松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

復古大和絵派の祖・田中訥言

2015-01-30 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑復古大和絵-田中訥言とその周辺-

江戸時代後期、平安時代以来の伝統を持つ大和絵の古典を学び、大和絵を復興しようとした画家たちを、後の時代に「復古大和絵派」と称した。その先駆者が尾張出身の田中訥言である。

田中訥言(1767-1823)は名古屋に生まれ、京都に出て土佐光貞の門に入り土佐派の画法を学び、さらに藤原信実、春日光長の画巻を研究し、古土佐の復興を唱えた。花鳥山水いずれにもすぐれ、有識故実にも詳しく、考証を極めた。その精神を受け継いだのが、名古屋の門人・渡辺清(1778-1861)と京都の浮田一(1795-1859)である。さらに訥言の没年に生まれた岡田為恭(1823-1864)に継承されていった。

渡辺清は14歳で名古屋の町狩野の吉川英信の門に入り、英信没後はその子義信に従ったが、親しかった竹洞と梅逸の助言により土佐派に転向、京都に出て土佐光貞と田中訥言に師事した。門人としては、大石真虎、吉田蓼園、日比野白圭、木村金秋、小野四郎(高久隆古)、不動院香園、尾関東園、近藤芙山、夏目周岳、御塩春章、吉田逸言らがいる。

中年になって名古屋に来て渡辺清の門で学んだ高久隆古(1810-1858)は、清の没後京都に出て浮田一に学んだ。のちに江戸に戻り活動するが、隆古に刺激されて、菊池容斎が狩野派から転じて歴史画家となり、さらには山名貫義、小堀鞆音、吉川霊華が現れ、次いで松岡映丘が出て新興大和絵を興した。

吉田蓼園
文政10年5月名古屋堀切筋長者町生まれ。名は貞通のちに貞、通称は喜太郎、喜左衛門、別号に南甫、生斎がある。尾張藩士・吉田八郎の子。幼い頃から画を好み、長じて渡辺清につき土佐派を学んだ。国学、和歌を氷室長翁に学び、吉野に随行して『吉野紀行』の挿画を描いた。また、白川町法応寺の大和志貴山毘沙門開帳に際し、鳥羽僧正筆の志貴山縁起三巻を模写した。明治33年1月、74歳で死去した。

吉田逸言
明治7年12月名古屋市中区新柳町七丁目生まれ。名は冬彦。別号に有峰軒がある。吉田蓼園の長男。父につき土佐派の画法を学び、渡辺清を慕い隔世の師とした。古今の名画を模写し、土佐派を中心として淡彩画に一新機軸を出した。意匠図案に心がけ、古今の文様を集め、茶道、華道なども好んだ。昭和22年8月、74歳で死去した。

不動院香園
海東郡津島の不動院の住職。僧名は宥如、姓は矢野。画を渡辺清に学び、高久隆古とも親交があり、互いに深く有識故実を研究した。また、蒔絵、彫刻もよくした。文化12年4月4日死去。

尾関東園
天保5年2月生まれ。名は祐命、通称は弥兵衛、別号に永がある。名古屋橘町の紙商柏彌の三代目主人。渡辺清に大和絵を学び、花鳥を得意とした。隠居したのちは東雲庵で画を描き、茶道、連歌を楽しんだ。明治36年10月、70歳で死去した。

近藤芙山
文化2年生まれ。通称は忠三郎、別号に煙霞斎、雪翁がある。名古屋伝馬町八丁目の武兵衛有隣の子。17歳の時に渡辺清の門に入り土佐派を学び、のちに松野梅山について狩野派の画法を修めた。安政3年5月11日、51歳で死去した。

夏目周岳
文化5年生まれ。通称は重八。別号に桐井堂がある。三州吉田上伝馬町に住み、表具師を業とした。渡辺清に土佐派を学んだ。俳諧、狂歌を好んだ。明治8年6月16日、68歳で死去した。

御塩春章
文政8年8月14日名古屋生まれ。御塩春造の子。渡辺清に土佐派を学び、のちに松吉樵渓について四条派を修めた。飛騨地方を遊歴した。

尾張(11)-ネット検索で出てこない画家


尾張南画の歳寒三友、竹洞、梅逸、そして伊豆原麻谷

2015-01-27 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑、尾張の絵画史、伊豆原麻谷~麻谷とその周辺~

