松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

松阪の画人

2015-06-29 | 画人伝・伊勢

文献:本居宣長と津の門人たち三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

関連:池大雅と韓天寿

松阪の文人としては、全国的に名高い国学者の本居宣長(1730-1801)がいる。宣長の門人は伊勢地方にも多くいるが、その中に目立った画業を残したものは見当たらない。他には、北海道の名付け親として知られる冒険家の松浦武四郎(1818-1888)、豪商で私立図書館をつくるなど教育と細民の救済にあたった竹川竹斎(1809-1882)、女性歌人の高畠式部(1785-1881)らが余技で画を残している。画人としては、谷川士清の門に学んだ三井丹丘、春木南溟の高弟とされる亀井南皐らがいる。

荒木是水(1657-1713)
明暦3年松阪町生まれ。名は山三郎、字は蔵六。佐々木志津麻に師事して書を学び、特に大字を得意とした。画もよくした。正徳3年、57歳で死去した。

三井丹丘(1729-1811)
享保14年飯高郡丹生生まれ。名は、字は伯顧、通称は建章。医を業とし、谷川士清の門で学び、師の要請により肖像を描いたものが残っている。文化8年死去した。

長井槐斎(1730-1786)
享保15年松阪中町生まれ。通称は環、別号に逸堂がある。医を業とし、書道に長じ、画も巧みだったという。天明6年、57歳で死去した。

鈴木豹斎(不明-1835)
松阪湊町の人。通称は小野屋利右衛門、名は英仲、字は禎吉、別号に有儘室がある。画法に心を傾け、年少の頃から四方に周遊し、蝦夷の地に入った。特に豹を多く描いたので豹斎と号したという。天保6年死去。

小津石斎(1785-1857)
天明5年松阪本町生まれ。通称長澄、別号に陳三碧、天青、崖釣隠などがある。伯母・小津慈源の養子となって新五郎と改名、のちに結婚して清左衛門と改めた。幼い頃から画を好み、13歳から津藩士・烟崖について山水花鳥を学んだ。のちに明清の名蹟を追慕し研究した。また、本居春庭に和歌を学び、千認得斎に学んで點茶の道にも入った。安政4年、73歳で死去した。

亀井南皐(1798-1855)
寛政10年松阪町大字殿町生まれ。名は退蔵、幼名は繁三郎、字は源密。幼い頃から画を好み、春木南溟に師事し高弟とされた。当時の松阪の画家はおおむね南皐の門に入ったという。安政2年、58歳で死去した。

三重(9)-ネット検索で出てこない画家


拙堂門下と津の画人たち

2015-06-25 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

川北梅山、中内樸堂と並び、斎藤拙堂門下三傑のひとりに数えられる土井ゴウ牙もまた書画をたしなみ、墨竹を多く残した。また、ゴウ牙の三男・宮橋慥軒、娘婿の須山素朴、拙堂に師事した櫻木春山、拙堂の子・斎藤誠軒らも書画にすぐれていた。ほかに津の画人としては、当時の名士と広く交友があった浜地庸山、岡田半江に師事した木村卓素、田能村竹田に師事した倉田澤上らがいる。

土井ゴウ牙(1817-1880) 「ゴウ」の漢字は「螯」の「虫」を「耳」
文化14年津生まれ。名は有恪、字は士恭、通称は幾之輔。初号は松径。津藩儒医・土井篤敬の二男。12歳で家を継ぎ、文学組冗員に充てられ、学を川村竹坡に受けた。のちに石川竹に経義を、斎藤拙堂に古文を学んだ。すべてにおいて優れており、拙堂が老いると藩の子弟はこぞってゴウ牙の門に入ったという。書画もよくし、特に墨竹を好んで描いた。紀州高野山の僧・大鵬の描いた墨竹巻物を所蔵し、この巻物により画技を研究したとされる。明治13年、64歳で死去した。

