松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

画壇を代表する多くの日本画家を輩出

2015-05-29 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:岐阜県の美術、岐阜県日本画 郷土画家・画人名簿

岐阜の代表的日本画家としては、愛知に生まれ岐阜に移り住んだ川合玉堂(1873-1957)をはじめ、恵那の前田青邨(1885-1977)、岐阜の川崎小虎(1886-1977)、稲葉の加藤栄三(1906-1972)、大垣の守屋多々志(1912-2003)、稲賀の加藤東一(1916-1996)らがいる。彼ら主要画家たちは修業と活躍の場を京都、あるいは東京に求めていたため、地域性はうかがえないが、のちの岐阜画壇の画家たちに大きな影響を与えた。

また、中央画壇を離れ紆余曲折しながらも独自の活動をした篠田柏邦、小島紫光、佐々木尚文、中川とも、小島一谿、長谷川朝風ら個性的な画家たちもまた、岐阜の後進たちを育て、現代岐阜画壇の発展に寄与した。

篠田柏邦(1883-1969)
明治15年岐阜生まれ。生家は岐阜で代々薬種商を営んでいた。名は十一郎。幼い頃から絵が好きで、近所に住む日本画家について学んだ。岐阜中学を卒業する頃には画家になる志しを固め、商人として大成させたいと願う両親の反対を押し切り、京都に出て今尾景年に四条派を学んだ。景年は柏邦を見込んで、今尾家を継がせるべく養子に迎えたが、その頃には、柏邦は伝統的な京都画壇に物足りなさを感じ始めており、新しい日本画が萌芽しつつあった東京画壇に目が向いていた。そしてついに、明治41年、24歳の時に東京美術学校日本画科に入学、松岡映丘、結城素明らの教えを受けることとなり、結果として今尾家との養子縁組は解消された。大正6年に第11回文展初入選、以後文展・帝展に出品、東京美術学校では助教授として若い画学生を教えた。しかし、昭和10年以降、東京を離れ、画壇からも姿を消した。昭和44年、85歳で死去した。

小島紫光(1889-1960)
明治22年稲葉郡那加村生まれ。生家は製糸業を営んでいた。本名は鉄之助。家業を手伝っていたが、28歳の時に織物の技術を修得するために京都に出て、そこで見た竹内栖鳳の絵に感銘を受け、四条派の菊池芳文塾に入門、芳文・契月親子の教えを受けた。入門した2年目の大正9年、第2回帝展に初入選、翌年の第3回展では特選候補となり、画壇からも注目されるようになった。しかし、大正12年に兄や妹を相次いで亡くしたこともあり、心境の変化をおこし郷里に戻った。以後は、岐阜市で設立した画塾「白耿社」で後進の指導にあたった。昭和16年には小塩美州、杉山祥司らと新興美術展を創立し、岐阜で初めて公募展を開いた。昭和35年、71で死去した。

佐々木尚文(1890-1970)
明治23年揖斐郡大野生まれ。生家は生薬屋を営んでいた。本名は武郎。地元の尋常高等小学校を出ると、知人の紹介で茶碗や皿の絵付けをする画工として多治見に出た。その頃から画家を志すようになり、明治末になって上京、川合玉堂の内弟子となった。当時の画壇は新団体結成の動きが活発で、尚文は中庸主義を主張していた日本画会の会員となり活動した。大正4年、25歳の時に文展初入選、以後昭和の初めまで官展に出品したが、昭和20年戦火を避けて長野市に疎開、戦後も上京することはなかった。昭和45年、80歳で死去した。

中川とも(1890-1982)
明治23年中津川生まれ。父親は代々続いた地主で、中津川町の戸長及び初代町長をつとめた。幼い頃から歌舞伎や人形浄瑠璃に親しんでいた。明治38年に中津川で母校の小学校教師となるが、上村松園や池田蕉園らを私淑し、密かに画家を志していた。その後、大垣高等女学校の美術教諭をしていた時に、北野恒富の門に入って日本画を学びはじめ、昭和6年、42歳の時に女学校を退職して画業に専念した。また中津川の女義太夫・竹本播玉に入門し、竹本播登と称し、恵那文楽や地芝居の人々とも交流を持った。この頃からモチーフとして歌舞伎・文楽を選ぶようになる。戦時中は、恵那市に疎開していた春陽会の水谷清に指導を受け、29年頃まで春陽会に油絵を出品するが、31年再び日本画に復帰し、その後は、従来の日本画に油絵の手法を加えた新境地を目指した。昭和57年、93歳で死去した。

小島一谿(1899-1974)
明治32年渥見郡加納町生まれ。本名は重三郎。前号は一谷。幼い頃に父親の事業の関係で横浜に一家で移住した。横浜の高等学校を卒業後、川端絵画研究所洋画科に入って油絵を学んでいたが、十代半ばにして父が急死、映画の看板を描く仕事などをして家計を助けた。こうした生活を続けるなかで、同年輩で日本画家の中島清之らと知り合い、洋画から日本画に転向することになる。大正5年、同郷の先輩である前田青邨に師事、大正15年第13回院展に入選して以来院展を舞台に活動、昭和36年には奨励賞・白寿賞を受賞した。昭和49年、75歳で死去した。