竹洞、梅逸と並び称され、尾張南画の「歳寒三友」の一人とされた「松谷」こと伊豆原麻谷であるが、その経歴に不明な点は多い。三河の農村に生まれ、僧侶になるはずが画の道に入り、当時最先端だった長崎で修業。京都、大坂、名古屋で絵画を業として生き、同時代の文化人たちと盛んに交流、画家としての名声も高かった。にもかかわらず、現在では竹洞、梅逸ほどの評価が得られておらず、後継者も見当たらない。

伊豆原麻谷(1776-1860)は、安永7年三河国加茂郡北莇生村西山に生まれた。名は彬・迂、字は大迂、通称は橘蔵。莇生(あざぶ)の音を取って「麻谷(まこく)」と号した。10歳で名古屋禅寺町の寺に入り、16歳で京都に出て、20歳で長崎に行き10年間修業し、30歳で京都に戻った。ここですでに京都にいた竹洞、梅逸といわゆる「歳寒三友」の契りを結び、号を「松号」に改めたという。しかし思うような結果が出せず、京都を離れて大坂に行き、そのあと各地を転々とし、文政10年、50歳の時に名古屋に戻り、号を「麻谷」に戻したという。その後は名古屋を拠点として活動、万延元年、83歳で死去した。

経歴不明の中でも特に師系が定かでない。10歳で入った寺で師僧が画才を見抜き、就かせたという画家の名が伝わっていない。16歳からの京都での修行も史料が少なく師系は推論の域を出ない。さらに、長崎では方西園及び費晴湖について学んだとされるが、否定的な見解を持つ研究者もいる。また、改号に関しても、京都に出て「松谷」と改めたとされるが、現在に至るまで「松谷」と号した作品が確認されておらず、確証があるわけではないが否定するだけの確証もない、というのが現状である。

麻谷の人物像について、図録『伊豆原麻谷~麻谷とその周辺~』(三好町立歴史民俗資料館)では、交流のあった南合果堂、貫名海屋、村瀬藤城、村瀬秋水、高橋杏村、吉原仲恭らが記載している書物などから判断して、「素朴で飾らない人物であり、無口で、将来のことを考えて三味線を習うような一面を持つ、一種奇人でありながら、皆に愛される好人物であった」とし、画家としての評価は、「画は気韻を尊び、古淡であり、名古屋の画工として成功していたことは、その名声の高さ、注文の多さ、そして貯えのあったことなどから伺える」としている。

謎に包まれながらも画家として名声が得て、行動範囲も広く、各地の知識人たちと盛んに交流した好人物と評される麻谷だが、分かっている弟子も少なく、麻谷の作風を忠実に、あるいは発展させて受け継いだものを見出すことはできない。

牧野錬石
美濃長良の生まれ。はじめ伊豆原麻谷につき南宗の画法を学び、のちに山本梅逸の養子となったが、素行が修まらなかったので離縁となった。明治18年7月8日死去。

林稼亭
文政7年2月生まれ。通称は源助。海部郡蟹江の林源左衛門の子。はじめ伊豆原麻谷の門に入り南宗の画法を学び、ついで小島老鉄、村瀬秋水の教えを受けた。半生は西三河地方を巡遊したが、晩年は不遇のうちに生涯を終えた。明治28年10月、82歳で死去した。

加藤甘谷
海部郡佐屋の人。名は正利、通称は五左衛門。別号に江南がある。師承は明らかではないが伊豆原麻谷とみられる。好んで描く山水は、人柄を反映し、非常に生真面目で、厳格なものであったという。天保12年死去。

尾張(10)-ネット検索で出てこない画家


尾張南画の全盛・山本梅逸の門人たち

2015-01-23 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

郷里に帰る竹洞と別れ、全国各地の遊歴の旅に出た梅逸は、京都から大坂、山陽、四国とめぐり、さらに北陸へと足を延ばし、いったん名古屋に戻ったあとは、江戸に姿を現すなど、再上洛するまで名古屋を拠点に活発な動きを見せ、新進の南画家として、各地で学者や文人と交わりを持った。天保3年に京都に居を構えた後は、画作と向き合いつつ、煎茶道具を自作したり、煎茶の会を主催したりもした。また、印を自刻するなど、多芸多趣味の人であった。晩年は名古屋にもどり後進の指導にあたり、藩の御用をしたりもした。