宮橋慥軒(1854-1886)
安政元年生まれ。名は得、通称は参三郎。土井ゴウ牙の三男。山田の宮橋家の養子となった。詩文および書画をよくした。明治19年、33歳で死去した。

須山素朴(1838-1865)                   
天保9年生まれ。須山三益の嗣子。字は徳夫、通称は道益。土井ゴウ牙の娘婿。ゴウ牙の門に入って儒学を修めた。ゴウ牙はその英才を愛し娘との結婚をとりもった。詩書に長じ、画も巧みで特に花鳥を得意とした。慶應元年、28歳で死去した。

櫻木春山(1822-1903)
文政5年津東検校町生まれ。須山三益の二男。諱は正宏、字は士毅、通称は彌十郎。櫻木家の養子に入った。はじめ楽山と号し、のちに春山と改めた。学問を好み、年少の頃に藩儒・三宅棠陽に学び、のちに斎藤拙堂、川村竹坡らにつき、詩文をよくした。余技に画を描き、山水が巧みだった。明治36年、83歳で死去した。

斎藤誠軒(1826-1876)
文政9年生まれ。名は正格、字は致卿、通称は徳太郎。のちに父の名を継いで徳蔵と改めた。斎藤拙堂の子。性格は温良で寡黙、しかも学力は深邃にして詩が巧みだった。余技で画をよくしたという。明治9年、51歳で死去した。

浜地庸山(1775-1835)
安永4年生まれ。櫛形の人。幼名は大助、名は任重、字は伯仁、通称は十郎兵衛。別号に画痴斎がある。幼い頃から詩文を好み、また画が上手かった。当時の名士たちと広く交友があった。貫名海屋、津阪東陽、大窪詩佛、岡本花亭、巻菱湖らとは詩文を語り、日根野対山、野呂介石、浦上春琴、岡田半江らと画法を論じたという。天保6年、71歳で死去した。

木村卓素(不明-1872)
安濃郡新町古河の人。岡田半江に師事した。明治5年、91歳で死去した。

安藤五琴(1806-1871)
文化3年生まれ。伊勢久居藩士。諱は参世、通称は榮左衛門、のちに權太夫と改めた。別号に静穏がある。3歳で父を亡くし、長じて儒学を佐野竹亭、河原田春江に学び、剣術を塚原流師範家に、槍術を宗藩内海雲石に、画を幸田皆春に学んだ。すべて堂に入ったものだったが、特に画に優れていた。文政10年に江戸詰めになった際には南宗画も研究したとされる。明治4年、66歳で死去した。

中尾篁汀(1840-1902)
天保11年生まれ。通称は平兵衛、字は元長。家は伊勢津北町にある代々続く旅館・野口屋。狂言師で藤井六三郎と称した。幼い頃から画を好み、野田半谷、池田雲樵に師事し、山水を得意とした。明治35年、63歳で死去した。

岡野石圃(不明-不明)
文政中の伊勢久居本町の人。名は享、字は元震、別号に雲津、大和主人がある。京都に住んでいて画名は高かった。清人・李漁の芥子園画伝による粉本の布置を初めて成し、これによって李漁の説が世に広まった。『石圃娯観集』『石圃百名山譜』など著書も多い。

岡松濤(不明-不明)
近代の人。津に住み画をよくしたと、明治初年版の津諸名士番附中に画家として掲載されている。

加藤豊春(不明-不明)
近代の人。一斗亭と称した。津市入江町に住み、染物を業とするかたわら画をよくした。

曾谷宗淨(不明-不明)
通称は彦右衛門。長曾我部家の画臣だったが、藤堂高虎の懇望によって津藩に仕えた。土佐派の名手とされる。大黒天を得意とした。

倉田澤上(不明-不明)
近代の人。名は孝信、字は子順。聲畫舫澤上漁人の号がある。津市澤の上で米問屋を営んでいた。田能村竹田に学び南画をよくした。

三重(8)-ネット検索で出てこない画家


斎藤拙堂の門人・宮崎青谷とその周辺の画人

2015-06-23 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

津藩士として藤堂家に仕えた斎藤拙堂(1797-1865)は、漢学者として名高く、多くの儒学者や文人と交流し、土井ゴウ牙、川北梅山、中内樸堂をはじめ多くの門人を育てた。その中には宮崎青谷のように画人として名をあげたものもいた。

