松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

江戸後期の筑前四大画家

2017-03-31 | 画人伝・福岡


文献:斎藤秋圃と筑前の絵師たち筑紫路の絵師-斎藤秋圃と吉嗣家・萱島家-福岡県日本画 古今画人名鑑筑前名家人物志

江戸後期、狩野派の御用絵師たちが粉本主義に陥り、精彩を失っていくなか、筑前画壇では町絵師たちが独自の画業を展開していた。なかでも元秋月藩御用絵師でのちに大宰府で町絵師として活躍した斎藤秋圃、藩から召し抱えの交渉があったが固辞して大宰府に閑居した四条派の桑原鳳井(1793-1841)、浦上春琴に学び北宗風の山水花鳥を得意とした石丸春牛(1793-1860)、四条派から南画に転じた村田東圃(1802-1865)の4人は、各自が自分の持ち味を生かした活動をし、のちに「筑前四大画家」と称された。村田東圃の門からは、のちに大阪南画壇を代表する画家の一人として活躍する姫島竹外らが出ている。

桑原鳳井(1793-1841)
寛政5年嘉麻郡大隈生まれ。幼名は鹿吉。別号に梧竹がある。実家はのちに席田郡二股瀬に移り茶店を営んだ。幼いころから画を好み、福岡藩御用絵師・衣笠守由について狩野派を学び、のちに長州の小田海僊に南画を学び、さらに大坂に出て森一鳳に師事し四条派を修めた。帰郷後は次第に画名が上がり、藩から召し抱えの交渉もあったが、自由奔放な性格のため固辞して大宰府に閑居したという。門人に吉嗣楳仙、萱島鶴栖がいる。天保12年、下関において49歳で死去した。



石丸春牛(1793-1860)
寛政5年生まれ。名は和、通称は半助など。別号に石耕、墨窩、芸甫がある。晩年は専ら純翁を名乗り、水石書楼、花僊楼、十里松下人などとも称した。茶商「茶忠」の通い番頭源助の子で、父の仕事を継いだが、主人のすすめもあって画家を志し、長崎に来遊していた南画家の浦上春琴に従い京都で行き師事した。以後は明清の南画を研究した。のちに博多上新川端に帰郷して画業に専念、北宋風の山水花鳥を得意とした。門人に子の石丸僊舟のほか、姫島竹外、高川少萍、萱島鶴栖らがいる。安政7年、68歳で死去した。



村田東圃(1802-1865)
享保2年那珂郡春吉生まれ。実家は農業を営んでいた。字は子壁、通称は瑣一郎。別号に紫溟釣徒、黒江遊人がある。30代で、博多橋口町の製墨業を主とする文具商・常春園村田治右ヱ門の養子となった。はじめ狩野派を学び、ついで斎藤秋圃に師事し、さらに京都に出て松村景文に四条派を学んだが、のちに元明の南宗画家を敬慕し、南画に転じた。50歳を過ぎた頃、京都で修行をしていた子の香谷が一時帰郷したのを機に、親子三人で京都に出て10年余り京都で活動、晩年は帰郷し子弟の教育にあたった。門人に村田香谷、村田秋江、姫島竹外、松尾耕雲らがいる。元治2年、64歳で死去した。

石丸僊舟(1824-1893)
文政7年生まれ。石丸春牛の子。名は萬次郎。父に画を学び、山水をよくした。門人に萱島秀山、半田鶴城、石井澹石らがいる。明治26年、70歳で死去した。

高川少萍(1836-1888)
天保7年生まれ。博多春吉に住んでいた。別号に錦堂がある。石丸春牛に師事した。明治21年、53歳で死去した。

岩崎蕉陰(不明-1872)
博多西町の人。別名は十太夫。石丸春牛に学び南画をよくした。竹田の偽筆に長じていたといわれる。明治5年死去した。

村田香谷(1831-1912)
天保2年筑前生まれ。村田東圃の子。名は叔。別号に蘭雪・適園がある。はじめは父に、のちに長崎の日高鉄翁、京都の貫名海屋に南画を学んだ。詩は梁川星巌に学んだ。中国に3度渡り胡公寿らと交わり研究した。帰国後は大阪に定住した。大正元年、82歳で死去した。

村田秋江(1836-1890)
天保7年生まれ。村田東圃に学んだ。明治23年、55歳で死去した。

麻生東谷(1836-1908)
天保7年鞍手郡木屋瀬改盛町生まれ。12歳で村田東圃に入門。17歳で家督を継いだ。生活苦の中で人形製造業などに従事した。明治41年、73歳で死去した。

柳坂塘雨(1837-1898)
天保8年筑前生まれ。村田東圃に師事した。名は新平。明治31年、62歳で死去した。

姫島竹外(1840-1928)
天保11年筑前生まれ。幼名は磯熊、名は純、字は子純、通称は解三。別号に玄洋釣徒、悟竹草堂がある。福岡藩士の子で、武芸に励むかたわら、藩校修猷館で館長の梶原弥平太について漢学を修めた。安政4年、18歳の時に村田東圃に入門、のちに石丸春牛にも学んだ。明治維新後に画家を志し上京、その後大阪に移り住み、明治31年に南宗画会を結成、全国南画共進会で受賞するなど、大阪南画壇を代表する画家の一人として活躍した。大正7年竹外南画院を設立し、水田竹圃、赤松雲嶺、幸松春浦らの門人を育てた。昭和3年、89歳で死去した。



まずは笑顔から 錦山亭金太夫の博多有情
日本経済新聞出版社

大宰府画壇を盛り上げた吉嗣家と萱島家

2017-03-29 | 画人伝・福岡


文献:筑紫路の絵師-斎藤秋圃と吉嗣家・萱島家-福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き、筑前名家人物志

天満宮の門前町として栄えた大宰府は、昔から文人墨客が往来し賑わいを見せていた。文政9年には秋月藩御用絵師を退いた斎藤秋圃が大宰府に移り住み、自由な町絵師として活躍した。秋圃の描いた絵馬は、大宰府、筑紫野から博多、飯塚まで数多く見られ、掛軸などの絵画もこの地域の寺社、個人宅に多く伝えられている。秋圃没後は、門人の吉嗣楳仙と萱島鶴栖が活動を引き継いだ。楳仙、鶴栖が活動した時期は明治維新の前後で、三条実美ら尊王攘夷派公家が下向するなど緊張した時代だったが、楳仙と鶴栖はこの地の名士と交流し、文化を守ったと思われる。楳仙の長男・拝山、鶴栖の長男・秀山の代になっても、両家の画家たちは、絵馬をはじめとした地元に根付いた絵画活動を行ない、学者、詩人、書家などとの交流も深め、文化活動の中心として画業に従事した。

吉嗣拝山(1846-1915)
弘化3年大宰府生まれ。吉嗣楳仙の長男。名は達太郎、字は士辞、蘇道人。別号に古香、獨臂翁、獨掌居士、左手拝山がある。父・楳仙の豪放な画道生活のため家は貧しく、13歳で六度寺に入り苦学した。この間、書は宮小路浩潮に教えを受けたとも伝わっている。のちに本田竹堂を師として岩潭書塾に入った。19歳の時に日田咸宜園に入門し3年余り漢学を学び、その後京都に出て中西耕石に入門した。明治4年、大風による家屋倒壊により右腕を切断、文墨で立つ事を決意するとともに右手の骨で筆を作ったと伝わっている。山水を得意とした。門人に藤瀬冠邨、岩崎天外、守田洞山、入江之介らがいる。大正14年、70歳で死去した。