梅逸の弟子たちは、梅逸の画風を忠実に守るか、まったく離れてしまうかの両極端な画風を示す傾向にある。小島老鉄や風花翁雲阿などは梅逸の山水とは異なった方向を示しており、奥野碧潭は竹洞の影響が強い。また、山本梅所や青木蒲堂らは梅逸の風俗画の延長線上にあるもので、加藤石華や沼田月斎ら美人画浮世絵を得意とした画家もいる。

柴山東巒
寛政12年生まれ。名は準春、字は志賀三、通称は先之。別号に漂麦園、愛蝶軒がある。尾張藩士で前津飴屋町に住んでいた。画を梅逸に学び、特に墨竹を得意とした。風流を好み儒雅との交わりも多く、篆刻もよくした。嘉永元年、59歳で死去した。

舎人葵園
安永9年生まれ。名は経栄、字は華卿、通称は平兵衛。別号に鼓腹がある。尾張藩士。画を梅逸に学び、写生にすぐれていた。嘉永元年2月18日、64歳で死去した。

加藤石華
東春日井郡瀬戸生まれ。名は半二、別姓に亀井。別号に玉暁、玉山がある。製陶業・川本半助の職工で、文政ころ森高雅の門に入り美人画を学び、のちに梅逸に師事、花鳥画にとりくんだ。また、絵画技巧を陶磁器のデザインや絵付けに活かし、瀬戸染付の進歩に貢献した。嘉永4年3月17日死去。

小島老鉄
寛政5年4月18日生まれ。通称は友七郎、左一郎。別号に采風外史、絵屋友七がある。知多郡松原村の小島平八の一族で、名古屋伏見町に生まれた。はじめ狩野派の吉川一渓の門に入り、梅逸のもとに移ってからは頭角を現し、高弟の一人に数えられるようになった。淡彩による潤いのある山水画に特色があり、師とは違う世界を創りだした。無欲清淡いにして奇行が多かったという。嘉永5年6月8日、60歳で死去した。

奥野碧潭
寛政2年生まれ。名は友之、通称は津之国屋喜兵衛。中須賀町の津之国屋という筆墨商。画を梅逸に学び、山水画を得意としていた。筆が巧みで、梅逸の花鳥や竹洞の山水を贋作して破門されたという。嘉永6年、64歳で死去した。

野村竹外
文政3年生まれ。名は惟叙、字は子哥、通称は新次郎。別号に橋左堂がある。名古屋五条町で塩問屋を営んだ。画を梅逸に学んだ。文雅風流を好み、儒学を国松国宇に受け、書を柳沢維賢に学び、神波即山、青木蒲堂らと親しく交流した。慶応2年11月27日、47歳で死去した。

上田桃逸
中島郡片原一色に生まれ。名は為民。別号に常春軒がある。名古屋に出て画を梅逸に学んだ。明治2年6月22日死去。

青木蒲堂
文化7年生まれ。通称は知多屋庄次郎。名古屋大船町の塩問屋の二男として生まれ、独立して正萬町で酒造を営んだ。幼い頃から画を好み、梅逸に学んだ。明治5年3月15日、63歳で死去した。

山本梅所
天保3年越後五条生まれ。名は双吉。梅逸の妻の姪と結婚して後嗣となる。絵に打ち込むよりも行動を好む性格を持ち、幕末の際は志士と結び東奔西走し、明治2年には初めて新聞を発行。断髪、洋服の着用など開化の先導者となった。明治6年、42歳で死去した。

中川梅岳
文化8年名古屋城御土居下生まれ。名は正有、字は玉保、通称は貞三郎、左一郎。別号に梅華斎、友山子、雪華園、芳春亭がある。梅逸に学び、藩主斉朝に召されて席画を試み、また殿中の襖に画を描いた。明治11年12月16日、68歳で死去した。

風花翁雲阿
文化3年生まれ。名は雲阿、通称は円龍。別号に天竺花老人、月道人、六字吟叟がある。東照宮別当尊寿院16世。梅逸に花鳥を、日根野対山に山水を習った。絵の他に書、詩歌、陶磁器、など多方面に才能を発揮した。明治13年1月12日、75歳で死去した。