長谷川朝風(1901-1977)
明治34年安八郡墨俣町生まれ。本名は慎一。大正7年、17歳の時に画家を志し、川端龍子の通信教授『スケッチ倶楽部』などを購読して独学で絵を始め、翌年には岐阜市在住の清水古関に師事、その翌年には京都の岡本濤に入門し画技を磨いた。大正11年1月に父親が急死するが、その年の4月に京都市立絵画専門学校予科に入学、翌年には関東大震災により京都に転任してきた近藤浩一路に師事する。昭和7年、浩一路が京都を離れ画塾が解散となり、山元春挙のもとで学ぶことになる。同年第12回帝展に初入選、13年に上京してからは院展に出品した。昭和20年、疎開のため岐阜に戻り画塾を開き後進の指導にあたった。23年に再度上京すると安田靫彦や奥村土牛に師事、幾度も師を変え、転居を繰り返しながらも真摯に画道を追究していった。昭和52年、75で死去した。

岐阜(20)-ネット検索で出てこない画家


虎図の大橋翠石と岐阜の動物画家

2015-05-27 | 画人伝・美濃、飛騨

虎図 大橋翠石

文献:岐阜県の美術、岐阜県日本画 郷土画家・画人名簿

多くの画家たちが京都画壇を目指すなか、大垣の大橋翠石(1865-1945)は東京に出て渡辺小華に師事し南画を学び、その後、動物画を研究し、特に虎図では写実に徹した独自の画法を確立した。

虎図は、室町の雪村、桃山から江戸初期にかけての狩野永徳や探幽、江戸中期の岸駒や円山応挙など、各時代を代表する画家たちが描き名作を残しているが、彼らの「虎図」は先達の図を模しながら創意を凝らして描かれたものだった。それに対して翠石の虎図は、生きた虎の写生が基盤になっているため、それまでの虎図にみられない写実性が見られる。

翠石と虎との運命的な出合いを『岐阜県の美術』(郷土出版社)では次のように記している。「明治20年の大垣中町(現柳原)の大火の跡地か、24年の濃尾震災による火事の跡地か定かではないが、火事の跡地に動物の見世物興業が来て、虎を見せたという。翠石ならずとも当時の人々には大変な驚きだっただろう。虎の姿に魅せられた翠石は、十日ほども通って虎を克明に写生し、たちまち人の噂になったという」

その後、翠石は明治28年、京都での第4回内国勧業博覧会に「虎図」を発表、初出品で褒状・銀牌を得て華々しいデビューを飾った。33年にはパリ万国博覧会で優等金牌を受賞、その後も内外の博覧会で受賞を重ね、「虎の翠石」としての地位を確立していった。その画風を慕い入門するものも多く、岐阜では翠石系の動物画家が多く育った。

大橋翠石(1865-1945)
慶応元年大垣生まれ。本名は卯三郎、通称は宇一郎。15歳の時に大垣の画家・戸田葆堂に南画を学び、19歳で京都に出て葆堂の師である天野方壷に師事した。一旦帰郷し、上京して渡辺小華に師事、模写や写生を主として蘭竹花卉を学んだ。明治25年、震災の焼け跡で虎の見世物があり、実際の虎を克明に写生して画技が大いに進んだ。明治28年京都青年絵画共進会で「猛虎」が二等賞、明治30年全国絵画共進会で「虎」が三等賞、同年日本絵画協会で「虎図」が三等褒状を受け、明治33年パリ万国博覧会で優等金牌を受賞するなど、その後も虎図で受賞を重ねた。昭和20年、81歳で死去した。

大橋万峯(1860-1943)
万延元年大垣市生まれ。名は鎌三郎。別号に対雲がある。大橋翠石の兄。動物画、特に虎を得意とした。昭和18年、84歳で死去した。

佐々木美山(1876-不明)
明治9年広島生まれ。大垣市に住んでいた。名は鶴次郎。別号に南風、鯉城がある。大橋翠石に師事し、動物画を得意とした。

佐藤翠谿(1884-不明)
明治17年大垣市浅草生まれ。新馬場町に住み、のちに岐阜市神田町に移った。名は常吉。別号に幽棲居、翠谷、寂照がある。大橋翠石に師事した。