宮崎青谷(1811-1866)
文化8年生まれ。名は定憲、字は士達、通称は彌三郎。津藩士。幼い頃から学問を好み、斎藤拙堂に従って学び養正寮句読師となるが、その翌年に暇をもらい京都に遊び、猪飼敬所に従って経学を学び、頼山陽に文章を学んだ。その後江戸に出て昌平黌で一年間学び帰郷した。画は米村醉翁に学び、「出藍の誉れあり」と賞賛された。のちに藩主・藤堂家が所蔵していた王建章の画法を学んで一家をなし、名は一時にして高まった。斎藤拙堂が大和の月ケ瀬に遊んだ際には青谷らも従って行き、帰ってから著した拙堂の代表作である『月瀬記勝』には、青谷が描いた梅渓の図が掲載されている。慶應2年、56歳で死去した。

米村醉翁(不明-不明)
文政年中の人。津の人で画をよくした。宮崎青谷は醉翁の門から出たとされる。

江村晴虹(不明-不明)
文政頃の人。津藩士で、南画をよくした。宮崎青谷、またはその門に学んだとされる。

富岡九峯(1845-1892)
弘化2年津市大門町生まれ。名は定礎、字は介石、幼名は石之助、通称は太郎兵衛。家は代々呉服商を営み、九峯は九代目。宮崎青谷と藤澤南岳について和漢の学を修め、詩画をよくした。画ははじめ青谷の画風を学び、のちに元明の画法に学んで山水を得意とした。多芸で、音楽、茶道などもよくした。明治25年、48歳で死去した。

永田梅石(1842-1880)
天保13年生まれ。安濃津東町の人。父は片岡五郎右衛門。幼い頃から画を好み、宮崎青谷に学んだ。明治13年、39歳で死去した。

谷口湘客(不明-不明)
近代の人。通称は徳蔵、俳号に之有がある。津藩士で、城西古河に住んでいた。川北梅山に漢学を、宮崎青谷に画を、中澤雪城に書礼を、八木芹舎に俳諧を学び、すべてにおいて優れていたという。大正の初年頃に80歳で死去した。

三重(7)-ネット検索で出てこない画家

 


伊勢津藩主・藤堂家と津藩士の画業

2015-06-19 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

伊勢津藩の藩主を代々つとめた藤堂家は文雅を好み、2代・高次、3代・高久、10代・高兌、11代・高猷、そして最後の藩主となった12代・高潔らは『三重県の画人伝』に掲載され、その画業が伝えられている。また藤堂家に仕えた津藩士にも、幸田皆春、高木文仙ら多くの画人が出ている。

幸田皆春(不明-1830)
伊勢久居の人で藤堂家に仕えた。通称は次右衛門。別号に静山、君晴、隨分軒などがある。画を好み公務の余暇に宋紫石に師事して山水花鳥をよくした。門人に安藤五琴、森田二齋らがいる。文政13年、77歳で死去した。

高木文仙(不明-1872)
江戸旗本の家に生まれ、画を好み、弟に跡を継がせ自身は藤堂家に仕えて津市下部田に住んだ。初号は耳白、のちに文泉と号すが、藤堂家に仕えるようになってから泉の字をはばかり、文仙に改めたという。はじめ江戸で谷文晁の門に入り、のちに長崎の木下逸雲について南画を学んだ。斎藤拙堂、土井ゴウ牙、藤堂凌雲、池田雲樵、宮崎青谷、井野勿斎らと交友した。明治5年死去。