平野泥江
文化10年名古屋巾下四間道生まれ。名は卓章。別号に竹仏がある。父は木綿問屋を営んでいた。梅逸に学び、墨竹を得意とした。明治17年、72歳で死去した。

岡本梅英
文化6年4月9日生まれ。名は伸夫、通称は唯三、字は考棋。別号に銀香斎がある。尾張藩士・岡本唯右衛門正利の長男。幼い頃から画を好み、15歳で梅逸の門に入った。尾張侯より将軍家へ献上する岐阜提灯の絵を描いた。明治23年6月10日、82歳で死去した。

三輪可墨
天保元年生まれ。通称は喜兵衛。名古屋東袋町に住み刀剣を商い、維新後は廃業し名古屋博物館古画管掌の吏となった。はじめ山本鉄山、梅逸に学び、没後は小島老鉄、木下稼雲に師事した。明治34年3月25日、72歳で死去した。

沼田荷舟
天保9年名古屋水筒先町生まれ。名は正之。別号に朴斎がある。尾張藩士・沼田月斎の孫。幼い頃から祖父に画を学び、花鳥を得意とした。東京にでて制作活動をし、旧皇居の障壁画を描いた。著書に『荷舟花鳥画譜』がある。明治34年2月、64歳で死去した。 

尾張(9)-ネット検索で出てこない画家


尾張南画の全盛、中林竹洞・山本梅逸の登場

2015-01-20 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

神谷天遊ら大パトロンの存在により相当量の中国画が尾張の地に蓄積され、画家の研鑚の場も充実、画壇が活況を呈する条件が整えられていった。こうした時代にこの地で若い時期を過ごした中林竹洞、山本梅逸は、まさに時代の申し子で、彼らを中心に尾張南画が全国的規模で受け入れられるようになり、南画家の制作活動やそれを支える享受層が飛躍的に発展、尾張の南画は全盛を迎えた。

中林竹洞(1776-1853)は、名古屋の医者の家に生まれ、尾張南画の祖・丹羽嘉言が活躍する草創期に幼年期を過ごし、寛政年間に入ってから尾張南画中興の祖・山田宮常と出会い師事、その後、大パトロンである神谷天遊宅へ寄宿し修業することになる。「蓬瀛勝会」などの書画会で多彩な文化人と交流しながら刺激をうけ、画術を深めていった。享和2年、天遊の死を契機に山本梅逸とともに京都に出るが京都画壇で成功を収められず帰郷、13年後に再度上洛し、そのあとは京都に住んだ。

竹洞より7つ年少の山本梅逸(1783-1856)は名古屋の彫刻師の家に生まれ、幼少の頃から画の才能を示したが、この時期は、嘉言、清狂らが相次いで世を去り、尾張南画が変質期に入った時期だった。梅逸は浮世絵師の山本蘭亭、四條派に近い画風の奇才・張月樵ら南画とは違う師を持たざるを得なかったが、その後、神谷天遊により南画の世界に導かれた。梅逸は南画とは異なる師から受けた技術の上に、南画的な方向性や技法を加え、風俗画的人物画や装飾的傾向の強い花鳥画を自分のものとしていった。天遊の死後は竹洞とともに京都に出るが失敗、郷里に帰る竹洞と別れて全国各地の遊歴へと旅立った。そして二度目の上洛で京都に住み、晩年は名古屋に戻った。

中林竹洞の弟子たちは山水画にすぐれた作品を残したものが多い。多くは京都における弟子たちであるが、郷里の美濃に帰ってその画風を伝えた高橋杏村、江戸へ出て活躍した勾田台嶺、名古屋時代の弟子には玉井鵞渓がいる。

高橋杏村
文化元年生まれ。名は九鴻、字は景羽、通称は惣右衛門。別号に爪霜、鉄鼎、鹿遠草堂がある。美濃安八郡神戸村の人。若い頃に京都に出て竹洞に師事して南画を学んだ。帰郷して弘化元年に「鉄鼎学舎」を開き、漢籍と画法を伝授した。門人は大変多く、尾張から三河に遊歴しその地方にまで門人がいた。子の湘雲もまた画をよくした。明治元年死去。