萱島秀山(1858-1938)
安政5年大宰府生まれ。萱島鶴栖の長男。幼名は源太郎。初号は鶴仙。8歳の時から大宰府の本田竹堂について画を学び、書道を近藤登、上野芳草に学んだ。17歳から博多の石丸僊舟に師事し、さらに明治11年には長崎の小曽根乾道、牛島柳橋、日田の平野五岳に学び、翌年上京し、豊島海城、荒木寛畝らについて画技の研鑽に務めた。このほかにも吉嗣楳仙に画を、中村徳山に経書を学んだ。この間、20歳で家督を相続している。明治19年大宰府郵便局長となり、そのかたわら東京共進会、大坂共進会などに出品、褒状を受けた。昭和13年、81歳で死去した。

吉嗣鼓山(1879-1957)
明治12年大宰府生まれ。吉嗣拝山の長男。本名は慶左右、字は士瑞。居を古香書屋と称した。県立中学修猷館を卒業後、岡山医学専門学校に進むが病気のため中退、自宅療養中に詩作と画業の道を志し、父・拝山に詩書画を学んだ。櫛田神社、筥崎宮、大宰府天満宮などに作品を奉納した。昭和32年、79歳で死去した。

萱島秀岳(1886-1939)
明治10年大宰府生まれ。萱島秀山の長男。本名は秀彦。幼いころから画を父に学び、法政大学を卒業後、東京の逓信省などに勤務、そのかたわら各種展覧会に出品した。昭和14年、54歳で死去した。

萱島秀峰(1901-1973)
明治34年大宰府生まれ。萱島秀山の三男。本名は健二。初号は秀雲。父・秀山に画を学び、のちに名古屋に出て石川柳城に南画を学んだ。書は金元命に学んだ。大正12年皇室に絵を奉納、翌年には聖福寺虚白院で羅漢図を模写した。その後も制作を続け、県下の小学校などに作品を納めた。昭和48年、72歳で死去した。

藤瀬冠邨(1875-1951)
明治8年糸島郡加布里村字岩本生まれ。本名は乙吉。雅号はカムリムラに由来するという。17歳で画家を志し、吉嗣拝山に師事した。のちに師の勧めで日田の咸宜園に入り、漢籍詩文を3年間学び、のちに京都をはじめ日本各地を遊歴し、諸家と交わり詩画書の研鑽に努めた。明治43年以降、湯町(筑紫野市)に居を構え書画道に専念した。郷土南画壇を代表する一人者として名声を博し、湯町の旅館街には作品が多く残されている。昭和26年、77歳で死去した。

嵯峨山巨星(1898-1984)
明治31年佐賀県佐賀郡巨勢村生まれ。湯町延寿館の調理師を勤めるかたわら、19歳の頃から湯町に居を構えていた藤瀬冠邨に師事した。漢詩は筑後の宮崎来城に教えを受けた。湯町を中心に作品が多く残っている。昭和59年、87歳で死去した。

中垣楳山(1880-1977)
明治13年小郡市上町生まれ。本名は万助。田中伊蔵の子。のちに母方の姓・中垣に改姓した。幼いころから画を好み、12歳の時に吉嗣楳仙に入門、楳仙没後は独学で研鑽した。大正12年、日本研美会・日本画推薦会主催の展覧会に出品して特選を受賞。昭和8年、福岡県南画家主催展でも特選を受賞している。九州南画院相談役を務め、久留米の酒井紫陽らの門人を育てた。昭和52年、98歳で死去した。

平島古僊(不明-不明)
吉嗣楳仙に南画を学んだ。昭和2年頃、朝倉郡夜須町に住んでいた。萱島秀山、瓜生涓泉、中垣楳山と同門。

瓜生涓泉(不明-不明)
吉嗣楳仙に南画を学んだ。昭和4年頃、嘉穂郡穂波村に住んでいた。



吉嗣拝山年譜考證
勉誠出版

筑前秋月藩御用絵師・斎藤秋圃と門人

2017-03-27 | 画人伝・福岡


文献:斎藤秋圃と筑前の絵師たち御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑

筑前秋月藩の御用絵師・斎藤秋圃(1769-1861)は、京都に生まれ、円山応挙に学び、応挙没後は森狙仙に師事したと伝えられる。大坂時代の秋圃は、新町遊郭の風俗を題材とした「葵氏艶譜」の刊行などで知られている。その後、秋月藩の御用絵師になるまで、九州を巡り、肥前有田では陶器の絵付けや下絵の制作を手掛けたとされる。60歳で藩の絵師を退き、退隠後は福岡や大宰府などに移り住み、91歳で没するまで自由な立場で盛んに絵筆を振るった。家督は長男の相光が継いだが、天保9年江戸で出奔し家は断絶された。門人には吉嗣楳仙(1817-1896)、萱島鶴栖(1827-1878)らがおり、秋圃後の大宰府画壇は、吉嗣家と萱島家が基礎を築いた。

斎藤秋圃(1769-1861)
明和6年京都生まれ。池上相常の子。幼名は市太郎。葵臻平、葵衛、又右エ門、宗右エ門とも称した。のちに斎藤姓に改めた。別号に相行、韋行、双鳩、土筆翁、穐圃、周圃、準旭庵、茗圃などがある。幼いころから画を好み、はじめ円山応挙に学び、応挙没後は兄弟子の森狙仙に師事したとされる。大坂時代は、遊郭・新町での日常生活や風物を軽妙に描いた「葵氏艶譜」三冊を刊行し、人気を博した。その後、長崎への画事修業を志し、途中、安芸の厳島に3年間滞在、その後博多に2ケ月滞在、有田では陶器の下絵や絵付けを試みた。長崎には享和2年、34歳の時に到着した。長崎では中国の画人・江稼圃に入門を申し入れたが、稼圃は秋圃の技量を認め、いまさら他流を学ぶ必要はないと称賛したと伝承されている。その評判が秋月藩主・黒田長舒の耳に入り、享和3年、35歳の時に秋月藩御用絵師に抱えられたとされる。秋月の「秋」と稼圃の「圃」をとって秋圃と号したとみられる。文政11年、60歳の時に家督を子の相光に譲り、秋月を去って博多に移り、のちに大宰府に移り住んだ。安政6年、91歳で死去した。



吉嗣楳仙(1817-1896)
文化14年生まれ。家は大宰府天満宮の神官。名は寛。別号に弄春園がある。梅仙、梅僊、楳僊などとも記した。はじめ斎藤秋圃に学び、のちに諸家に画を学んだ。明治25年に第1回内国絵画共進会に出品。絵馬の制作も多く、筑紫、筑豊地区を中心に100点以上が現在も残されている。明治29年、80歳で死去した。