高木美石(1887-1951)
明治20年養老郡多良生まれ。大垣市藤江町に住んでいた。名は操。大橋翠石に師事し、虎を得意とした。昭和26年、65歳で死去した。

玉置頼石(1899-1978)
明治32年揖斐郡池田町東野生まれ。名は勝之助。玉置頼山の父。大橋翠石に師事し、虎を得意とした。昭和53年、80歳で死去した。

青木玉雲(1900-不明)
明治33年池田町池野東町生まれ。光彩会所属。玉置頼石に師事し、動物画を得意とした。

加藤玉荘(1912-不明)
大正元年揖斐郡池田町上町生まれ。名は樫夫。玉置頼石に師事し、日本動物画協会に所属していた。

堀江玉鳳(1917-不明)
大正6年岐阜市加納生まれ。玉置頼石に師事し、日本動物画協会理事を務めた。

佐久間頼峯(1920-不明)
大正9年不破郡垂井町生まれ。玉置頼石に師事し、日本動物画協会会長を務めた。

国枝佳玉(1922-1997)
大正15年揖斐郡池田町生まれ。名は文雄。玉置頼石に師事し、日本動物画協会幹事を務めた。平成9年死去。

森田玉仙(1923-1993)
大正12年揖斐川町前島生まれ。名は留男。玉置頼石に師事し、日本動物画協会理事を務めた。平成5年死去。

富田翠波(1923-不明)
大正12年不破郡垂井町生まれ。小島紫光と玉置頼石に師事した。

玉置頼山(1924-不明)
大正13年生まれ。名は保慶。玉置頼石の子。

五十川玉邦(1927-不明)
昭和2年池田町生まれ。名は義昭。鎌倉市に住んでいた。玉置頼石に師事し、動物画を得意とした。

高井康州(1927-2004)
昭和2年美濃市生まれ。名は順子。玉置頼石に師事し、光彩会に所属していた。平成16年死去。

野村玉樵(1939-不明)
昭和14年安八郡神戸町生まれ。名は数幸。玉置頼石に師事し、光彩会や日本動物画協会に所属していた。

桑原玉晃(1940-不明)
昭和15年揖斐郡池田町生まれ。名は明。玉置頼石に師事した。

原玉園(不明-不明)
揖斐郡池田町の人。名は春子。玉置頼石に師事し、日本動物画協会に所属していた。

岐阜(19)-ネット検索で出てこない画家


京都画壇で学んだ飛騨の日本画家

2015-05-25 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:岐阜県の美術、飛騨人物事典京都画壇で学んだ岐阜の画家たち

飛騨に生まれて京都画壇で修業した日本画家のうち、塩川文麟に師事した垣内右☆・垣内雲☆父子(☆は共に「燐」の「火」を「山」)は、のちに金沢に移り金沢画壇で活躍した。山元春挙に師事した玉舎春輝は春挙・栖鳳門下を中心に設立された日本自由画壇の中心メンバーとして活躍。櫟文峰、富田令禾、谷口香泉、冠者幸作らは修業ののちに高山に戻り、それぞれが熟練した技術で飛騨の文化推進に貢献した。

垣内右☆(1825-1891)(☆は「燐」の「火」を「山」)
文政8年高山生まれ。名は直道。京都に出て、はじめ岡本豊彦に、のちに豊彦門下の塩川文麟に師事した。弘化2年頃までに高山に帰り、高山陣屋御用絵師になった。嘉永3年、飛騨総社神楽台鏡天井の雲龍図を描いた。翌年、再び京都に出て、この年から慶応年間にわたり岩倉具視に画工として仕えた。この間勤皇の志士らとも交わった。明治4年頃帰郷し、諸国遊歴の末、金沢市に移り画塾を開き金沢画壇で活躍した。明治24年、67歳で死去した。

垣内雲☆(1845-1919)(☆は「燐」の「火」を「山」)
弘化2年高山生まれ。垣内右☆の長子。名は微(徽とも)。はじめ父に学び、慶応3年頃に京都に出て、父と同じく塩川文麟に師事した。明治4年に帰郷後に諸国を遊歴。明治17年には京都府画学校で北宗の教官になった。明治24年父の急逝により金沢に移り画塾を引き継いで金沢画壇で活動するが、明治34年に東京に移り住み、日本美術協会や日本画会等で活動した。明治40年には文展不出品を宣言し、正派同志会の結成に参加した。大正8年、75歳で死去した。

玉舎春輝(1880-1948)
明治13年高山生まれ。豪農・清水家の五男。本名は秀次郎。別号に臥牛庵がある。飛騨市古川の陶器業の玉舎家の養子となった。明治32年京都に出て、はじめ鈴木松年を訪ねたが画風が合わず、原在泉に入門するが、伝統志向の原派にあきたらず、明治33年頃山元春挙に師事した。明治42年文展に初入選、以後文展に出品するが、大正8年に文展が廃止になり帝展になると、中堅作家を排斥し新進作家を抜擢する帝展に反発、帝展不出馬を表明した春挙・栖鳳門下らの有志と日本自由画壇を創設した。以後官展を離れ、同展を主な活躍の場とした。昭和23年、69歳で死去した。

櫟文峰(1891-1970)
明治24年高山生まれ。製果業者の次男。本名は順造。明治38年、京都に出て加藤英舟に師事する。大正2年文展初入選。翌年、英舟門を出て、傾倒していた竹内栖鳳のいる京都市立絵画専門学校に入学、翌年同校別科を修了した。大正10年、栖鳳門の橋本関雪の画塾に入り、関雪より多大な影響を受けた。昭和26年頃、妻子を京都に残し単身で高山に戻り、三福寺河畔の小庵で画作三昧の生活を送った。昭和45年、80歳で死去した。

富田令禾(1893-1985)
明治26年高山生まれ。富田豊彦の子。はじめ位峰と号し、のちに令禾に改めた。大正元年、東京美術学校に入学するが病気のため中退、大正5年、京都市立絵画専門学校別科に入学、菊池契月に師事した。昭和20年、疎開のために高山に帰郷、以後高山で飛騨美術協会、岐阜県美術展、黄玄会、高山市美術展覧会などに出品する一方、画塾を開き後進の指導にあたり、歌人、郷土史家としても活躍した。主な著書に『飛騨案内』『飛騨の伝説』『高山祭と屋台』などがある。昭和60年、93歳で死去した。