中林清淑
天保2年生まれ。名はくに。竹洞の娘。父に南画を学び、京都に住んだ。花卉、特に梅図を得意とした。明治45年5月5日、82歳で死去した。

中林竹渓
文化13年生まれ。名は成業、字は紹父、通称は金吾。別号に画河居士がある。竹洞の子。世と相容れず、心配に思った父が梅逸のもとに修業に出した。すぐれた才能を持ち、父親譲りの品格ある画を描いたが、片意地で協調性がなく、才能を十分に発揮することができなかったとされる。慶応3年4月22日、52歳で死去した。

勾田台嶺
安永元年生まれ。名は寛宏、字は文饒。竹洞に師事し、のちに江戸に出て広瀬臺山に師事した。花鳥、水墨ともに品格ある画を描いた。嘉永頃死去。

勾田香夢
名は清。名古屋の人。勾田台嶺の妻。白猫の美人画で知られる。四君子や浅降山水も得意とした。

玉井鵞渓
名は裔、字は裔涯、通称は貞次。別号に月皋、鵞溪、鴬囀居主人がある。伊勢山田に生まれ、文化3年名古屋に来て永坂養二の門に入り外科を学び、灰取町長栄寺門前に住んで医を業とした。寂照寺の僧・月僊に円山派を学び、さらに竹洞の門に入り南画を学んだ。元明清の墨画を残した。花鳥山水すべて竹洞に似ていたといわれる。文久2年5月22日死去。

中野水竹
文化5年生まれ。名は堯教、通称は進一郎。名古屋鴬谷に生まれ、竹洞、梅逸に師事した。天保10年に尾州藩絵事御用掛となり、同門の岡本梅英と幕府献上の岐阜提灯に描いた。常に多くの仲間や門人と月次会を開いて研究し、老後は書画と詩歌を楽しんだ。明治19年1月5日、79歳で死去した。

高木雪居
名は秀真、通称は八郎右衛門、別号に大応、雪居、大翁がある。尾州藩重臣。文武両道に秀でていて、行動的な性格で、藩の世継ぎに関する陳述書で幕府より幽閉されたり、若い志士たちを集めて「金鉄堂」を組織し、明治維新に活躍するなどした。和歌や絵にも気力あふれる作が多く、はじめ谷文晁に問い、のちに竹洞に学び、本格的な作風、技術も進んで取り入れた。

尾張(8)-ネット検索で出てこない画家


南画家を支援し方向性を示した尾張の豪商・豪農

2015-01-16 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

尾張南画の発展に大きく寄与したのが、パトロンの存在である。神谷天遊ら大実業家は、自らも画を描くとともに、経済的な面で画家たちを支援し、研究のために明清画など多くの書画資料を提供、作画における大きな方向性を示した。

神谷天遊は、名古屋の鉄砲町に住み、質屋や醸造業を営む実業家だった。和漢の古書画を豊富に所蔵し、のちに中林竹洞や山本梅逸が初めて本格的な画学習を始めたのも、彼のコレクションによるものだった。経済的にも芸術家たちを支え、また優れた鑑識眼をもって画家を指導した。

彼らの支援によって、書画の研究会が盛んに開催され、画家だけでなく学者や文化人たちも集い交流した。七ツ寺における「蓬瀛勝会」には、神谷天遊、内田蘭渚、山川墨湖、十時梅らが参加。極楽寺の「春興余事」には、内藤東甫、丹羽嘉言、山川墨湖、西村清狂、浅井図南、伊藤三橋、鳳雛、人見黍、松平君山、岡田挺之、雲臥元淳、本田三雪らが参加、「五子の社」には近藤九渓、高間春渚、井上士朗が集った。のちに尾張南画の最盛期をささえる中林竹洞や山本梅逸らもこの会から育っていった。

こうした名古屋城下での動きに加え、鳴海にも文雅の人々が集う輪があった。その中心にいたのが下郷学海である。下郷家は鳴海にあって代々「千代倉」を称した素封家で、歴代の主人はいずれも詩文や書画を好んだ。特に松尾芭蕉との深いつながりを持って以来、俳諧にも関心を寄せ、句会を主催したりもした。

千代倉第六代の学海は、名古屋城下で南画がおこり始めた頃に、経史を宮崎いん圃に、書画を池大雅に学んだと伝えられている。彼の周りには南画を描くものや学者が集まった。その交際範囲は名古屋城下にとどまらず、京阪地方の人々も含んだ広範囲にわたるものだった。