藤堂凌雲(1809-1886)
江戸の人で、津に来て住んでいたが、晩年はまた江戸に戻った。名は良驥、字は千里。藤堂梅花の子。山本梅逸の高弟で名をよく知られた。藤堂家の一族にして、斎藤拙堂、宮崎青谷、井野勿斎、池田雲樵らと共に藤堂高猷に仕えた。子の石樵もよく画をした。明治19年、78歳で死去した。

藤堂石樵(不明-不明)
津藩士。名は凌驥、通称は喜四郎。藤堂凌雲の子。詩書に巧みで養正寮書道副師となったが、維新の前に飄然と津を去った。

藤堂歸雲(1816-1887)
文化13年生まれ。名は藤堂高克、字は士儀、法号は常山。藤堂高芬の庶長子。津藩家老で、多技にして最も画を好んだ。明治20年、72歳で死去した。

松岡環翠(1818-1887)
文政元年生まれ。名は光訓、通称は橘四郎。はじめ幕府の儒員として翠山と号し、津に来て環翠と改めた。別号に蓮痴がある。五十嵐竹沙の門に学び、墨蓮画を得意とした。明治20年、58歳で死去した。

太田棲雲(1843-1901)
天保14年津市丸の内生まれ。幼名は熊之亟、字は朝周。別号に雨香堂、鳳仙、観伯などがある。津藩士で、代々弓術をもって仕えた。先祖は太田道観だと伝わっている。画を好み、幼い頃に池田雲樵に学んで画才を認められ、のちに椿椿山の門に入って研鑚を積んだ。また詩を土井ゴウ牙に、書を井野勿斎に学んだ。性格は恬淡磊落で、酒を好んで奇行が多かったという。門人には、横田地松雲、小津琢堂、田中洞仙らがいる。子の米所も画を描いた。明治34年、59歳で死去した。

曾谷定景(不明-不明)
津藩士。代々土佐派の画をもって仕えていた家柄で、曾谷家の七代。若い頃から画の才能を認められ、数代のうちでも特に達筆だったため、藩主の命で江戸に出て、住吉内記について研究していたが、嘉永の中頃、40歳に満たず死去した。

内海雲石(不明-不明)
文化天保頃の人。通称は左門。津藩士で鎗術の名家。余技に書画および文章をよくし、また俳諧に長じていた。池田雲樵は雲石の門から出たと伝わっている。

磯坂煙崖(不明-不明)
文化文政の人。津藩士で画をよくしたという。

中内江上(不明-不明)
明治初期の人。津藩士で、藩儒・中内撲堂の長男。余技に画をよくした。

中村竹汀(不明-不明)
近代の人。津藩士で書画をよくし、特に書が巧みで、画も雅致に富んでいた。

前田翠崖(不明-不明)
近代の人。津藩士で高田派鎗術の名家。画をよくした。

服部松斎(不明-不明)
近代の人。通称は十太夫。津藩士で余技に画をよくした。

野田半谷(不明-不明)
近代の人。津藩士で鎗術の名家。篆刻をよくし書画も巧みだった。

三重(6)-ネット検索で出てこない画家


増山雪斎と桑名の画人

2015-06-16 | 画人伝・伊勢

文献:増山雪斎~大名の美意識~三重県の画人伝

桑名の画人としては、沈南蘋風の花鳥や水墨を描き、文人大名と呼ばれた伊勢長島藩主・増山雪斎(1754-1819)が知られている。雪斎は文雅を好み、十時梅(1749-1804)や春木南湖(1759-1839)を招き、伊勢長島の文化の振興に尽くした。また、多くの文化人と交流し、木村兼葭堂(1736-1802)が過醸罪に問われた際には長島藩領の川尻村に隠棲させ庇護した。晩年は巣鴨の下屋敷で自適の生活を過ごし、虫類の精密な写生画である「虫豸帖」(東京国立博物館蔵)を残した。桑名には他に、雪斎の子である雪園、真宗高田派の住職・帆山花乃舎らをはじめ、桑名に移り住んだ星野文良らがいる。