谷口香泉(1894-1954)
明治27年高山生まれ。酒造業の三男。本名は永造。生来、耳が不自由だった。大正3年、京都市立聾唖学校絵画科を卒業し、その後同校教諭だった望月玉泉の画塾に入ったが、生家が倒産したために志半ばで帰郷、母妹と姉が養子入りしていた清見の庄屋・島家の居候となる。家業を手伝いながら画作を続けたが、農地改革で島家も凋落し、本格的な画業はかなわなかった。昭和29年、61歳で死去した。

冠者幸作(1912-2012)
明治45年高山生まれ。本名は小作。14歳の時に京都に出て、富田令禾と木村斯光に師事した。師を通じて上村松園や土田麦僊らを知り、特に関東大震災のために京都に来ていた岸田劉生の影響を受けた。京都市展や大阪市展に出品していたが、昭和18年、戦争のため帰郷、戦後は高山は春慶塗の木地絵付けをする傍ら、飛騨美術協会、岐阜県美術展などに出品、制作を続けた。平成24年死去。

岐阜(18)-ネット検索で出てこない画家


京都画壇で学んだ美濃の日本画家

2015-05-20 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:岐阜県の美術、京都画壇で学んだ岐阜の画家たち

明治中期、全盛を誇った南画が衰退しはじめ、岐阜で画を志すものの多くは京都画壇を目指すようになった。岐阜の若者たちは、京都で画塾に入ったり、内弟子になったりして画の道を歩きはじめた。当時の京都画壇で主流をなしていたのは円山・四条派で、岐阜出身の画家たちの多くがその流派で学んでいる。

主な美濃の画家としては、幸野楳嶺に師事した川合玉堂、鈴木松年と久保田米僊に師事した仁林聾仙、今尾景年に師事した坂井藍涯・橘幽景、竹内栖鳳に師事した清水麓松・西尾楚江・清水古関・大矢峻嶺・池田虹影、山元春挙に師事した前田一鶯、栖鳳門下の徳田隣斎に学んだ土屋輝雄らがいる。そのほとんどが円山・四条派で、唯一土佐派の川辺御楯に大和絵を学んだ大熊秀斎も、のちに四条派の菊池契月に学んでいる。 

清水麓松(1863-1919)
文久3年大垣生まれ。初名は龍男、のちに昌造。画家を志し、京都の伯父・将曹正就の養子となり、四条派の幸野楳嶺に師事した。同門の竹内栖鳳と主席を競う腕前だったが、都合により破門となった。明治30年頃から長く高山を拠点に活動し、多くの作品を飛騨に残している。大正8年、57歳で高山で死去した。

仁林聾仙(1865-1935)
慶応元年大垣生まれ。本名繁三郎、または憲信。明治3年、5歳の時に内耳炎により聴覚を失った。はじめ狩野派に学び、15年頃、四条派の久保田米僊、のちに森寛斎に師事した。33年に帰郷、大垣に居を定めて制作を本格化させた。大正10年大垣出身で南満州鉄道総裁の野村龍太郎の招きで満州に渡った。大連でヤマトホテルの壁画6面を制作、その後も大連に住んでいたが、たびたび帰郷し郷里に多くの作品を残している。昭和10年、71歳で大連で死去した。

西尾楚江(1871-1938)
明治4年恵那生まれ。本名は玉次。京都府画学校に学んだ。はじめ幸野楳嶺に学び、のちに久保田米僊に入門した。明治23年、師の米僊の東京移住に伴い上京するが、1年余りで東京を去り、長く木曽山中に隠棲した。その間多くの展覧会に出品、36年に恵那に帰郷し、各地を遊歴し絵筆をとった。大正中頃は岐阜に住み、新聞の挿絵を描くほか、後進の指導にあたった。晩年は恵那に戻り、昭和13年、68歳で死去した。

大熊秀斎(1871-1938)
明治4年大垣生まれ。本名は斎。京都に出て川辺御楯に土佐派を学び、特に人物画を得意とした。明治27年に帰郷し、大熊家の養子となった。各展覧会に出品しながら活動していたが、44年再び京都に出て、菊池芳文に入門、芳文門の山田耕雲について花鳥画を学んだ。大正5年頃には帰郷し大垣に住んだ。昭和13年、68歳で死去した。

坂井藍涯(1873-1959)
明治6年大垣生まれ。本名は四郎。大正4年頃に藍涯から藍崖に改号。坂井青泉の父。明治20年頃上京し、奥村石蘭、橋本雅邦、松本楓湖らに学んだ。明治23年父の死により志半ばで帰郷するが、同年京都に出て、今尾景年に入門、同門の木島桜谷とは特に親しかった。明治26年、当時京都にいた川合玉堂と文通を始めた。展覧会で受賞を重ね将来を嘱望されたが、明治36年景年のもとを離れ帰郷した。昭和34年、87歳で死去した。

橘幽景(1878-1959)
明治11年垂井生まれ。本名は良順。月光山遊景寺住職の長男。明治22年近くの村で画と漢籍を教えていた北村素軒に学んだ。26年京都に出て、素軒の紹介で今尾景年に師事し、10年間門下で修業した。その間各展覧会に出品、32年には日本絵画協会、日本美術院連合絵画共進会で受賞するが、同年父の死により寺を継いだ。その後出品はしなかったが制作は続けた。昭和34年、82歳で死去した。