地方の教養ある豪商、豪農の間を遊歴してやっと経済的な支えを得ていた当時の南画家や自由人にとって、下郷学海は大きな存在だった。

神谷天遊
宝永7年生まれ。名は元等、字は斎卿、通称は次平、または永楽屋伝右衛門。三河高須村の出身で、名古屋の鉄砲町に住み、質・醸造業を営んでいた。丹羽嘉言とも親しく、嘉言の絵画世界の基礎になったのは天遊の豊富な中国画コレクションだともいわれる。天遊と嘉言の周りには西村清狂、山川墨湖、巣見来山ら同好の士に加え、鈴木朖、丹羽盤桓子、岡田新川、横井也有ら幅広い学者や自由人たちが集まった。この輪に多趣味の商人たちが加わり、理想の南画を目指し尾張画壇を盛り立てた。享和元年死去。

下郷学海
寛保2年生まれ。名は寛、字は君栗、通称は千蔵・次郎八。別号に亀洞、千代倉(屋号)などがある。下郷家の第6世。下郷家は、酒造を兼ねる鳴海の豪農で、代々書画や和歌・俳諧に関心を持ち、尾張の文化人グループのサロン的役割を果たした。『尚書去病』など著書も多く、同時代の人として山田宮常、浅井図南らが学海にあてた書状が多く残っている。池大雅と与謝蕪村に「十便十宜図」を依頼して描かせたことは有名。寛政2年死去。

尾張(7)-ネット検索で出てこない画家


尾張南画の変質期

2015-01-14 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

丹羽嘉言らによって誕生した尾張南画だが、天明6年に嘉言が45歳で死去すると、尾張南画は新たな展開を迎えることとなる。南画ばかりでなく、当時の学問や文学にまで大きな影響を残した嘉言だが、流派を形成するようなことはなく、弟子などの直接的な後継者を持たなかった。また人物画を主導した西村清狂を継ぐものもなく、しだいに津田応圭によってこの地にもたらされた南蘋系の画風が主流となっていった。

その中心的な位置にいたのが「尾張南画の中興の祖」と称さる山田宮常である。宮常を中心に山川墨湖、高間春渚、市川東谿らが活躍した。彼らはいずれも裕福な商人であり、その財力によって、当時、京都や長崎を中心に流行していた明清画を求め、さらには専門の画家につくまでになった。墨湖は来泊清人の費晴湖に師事に、東谿は勝野范古に学んだ。彼らの活躍により、この時期の尾張の南画は中国色の強いものとなり、南画が広い階層の人々に受け入れられていく先駆けともなった。

山田宮常
延享4年名古屋生まれ。名は宮常、字は吉夫、通称は半蔵。別号に雲樵、雲嶂、拙々堂がある。幼少より文雅を好み、京都に10年ほど遊学した。その間、中国画の粉本を集め、名古屋に持ち帰った。元・明の古蹟にならい、模写の達人として知られた。南蘋風の濃彩花鳥画をもっとも得意としたが、山水や人物表現にも基礎のしっかりした力強い作品を残している。中林竹洞の若い頃の師であり、嘉言から竹洞、梅逸への橋渡しをした。寛政5年12月20日、47歳で死去した。

巣見来山
宝暦7年2月16日生まれ。名は握固、字は赤子、別号に石坡、劣斎、無垢月居がある。医者の家に生まれ、幼少の頃より学を好み、俳諧をよくした。画を志したのは中年以降で、嘉言を慕い、のちに師事した。晩年は知多へ隠棲し、自然に親しむ余生を送った。文政4年7月6日、69歳で死去した。

林旭堂
文政11年12月14日生まれ。名は正維、字は子均、通称は平九郎。尾張藩士中条氏に仕えた。画を阿波徳島の井川鳴門に学び、篆刻を山口余延年に学んだ。

山口余延年
延享3年生まれ。知多郡大高の酒造家に生まれる。俳句も好んだが、京都の高芙蓉に学んだ篆刻で知られる。画もよく描いた。伊勢長島藩主・増山雪齋に学んだとされる。文政2年死去した。

市川東谿
明和2年生まれ。名は元宣、字子和、通称は井桁屋茂兵衛、別号に青生、芸亭がある。大曽根坂で薬種商を営んだ富豪で、詩歌や絵画をよくし、京都において法橋に叙せられた。著書に『国郡全図』がある。天保9年2月18日、74歳で死去した。