萱島鶴栖(1827-1878)
文政10年生まれ。秋月藩士・渡辺長衛左右の六男、のちに萱島重吉の養子となった。名は棟、または英棟。通称は謙助。別号に鶴棲園、聴松、双松斎などがある。15歳の時から斎藤秋圃、桑原鳳井、石丸春牛、村田東圃らに学び、19歳で京都に出て前田暢堂に師事した。帰郷後は秋月藩主の寵遇を受け、幕末には藩士の列に加わったという。吉嗣楳仙に比べて遺作は少ないが、秋圃の後の大宰府画壇の基礎を吉嗣家とともに担った。明治11年、51歳で死去した。



秋月を往く
西日本新聞社

豊前小倉藩御用絵師・高木豊水と小倉の町絵師

2017-03-24 | 画人伝・福岡


文献:北九州ゆかりの絵師たち、御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き

小倉藩の御用絵師に関しては、残された史料が乏しく、存在さえも断片的にしか追跡できていない。記録に残るもっとも古い小倉藩御用絵師は、雲谷等益の門人で萩藩の絵師だった黒川等育で、小倉藩二代藩主・小笠原忠雄の時代、絵の修業のため九州を巡り、小倉を訪れた際、忠雄の所望に応じて描いた画が気に入られ、召し抱えられたとされる。次いで嘉永4年の『分限帳』に「画師」として山本一計と高木豊水の名前がある。山本に関しては経歴や作品がまったく不明である。高木豊水(不明-1858)は豊後日田生まれで、京都で四条派の岡本豊彦に学び、その後小倉に移り住んだ。門人に小倉藩の支藩である千束藩御用絵師の柏木蜂溪(不明-1879)がいる。小倉の町絵師としては、文化文政の頃に加賀国から小倉に移り住んだ四条派の石南園(不明-不明)、京都留守居役の西田直養との親交で小倉に来た円山派の村田応成(1816-1877)らがいる。

高木豊水(不明-1858)
豊後日田生まれ。小倉藩御用絵師。名は巌。別号に青峨、筆庵などがある。桑屋和兵衛の二男で、のちに高木家の養子となった。広瀬淡窓と交遊があり、淡窓の日記にしばしば登場する。それによると日田で冀龍に画の手ほどきを受け、のちに京都に出て岡本豊彦に学んだとされる。淡窓の日記によると天保12年に小倉に移り住み、その後小倉藩に絵師として召し抱えられたとみられる。門人に柏木蜂溪がいる。安政5年死去した。

柏木蜂溪(不明-1879)
豊前京都郡大橋の人。初号は豊渓、のちに蜂渓と改めた。修業をはじめた時期は定かではないが、はじめ小倉に住んでいた四条派の画人・石南園に学び、その後同じ四条派で小倉藩御用絵師の高木豊水に師事した。嘉永年間に小倉藩の支藩である千束藩の御用絵師になったとされる。門人に馬場不別がいる。明治12年死去した。

村田応成(1816-1877)
文化13年生まれ。京都の出身で、円山派の絵師・円山応震に師事した。弘化2年、京都留守居をつとめ国学者としても知られる小倉藩士・西田直養の知遇によって小倉に移り住んだとされる。明治10年、62歳で死去した。

石南岳(不明-不明)
越前国大聖寺の出身で、小倉城下大坂町に住んでいた。円山派に属し、設色の花鳥画を得意とした。



石南園(不明-不明)
加賀国金沢の出身で、30歳くらいの時に小倉に移住した。四条派の画人で、石南岳の没後その画系を継いで石姓を名乗った。『龍銀成夢』では南岳の子としている。文政年中に死去した。



玉江蓬洲(1779-1848)
安永8年生まれ。小倉藩領の旧京都郡行事村(現行橋市)に本店を構える豪商・飴屋の七代当主。通称は彦右衛門、字は孝道。画を村上東洲に学び、咲羅屋旭の俳号を持つなど趣味人で、頼山陽、田能村竹田、岡本豊彦、雲華上人らと交遊した。弘化3年、70歳で死去した。



大庄屋走る―小倉藩・村役人の日記 (海鳥ブックス)
海鳥社

筑後柳河藩御用絵師・梅沢晴峩と北島勝永

2017-03-22 | 画人伝・福岡


文献:柳川の美術Ⅰ御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き

柳河藩においては、江戸初期から中期にかけての文書や書画類が多く焼失しており、御用絵師の存在を確認できるのは江戸後期になってからである。それ以前の柳河藩には、福岡藩の尾形家や久留米藩の三谷家のように代々家系を引き継いだ国住の御用絵師は存在しなかったのではないかと考えられている。確認できている御用絵師としては、江戸で御用をつとめた一代限りの絵師として梅沢晴峩(不明-1864)がいる。晴峩は木挽町狩野家で学んだ狩野派の絵師で、江戸城西ノ丸の障壁画復旧にも携わった。同じ頃、国元の柳川では、雲谷派に学んだ北島勝永がおり、仙蝶斎素峯、北野等永中野春翠も御用絵師であった可能姓は高い。

梅沢晴峩(不明-1864)
柳河藩江戸詰めの御用絵師。別号に素絢斎、春香がある。江戸木挽町狩野家の晴川院養信のもとで学び、天保9年に焼失した江戸城西ノ丸の障壁画復旧にも晴川院の弟子として加わった。生年は不明だが、北島勝永と同世代であったと思われる。晩年は、鬼童小路の西に屋敷を賜って移り住んだとされる。子供がいなかったので、北島勝永の高弟、中島某を養子としたが夭折。その後、養子となった馨は絵師として後を継がなかった。 文久4年死去した。



北島勝永(1795-1867)
寛政7年上宮永村生まれ。北島利平太善春の二男。名は十造。別号に幽谷がある。8歳の時に久留米藩御用絵師三谷家五代永錫映信に学び、ついで16歳の時には筑前博多に住む狩野派・眠蝶斎耕景に学んだ。さらに2年後に大坂に行き、森周峯に入門。その4年後には肥後細川藩御用絵師の矢野良勝のもとを訪れ雲谷派の画法を修めた。文政4年に師の良勝が没し、その翌年か翌々年に柳川に戻ったとされるが、その後の動向は明らかではない。慶応3年、73歳で死去した。

仙蝶斎素峯(不明-不明)
出来町竜蔵院の住職。多芸多能の人で、筑前の狩野派・眠蝶斎耕景の門人とされる。旧柳河藩主の立花家に作品が4点伝わっていることから、藩の御用絵師であった可能性は高い。福厳寺の板戸に描かれた人物密画は素峯の筆とされる。活動期は、北島勝永と同時期の江戸後期と思われる。弟子に冨次郎(南汀)がいる。

北野等永(1839-1915)
天保10年上宮永村生まれ。北島勝永の二男。別号に暘谷山人、山樵などがある。万延元年に北野甫哉の養子となって北野姓を継いだため、勝永と姓が異なる。御用絵師であったかどうかの史料は残っていないが、柳河藩分限帳に等永の藩への出任が確認される。また、北野家に伝来する史料の中に、藩用ととれる粉本がある。大正4年、77歳で死去した。