清水古関(1879-1949)
明治12年垂井生まれ。本名は信一。明治37年に京都市立美術学校専攻科を修了、竹内栖鳳と菊池芳文に師事した。同年清水本家の婿養子になり、42年事情により清水本家を去った。同年帰郷、岐阜市の叔父・遠藤孫良久方に寄寓し叔父より茶道や古美術について学んだ。明治43年頃から画塾・古関会を開き後進を指導、長谷川朝風や加藤栄三らを教えた。昭和24年、71歳で死去した。

前田一鶯(1890-1939)
明治23年安八生まれ。本名は賢一。東京美術学校を中退し、大正元年京都府巡査となるが、同年山元春挙の画塾・早苗会に入門し、巡査を退職した。早苗会展をはじめ帝国絵画院美術展覧会等に出品した。昭和8年から京都市に住み、昭和14年、50歳で死去した。

大矢峻嶺(1892-1967)
明治25年美濃加茂生まれ。本名は貫一。多治見の陶磁器や岐阜の提灯屋で絵付けをするなどして独学で絵を学んだ。明治44年京都に出て、竹内栖鳳門下の三木翠山に師事、大正2年には翠山の勧めで竹内栖鳳に師事し内弟子となった。5年には峻嶺の号を授かり竹杖会の会員になった。8年第1回帝展に初入選、その後は帝展、新文展を中心に出品した。昭和42年、76歳で死去した。

池田虹影(1892-1956)
明治25年郡上生まれ。本名は晴治郎。明治41年、京都に出て竹内栖鳳に師事した。同門の土田麦僊や小野竹喬とは特に親しく終生交友を重ねた。大正4年第9回文展に初入選し、以後文展、帝展、新文展を中心に活動。昭和31年、65歳で死去した。

土屋輝雄(1909-1962)
明治42年養老生まれ。土屋禮一の父。幼い頃から絵を好み、8歳で「虎図」を養老町妙智山即心寺に奉納した。昭和12年に、大垣に指導に来ていた徳田隣斎に入門し、隣斎の訪問や郵便で指導を受けた。20年隣斎が死去、25年名古屋の市野亨に師事し、師に倣って川端龍子主宰の青龍社に参加、以後青龍社展を中心に活動した。昭和37年、54歳で死去した。

岐阜(17)-ネット検索で出てこない画家


山本芳翠と洋風絵画

2015-05-18 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:岐阜県の美術

文明開化の新時代に入って南画と並んで盛り上がりをみせたのは洋風絵画だった。山本芳翠(1850-1906)は岐阜県恵那郡明知村に生まれ、京都で久保田雪江に南画を学んだが、明治初期に洋画に転じ、明治39年に没するまで日本洋画の土台づくりに携わった。

芳翠が南画から洋画に転じたきっかけは、横浜の町を歩いた時に五姓田芳柳の洋風絵画を偶然見たことだった。芳翠はその迫真性に驚き、これからの絵画は洋画の時代だと悟り、すぐに南画から洋画に転向して芳柳の塾に入ったという。その後、工芸美術学校で本格的な洋画を学び、明治11年にはフランスに渡りおよそ10年間滞在し、国立美術学校などでアカデミックな洋画を学んだ。

帰国後は画塾・生巧館を開いて、藤島武二、白滝幾之助、湯浅一郎、北蓮蔵ら次世代の洋画壇をになう人材を育てた。また、日本洋画を隆盛へと導いた明治美術会・白馬会の設立にも携わった。

芳翠らとともに、明治初期に日本洋画界で活躍した岐阜の画家に、大垣の渡部金秋と坂廣、付知の牧野伊三郎らがいる。また、明治中期以降では、長原孝太郎、渡部審也、北蓮蔵らが活躍した。そして、岐阜を代表する洋画家・熊谷守一が、明治41年、第2回文展でデビューする。

渡部金秋(1860-1905)
万延元年大垣生まれ。渡部審也の兄。はじめ狩野派を学んだが、上京して宮本三平について洋画を学び、その写実力を生かして、明治18年から25年まで東京帝大で動植物の写生に従事した。明治美術会や太平洋画会に出品し、その事務局にも携わった。図案家としての名声も高かった。明治38年死去。

坂廣(1863-1929)
文久3年大垣生まれ。明治13年に京都府立画学校で学んだあと、15年に上京して本多錦吉郎の画塾・彰枝堂で洋画を学んだ。岐阜県華陽学校をはじめ、大分、滋賀、福島など各地の中学教師として教育につとめた。昭和4年死去。

牧野伊三郎(1870-1895)
明治3年付知生まれ。洋画を志して明治21年に上京し、小山正太郎の画塾・不同舎に入った。たちまち頭角をあらわし、明治美術会に出品したりして将来を嘱望されたが、病に倒れ、明治28年、24歳で死去した。

長原孝太郎(1864-1930)
元治元年不破郡岩手村生まれ。上京し小山正太郎の画塾・不同舎で洋画を学び、そのあと原田直次郎の鐘美館に移った。その後、明治27年には黒田清輝に師事し、黒田に認められ東京美術学校の助教授に推薦され、昭和5年に没するまで後進の指導にあたった。