中野龍田
明和元年海西郡立田村生まれ。名は煥、字は季友。はじめ桑名で学び、のちに京都に出て儒学を修めた。晩年書画を好んだ。文化8年4月1日、48歳で死去した。

山川冬青
宝暦4年生まれ。名は貞、字は玉幹。山川墨湖の妻。書の橋本修竹の娘で、幼くして書を学び、画も巧みだった。13歳の時に魚藻の画巻を作り、周りを驚かせた。墨湖と結婚してから夫とともに画に精進した。文政元年4月18日、65歳で死去した。

尾張(6)-ネット検索で出てこない画家


尾張南画の草創期

2015-01-09 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

名古屋を中心とする尾張地方の南画は、江戸中期の明和年間に始まり、幕末・明治に至るまで多彩な展開をみせた。日本南画の創始に重要な役割を果たした彭城百川(1697-1752)も名古屋の生まれだが、その活動のほとんどが京都でのものであることから、尾張南画の創始は、百川が死去した時にはまだ10歳だった丹羽嘉言(1742-1786)といえる。

20歳前後で京都に遊学し、明和年間に帰郷した嘉言は、国学を納める一方で洋風画の筆致や構図の山水画を研究、尾張南画の基礎を築いていった。また、ともに尾張南画を創り出した西村清狂(1727-1794)は人物画を切り開き、さらに以前から活動していた津田応圭(不明-1780)が花鳥画を主導した。その周辺には山川墨湖、巣見東苑、高間春渚らがいて、さらに柴田西涯、鈴木若水、宮崎白山、佐野秋華、井上東離らが出てくる。

丹羽嘉言
寛保2年4月3日生まれ。字は彰甫、通称は新次郎。別号に章甫、名士関、謝庵、釈秋林、天放、聚珍堂、福善斎、石居、惺堂、清閑亭主、東海などがある。尾州藩士。雲臥禅師を慕い、30代半ばにして般若台に隠棲、禅理をきわめ、画を描き、風流三昧の生活を送った。寡欲で酒をたしまみ、描くところの山水は元明の風格にかない、その巧妙さは池大雅と並び称された。国文学への造詣の深さや、木活字本の制作、叢書化など多方面で先駆的な役割を果たした。『謝庵遺稿』『福善斎画譜』の著書がある。天明6年3月16日、45歳で死去した。

西村清狂
享保2年生まれ。名は百春、通称は清兵衛。祇園町の「鑪屋」の商人。幼い頃から画を好み、師はなく自らで画法を切り開いた。飄逸な人物画をもっとも得意とした。生来酒を好み、酔いにまかせた画作も多い。寛政6年12月11日、68歳で死去した。

津田応圭
名は乗文、通称は織部、縫殿、字は応圭。別号に北海、柘榴園がある。尾州藩の重臣で、三之丸の東南櫓角に住み「隅の津田」と称された。画を好み、沈南頻を学び、元明の古法をくみ、特に花鳥画を得意とした。尾張における明清画の先駆者。安永9年11月22日死去した。

山川墨湖 
延享3年1月1日生まれ。名は斉、字は子順、通称は弥兵衛。別号に五石山人がある。名古屋上畠町の「丸屋」の商人。文雅を好み、長崎に遊んだ清人費晴湖に南画を学び、山水蘭竹が巧みだった。書をよくし、狂歌もたしなんだ。寛政12年6月4日、55歳で死去した。

巣見東苑
名は巣敏、字は修父(甫)、通称は治平。名古屋伝馬町に住み、画をよくして天明年間に活躍した。丹羽嘉言と親交があり、天明元年4月3日の伏見旧宅における嘉言不惑賀宴にも招かれている。

高間春渚
宝暦6年生まれ。名は明遠、通称は増兵衛。別号に清環堂主人がある。名古屋赤塚の豪商で、はやくに亡くなった兄李渓のあとを継いだ。文学を好み、磯谷滄洲に師事した。また、井上士朗、近藤九渓らと五子の社をつくって雅事に遊び、遠山豆洲の三之丸屋敷に招かれた長崎の范古につき画を学び、明清風の水墨画をよくした。天明6年11月3日、30歳で死去した。

