松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

尾張の狩野派・町狩野

2014-12-24 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

町狩野とは、幕府や藩には所属せずに市井に門をはった狩野派のことで、尾張の吉川家は御用絵師・清野養山の門から吉川知信が出て以来、幕末まで町狩野として家系を続けた。また、木挽町狩野養川院惟信の門人である岩井正斎、松野梅山、その門人の下村丹山や近藤芙山らが町狩野として名を残した。ほかには、文化人と交流し画賛もよくした高田良斎、中天和尚、内藤東甫ら多彩な画人たちが活躍した。

吉川知信
貞享4年生まれ。通称は小右衛門、別号に孤月堂がある。清野養山に狩野派を学び、一家を興した。特に仏画、人物画を得意とした。松平君山が『張州府志』編纂のときに随行して、草木、禽獣、魚介などの写生にあたった。真宗大谷派名古屋別院にがある。明和8年死去。吉川家は町狩野の家として幕末まで続き、尾張藩の画用など公的な画事にも携わった。

吉川英信
吉川知信の長男。元文2年生まれ。通称は小右衛門、はじめ養悦と号し、のちに幸翁に改めた。文化8年死去。

吉川庄助
吉川知信の門人で、のちに養子に入った。

吉川義信(一渓)
吉川英信の長男。宝暦13年生まれ。通称は仙太郎のちに小右衛門、別号に養元、自寛斎、一渓がある。父に狩野派の画法を学び、特に仏画を得意とした。晩年には名古屋城本丸御殿障壁画の筆者鑑定を藩から命じられた。瀬戸市定光寺にがある。天保8年死去。

吉川弘信(君溪)
吉川義信の長男。寛政12年生まれ。通称は春助、はじめ君溪と号し、のちに益翁と改めた。東区西蓮寺にがある。明治17年死去。

岩井正斎
木挽町狩野九代養川院惟信の門人。養月と号した。同朋衆として尾張藩に仕えた。松平鳳山家の御用絵師となり、松平家邸に襖絵を描いた。名古屋城天守閣から見た四方の景色を写生した絵巻を著した。享和2年死去。

松野梅山
天明2年生まれ。名は栄興、字は純恵、別号に雪香亭、无我道人がある。名古屋の吉見屋某の子。はじめ岩井正斎に学び、のちに養川院惟信にも学んだ。壮年にして仏画を修め、薙髪して真宗の岐阜浄導寺に入った。上洛して画を献じて法眼に叙せられた。とくに富士を得意とした。大風で傷ついた城内御殿広間前の舞台が再建された時、藩の命により古図にのっとって鏡板を描いた。安政4年死去。

下村丹山
文化元年知多郡大高生まれ。名は実頴、通称は鉄蔵。別号に湛山、藍衣斎がある。松野梅山の門人で、特に人物画、仏画を得意とした。慶応元年に法橋となった。大高春江院にが残っている。慶応3年死去。

近藤芙山
文化2年熱田区伝馬町生まれ。通称は忠三郎。別号に煙霞斎、雪翁がある。17歳の時に渡辺清の門に入り土佐派を学び、のちに松野梅山について狩野派の画法を修めた。仏画を得意とし、弘化2年宗門の命によって勅修御伝を揮毫し京都御所に納めた。安政3年死去。

高田良斎(太郎庵)
天和3年生まれ。名は栄治、通称は藪下屋太兵衛、別号に下黄狐、黄朴狐、源良、具三、信暁がある。叢結庵、由成堂とも称した。家は代々藪下屋と称する飼馬を業とした。清野養山の門人で、江戸木挽町狩野二代常信にも学び、尾張藩市買御殿の襖絵、紫宸殿聖賢の障子を描いた。剃髪し、そののちに唯念居子に改めた。茶人太郎庵として知られる。宝暦13年死去。

中天和尚
名古屋巾下の雲門寺の住職。清野養山の門人で、画竜を得意とし、常に雲竜を描いた。当時は中天の画竜を買って火災除けとする人が多かったという。雲門寺は享保9年に火災にあい廃絶した。豊橋の東観音寺にがある。

岩間治信
通称は吉右衛門。清野養山の門人で、中区門前町に住み、町狩野として仏画などの制作にあたった。豊橋の東観音寺にがある。東観音寺は平安時代から隆盛をしられた三河の名刹で、他にも狩野派による障壁画が残っている。

