明治15年第1回内国絵画共進会で銅賞、明治17年第2回展で銀賞を受賞、同年川端玉章、山名貫義らと東洋絵画会を結成した。明治22年に日本美術協会展で絵画研究会幹事に就任し、以後同展を主な発表の場とした。明治38年、69歳で死去した。

川辺白鶴(1871-1892)
明治4年生まれ。川辺御楯の長男。名は白鶴、号は九皐。画を父に学んだ。明治19年、16歳の時に絵画共進会で銅賞を受賞し、画技もますます上達し将来を嘱望されたが、明治25年、22歳で死去した。

川辺旭陵美楯(1879-1931)
明治12年生まれ。川辺御楯の三男。名は彪。明治25年に日本美術協会秋季展に初出品、以後同展を活動の場とし受賞を重ねた。現存する作品が少なく、画業は不明な点が多い。昭和6年、53歳で死去した。


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福岡南画壇の育ての親と称される中西耕石

2017-04-03 | 画人伝・福岡


文献:日本画 その伝統と近代の息吹き福岡県日本画 古今画人名鑑

福岡県の近代南画の先駆者としては、福岡南画壇の生みの親とも育ての親とも称される中西耕石(1807-1884)が挙げられる。耕石は、遠賀川河口の貿易港として江戸時代に栄えた芦屋に生まれ、京都で松村景文に師事し、のちに日根対山と南宗画の双璧と謳われた。多くの門人を育て、そのなかには大宰府南画の継承者・吉嗣拝山(1846-1915)や冨田溪仙の師である上田鉄耕らがいる。

中西耕石(1807-1884)
文化4年遠賀郡芦屋中小路生まれ。本名は寿、幼名は寿平、字は亀年。別号に筌岡、竹叟などがある。家業は紺屋。早くから京都に出て四条派の松村景文に学び、また小田海僊について南画を学び、漢字などを篠崎小竹に修めて、山水画で名声を得た。日根対山と南宗画の双璧と称された。筑前藩と津藩から年々禄米を受け、幕末頃から清水寺門前に住んでいた。明治6年第2回京都博覧会の余興の書画会に呼ばれて席上揮毫。明治15年京都府画学校出任を命じられ教職についた。同年東京の第1回内国絵画共進会で銅賞と画学校設立に尽力した功績で絵事労褒状を受けた。門人に吉嗣拝山、上田鉄耕、衣笠豪谷らがいる。明治17年、78歳で死去した。

木村耕巌(1830-1911)
天保元年備後鞆津生まれ。嘉永5年京都に出て前田暢堂に花鳥画を、中西耕石に山水画を学んだ。また、梁川星巌に詩を学び、頼暢崖らと交わった。一時耕石の養子になった。十数年にわたりしばしば大覚寺に参禅。その後8年間ほど江戸に住み、のちに筑前若松に移り住んだ。門人に新谷鉄僊、松岡呉藍らがいる。明治44年、82歳で死去した。

守田桂窓(1823-1894)
文政6年生まれ。本名は孫兵衛。伊万里焼商人で中西耕石に南画を学んだ。養子に洞山がいる。明治27年、72歳で死去した。

平兮憩堂(1849-1930)
嘉永2年御笠郡観世音寺村生まれ。観世音寺・石田淋應の長男。本名も憩堂。別号に禅磨、薄雲がある。安政6年、11歳の時に本寺で得度した。儒仏および画道を長野和平に学んだ。明治元年から西京東福寺で修学し、そのかたわら同郷の中西耕石に南画を学んだ。明治4年帰郷し、石田姓を平兮に改姓。同年夜須郡甘木村甘木山安長寺の第15世住職となった。その後各地を遊歴し、諸名家を訪ね画道を研鑽した。明治17年第回内国絵画共進会に出品。昭和5年、82歳で死去した。

伊藤西瀛(1850-不明)
嘉永3年福岡県生まれ。別豪に晴影などがある。幼いころに瀧田華山に学び、のちに京都に出て中西耕石の門に入り半年後に帰郷し、のちに全国を漫遊した。山水は沈石田などを慕い、花卉は王若水を慕い研究した。のちに松本楓湖に従い、本朝歴代の人物を研究し、南北両派の画を描いた。昭和3年頃は、鞍手郡直方古町に住んでいた。


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