松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま北海道を探索中。

村瀬一族の奇才・村瀬太乙

2015-03-25 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:村瀬太乙の世界、岐阜県日本画 郷土画家・画人名簿

村瀬藤城、秋水ら優秀な学者や南画家を輩出した村瀬一族だが、その中でもひときわ異彩を放っていたのが村瀬太乙である。太乙は、藤城、立斎、秋水の村瀬三兄弟の従兄弟の子にあたり、詩、書、画すべてに才能を示した。尾張藩に来た中国人儒者・金華水は、その表現力を詩書画の三絶と評し、自ら「太乙老人三絶」の印を刻して太乙に贈りその才能をたたえた。一方で『近世畸人伝』に掲載されるほどの奇人とされ、数々の逸話が残っている。

1992年に一宮市博物館で開催された「村瀬太乙の世界」の図録では、太乙の書画について「書では、山陽の影響から出発しながら晩年は淡墨によって軽妙・飄逸な筆運びにより独特な書風を作り出している。画では、一族に南画家村瀬秋水がいてその影響は少なくないと思われるが、筆を極力減じた山水や歴史人物、さらに風俗・人物を描いたものが多く、独特な戯画調の人物画には、美濃出身の禅僧仙の作品を思い起こさせるものがある」と記し、山陽の薫陶を受けた漢詩については「難解な語句を避けた作法に特徴があり、儒教的な作品の一方、『蛍火』に代表されるおおらかな歌心や女体賛美の艶詩など、その奔放ともいえる表現は従来の漢詩の枠にとらわれない作風といえる」と評している。

また、同図録には太乙の奇人ぶりを示す逸話のひとつとして、藤城の推薦により犬山藩の教授となる際、太乙は「裃をつけずに君前に出てもよいこと、君前であろうとも喫煙を許されること、そして所かまわずオナラをしてもとがめないこと」という条件を提示したと記している。その逸話を裏付けるように、太乙には「放屁先生」と刻した落款があり、喫煙好きを示す大キセルが犬山市に残っている。

村瀬太乙
享和3年美濃国武儀郡上有知村生まれ。名は黎・泰通、通称は泰一、字は太乙、別号に太乙散人がある。幼少期に曹洞宗善応寺の晦巌について学び、のちに一族であり頼山陽門の俊才とうたわれた村瀬藤城に経史詩文を学んだ。23歳の時に藤城の薦めで、京都に出て頼山陽の門に入った。山陽のもとでの7年間は、太乙の思想と文学に大きな影響を与えた。山陽の没後は名古屋に住み、天保8年長者町で私塾を開いて気ままな町儒者として名古屋の文人たちと交流を深めた。弘化元年、藤城の推薦で犬山藩校の教授となり、明治3年には犬山の敬道館に移り、翌年の廃校後は犬山に隠棲した。編著書に、中国詩のアンソロジー『幼学詩選』、菅茶山の作品を編纂した『菅茶山詩鈔』、自作の漢詩を集めた『太乙堂詩鈔』などがある。明治14年、79歳で死去した。

稲葉松雨
弘化4年生まれ。名は現淵。揖斐郡本郷村光慶寺二六世住職。村瀬太乙に師事した。大正11年、76歳で死去した。

田中蛙骨
明治15年生まれ。名は丈右衛門。別号に川柳がある。村瀬太乙と阪井久良岐に師事した。昭和17年死去。

岐阜(6)-ネット検索で出てこない画家


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美濃の南画、村瀬秋水の一族と門人

2015-03-19 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:美濃の南画岐阜県日本画 郷土画家・画人名簿

美濃の南画壇にあって影響力のあった南画家のひとりに村瀬秋水がいる。村瀬秋水は、美濃上有知の造り酒屋で庄屋を務める村瀬敬忠の三男として生まれた。長兄は頼山陽門の儒学者・村瀬藤城、次兄の村瀬立斎は尾張藩医をつとめた。秋水は兄の藤城を助けて家業に従事するかたわら終生画作に励んだ。秋水の画技は、子の雪峡、孫の藍水、雪荘、そして従兄弟の子の太乙にも大きな影響を与え、一族の画系に指導的な役割を果たした。