渡部審也(1875-1950)
明治8年大垣生まれ。明治23年に上京し、長兄である金秋に洋画の初歩を学んだ。その後、明治美術会教場に入り、浅井忠や松岡寿の指導を受け、同校を卒業後も浅井の指導を受けた。明治美術会に出品し、34年の太平洋画会の創立の際には、メンバーとして加わった。新聞や教科書の挿画も手がけた。昭和25年死去。

北蓮蔵(1876-1949)
明治9年厚見郡北長森生まれ。香巌寺の長男。明治22年に上京して、山本芳翠の画塾・生巧館に入って洋画を学んだ。その後、生巧館が27年に黒田清輝に引き継がれて天真道場となったので、清輝に師事した。肖像画の分野でも名を高めた。昭和24年死去。

岐阜(16)-ネット検索で出てこない画家


飛騨の南画家

2015-05-14 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典

飛騨の学問は、国学に田中大秀、儒学・漢学に赤田臥牛がいたが、中心になっていたのは門下生も多い田中大秀の国学だった。そうしたこともあってか、美濃に比べると南画を志すものが少なく、主な南画家は貫名海屋に学んだ内田雨香・平田雲巌・津野梧窓、高橋杏村・村瀬秋水に学んだ杉下苔石、平野五岳に学んだ土田雪鴻らが知られるくらいである。

内田雨香(不明-1849)
大野郡高山上三之町生まれ。名は文啓、通称は孫助。屋号は森茂屋。別号に停雲がある。川上逸翁の弟で内田氏を継いだ。貫名海屋と篠崎小竹に学び、詩もよくした。嘉永2年、49歳で死去した。

平田雲巌(1826-1881)
文政9年生まれ。鬢付油等製造販売業・柳風の判者。高山二之町の人。打保屋三代直紀の長子。別号に斐太等、農楽庵、引板、中次郎がある。貫名海屋に画を学び、和漢の名画を研究した。柳風の門弟が多かった。明治14年死去。

生井春坡(1828-1885)
文政11年生まれ。名は養。高山の医師。貫名海屋・日根野対山に師事した。明治18年、58歳で死去した。

津野梧窓(1836-1890)
天保7年生まれ。神職・糸問屋・狂句判者。高山の人。別号に千岐、路春、蘿園、歩月、五三二がある。福島屋五右衛門と称した。山崎弘泰に和歌を、貫名海屋に南画を学んだ。明治23年死去。

杉下苔石(不明-1875)
高山の人。名は太十郎。別号に万碧がある。書は晋唐の書型で大字を好み、画は母方の外祖父・市村鳳頂や美濃の高橋杏村、村瀬秋水に学んだ。俳句、茶、花もたしなんだ。明治8年、54歳で死去した。

土田雪鴻(不明-1906)
高山の人。幼名は松之助、字は易。別号に判耕、海岳がある。画は平野五岳に、詩は草場船山に、書は長三洲に学んだ。特に篆刻で名声があった。明治38年に上京し、南宗画会の幹事を務めた。明治39年、45歳で死去した。

和仁松雨(不明-1905)
高山の人。荒城与兵衛と称した。豆乳を製造していた。明治5年に播磨、丹波地方を遊学し、竹木の彫刻と南画で名声を得た。講談をよくした。明治38年播州加古川で死去した。

池田桃谷(1839-1913)
天保10年生まれ。馬瀬郷惣島村の農業・庄造の二男。幼名は与蔵、旧姓は小池。子供の頃に畑仕事をしていて鍬に刺さった蛙を見て殺生の罪の深さに気づき、郡上八幡の安養寺で出家した。のちに京都に行き浄土真宗に籍を置いた。南画を学び、札幌の草庵で画道に精進した。晩年は生家に帰り山水、花鳥、人物などの作品を残した。大正2年死去。

田島杉渓(1863-1929)
文久3年生まれ。名は稲三。高山の人。別号に菜香園がある。東京画学専門美術学校で学び、山岡墨仙・津野梧窓に師事した。中学校教師を務めた。昭和4年、67歳で死去した。

杉下守中(1867-1945)
慶応3年国府村宇津江生まれ。材木商。高山の町政に尽くした。京都の前川文嶺について北画を学び、のちに独学で南画に転じた。昭和20年、79歳で死去した。

岐阜(15)-ネット検索で出てこない画家


飛騨ゆかりの初期画人

2015-05-12 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典

金森長近が高山の城下町を京都に模して整備して以来、飛騨の人たちにとって京都文化は身近な存在で、高山や古川の祭り屋台にも京風文化がみられる。江戸中期に飛騨で活動した画人たちも、多くは京都から来たか、または京都で学んで帰郷したものたちが中心だった。

三熊思孝(1730-1794)
享保15年生まれ。京都の人。字は介堂。主計と称した。天明7年に飛騨に来た。長崎の画家・大友月湖に学んだ。「竜虎など見もしないものを描いても仕方がない」として桜をテーマにしたという。『続近世畸人伝』の絵を描いた。寛政6年死去。

武川維章(1744-1799)
延享1年生まれ。武川倍行の弟。名は倉之助。別号に良雪がある。若林内蔵介と称した。宝暦年間に京都に出て円山応挙に師事した。花鳥を描き京都御室御所に仕えた。晩年は下呂に帰り多くの作品を残している。寛政11年死去。