尾張(3)-ネット検索で出てこない画家


尾張の狩野派・代々続く御用絵師

2014-12-22 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

尾張藩主は代々、教養のひとつとして狩野派の技法を学び、狩野派の画人を御用絵師として召し抱えていた。19世紀の後半からは、神谷姓を名乗る二家系が御用絵師の列に加わり、幕末までその任にあった。神谷養朔、神谷晴真、神谷三圭とつづく系列と、神谷秋山、神谷慶秋、同二代、神谷高秋、神谷養秋、神谷晴秋と続く系統である。また、町狩野から御用絵師になった楠本雪溪らもいる。

神谷養寿
江戸木挽町狩野七代養川院惟信の門人。天明8年村上家を出て今村随学の養子となり、のちに神谷姓に改め、同6年尾張藩御用絵師となった。西区山田に住んでいた。文政5年死去。今村養寿と同一人物とみられる。

神谷養朔
神谷養寿の子。別号に栄作、了作、良朔、竜朔がある。西区山田に住んでいた。秋山と同時期の御用絵師。文政7年死去。

神谷晴雲
江戸木挽町狩野九代晴川院養信の門人。今村養寿の長男。はじめ玉真と称した。字は碧峰、別号は竹斎。文化11年尾張藩御用絵師となる。文政9年死去。今村晴雲と同一人物とみられる。

神谷晴真
神谷養朔の子。木挽町狩野九代晴川院養信の門人。はじめ元真と号した。文政8年尾張藩御用絵師となる。弘化2年晴川院の弟・晴雪立信から狩野姓への改姓を許される。文久2年死去。

神谷三圭
神谷晴真の子。定治とも称した。文久2年尾張藩御用絵師となった。明治年免職され、同4年に隠居。

神谷秋山
父は央秋。文化8年尾張藩御用絵師となる。父央秋については不詳。文政元年死去。

神谷慶秋(初代)
神谷秋山の養子。名は鉄助。文政13年尾張藩御用絵師となる。嘉永7年死去。

神谷慶秋(二代)
初代慶秋の子。嘉永7年尾張藩御用絵師となる。安政3年死去。

神谷高秋
二代慶秋の養子。はじめは清秋と称した。万延元年死去。

神谷養秋
尾張藩御用絵師。文化8年死去。

神谷晴秋
神谷養秋の養子。慶応4年御用絵師見習となる。明治2年免職。

楠本雪溪
画名は紫岡宗琳。号は鳳湫。東都に生まれ尾張に住んだ。文政12年、出入りの町絵師として尾張藩から扶持三人分を与えられる。同じ頃、名古屋城深井庭内竹長押茶屋の障壁画を、谷文晁、住吉広定らとともに描いた。天保4年尾張藩御用絵師見習となり、7年尾張藩御用絵師となる。しばしば江戸詰を命じられた。嘉永3年死去。

楠本圭山
楠本雪溪の子。嘉永3年御用絵師見習となる。

尾張(2)-ネット検索で出てこない画家


尾張の狩野派・初期画人

2014-12-19 | 画人伝・尾張

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史

尾張におけるまとまった絵画制作は、名古屋城の障壁画制作にはじまった。この制作には、当時の狩野派の主流であった画人たちが多く参加した。尾張関係の狩野派の初期画人としては、加賀了順、伊島牧斎、清野一幸らがいる。牧斎は17世紀の中頃には尾張藩に仕えていたが、その詳細は不明で、同時期に活動した清野一幸が尾張藩最初の御用絵師と考えられる。一幸は20年間、尾張藩の御用絵師をつとめ、現役のまま没し、その後を子、孫が代々継ぎ、それが途切れると、江戸の浜町狩野家から今村随学が派遣され、代々御用絵師をつとめた。

加賀了順
狩野永徳の庶子。尾張藩初代藩主義直に仕えた。子孫は画業を廃した。

伊島牧斎 
鷹匠の家に生まれ、幼少より画を好み、狩野安信に学んだ。別号に朴斎、卜斎がある。慶安元年頃尾張藩に仕え、扶持十人分を得たと伝えられる。鷹および鳥類を得意とし、竹腰家書院障壁画にインコの絵を描いた。名古屋城二之丸御殿迎凉閣に鶴図襖絵が残っている。