増山雪園(1785-1842)
天明5年生まれ。増山雪斎の長男。父の影響を受けて自らも筆をとり、書画などを残している。また、漢詩もよくし、菊池五山の『五山堂詩話』にも、巻七、補遺一と二度にわたり計7作が掲載されている。天保13年死去。

星野文良(1798-1846)
寛政10年奥州白河生まれ。名は文輔。楽翁公に仕え、主家移封ののちに桑名に住んだ。公の命によって谷文晁の門で学んだ。巨野泉祐の兄弟子。弘化3年、49歳で死去した。

帆山花乃舎(1823-1894)
文政6年桑名町生まれ。名は唯念。真宗高田派の崇寺の住職。幼い頃から画を好み、渡辺周渓に学び、のちに浮田一に学んで土佐派を修め、これを固く守り決して私意を挟まず、人物花鳥、山水を描いた。安政年間に画院に入り、藤原信實、土佐光信らの古法を研究し、画所に招聘されて、師の一とともに土佐光文を補佐して、聖賢御障子の画に従事した。明治27年、72歳で死去した。

南合果堂(1798-1863)
寛政11年陸奥白川城内北小路に生まれ、のちに桑名町に移り住んだ。名は龍橘。南合蘭室の三男。幼い頃から文才を認められ、朱子学を志した。藩校の教授をつとめ、仙台藩士・大槻盤渓、会津藩士・山内香雪、熊本藩士・白木柏軒、幕臣・羽倉簡堂らと主に交友した。画を好み、谷文晁の門人である根本愚洲について画を学び、特に山水を得意とした。文久3年、65歳で死去した。

大塚南窓(不明-不明)
享和以前の人。名は龍雄、別号に桑海がある。桑名船馬町の荷問屋・大塚松兵衛の家に生まれた。画をよくし、美濃国に客居して同地に門人が多いと伝えられている。

栗本柳崖(不明-不明)
桑名の人。藩の分領・越後柏崎陣屋詰めの会計吏となった。画をよくし、特に山水を得意とした。

三重(5)-ネット検索で出てこない画家


伊勢の浮世絵師

2015-06-12 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

伊勢で浮世絵を描いた画人としては、月僊の高弟とされる西岡邦教に画を学び、月僊風の画を描いていた喜多村邦穀(1793-1853)が、のちになって浮世絵を試みた。『三重県の画人伝』には「浮世絵を画くに頗る妙を得たりと云う」と記されており、その技術の高さを伝えている。邦穀の画法は、その子豊春らによって引き継がれた。

喜多村豊春(1822-1882)
文政5年山田浦口町生まれ。名は光政、字は以讀、幼名は嘉四郎、のちに嘉讀と改めた。幼い頃から画を好み、父・邦穀に学んで浮世絵の画法を修め、さらに自ら研究を重ねた。名声を得て、当時の市の内外を問わず氏神祭礼の日に各所に掲げた大額の似顔絵は、多くが豊春の筆であったという。明治15年、60歳で死去した。

喜多村豊景(1842-1888)
天保13年山田浦口町生まれ。名は與太治、字は子明。喜多村豊春の弟。水溜米室の画流を汲んで、さらに改めた。神宮宮掌の職を拝し、明治2年、両大神宮御遷宮御図を描き、神宮文庫に収蔵されている。明治21年、47歳で死去した。

喜多村豊洲(1850-1901)
嘉永3年山田浦口町生まれ。幼名は嘉四郎。喜多村豊春の長男。幼い頃から父・豊春について浮世絵を学んだ。明治34年、51歳で死去した。