村瀬秋水
寛政6年武儀郡上有知村生まれ。名は清・徴、字は世猷、通称は真吾、太六、平三郎。別号に韓江がある。幼い頃、張月樵について学び、30歳の時に野呂介石に入門した。さらに、中国南宗画を手本に独学で南画を学び、兄の藤城が没した後は分家して山中に隠退し、20年間郷里を出ずに画業に専念した。63歳の時に『南画問答』を発表し、73歳の時には自らの人生を振り返って『己未秋日作草稿』をまとめるなど数多くの著作を残した。1876年、82歳で死去した。

村瀬雪峡
文政10年、または天保3年武儀郡上有知村生まれ。村瀬秋水の長男。名は東作。画は父・秋水に学んだ。江戸、京都、大坂で経史詩文を学び、帰郷して伯父・村瀬藤城を助けて門下生を教えた。明治12年死去。

村瀬藍水
文久元年武儀郡上有知村生まれ。村瀬雪峡の長男。名は緒、字は彫弓、通称は岸太郎。はじめ半山と号した。村瀬秋水、雪峡に師事した。明治13年名古屋に出て佐藤牧水の漢字塾に入り、明治19年から清国に渡り遊歴して名声を得たという。明治23年の帰国後は中央画壇への進出を目指して上京したが、明治25年、32歳で死去した。

森半逸
嘉永元年葉栗郡若栗村生まれ。のちに岐阜市笹土居町に住んだ。名は桂、字は子静、通称は嘉兵衛。歯科医師・森逸男の祖父。別号に六々斎半逸がある。村瀬太乙に詩文を、村瀬秋水に南画を学んだ。明治38年の日本美術展覧会と大正2年の日本画会に出品し、宮中買上となった。名士、文士との交流が多かった。明治15年、93歳で死去した。

野川湘東
天保11年大野郡一色村数屋生まれ。眼科医。野川秀平の長男。名は杏平。別号に松琴斎、今日園がある。漢学・漢詩を森春濤に、画を村瀬秋水に学んだ。大正6年死去。

山内石泉
弘化2年生まれ。名は九郎蔵。村瀬秋水に師事した。

後藤蘇山
名は権蔵。村瀬秋水に師事した。

高井對雲
弘化4年山県郡伊自良生まれ。名は潤造。村瀬秋水に師事した。揖斐川町に住んでいた。明治44年、65歳で死去した。

後藤釣雪
弘化3年生まれ。村瀬秋水に師事した。

塚原南岳
安政3年武儀郡関市生まれ。名は二六太。村瀬秋水と村瀬雪峡に師事した。大正8年、65歳で死去した。

岐阜(5)-ネット検索で出てこない画家


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美濃の南画、竹洞・梅逸の門人

2015-03-13 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:美濃の南画岐阜県日本画 郷土画家・画人名簿

全国的な南画の隆盛に寄与した尾張南画の中林竹洞、山本梅逸は、美濃における南画の発展にも大きな影響を及ぼした。美濃の南画家として名を残した、高橋杏村、村瀬秋水、山田訥斎らはみな竹洞、梅逸に師事した。

高橋杏村は文政から天保にかけて京都に遊学し、この時に中林竹洞に学んだ。竹洞が京都で名声をほしいままにしていた頃、若くしてその画法を修めている。とくに杏村の初期作には、竹洞の画風をよく研究したものがみられ、その影響力は大きなものがあったと思われる。また、漢学者として名高い村瀬藤城の弟・村瀬秋水も、13歳の時に名古屋に出て張月樵、中林竹洞に学んだ。

山本梅逸の弟子としては、山田訥斎が高弟として知られ、師の画風を忠実に伝える花鳥画を多く残している。片野南陽も梅逸に師事しており、この地方における梅逸の影響力の強さを物語っている。

山田訥斎
文化11年羽栗郡笠松生まれ。薬種商・山田国春の子。名は惟孝、字は子友、通称は嘉兵衛。少年の頃から画を好み、はじめ笠松の広瀬春樵について学んだが、のちに尾張の山本梅逸の門に入り本格的に学んだ。梅逸の高弟の一人として画名は高まり、訥斎の画塾に入門するものも多かった。また、勤王家でもあり、梁川星巌、頼三樹三郎らとも親交があった。画のほか詩文、篆刻もよくし、和歌などを学ぶなど多芸多才であったという。明治6年、60歳で死去した。