住芸文(1778-1853)
安永7年生まれ。高山の人。名は斉助。別号に暁々斎がある。越前国の牧野治良兵衛の長男で、小坂町村の住家の養子となり「鷲見」の字も当てる。俳句、和歌などにも優れた。京都で円山派の絵を学び、彩色が巧みで花鳥、人物を得意とした。小坂町の長谷寺に「楠公父子訣別の図」、高山の祭り屋台「麒麟台」裏天井に竜の絵が残っている。嘉永6年死去。

市村鳳頂(1781-1822)
天明元年生まれ。市村家5世。名は成良・成亮、字は介甫・来儀。別号に周鼎、芸州などがある。地役人の指田通古の四男。京都の河村文鳳に画を学んだ。花里天満宮幣殿と高山一本杉白山神社幣殿の天井に墨絵の竜が残っている。文政5年死去。

青木玄章(1781-1858)
天明元年生まれ。山之口村の名主の子。名は清蔵。名主を継ぎ農業のかたわら、武川維章に画を学び、円山派の画法を修めた。特に鯉、魚を得意とした。天保のはじめごろから非常災害時の救済資金を積み立て、天保4年には飢饉が深刻になるのを見越して美濃太田、関、高山から米麦を買い入れて村人を飢えから救った。無医村で村人が困っていたため、越中富山の守周慶に医学を学んだ。安政5年死去。

狩野永岳(不明-1867)
京都の人。縫殿助と称する。狩野永納の画風を継ぎながら、当時流行の四条派の画風をも取り入れた異色の画家。天保12年、高山滞在中に田中大秀の像を描いた。慶応3年、78歳で死去した。

桐山楸閨(不明-1859)
古川町生まれ。桐山浄所の妻。名は久子。旧姓は玉腰。作品に見真大師画像、屏風(素玄寺蔵)がある。安政6年、85歳で死去した。

萩原一山(不明-1832)
船津町の人。名は範。通称は清兵衛。別号に清画・翠松軒がある。本姓は谷口で大森旭亭の娘婿。月僊に師事した。秋田の里民に養蚕を指導して同地の蚕業振興に貢献した。狂歌を好み、藤の橋成と号した。天保3年、55歳で死去した。

島田与惣治(1784-1829)
天明4年吉城郡袖川村生まれ。豪農。ブドウと虎の絵を得意とした。文政12年死去。

辻雪蕉(不明-1840)
高山の人。名は与清・雪蕉斎、通称は卯兵衛。金沢の法橋俊乗に学び牛の絵を得意とした。無欲で画料を受け取らなかったという。天保11年、82歳で死去した。

横谷東☆(1807-1905)(☆は「燐」の「火」を「山」に)
文化4年生まれ。塩屋の人。幼名は小一郎、のちに助惣。白雲居に絵を学び、師と同様に竹をよく描いた。立華では一松斎と号して飛騨国准会頭。庭師でもあり、円徳寺、川尻家、田中家などの庭を築いた。明治38年死去。

松村梅宰(不明-1864)
高山の人。初名は吉兵衛、のちに寛一、通称は正太郎。別号に董緝、清泉園、楳斎、木母がある。本姓は中野。京都の小田海僊に学び、山水や人物などが巧みだった。帰郷後は飛騨郡代所の画師、のちに法橋の官に進んだ。「運材図会」の絵を手掛けた。天保3年編集の『書画帖』の吟者。元治元年、50歳で死去した。

山本十水(1816-1862)
文化13年生まれ。高山の人。名は清逸。森茂雨香に画を学び、山水花鳥を得意とした。文久2年死去。

坂本旭英(不明-1876)
船津町の人。名は茂十郎。号は藤橋斎。京都の円山派の吉村孝敬に学んだ。

飯山保敬(1845-1917)
弘文2年生まれ。高山の地役人。田近盛域の子で飯山家を継いだ。字は勝之助、のちに精一。別は華郷。垣内雲りんについて四条派の画を学んだ。大正6年死去。

岐阜(14)-ネット検索で出てこない画家


飛騨における和漢両学の大家、田中大秀と赤田臥牛

2015-05-07 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典

江戸中期になると、飛騨の町人の生活水準はあがり、富裕な町人や旦那衆にとっても学問は教養として必要なものとなった。当時の高山には国学と和歌に田中大秀、儒学と漢学に赤田臥牛がいて、それぞれが家塾を開いて門人を育て、彼らの中からは画で名を残すものも出るようになった。

田中大秀の門下からは、山崎弘泰、富田礼彦、上木清成、蒲八十村、稲田元浩、桐山如松、日下部道堅ら多くのすぐれた学者が出ており、明治になってからは山崎弓雄、大池真澄、田島春園、吉島斐之、富田道彦、鴻巣盛雄、岡村御蔭らがそれぞれの門から出て学風を受け継いだ。

赤田臥牛の家からは、臥牛、章斎、誠軒と三代にわたって漢学者が出て功績を残した。赤田章斎は、詩文に長じ画もよくした。

また、田中大秀、赤田臥牛の師である加藤歩簫、当地における考古学の元祖・二木長嘯らは、画人としても功績を残している。

加藤歩簫(1743-1827)
寛保3年高山二之町生まれ。雲橋社中興の俳人で5世。玄俊の子。名は貴雄。通称は小三郎。別号に蘭亭、志羅々翁、白翁、里秋などがある。五升庵蝶夢に俳諧を、伴蒿蹊に国学を学んだ。父の私塾を継いで、田中大秀、赤田臥牛ら多くの俳人や学者を育てた。文化13年西茂住の三峡に俳人・野沢凡兆の貴詠地を探し岸壁に「鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ」を著し彫らせた。図書1000余冊を収集し、飛騨初の公開文庫である「雲橋社文庫」を開設した。著書に『紙魚のやとり』『ゆききの旅つと』『蘭亭尚歯巻』『よしなし草』などがある。