喜多村豊谷(1862-1893)
文久2年山田浦口町生まれ。名は豊谷。喜多村豊春の四男。父・豊春について浮世絵を学び、山水花鳥を得意とした。はじめ浦口町に住んでいたが、のちに八日市場町に移り住んだ。明治26年、32歳で死去した。

三重(4)-ネット検索で出てこない画家


尾張の画僧・月僊と伊勢の門人

2015-06-09 | 画人伝・伊勢

文献:三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

月僊(1741-1809)は、尾張国名古屋の商家に生まれ、7歳で得度し、10代で江戸の芝増上寺に入寺した。修行のかたわら桜井雪館に師事し、雪館の高弟の一人として目された。その後、江戸を離れて京の知恩院に移ったが、京における月僊の動向を伝える資料は乏しく詳細は明らかではないが、円山応挙に師事し、与謝蕪村に私淑していたようで、京都東山妙法院障壁画制作には応挙門人の一人として参加している。

34歳の時に当時荒廃していた伊勢の寂照寺の住持を命じられ、以後69歳で没するまで、この地で寺院復興に尽くし、貧民救済などの社会活動を積極的に行なうかたわら、多くの作品を残し、門人を育てた。伊勢の門人としては蒔田暢斎、西岡邦教、大谷蘭室、鈴木月湖らがあげられる。

蒔田暢斎(1738-1801)
元文3年生まれ。山田の人。通称は喜兵衛、隠居して亀六と改めた。別号に彪山、空波、鴻雁堂などがある。幼い頃から書を好み、長じてから古體の書風を学び、当時の名士、皆川淇園、月僊、元瑞、韓天寿らと親しく交遊した。特に月僊に書法を授け、また月僊から画を学んだ。書は唐宋などの古體文字を好んだ。また、開拓事業に熱心で、出資を惜しまなかったという。享和元年、64歳で死去した。

西岡邦教(1739-1815)
元文4年山田浦口町生まれ。諱は榮弘、俗称は右兵衛。画を月僊に学び、月僊の第一の高弟とされる。家号を「ゑびや」という。文化12年、77歳で死去した。

大谷蘭室(1789-1828)
寛政元年生まれ。山田上中之郷の人。字は公壽。土佐派の絵をよくしたが、月僊の弟子とされている。文政11年、39歳で死去した。

鈴木月湖(不明-不明)
安濃郡新町八丁の人。本名は主息、通称は四郎兵衛。画を好み、月僊の門に入って学んだ。

古森癡雲(1790-1858)
寛政2年山田浦口町生まれ。幼名は保の亟、通称は善右衛門、諱は厚保、字永信。別号に宜三小雲がある。退隠後は善佐と称した。幼い頃から画を好み、月僊の高弟とされる西岡邦教に学び、のちに小俣蠖庵について南画を学んだ。篆刻を好み、俳諧もよくし、多くの文人墨客と交遊した。安政5年、69歳で死去した。

三重(3)-ネット検索で出てこない画家


池大雅と韓天寿

2015-06-05 | 画人伝・伊勢

文献:韓天寿とその周辺三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳

曾我蕭白とともに伊勢地方を訪れた代表画家に、池大雅(1723-1776)がいる。大雅は特に松阪に多くの作品を残していて、これは京都に生まれ松阪に移り住んだ韓天寿の存在を抜きには語れない。

韓天寿(1727-1795)は、享保12年京都の青木家に生まれた。姓の「韓」は青木家の祖と言われる馬韓の余璋王によるもので、字は大年、本名は中川長四郎。中国・東晋の書家である王羲之や王献之に心酔し、号を「酔晋」とした。15歳の時に京都で池大雅、高芙蓉と出会い、この頃に松阪で両替商などを営む中川家の養子となり松阪に移り住み、33歳で第5代中川清三郎を継いだ。