片野南陽
天保11年安八郡五反郷生まれ。名は龍蔵、字は震。書斎を「攬秀書屋」と呼んだ。幼い頃に漢学者・青木東山の門に入り詩文を学び、画は山本梅逸に師事した。父の片野萬右衛門とともに、治水事業に従事するかたわら、書画骨董を収集して鑑賞し、画技の研鑚に励んだ。明治初年四郷村の戸長として、地域の振興に尽力した。明治15年、43歳で死去した。

高木萬水
文政2年養老郡多良生まれ。名は貞広。山本梅逸に師事した。慶応元年、47歳で死去した。

岐阜(4)-ネット検索で出てこない画家


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南画家として活躍した大垣の漢詩人・思想家

2015-03-10 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:先賢館展示図録美濃の蘭学岐阜県日本画 郷土画家・画人名簿

美濃地方での南画家の動向を地域的にみると、第一世代の南画家は西美濃地方から多く出ている。大垣では江馬細香をはじめ、梁川星巌、梁川紅蘭ら漢詩人や思想家たちが南画家として活躍した。これは当時の大垣を中心とした文運隆盛の気運と切り離しては考えられない。

江馬細香の父・江馬蘭斎は大垣藩医(漢方医)だったが、46歳で蘭学を志し、江戸に出て杉田玄白に蘭方医学を、前野良沢に主にオランダ語を学んだ。大垣に帰ってから蘭学塾「好蘭堂」を興して多くの門人を育て、大坂、京都よりも早く美濃の地に西洋医学をもたらした。その周辺には多くの文化人が集まり、詩、書、画が盛んに行われた。西美濃地方の主要南画家に江馬細香、梁川紅蘭と2人の女性がいるのも、当時の開明的風土を物語っている。

梁川星巌
寛政元年安八郡曽根村生まれ。郷士稲津長高の長男。名は卯のちに孟緯、字は公図のちに伯兎、通称は新十郎。別号に詩禅、百峰などがある。のちに梁川姓に改姓した。幼い頃から大叔父にあたる華渓寺住職・太随和尚に学んだ。19歳の時に江戸に出て山本北山の塾に学んだ。文政3年「またいとこ」にあたる紅蘭と結婚したが、翌年、紅蘭をおいて一人で詩作の旅に出た。同5年には夫婦ともに5年にわたる西国へのあてのない旅に出て、頼山陽ら多くの漢詩人や儒者と交流した。再び江戸に出て天保5年に「玉池吟社」を興し、多くの門人を育てた。また、藤田東湖や佐久間象山ら幕末の志士たちと交わり、のちに京都に移り、吉田松陰や梅田雲浜ら勤皇の志士たちの指導者的存在となった。安政5年、70歳で死去した。

梁川紅蘭
文化1年安八郡曽根村生まれ。西稲津家の出。別名は張紅蘭、張氏紅蘭。幼い頃から学問を好み、華渓寺住職・大随和尚に学び、14歳で梁川星巌の利花村草舎に学んだ。17歳で32歳の星巌と結婚し、西遊の旅に出て諸士と交流した。安政5年星巌没後に京都で逮捕され、投獄されたが、釈放後は塾を開き子女に詩文を教えた。明治12年死去。

小原鉄心
文化14年生まれ。大垣藩士・小原忠行の長男。名は忠寛、字は栗卿、通称は二兵衛。別号に是水がある。日根野対山に師事して画を学んだ。大垣藩の重臣として、藩の財政や軍制改革を推進した。慶応4年明治新政府のもとで参与職についた。藩は勤皇か佐幕かで揺れていたが、激論の末に藩論を勤皇への統一に導いた。一方で酒と梅を愛し、別荘「無何有荘」に多くの志士や学者を招いて詩文や書画に興じた。明治5年、55歳で死去した。