中野春翠(1838-1917)
天保9年北柳小路生まれ。中野彦市の二男。幼名は虎之助、のちに彦一。父の南強は柳河藩士で漢詩をよくした。幼いころから画を好み、はじめは隣家の斉藤末蔵に手ほどきを受け、さらに北島勝永に学んだ。文久元年、本格的に画を学ぶため京都に出て、鈴木百年の門に入った。元治元年、父にうながされ帰郷し、多病の兄にかわり嫡子として御広間御番をつとめた。維新後は、任一等黄隊伍長、陸軍軍曹給養掛、戸長、警察探索懸雇、町会議員をつとめ、そのかたわら画塾を開き、門弟を教育した。53歳から73歳まで高等小学校で図画教員をつとめた。大正6年、80歳で死去した。



柳川の殿(トン)さんとよばれて…―旧柳河藩第十六代当主立花和雄私史
梓書院

雲谷派が祖となった筑後久留米藩御用絵師・三谷家

2017-03-20 | 画人伝・福岡


文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き

安芸国広島に生まれた雲谷派の三谷等哲(不明-1630)は、主家の断絶とともに浪人となり、子の等悦とともに筑後の久留米に移住した。久留米藩二代藩主・有馬忠頼は、等哲・等悦父子の人格技量を認め、等哲没後に等悦を藩の御用絵師として召し抱えた。等悦には安俊(1634-1671)、安常(1634-1671)と二人の子がおり、ともに中橋狩野家の狩野永真安信に師事し雲谷派から狩野派に転じた。以後三谷家は狩野派を学んでいる。兄の安俊が家督を継ぎ、弟の安常は江戸で第一分家を興し初代となった。さらに安常の長男・永恕(不明-1761)は第二分家を興し、三谷家は三家に分裂した。
→参考:近世前期の広島画壇で主流として活躍した雲谷派

三谷等哲(不明-1630)
安芸国広島生まれ。広島藩主・福島正則の家臣・三谷七郎左衛門隆経の子。師は定かではないが雲谷派を学んだとされる。雲谷等顔の孫・雲谷等哲とは没年の相違から別人と考えられている。父と同様に福島家に仕え、同家の断絶とともに浪人となり、長男の等悦を連れて広島から久留米に移住した。有馬家に仕え絵師となったが、分限帳などの上で御用絵師として確認できるようになるのは子の等悦の代からである。寛永7年死去した。

三谷等悦(不明-1675)
安芸国広島生まれ。三谷本家初代。三谷等哲の長男。名は信重、通称は徳左衛門。別号に雲沢がある。15歳の時に父とともに久留米に移住し、父の没後、久留米藩の2代藩主・有馬忠頼に抱えられ御用絵師になった。子に安俊、安常がいる。延宝3年死去した。

三谷安俊(1634-1671)
寛永11年生まれ。三谷本家二代。三谷等悦の長男。名は安行、あるいは安歳。主命により15歳の時に中橋狩野家の狩野永真安信に師事し、祖父の雲谷派から狩野派に転じた。安俊以降、三谷家は狩野派となった。寛文11年、38歳で死去した。

三谷安常(不明-1724)
三谷第一分家初代。三谷等悦の二男。名は仁右衛門、芳次郎などと称した。法名は永玄。兄の安俊とともに中橋狩野家の狩野永真安信に師事した。子に江戸で分家を興した永恕、家督を継いだ元就らがいる。娘は安常の兄・安俊の養子・永伯のもとに嫁いだ。享保9年死去した。

三谷永伯邑信(1663-1739)
寛文3年生まれ。三谷本家三代。筑後泉屋松島氏の子で、三谷安俊の養子となった。名は徳之助、または與助。安清、安明と称した。養父と同じく中橋狩野家の狩野永真安信に師事し、安信没後は孫の永叔の門人となった。晩年に久留米に帰った。元文4年、77歳で死去した。

三谷永雪白信(不明-1756)
三谷本家四代。三谷永伯邑信の長男。江戸に出て中橋狩野家の狩野永叔に師事し、永叔没後は同家の祐清法眼の門人となった。仙哲、永錫の2男に、娘1人がいたと伝わっている。宝暦6年死去した。

三谷永錫映信(1752-1822)
宝暦2年生まれ。三谷本家五代。三谷永雪白信の二男。兄の仙哲が早世したため5歳で家督を相続した。34歳で江戸に出て中橋狩野家の狩野法眼永徳(二代)に入門し、40歳で法橋に叙され、2年後には法眼の位に進んだ。子に勝浦と辰次郎の2男と1女がいる。15歳頃までは徳之助で以後は主常、高芳、狩野姓を得てからは映信と称した。文政5年、71歳で死去した。

三谷勝浦友信(不明-1845)
三谷本家六代。三谷永錫映信の長男。木挽町狩野の狩野伊川院栄信に入門、師没後は晴川院に学んだ。弘化2年死去した。

三谷三雄義信(1834-1880)
天保5年生まれ。三谷勝浦友信の三男。中橋狩野家の狩野永悳立信に入門したと伝わる。妻は川辺御楯の妹。虎次郎、繁記、主道などと名乗り、中年から狩野左京之進、楽山亭永錫などと号した。当時の世評は高く、「生き絵書きの三雄」などと称されたという。明治13年、47歳で死去した。

三谷友林主郷(1819-1864)
文政2年生まれ。三谷本家七代。三谷勝浦友信の弟子だった池田氏の子で、勝浦の養子となって家督を継いだ。勝浦の長男である勝竹は江戸に分家し、二男泰蔵は早世、三男三雄はまだ幼かったため、友林が養子となって三谷家に迎えられた。修業のことは明らかではないが、狩野の絵を手本に学んだらしい。文久4年、46歳で死去した。

三谷真澄澹園(1851-1928)
嘉永4年生まれ。三谷本家八代。三谷友林主郷の長男。別号に澹園、山谷がある。13歳の時から5年間は分家の勝波とその子・友信に学んだ。のちに三雄にも学んでいる。中年以降は西洋画を学び、久留米高等小学の図画教師をつとめた。昭和3年、78歳で死去した。

三谷永恕淵信(不明-1761)
三谷第二分家初代。三谷安常の長男。名は永湖、または茂信。別号に含章斉がある。狩野永叔に学び、狩野姓および「永」と「信」の字を許された。享保7年に江戸居住を命じられ、江戸に第二分家をたてた。宝暦11年死去した。

三谷元就柳眼(1687-1748)
貞享4年生まれ。三谷第一分家二代。三谷安常の二男。別号に柳眼、桃花斉がある。兄の永恕が江戸に分家したため家督を継いだ。正徳年中に永伯、永恕らとともに久留米城内の障壁を描いた。寛延元年、62歳で死去した。

三谷宗恕主邑(1702-1769)
元禄15年生まれ。三谷第一分家三代。元就の子が幼くして亡くなったため養子となって家督を継いだ。明和6年、68歳で死去した。

三谷仙八主景(不明-1812)
三谷第一分家四代。名は仙柳。別号に一楊亭、仙立がある。宗恕に男子がいなかったため娘を妻とし家督を継いだ。文化9年死去した。

三谷永就資信(不明-1825)
宝暦10年生まれ。三谷第一分家五代。三谷仙八主景の子。狩野法眼永徳(二代)に師事した。寛政9年に法橋に叙され、62歳の時に法眼の位に叙せられた。天明6年には尚古斎と号した。文政8年、66歳で死去した。