松阪に移ってからも池大雅、高芙蓉との交遊は生涯変わらず続き、天寿が26歳の時には池大雅と玉瀾の結婚の晩酌をしている。34歳の時に3人連れ立って白山、立山、富士山を登山し、互いに「三岳道者」と称した。「書画」の大雅、「篆刻」の芙蓉、「法帖」の天寿として中国文人趣味の神髄に迫った。

天寿は、当時の摸刻墨帖の第一人者と称され、来日した朝鮮通信使たちにも賞賛されたという。その代表的な作品が『岡寺版集帖』である。『岡寺版集帖』は、親集帖十巻、子集帖十巻、孫集帖十巻、曾孫集帖七巻の計37巻からなり、親集帖は安永9年頃の刊行で巻末に天寿と無倪の跋文がある。子集帖は寛政10年の刊行で天寿はすでに没しており、継寺八世住職の無倪和尚が天寿の遺志を継ぎ、刊行に尽力した。

池玉瀾(1728-1784)
享保13年京都生まれ。池大雅の妻。名は町、別号に松風、葛覃居などがある。玉瀾の母・百合は祇園の茶店で働いており、文学を好み、和歌をよくした。娘の玉瀾にも文学を推奨し、柳里恭(柳沢淇園)が在京の日、その門に入れた。淇園は自分の別号である「玉奎」の一字を取って玉瀾の号を与えたという。百合は自らの品行を慎みながら娘を育て、玉瀾は評判の佳人となった。池大雅との縁も百合が取り持ったもので、百合は池大雅が、貧窮を顧みず、書画を楽しみ、俗世間から離れた崇高な姿勢を貫いていることに痛く感じ入り、玉瀾に薦めて嫁がせたという。人々はお似合いの良縁だと祝福した。
玉瀾の画風は大雅によく似て、筆跡は巧みで、山水、四君子を得意とした。大雅は文学上の教育にも理解があり、結婚数年後には夫婦ともに名高くなり、高貴な席に招かれるようになったが、大雅は高名な画家ながら謙虚で、妻は夫に似て純朴だったという。大雅没後は京都東山眞葛原の大雅堂に住み、天明4年、57歳で死去した。

青木夙夜(不明-1802)
名は浚明、字は大初または夙夜、通称は荘石衛門。韓天寿の実父の二男。天寿を頼って松阪にたびたび逗留し、多くの作品を残している。なかでも伊孚九を臨書した魚町・長谷川家の「離合山水図」が知られている。大雅堂二世と称していた。大雅没後は、玉瀾が居る大雅堂に住み、また月峯、清亮と相次いで住んだといわれる。『近世雅画伝』によると、夙夜が大雅堂に住んでいた時は、門を閉じてなるべく世人と隔たるようにしていた。それは夙夜の性格によるもので、画の依頼者はもちろん、意気投合する話相手もなく、真の貧居であったという。寛政元年、大雅堂で病死した。

無倪(1744-1811)
寛保2年紀州藩士の宇治家に生まれた。諱は快雄、字は大寂、号は獅子吼堂。韓天寿が養子に入った中川家に隣接する岡寺山継松寺の八世。天寿が精魂込めた『岡寺版集帖』刊行の最大の協力者で、天寿亡き後も刊行に努めた。文化8年、68歳で死去した。

悟心元明(1711-1780)
正徳3年松阪本町生まれ。松阪の外科医・松本駝堂の二男。姓は松本、名は駄堂、通称は悟心。明千庵、一雨、逍遙と号した。相可の法泉寺の六代住職で、韓天寿、池大雅とも深く交わり、文人僧として詩、書画をよくした。天明5年、73歳で死去した。

三重(2)-ネット検索で出てこない画家


曾我蕭白と伊勢の門人

2015-06-02 | 画人伝・伊勢

文献:三重の近世絵画(三重県立美術館)、三重県の画人伝三重先賢傳・続三重先賢傳、続近世畸人伝

現在の三重県は、かつて伊勢国、伊賀国、志摩国と紀伊国の一部からなっており、江戸時代には上方と江戸を結ぶ交通の要所として栄えた。伊勢商人の活動にともなう経済発展や伊勢参宮の流行などもあり人的交流が盛んで、多くの画人たちもこの地を訪れ、伊勢の文化繁栄に大きく寄与した。