飯沼慾斎
天明2年伊勢亀山生まれ。西村信左衛門の二男。名は長順、旧名は西村専吾。叔父が営む店「鮫屋」の帳場で遊びうちに文字や計算を覚え、寛政6年、12歳の時に本格的に学ぶため母方の実家がある大垣に出て、俵町の町医である飯沼長顕に、儒学、医学を学び、22歳の時に長顕の娘と結婚して、二代龍夫として飯沼家を継いだ。同年本草学の小野蘭山に入門し、植物の研究を始めた。28歳の時に江戸で宇田川玄真らから蘭方医学を学び、大垣で町医者として開業した。50歳頃から「平林荘」に隠居し、自然科学の研究に没頭、日本で最初の体系的植物図鑑『草木図説』を著した。初版本の刊行にあたっては、原画の質を落とさないように慾斎自身が印刷用の下絵づくりに参加した。晩年になっても鉄砲の火薬製造や写真などの研究を行なった。慶応元年、83歳で死去した。

岐阜(3)-ネット検索で出てこない画家


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頼山陽の美濃訪問と江馬細香

2015-03-06 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:先賢館展示図録美濃の蘭学、幕末の儒学者-美濃の文人たち-

文化年間、京都ではひとつの文化人グループが文墨界を牛耳っていた。その中心にいたのが漢詩人であり思想家の頼山陽(1780-1832)である。山陽の周辺には、画家、文人、医師、僧侶など多くの教養人が集まり、一種のサロンを形成していた。

文化10年、頼山陽は美濃地方を訪れ、各地の名士と親交を深めた。この時に大垣の蘭学者・江馬蘭斎宅も訪ね、蘭斎の娘である細香と出逢った。山陽は細香の詩、書、画の才能を認め、細香もまた山陽の詩才と学識の深さに強くひかれ、以後細香は山陽の門人となり関係を深めた。

頼山陽の美濃訪問以降、美濃の文墨界は活気に満ち、各地との交流も盛んになった。美濃で南画が本格的に行われるようになったものこれ以降のことである。

細香は山陽が没するまでの18年間に7度京都の山陽のもとを訪れ、詩文や書法の指導を受けるとともに、山陽の家族や親しい文人たちと交流した。山陽は友人である浦上春琴から画を学ぶことを勧めたり、当時長崎にいた清国の商人・江芸閣を紹介するなど、細香の名を広め、その才能を伸ばす努力を惜しまなかった。

江馬細香
天明7年大垣藤江村生まれ。大垣藩医で蘭学者の江馬蘭斎の長女。名は梟、幼名は多保、字は細香。別号に湘夢がある。幼い頃から画を好み、はじめ京都永観堂の僧・玉りん和尚に墨竹を学び、のちに頼山陽、浦上春琴に師事した。美濃の文人たちと交流し、梁川星巌、村瀬藤城らと漢詩文のグループ「白鴎社」を結成、さらに「咬菜社」を興し郷土の名士たちと詩をつくり交流した。文久元年、独身で生家で死去した。75歳だった。

江馬金粟
文化9年生まれ。名は元齢。別号に黄雨楼がある。江馬蘭斎の養嗣・松斎の二男。松斎は蘭斎の妹・温井美与子の二男。詩を頼山陽、梁川星巌に、画を江馬細香に学んだ。竹島町に医院を開業した。明治15年、71歳で死去した。

江馬南坡
明治9年生まれ。大垣市南寺内町江馬家の新家・江馬春琢の長男。名は春斎。幼い頃から文人画風の画を描き、江馬細香の再来かといわれた。金粟に愛されて号を南坡とつけられた。東京に出て第一高等学校を卒業し、京都医科大学を明治39年に卒業した。姉の夫・江馬賎男が兵庫県立神戸病院長を辞めて江馬内科医院を開業した際に助手として参加した。医業のたかわら書籍、書画の収集をした。第一高等学校在学中の夏に江馬蘭斎像を模写した絵が現存している。昭和11年死去。

日野霞山
土佐の生まれ。名は日生。両親は不詳だが、篤志家・川崎幾三郎に育てられた。幼くして土佐要法寺日源上人の許に仏門に入った。学問を好み、長じて京都に修行に出て、詩文を頼山陽に、南画を浦上春琴に学んだ。のちに江州小足村常昌寺の住職を経て、のちに羽島郡江吉良安楽寺の十三世住職となった。梁川星巌、村瀬秋水、山田訥斎、小原鉄心、小寺翠雨らと親交があった。明治5年、85歳で死去した。