三谷勝波方信(1805-1869)
文化2年生まれ。三谷第一分家六代。父は大島氏で、三谷永就資信の養子となった。理由は明らかではないが、本家二代の安俊以来代々師事し続けていた中橋狩野家を離れ、木挽町狩野家の伊川院栄信のもとに入門した。嘉永4年に法橋に叙され、のちには法眼の位にも叙された。明治2年、65歳で死去した。

三谷勝沢有信(1842-1928)
天保11年生まれ。三谷勝波方信の長男。幼名は虎三郎。のちに狩野勝沢と称した。安政6年、17歳で木挽町狩野家の狩野勝川院に入門し、20歳の時に狩野姓を許され狩野勝沢と称した。狩野芳崖、橋本雅邦は同門。明治に入ると長崎や東京で西洋画法を研究、県会議員、初代久留米市会議長をつとめる一方、内国絵画共進会、東洋絵画共進会などに出品した。明治40年には政界を引退して画業に専念した。大正14年、東京において84歳で死去した。



日本の美術 no.323 雲谷等顔とその一派
至文堂

福岡藩御用絵師・衣笠家と上田家

2017-03-17 | 画人伝・福岡


文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム狩野派と福岡展筑前名家人物志福岡県日本画 古今画人名鑑斎藤秋圃と筑前の絵師たち

福岡藩御用絵師筆頭の尾形家が、藩主画像や城郭殿舎の内部絵付、席画や寺社の寄進画の制作などを主な仕事にしていたのに比べ、次席に位置する衣笠家が藩主画像や席画の御用にあたった形跡はほとんどなく、絵図の御用が多かったとみられる。福岡藩の御用絵師はすべて狩野派だったが、衣笠家では大和絵風の主題や趣致によるものが多く残っている。また、初代守昌は「牛馬図屏風」のような漢画風の作品も描いている。衣笠家は、初代守昌から8代続いたが、8代守正の時に明治政府ができ、御用絵師も廃業になったため、守正は市中で画塾を開き、画事を続けた。その門下からは近代福岡の代表的日本画家である冨田溪仙が出ている。上田家は衣笠家とほぼ同格の家柄で、衣笠家と同じく藩主画像や席画をつとめた形跡はなく、特徴としては仏画、道釈画、頂相などに多くの作品が残っている。

衣笠守昌(不明-1705)
福岡藩御用絵師衣笠家初代。通称は半助。駿毛翁と号した。黒田家3代藩主光之と4代綱政に仕えた。狩野探幽の門人だったとされ、探幽守信から一字を拝領し守昌と号したと思われる。幕府の命によって元禄10年に始まった国絵図の制作に子の守弘とともに携わった。宝永2年死去した。

衣笠守弘(不明-1743)
福岡藩御用絵師衣笠家2代。衣笠守昌の子。通称は半太夫、のちに半助、または守重守高などと称した。狩野探幽の門人とされる。享保19年継高公が家老吉田家にお成りの節竹翁吉田治年の命により押込の戸に鶴亀松竹の絵を描いたことで知られる。晩年にかけて入道して要人と号したらしい。寛保3年死去した。

衣笠守恒(不明-1758)
福岡藩御用絵師衣笠家3代。衣笠守弘の子。宝暦8年死去した。

衣笠守岡(不明-1789)
福岡藩御用絵師衣笠家4代。衣笠守恒の子。名は半蔵、はじめ守雄といった。寛政元年死去した。

衣笠守起(不明-1798)
福岡藩御用絵師衣笠家5代。名は要、はじめ万平次といった。寛政10年死去した。



衣笠守由(1785-1852)
天明5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家6代。東長兵衛の二男。衣笠守起の養子となり家督を継いだ。通称は久之助、のちに要。福草舎と号した。黒田斉清と長溥に仕えたと思われる。桑原鳳井の最初の師とされる。嘉永5年、68歳で死去した。

衣笠守是(1822-1894)
文政5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家7代。高木延蔵の子。衣笠守由の養子となって家督を継いだ。通称は半蔵。華旭斉、翻叟と号した。明治27年、73歳で死去した。

衣笠守正(1852-1912)
嘉永5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家8代。通称は八郎。探谷と号した。冨田溪仙の最初の師。大正元年、61歳で死去した。

上田永朴(1656-不明)
明暦2年生まれ。名は主常、通称は権太郎。上田太兵衛の子。はじめ父に学び、のちに狩野昌運の門に入ったと思われる。その後、江戸に出て中橋狩野家永叔主信に学び、さらに木挽町の養朴常信にも師事したことが伝えられている。鷲峯斎と号した。享保13年以降、73歳以上で死去した。

上田主親(不明-不明)
上田永朴の長男。狩野主信の門人。黒田家に仕えた。

上田主治(不明-不明)
生没年および生涯についてほとんど不明だが、上田家の一族とされる。江戸の狩野家で本格的に修業した絵師であることが知られる。博多聖福寺、承天寺に作品が残っている。



福岡藩 (シリーズ藩物語)
現代書館

福岡藩御用絵師尾形家の絵師

2017-03-15 | 画人伝・福岡


文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム狩野派と福岡展福岡県日本画 古今画人名鑑筑前名家人物志

尾形家は、6代洞谷(1753-1817)の代になって、師家を鍛冶橋狩野家から駿河台狩野家に変更した。また、姓を公式に小方から尾形に改めたのも洞谷の代だった。7代の洞霄(1791-1863)は駿河台狩野家に入門し、江戸滞在中に洞谷の養子となった。嘉永4年、黒田藩江戸新御殿内部装飾の際には、子の8代探香(1812-1868)とともに、同門の秋元藩絵師・坪山洞山とその養子洞郁(のちの河鍋暁斎)らと、書院、座敷の障壁や天井に筆をふるった。慶応2年、洞眠(不明-1895)が9代を継いだが、明治元年家業御免となり、尾形家最後の絵師となった。

尾形洞谷(1753-1817)
宝暦3年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家6代。藩士・納屋与兵衛の子。名は与市郎。12、3歳の時に尾形家に入門したと思われる。明和5年に同門多数の中から選ばれ守厚の養子となった。この頃養父の一字をとって「守周」と名乗った。天明元年養父が急逝したため家督を継いだ。初代以来師事してきた鍛冶橋家から駿河台狩野家への師家を変更し、駿河台狩野家の狩野洞春美信に師事し「洞谷美淵」の名を授かり、以後守義以来の「守」の字を廃止することになった。文化14年、65歳で死去した。

尾形洞霄(1791-1863)
寛政3年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家7代。幼名は大機。別号に聴松などがある。博多商人の子。享和元年頃洞谷に連れられて江戸に上がり、駿河台狩野家洞白愛信に師事。江戸滞在中の文化元年洞谷の養子となった。文化8年洞白から洞霄愛遠の号をもらい、10年越の修業を終えて帰郷した。晩年は聴松と号した。文久3年、73歳で死去した。