柴田西涯
名は玄龍、景浩。名古屋納屋町に住んでいた。安永年間に活躍した。

鈴木若水
字は伯栗、穂寛、通称は平九郎。安永年間に活躍した。

宮崎白山
名は忠敏、字は慎甫、通称は十郎次。海西郡島ケ地の人。安永年間に活躍した。

佐野秋華
名は忠豊、字は公栗、通称は周平。安永年中に出て、左忠豊と称して天明・寛政年間に活躍した。

井上東離
名は邦高、通称は嘉兵衛。嘉言と親交があり『福善斎画譜』の中に多くの虫類の写生がある。

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庶民の姿や風俗を描いた尾張藩士・高力猿猴庵

2015-01-05 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑、尾張の絵画史、猿猴庵とその時代

江戸が華やかな庶民文化に湧いていた江戸時代後期、名古屋城下においても文化的繁栄の時代を迎えていた。賑やかな祭りや華やかな行列が街を彩り、芝居、見世物、開帳などが頻繁に催され、人々は繁栄の時代を謳歌していた。

尾張藩士・高力猿猴庵は、その庶民たちの姿や風俗を丹念に描き上げ、貴重な資料として残している。猿猴庵については不明な点が多く、尾張藩士としては中級の上くらいで、職務は閑職だったという。師系も定かではなく、私生活についてはさらに不明で、30歳で妻をなくし、自らの死の直前には嫡子に先立たれたと伝えられている。

名古屋市博物館には猿猴庵の本コレクションがあり、図録・サイトで紹介している。ここでは主に猿猴庵の周辺の人々について記載する。猿猴庵の本コレクション

高力猿猴庵
尾張藩士。名は種信、通称は新三・与左衛門。別号に吾遊叟、紀有菜、馬甲散人などがある。30歳の時に父のあとを継ぎ、馬廻組を命じられた。翌年、江戸に赴き数年滞在したとされる。この時期は不明な点が多いが、江戸での生活は、制作の上で大きな影響を与えたと思われる。天保2年、76歳で死去した。

内藤東甫
猿猴庵の義理の叔父。尾張藩士。享保13年生まれ。江戸狩野の門人。名は正参、通称は浅右衛門、別号に閑水、朽庵、泥江隠士がある。安永6年春日井郡の尾張藩御凉御殿障壁画を担当した。横井也有ら当時の文化人と交流があった。『張州雑志』の挿絵や、暮雨巷の雅集『姑射文庫』の画を描いた。天明の飢饉に画を売って窮民を救うなどした。泥江に隠居後は風流優雅な生活を送った。天明8年死去。東甫が主導して編集した尾張地方の絵入雑録『張州雑志』は、百巻におよぶ大作で、若い頃の猿猴庵がこれに学んだことも十分に考えられる。

高力種昌
猿猴庵の祖父。著書に雑録『夕日物語』がある。猿猴庵の出生以前に他界しているので直接の影響はない。

高力種篤
猿猴庵の父。著作は伝わっていないが、『続梵天図会』の一部をもとに描かれており、猿猴庵の仕事の源流は、種昌や種篤に発するものと考えられる。

高力全休庵
猿猴庵の孫。父久信が猿猴庵より先に没したため、猿猴庵の死去直後に幼くして高力家の当主となった。幕末から明治初期の名古屋城下図をいくつか残している。

高力種英
猿猴庵の一族と思われる。『張州英画譜』の著書がある。

小田切春江
尾張藩士。別号に歌月庵喜笑がある。猿猴庵に師事し、多くの作品を残している。

森玉僊(高雅)
猿猴庵との関係は明らかではないが、『尾張名所図会』の挿絵や団扇絵に用いた画題には共通するものが多い。

小寺玉晁
尾張藩の陪臣。諸芸に秀でており著作も多い。絵は森玉僊に師事し、神谷三園や細野要斎ら学者たちとの交流も多い。猿猴庵との直接の関係は不明だが、猿猴庵の蔵書を転写した『諸家随筆集』や『見世物雑誌』のように傾向の似た著作を残している。

貸本屋・大惣
明和4年から明治31まで続いた名古屋の貸本屋で、質・量ともに優れた蔵書を誇り、名古屋のみでなく、江戸の文化人などにもその名を知られた。猿猴庵は、主にその後半生に、大惣の依頼で絵入本を著した。ただ、猿猴庵の著作の多くが大惣本として伝わっているが、伝来の状態からみて、猿猴庵の没後に大惣に入ったと思われるものも多い。

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