傍島甘谷
名は登。大垣藩士。室町陣屋に住んでいた。江馬細香と高橋杏村に師事し、四君子、山水を得意とした。

卜部金英
揖斐三輪の人。名は菊。別号に長生がある。岡田藩儒者・柴山老山の妻。江馬細香に師事した。白鴎社同人で画もよく描いた。江馬細香、梁川紅蘭に金英を加え濃州三才女と称されることもあった。

河島養素
名は右衛門。幕末の大垣藩丈夫。江馬細香に師事し、藩務の余暇に画を描き、四君子を得意とした。

岐阜(2)-ネット検索で出てこない画家


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美濃の南蘋派

2015-03-03 | 画人伝・美濃、飛騨

文献:南蘋派・南画派

中国の画家・沈南蘋によって長崎にもたらされた写実的な画法は、当時の画家たちに新鮮な驚きをもって迎えられ、弟子の熊代熊斐(1712-1772)を経て、江戸、大坂、京都などの画家に伝えられ、のちに南蘋派と総称されるような拡がりをみせた。

美濃地方における南蘋派の伝播は、長崎で修業し熊斐に学んだ黄檗僧・鶴亭(1722-1786)のもとに岐阜町の山田治右衛門(1745-1803)が入門したことに始まる。山田治右衛門は酒造業三田屋に生まれ、幼い頃から画に親しみ、鶴亭に入門することを望んだが、はじめ親が許さなかったため、成長してから入門を果たしたという。鶴亭のもとで研鑚に励み、「鶴洲」の号を許され、師の名乗りのひとつである「善農」を譲り受けて帰郷した。

山田鶴洲が南蘋派の画風を持ち帰った18世紀末期は、漢詩、和歌、狂歌、俳諧、華道、歌舞音曲などを学ぶものが増え、美濃は文化爛熟の時代を迎えていた。漢詩の世界では、岐阜町の山田鼎石(1720-1800)が鳳鳴社を興し、その下に左合龍山(1754-1779)、宮田嘯台(1747-1834)や、鶴洲の弟である元長(芝岡)らが集まり、活発な活動を展開していた。このような環境の中、中国から来た新しいスタイルの絵画を携えて戻ってきた鶴洲は大歓迎され、教えを乞う者が殺到したという。

鶴洲の弟子の中で高弟とされる、養老の日比野鶴翁、鷺山の矢島鶴仙、加納の松波鶴山など「鶴」の字を継承する画家たちは、鶴亭、鶴洲の南蘋画法を広め、幕末の南画隆盛の頃を迎えるまで長く続いたが、やがて衰退していく。

山田鶴洲
名は登穀、通称は治右衛門、画人として張氏を名乗る。岐阜上大久和町の酒造業者の家に生まれる。大坂で鶴亭より南蘋派の技法を学び、「善農」の名を継承した。岐阜に戻った後は絵を求める人も多く、また多くの弟子に技法を伝えた。

日比野鶴翁
明和1年生まれ。名は清蔵、景亮、字は公明。はじめ亀洲と号した。伊勢国の郷士の家に生まれ、23歳で養老郡高田の日比野家の養子になった。日比野泰の高祖父。山田鶴洲の弟子の中でも最も技量が高く、鶴亭以来の南蘋派の画法を継承した。弘化4年死去。

矢島鶴仙
宝暦5年生まれ。本名は矢島一円。別号に鷺山道人がある。方県郡鷺山村の法光寺第九世住職。山田鶴洲に最初に師事した弟子の一人。文政9年死去。

松波鶴山
明和6年生まれ。名は文右衛門。別号に邦章、慶翁がある。加納宿の本陣松波家に生まれ、分家を継いで後に庄屋役を務めた。風流を好み、茶道、謡曲、鼓のほか製陶、篆刻も行うなど多芸多才だったが、なかでも画を好み山田鶴洲に師事した。安政2年死去。

岐阜(1)-ネット検索で出てこない画家


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