尾形探香(1812-1868)
文化9年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家8代。尾形洞霄の長男。名は守葆。天保5年、参勤交代に従って江戸に行き、鍛冶橋狩野家に入門、探信守道に師事したと思われる。2代続いた駿河台狩野家との関係が一旦途絶えた。翌年の探信死去後は、子の深淵守真についたと考えられる。嘉永4年の黒田藩江戸新御殿内部装飾の御用を父とともに務めた。嘉永6年には長崎に赴き、来航中のロシア人使節団を活写して記録に残した。慶応4年、57歳で死去した。

尾形洞眠(不明-1895)
福岡藩御用絵師尾形家9代。名は守運、初名は幸吉。尾形探香の長男。画を祖父の洞霄に学んだ。10歳の時に祖父に連れられ江戸に行き、駿河台狩野の洞春陽信に師事したと思われ、洞眠陽晴と号するようになった。慶応2年家督を継いだが、明治元年家業御免となり、尾形家最後の絵師となった。明治28年死去した。

尾形洞水(不明-1807)
6代洞谷の実子として生まれたが、尾形家を継がなかった。駿河台狩野家洞白愛信に師事したと推測される。「尾形家累系」によると、狩野を学ぶかたわら洋画を研究したとあるが、遺作が少なく確認されていない。文化4年死去した。24歳の早世だったと推定される。



障屏画と狩野派 (辻惟雄集 第3巻)
岩波書店

狩野探幽門下四天王と称された尾形家2代守義と狩野姓を許された3代守房

2017-03-13 | 画人伝・福岡


文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム狩野派と福岡展福岡県日本画 古今画人名鑑筑前名家人物志

福岡藩の御用絵師はすべて狩野派で、尾形家、衣笠家、上田家の3家が代々世襲で家督を継いだ。他にも、熊本氏、小森氏、佐伯氏、笠間氏など一代限りまたは随時に抱えられたと思われる絵師も少なくない。最も高禄だったのが尾形家で、その中で特に優れた画技を持った画家とされるのが、2代守義と3代守房である。二人はともに狩野探幽の門人で、2代守義は探幽門下四天王のひとりと称されるほどの技量を誇っていた。3代守房は兄弟子である守義に見込まれ、尾形家の養子となって家督を継ぎ、のちに一代限りの狩野姓を許され「狩野友元」と名乗った。尾形家で唯一法橋にも叙されている。3代守房の門人には狩野派画学の入門書ともいうべき『画筌』を著した林守篤がおり、ほかには風間花車堂、小森守春、大田守章、上林房峯、中島守住、三隅房安らの名前が『筑前名家人物志』にあるが、経歴は多くは伝わっていない。

小方(尾形)守房〔狩野友元〕(不明-1732)
下野国宇都宮生まれ。福岡藩御用絵師尾形家3代。狩野探幽に師事した。そこで同門の先輩であり、探幽門下の四天王のひとりと謳われた小方守義に望まれて養子となり、のちに尾形家の家督を継いだ。旧姓は野中。その後、狩野宗家中橋家の狩野永叔の門に入り直し、宝永6年頃に一代限りの狩野姓を許され、信の一字を拝領して狩野幽元(友元)重信を名乗ることとなった。また、尾形家の絵師ではただひとり法橋に叙せられている。享保17年死去した。

小方(尾形)守義(1643-1682)
寛永20年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家2代。小方仲由の子。通称は藤助、または又兵衛。別号に柳園子がある。君主の命により狩野探幽に師事した。久隅守景、桃田柳栄、神足守周と並んで探幽門下の四天王と称された。修業時代は牛之助と名乗り、寛文6年頃に師探幽守信の一字を拝領して牛之助守義と名乗りはじめた。寛文9年の父の死去により家督を相続し、牛之助を仁兵衛に改め、仁兵衛守義と名乗った。天和2年、40歳で死去した。

小方(尾形)仲由(不明-1669)
福岡藩御用絵師尾形家の初代。名は仁兵衛。はじめ雲谷派を学び、のちに狩野探幽の門に入った。晩年は剃髪し全白と号した。寛文9年死去した。

小方(尾形)守等(1695-1772)
元禄8年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家4代。小方守房の子。名ははじめ彦七、享保16年に家督を相続して仁兵衛に改めた。この頃から父の一字をもらい「守等」と称したと思われる。別号に一角などがある。「筑前国産物絵図帳」に公務として産物の写生画を描いた。明和9年、78歳で死去した。

小方(尾形)守厚(1721-1781)
享保6年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家5代。福岡藩士・花房久氏左衛門の子。別号に鶴隣斎がある。10歳前後で尾形家に入門したと思われ、遅くとも寛保2年からは師の一字を許され「守厚」を名乗ったとみられる。翌年から修業のため江戸に滞在し、狩野家鍛冶橋家で学んだようで、探幽作品の模写が多く残っている。延享3年小方守等の養子となった。画技は後に「画墨色ウルハシク妙手ナリ」と評されるほどで、寛延4年、義父の退隠により守厚が家督を継いで以来、尾形家はかつてないほど多数の門人を迎えたという。天明元年、61歳で死去した。



狩野探幽 (日本の美術 No.194)
至文堂

筑前福岡藩御用絵師となった狩野宗家中橋家の狩野昌運

2017-03-10 | 画人伝・福岡


文献:特別展 御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム、狩野派と福岡展、筑前名家人物志福岡県日本画 古今画人名鑑

狩野宗家中橋家で組織の確認と整備を図り、宗家の大番頭と称されていた狩野昌運(1637-1702)は、筑前福岡藩の第4代藩主・黒田綱政に招かれ、晩年の10年余りを福岡藩御用絵師として過ごした。絵師のなかでも最も高位に格付けされていたと思われ、担当した絵事は、藩主の御前での席画、寺社への奉納画が中心で、城内座敷などにも描いたとされる。また、古画の鑑定や子弟の教育にも力を注ぎ、古画の鑑定については昌運及び子の一信(1680-1756)が独占していたとされる。昌運没後は子の一信が跡を継いだが、のちに画業を廃して福岡藩士となった。

狩野昌運(1637-1702)
寛永14年下野国宇都宮生まれ。岩本可武の三男。「和田上坂系図」によれば祖先は足利氏に仕えていた維政で、その孫(昌運の祖父)可信の代に宇都宮に移り岩本姓を名乗ったとされる。幼名は権四郎、名は季信、通称は市右衛門。別号に釣深斎がある。江戸に住み、14歳の時に中橋狩野家の狩野安信に学び、21歳の時にほぼ修業が終わり、安信から絵事を任され、師の晩年は代筆を頼まれることも多かったという。また、安信が著した狩野派の本格的画論『画道要訣』に関しても口述筆記を任されている。一方で京都の狩野了昌と親しく、のちに養子となって狩野の姓を継ぎ、江戸と京都で活動した。この頃から昌運季信と名乗ったと思われる。時期は定かではないが、のちに法橋に叙された。貞享2年の安信の死去に際して、遺言状に孫の永叔が幼年のため昌運に家督を譲るとあったが、これを辞退し、永叔の貢献人として中橋家を盛り立てる立場にとどまった。その際、弟子に狩野姓を許可する権限を中橋家が占有できるよう老中・阿部豊後守に働きかけ、他家の弟子がその免許を得るにはいったん永叔に入門しなくてはならなくした。元禄3年頃から黒田綱政に招かれ筑前福岡藩の御用絵師となった。著書に『昌運筆記』がある。元禄15年、66歳で死去した。