なかでも江戸中期に伊勢、伊賀を歴遊し、多くの創造的な大作とともに、少なくない奇行のエピソードを残した曾我蕭白の存在は大きい。蕭白の生涯は不明な点が多いが、この地で、浄明院住職の頑極、藤堂藩お抱えの儒者・奥田三角、松阪継松寺の僧・無倪、書家の韓天寿ら多くの文人たちと交友があったようだ。

蕭白研究で知られる桃沢如水の一節を再録した『三重県史談会々誌』と、如水の友人である三村竹清が加えた補遺によると、蕭白の伊勢における門人として、頑極、田中岷江、奥田三角、奥田龍渓があげられている。

頑極(1748-1808)
寛延元年伊勢椋本村生まれ。諱は祖隆。安濃津乙部の浄明院第7世住職。浄明院に転住する前には本山にあたる京都上京の興聖寺の住持を務めていた。興聖寺には蕭白一族の墓所があり、また、津藩主藤堂家は堂寺の大檀那であった。彫刻もよくし、刀味の鑑識にも優れていた。『続三重先賢伝』には、「性畫ヲ好ミ嘗テ曾我蕭白ト興聖寺ニ於テ其ノ人ト為リヲ共ニ爾汝ノ友タリ彼我ノ往來常ニ絶エス互ニ其ノ技ノ雌雄ヲ爭ヘリトイフ」と蕭白と頑極の関係を記している。文化5年、61歳で死去した。

田中岷江(1735-1816)
享保20年阿山郡東柘植村大字中柘植生まれ。名は忠光、通称は岩右衛門、別号に淳徳がある。田中忠興の子。根付作家として知られるが、画もよく描いた。作品には随所に「門人」らしく蕭白に追随する特徴が現れている。また、画風上の類似だけではなく、画系意識でも通ずるところがあるといわれる。岷江は落款に雪舟支流と記し、雪舟の画系上の末裔を匂わせているが、これは蕭白が同じ室町時代の画系曾我派の末裔を名乗っていることに似ている。『三重県の画人伝』では、岷江の画風と落款について「多くは水墨の草画にして龍鷲鷹皷腹狸白蔵主等豪壮にして奇怪なるもの多しその画風蕭白に似たるものあり或いは雪舟に類するものあり中には雪舟支流等楊等の落款を附すものあり」と記している。文化13年、81歳で死去した。

奥田三角(1703-1783)         
元禄16年生まれ。名は士亨、字は嘉甫、通称は宗四郎。別号に南山、蘭汀などがある。兄の奥田龍渓と同じく蕭白の画に賛を寄せている。幼い頃は柴原蘋州に学び、蘋州の勧めで京都に出て伊藤東涯門下で古学を修めた。のちに伊勢に戻り津藩に儒員として務めた。きわめて真率篤実な人物だったといわれるが、度が過ぎていたらしい。三角形を偏愛して、身の回りの物をすべて三角形にしなければ気が済まなかったという。号も「三角」にしている。『続近世畸人伝』二巻に登場しており、偏執的な性癖を伝える逸話が残っている。天明3年、81歳で死去した。

奥田龍渓(不明-不明)
奥田三角の兄。伊勢参宮街道沿い、松阪と斎宮の中間に位置する櫛田に生まれ、一時津藩に仕えていたが致仕して郷里に戻り大庄屋を継いだ。『存心』と題された龍渓の著書に蕭白が挿絵を描いている。いかにも酒席の戯れといった趣の画賛で、ふたりの親しい交遊の様子がしのばれる。

三重(1)-ネット検索で出てこない画家