二木長嘯(1755-1814)
宝暦5年高山二之町生まれ。石器収集家・酒造業。二木家7代目。呂竹の長男。初名は孫三郎、のちに俊恭。字は子敬。長右衛門と称する。赤田臥牛と尾張藩の学者・松平君山に師事した。心学に熱心で、人心を救おうと国内を一年あまりで巡った。石器収集家として日本的に著名で、木内石亭と交わり、石器類50点などが国の重要美術品となっている。久々野村、木賊洞村の険路を改修した。天明年間に白川郷で天然痘が発生すると、京都から薬をとりよせて郷民を守った。著書に『神代石図』などがある。文化11年死去。

赤田章斎(1784-1845)
天明4年生まれ。赤田臥牛の嫡子。名は光暢、字は永和、通称は新助、幼名は貞吉。別号に鉅埜逸民、公茂がある。臥牛の教えを受け、文政元年に父に代わって静修館で教えた。天保3年の大火で静修館が焼失したため、高山馬場通り海老坂上に再興し、飛騨国中教授所として郷村を巡回して教え、弘化元年には神明町角に移築した。詩文、絵画にも優れ、敬神の念が篤かった。花里天満宮に本人が識した退筆塚がある。弘化2年死去。

宇野適斎(不明-1842)
高山の人。名は敬賢、字は思斎・平芝、通称は勘吉・勘右衛門。九淵の子。高山の祭り屋台「仙人台」の牡丹の絵を手掛けた。赤田章斎に漢字を学び、田中大秀の門人。水音社の俳客。天保13年、59歳で死去した。

岐阜(13)-ネット検索で出てこない画家


飛騨の匠から彫刻家へ、飛騨一刀彫りの祖・平田亮朝

2015-05-01 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典

天才と称された谷口与鹿のほかにも、飛騨からは多くの名人、名工が出ている。飛騨の匠の中興の祖・藤原宗安の末裔だと伝わっている水間相模、京都東本願寺の御影堂を建てた石田春皐をはじめ、村山、谷口、遠藤、土村、坂下、広田家などが名人、名工を出した名家に数えられる。

与鹿を除くと、飛騨の匠の仕事は建築が主だった。彫刻を専業とするようになったのは平田亮朝からである。亮朝は幼くして江戸に出て、山口友親に師事して彫刻を学び、根付師として名をあげ、飛騨一刀彫りの祖とされている。その作風を慕って教えを乞うものが後を絶たず、門下からは松田亮長、江黒亮春らが出ている。

藤原宗安(不明-不明)
鎌倉末期の飛騨の人。飛騨権守と称した。応長元年7月、肥前権守的宗里とともに美濃の長滝寺の大講堂を建立した。近世の飛騨の大工は名工として崇め、正月には宗安の肖像に神酒などを供えていた。

水間相模(不明-1766)
高山の人。平井藤介の子。忠五郎、宗茂と称した。名匠を輩出した水間家の初代。棟梁として宝暦9年高山御坊大門の再建、同12年大雄寺仏殿などを手掛けた。明和3年死去。

石田春皐(不明-1880)
神岡村朝浦の人。通称は小兵衛。匠名は斎藤美英。文久元年3月に竣工した京都東本願寺の阿弥陀堂宮殿の棟梁で、当時、模範建築と称された。他にも社寺の堂塔などに手のあとを残した。高山の祭り屋台「大黒台」を設計し、屋台をひく時に伊達柱と上段縁の動きと上段柱と屋根が違った動きをし、前後左右にしなう動の美を出すように構造を工夫した。劉石秋に漢学、詩文を学び、絵画、彫刻もよくした。明治13年、63歳で死去した。

平田亮朝(不明-1847)
根付彫刻家。高山生まれ。江戸に出て山口友親に師事した。日本橋通塩町の袋提物問屋「日の屋」の抱え根付師として名が知られた。弘化4年、38歳で死去した。

松田亮長(1800-1871)
一位一刀彫の大成者として知られる。高山下向町の人。京都の古社寺をめぐって彫刻を研究。江戸の平田亮朝について学んだ。動物が得意で、なかでもヘビやカエルが著名。着色が濃厚な奈良人形を見て、彫りの巧拙がわからないと感じ、イチイの自然の木目を生かし彩色しない一刀彫を完成させた。伊賀の眠江、加賀の友月とともに、天下三鬼才と称された。朝夕に酒をたしなみ、飄々とした性格で奇行も多く、「色も香もみな世にまかす桜木の咲きてきれいにちりてきれいに」を辞世に、明治4年、72歳で死去した。

江黒亮春(不明-1901)
一刀彫師。高山の人。通称は浅吉、名は勘兵衛。江黒亮忠の兄。別号に玉斎がある。三鉄という飛脚屋の紹介で、天保年間に江戸の平田亮朝から一刀彫を学んだ。渋草で陶芸、形物を作った。明治34年、74歳で死去した。

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