岩本一信(1680-1756)
延宝8年江戸生まれ。狩野昌運の子。名は久米之助、のちに岩本條之助と改めた。別号に珍止堂、松雲斉、白雉堂などがある。母は遠州掛川の城主・北條出羽守氏重の娘。母の縁で筑前福岡の綱政の愛顧を受け、母とともに福岡に移った。父の昌運没後は跡を継いだが、のちに画業を廃して福岡藩士となった。博多崇福寺に三十三身の観音像を、筑前松源院に五千人の人物からなる関ヶ原の合戦図を描いた。宝暦6年、77歳で死去した。

黒田綱政(1659-1711)
万治2年生まれ。福岡藩の第4代藩主。黒田家は狩野派との結びつきが強く、綱政は自ら絵筆をとった藩主として名高い。画は狩野安信に学び、安信没後は狩野昌運に学んだ。さらに昌運を筑前に呼び、藩の御用絵師として召し抱えた。正徳元年、53歳で死去した。



別冊太陽131 狩野派決定版 (別冊太陽―日本のこころ)
平凡社

写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした前田寛治

2017-03-06 | 画人伝・鳥取


文献:近代洋画・中四国の画家たち展、前田寛治展-一九三〇年協会の仲間とともに-
参考:UAG美人画研究室(前田寛治)


鳥取県中部の中北条村国坂の農家の二男として生まれた前田寛治(1896-1930)は、倉吉中学を卒業後、東京美術学校を卒業して倉吉中学に赴任したばかりの中井金三の勧めもあって画家を志し、上京して東京美術学校に入学した。在学中から休暇ごとに帰郷し、中井が結成した「砂丘社」に創立当初から参加、鳥取の子供たちや田園ののどかな風景を好んで描き、叙情あふれる作品を多く残している。前田が美術学校卒業後にフランス留学を決意した際には、中井は我がことのようにその資金集めに奔走したという。前田はフランスから帰国した年に帝展で特選を受賞、その後も帝展で発表する一方、木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、佐伯祐三とともに「一九三〇年協会」を結成、意欲的な作品で当時の日本洋画界に新風を巻き起こした。さらに「前田写実研究所」を開設、後進の指導にあたるとともに、写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした。しかしほどなく病に倒れ、33歳の若さでその生涯を閉じることとなった。前田の没後、一九三〇年協会は活動を停止し、同年独立美術協会が結成されると、会員の大半が同会に加わり、一九三〇年協会は分裂し、解散した。

前田寛治(1896-1930)
明治29年中北条村国坂生まれ。倉吉中学で、東京美術学校を卒業した中井金三から石膏デッサンの指導を受けた。卒業後は中井の勧めもあって画家を志し、大正4年に上京、同郷の森岡柳蔵に連れられ黒田清輝を訪ね、白馬会葵橋洋画研究所を経て、大正5年に東京美術学校西洋画科に入学した。同級生には伊原宇三郎、鈴木千久馬、田口省吾、田中繁吉らがいた。大正9年には中井金三を中心に結成された砂丘社に参加、作品や詩を発表した。大正10年美術学校を卒業し同年の帝展に初入選、さらに翌年の平和記念東京博覧会で褒状を受賞した。画家として順調なスタートを切った前田は、倉敷で見た大原コレクションにヨーロッパへの思いを強め、パリ留学を決意した。

大正11年末から2年半パリに留学した前田だったが、その留学生活はけっして恵まれたものではなかった。しかし、制作には意欲的に取り組み、セザンヌ、ゴッホ、ブラマンク、キュビスムなど多様な描法を研究するとともに、クールベの写実主義にも着目、一時期、労働者や工場の風景も描いた。また、中学の同級生で社会主義思想家の福本和夫とも交流し、唯物史観的な思想に影響を受けた。パリ留学最後の年には、「西洋婦人像」や「ブルターニュの女」など、留学中の集大成ともいえる作品を描いている。

大正14年にフランスから帰国、同年の帝展で特選を受賞した。その後も帝展を発表の場とする一方、翌年にはパリで親交を深めた木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、佐伯祐三とともに「一九三〇年協会」を結成、意欲的な作品で当時の日本洋画界に新風を巻き起こした。以後は帝展、一九三〇年協会展を舞台に活動した。また、本郷の洋画研究所に「前田写実研究所」を開設し、後進の指導にあたるとともに、留学中の研究成果である著書『クルベエ』を出版するなど、多くの画論や随筆を発表、写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした。昭和4年、帝展で帝国美術院賞を受賞するが、翌年の昭和5年、病のため33歳で死去した。



写実の要件
中央公論美術出版

鳥取の近代的文化運動の中核となって活動した中井金三と砂丘社

2017-03-03 | 画人伝・鳥取


文献:鳥取県立博物館 郷土と博物館31、倉吉の美術100年展、前田利三遺作展

明治末期から大正にかけて、東京美術学校で学んだ新進気鋭の指導者たちが、鳥取中学、師範学校、倉吉中学に着任し、広く洋画が普及していった。さらに、大正末期から昭和初期になると、美術だけでなく芸術全般の活動が全県的に波及していく。この時期に中心的指導者の役割を果たしたのが中井金三(1883-1969)である。中井は東京美術学校卒業後、学内に残るよう勧められたが、家業が倒産したため帰郷して倉吉中学に勤め、前田寛治をはじめ、多くの教え子たちを育てた。また、大正9年には中井を慕って集まったメンバーたちと文化団体「砂丘社」を結成、絵画、文学、音楽など芸術全般にわたる普及活動をすすめ、鳥取における近代的文化運動の中核となって活動した。同時期に久米福衛を中心とした「黒鳳会」や、藤井禎三郎の「白鳳会」が結成され、多くの若者が芸術に目覚め、美術運動が盛んになっていった。「砂社社」の創立メンバーは、中井を中心に、卒業生の前田寛治、石亀正美、河本緑石(1897-1933)、増田英一(1901-1993)、卒業したばかりの高塚弥之助、前田利三(1902-1979)と、在校生の石亀忠利(1902-不明)、加藤晃だった。のちに小椋繁治(1888-1969)、波田野幸治(1892-1965)らも同人に加わった。

中井金三(1883-1969)
明治16年倉吉市中河原生まれ。実家は酒造家。明治30年に上京して銀座日本橋の自家酒販売店に居を定め、杉浦重剛の書生などをしながら日本中学を卒業した。明治37年に白馬会研究所でデッサンを学び、翌年東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝に師事した。青木繁の「海の幸」に感銘を受け、竹島、隠岐の島を取材、漁民をテーマにした卒業制作「河岸」を描き、代表作となった。卒業後も学内に残るよう勧められたが、家業倒産のため帰郷、倉吉中学の図画教師となり、卒業後に指導した前田寛治をはじめ、多くの教え子を美術系の学校に進学させた。大正9年には「砂丘社」を結成、鳥取における近代的文化運動の中核となって活動した。大正10年からは倉吉高等女学校も兼務した。外光派を基調とし、風景や静物を明るい色彩で描いた。特にバラを愛し、自宅の庭で育てたバラを題材に多くの作品を制作、「バラの画家」と称された。昭和44年、85歳で死去した。

河本緑石(1897-1933)
明治30年倉吉市福光生まれ。本名は義行。倉吉中学校卒業。盛岡高等農林学校卒業後、兵役についた。同校の一学年上にいた宮沢賢治と、文学同人誌「アザリア」を発行するなど交流を持った。四十連隊の入隊中「砂丘社」の結成に参加、同人誌では編集を担当した。自由律俳句や詩のほか油彩画も描いた。詩集『夢の破片』、遺稿集『大山』などの著書がある。昭和8年、水泳訓練中の事故のため、36歳で死去した。

増田英一(1901-1993)
明治34年生まれ。倉吉中学校卒業。大正9年名古屋高等工業学校建築科に入学、在学中に「砂丘社」の結成に参加した。大正11年に同校を中退して上京、川端画学校で藤島武二に師事した。兵役ののちに帰郷したが、昭和6年二科展に初入選したため、翌年再び上京して教職のかたわら本格的な制作活動をおこなった。昭和20年戦災によって作品と家財を失い再度帰郷した。昭和25年に倉吉美術展の創設に参加、以後、倉吉市展、鳥取県展などの審査員をつとめた。昭和33年日本水彩画会山陰支部の結成に参加、昭和44年から支部長をつとめ、水彩画の普及に尽力した。平成5年、92歳で死去した。

前田利三(1902-1979)
明治35年北条町国坂生まれ。倉吉中学校卒業。大正9年「砂丘社」の結成に参加した。同年上京し、川端画学校を経て翌年東京美術学校に入学した。在学中に中央美術社展、光風会展に入選した。卒業後は駒込林町に住み、横山潤之助、佐藤敬、永田一脩、浅野孟府らと同人展を開催した。昭和2年帝展に初入選した。昭和5年から14年まで神戸にいた砂丘社の仲間・石亀忠利の紹介で神戸市立諏訪山尋常小学校の図画専科教員として勤務した。昭和15年に中国に渡り、北京、天津で制作、翌年帰国し神戸市の小学校につとめたが、昭和24年帰郷した。以後、鳥取西高、倉吉東高などの美術講師をつとめるかたわら、倉吉美術協会創立に参加するなど、地元文化の向上に貢献した。昭和54年、77歳で死去した。

石亀忠利(1902-不明)
明治35年生まれ。倉吉中学校在学中に「砂丘社」の創立に参加し、以後メンバーとして活動した。大正11年の「砂丘」3号では、前田利三とともに編集を担当し、大正13年まで「砂丘」の表紙絵を描いた。

小椋繁治(1888-1969)
明治21年倉吉市新町生まれ。鳥取師範学校を中退し、検定試験によって教員免許を取得。関西美術院を経て大正8年に上京、本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事し、油彩、水彩の技法を学び、陶器の知識も得た。大正15年から「砂丘社」の同人になった。昭和2年から中国に渡り、天津を拠点に各地で制作した。昭和15年から日本水彩画会会員となり、昭和33年に増田英一らと山陰支部を結成した。戦前は、水彩画会展、二科展、一水会展などに出品、戦後は倉吉に戻り、倉吉市展、鳥取県展などの創立に尽力した。昭和44年、81歳で死去した。

波田野幸治(1892-1965)
明治25年倉吉市東仲生まれ。米子中学校から倉吉中学校に移り、卒業後、朝鮮に渡り教員養成所で資格を得て小学校の教員となった。帰国後の大正13年に「砂丘社」の同人になった。昭和40年、73歳で死去した。



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森岡柳蔵ら東京で学んだ鳥取出身の洋画家

2017-03-01 | 画人伝・鳥取


文献:甦る郷土の美術家たち、倉吉の美術100年展、米子美術館所蔵目録Ⅱ、鳥取県立博物館 美術資料(絵画)目録、没後50年森岡柳蔵展図録、生誕130年記念香田勝太展図録

遠藤董が伝えた油絵の技法や新しい洋画の思想によって、鳥取県の洋画界はしだいに活気を帯び、上京して美術を学ぶものも出てきた。森岡柳蔵(1878-1961)は明治31年に上京、黒田清輝の主宰する天真道場(のちの白馬会研究会)に学んだのち、東京美術学校に入学した。明治38年には香田勝太が同校に入学、藤田嗣治らとともに黒田清輝、和田英作に学んだ。二人とも卒業後は中央に残り、大正期にかけて文展や帝展で活躍した。また、砂丘社を創設し鳥取洋画の中心的指導者となる中井金三も、明治37年に上京し、翌年東京美術学校に入学している。

森岡柳蔵(1878-1961)
明治11年東郷町生まれ。小学校卒業後、倉吉の酒造家に奉公のかたわら画を描いた。20歳の頃に上京、黒田清輝の主宰する天真道場(のちに白馬会研究所と改称)に学んだのち、東京美術学校西洋画科選科に入学した。明治36年に卒業後、清国北京大学に2年間つとめた。明治44年に京都の染織家・龍村平蔵の工房で一年間図案の仕事をしたのち、東京に戻り文展などに出品した。大正11年から3年間フランスに留学し、前田寛治や藤田嗣治らと交遊しながら研鑽を積み、サロン展出品した。生来無口で、孤独を好み、絵を描くことを生活として楽しんだという。昭和36年、84歳で死去した。

香田勝太(1885-1946)
明治18年日野郡溝口町生まれ。明治38東京美術学校洋画科に入学、藤田嗣治らとともに黒田清輝、和田英作に学んだ。大正6年6月頃から森岡柳蔵らとともに、和田英作のもとで帝国劇場の壁画制作に従事し、完成後も引き続き藤田嗣治らと舞台背景画の制作に携わった。同年文展に初入選し、以後帝展、新文展に出品した。大正15年から昭和4年までフランスに渡り、サロン・ナショナル、サロン・ドートンヌなどに出品した。昭和6年東京女子美術専門学校西洋科教授に就任。昭和19年疎開のため帰郷し、翌年「疎開芸術家のクラブ」として、郷土ゆかりの辻晉堂、田渕巌、笹鹿彪、大江賢次らと「麓人会」を結成、地元の文化芸術活動の発展に貢献した。昭和21年、62歳で死去した。

田渕巌(1901-1986)
明治34年西伯郡会見町生まれ。大正10年上京して川端画学校び、翌年東京美術学校洋画科に入学、猪熊弦一郎らとともに藤島武二、黒田清輝に学んだ。昭和11年新制作派協会結成に参加。昭和19年疎開のため帰郷、香田勝太らとともに麓人会を結成。以後米子農工学校、米子東高等学校などで教鞭をとった。昭和61年、86歳で死去した。

笹鹿彪(1901-1977)
明治34年米子市生まれ。香田勝太帰郷展に感銘を受け画家を志すようになった。大正9年上京、本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事した。大正10年帝展に初入選し、以後連続で出品、日展評議員、参与をつとめた。大正13年焼失した本郷絵画研究所の再建、本郷絵画展(のちの春台美術展覧会)の結成につとめた。昭和20年に帰郷し、麓人会に参加した。昭和52年、76歳で死去した。



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