南部一翁
通称は十一左衛門。別号に松寿軒がある。伊島牧斎の門人で、義直に仕え、鷹の絵を得意とした。

土岐某
義直に仕え、鷹の絵を得意とした。

平川徳順
義直に仕え、鷹の絵を得意とした。

永原権兵衛
竹腰家の家人。義直に仕え、鷹の絵を得意とした。

清野一幸
江戸木挽町狩野初代尚信に学び、師の描法を守った。名は重信、別号に円成、童翁がある。尾張藩に招かれ尾張藩御用絵師の祖となる。寛文・延宝年間にもっとも活躍し、盛んに寺院の障壁、杉戸、屏風に描いたが、落款を施さなかったため、作品が特定できないものが多い。

清野養山
江戸木挽町狩野二代尚信の門人。清野一幸の子。名は常進、別号に円如、一成がある。一幸の没後、元禄の初め尾張藩に召され、元禄8年尾張藩御用絵師となり、12年に円如から養山に改めた。中天和尚、太郎庵、岩間治信、吉川知信ら多くの門人を育てた。

清野円嘉
別号に蔵主、円常がある。養山の子。享保7年尾張藩御用絵師となった。寛政4年から茶道役を兼ねる。宝暦10年死去。

清野円斎
名は庄吉。円嘉の子。父の没後尾張藩に仕えるが、もっぱら茶道役をつとめた。

今村随学
江戸浜町狩野三代常川幸信の門人。明和4年尾張藩御用絵師になった。天明8年村上養寿を養子に迎えた。寛政5年死去。

今村養寿
江戸木挽町狩野七代養川院惟信の門人。天明8年村上家を出て今村随学の養子となり、寛政6年尾張藩御用絵師となった。文化5年死去。

今村晴雲
江戸木挽町狩野九代晴川院養信の門人。今村養寿の長男。はじめ玉真と称した。字は碧峰、別号は竹斎。文化11年尾張藩御用絵師となった。文政9年死去。

今村惟完
今村養寿の子。晴雲の弟。

今村真静
今村晴雲の長男。文政10年尾張藩に仕えた。

今村勝渓
文政年間から元治年間頃の尾張藩御用絵師。真静と同一人物とも考えられる。

 尾張(1)-ネット検索で出てこない画家


南画隆盛から異色の日本画家を生む土壌へ

2014-12-12 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝、東三河の日本画家たち

隆盛を極めた東三河の南画だが、明治中期をひとつのピークに、やがて衰退していく。閉塞した郷土画壇を去り、京都や東京の画壇に活路を見出そうとする次代の画家たちも出てきた。菊池芳文に師事した疋田芳沼、川村曼舟に学んだ廣本進や尾崎聖峰らが京都画壇で活躍。上京して学んだ画家としては、古くは稲田文笠、長尾華陽、鈴木拳山がいるが、その流れを引き継いだのが小笠原華文、白井烟であり、さらに次の世代としては遠山唯一、鵜飼節夫、村松乙彦らがあげられる。

戦後になると、この地からは日展の異端児・中村正義を筆頭に、パンリアル協会の星野眞吾、創画会の平川敏夫、大森運夫、高畑郁子ら個性的な日本画家たちが出てくる。

時代の趨勢とともに衰退していった東三河の南画だが、小華らが築いた南画の隆盛があったからこそ、その熱が時代を越えてこの地に伝わり、独自の世界を展開する異色の日本画家たちを輩出することになったのだろう。

疋田芳沼
明治11年渥美郡松葉町生まれ。疋田熊次の二男。幼名は熊太郎、名は熊吉。実家は吉田藩士だったが、維新後の飲食店経営がふるわず、農業に転じた。小学校卒業後、八町の有田写真館に奉公したが、東京に移転したため実家に帰る。15歳の時に横浜で陶器業を営んでいた豊橋出身の亀田某に見いだされ、横浜で陶画を修得した。その後の3年間は陶画を本業とするかたわら東京で日本画を学んだ。その後京都に移り、田中月耕に学んだのち、同門の菊池芳文に師事した。明治40年、第1回文展に初入選し、以後文展・帝展に出品した。東三河地方の画家としては最初期に文展で活躍した。安久美神戸神明社に大額が残っている。昭和9年に京都で死去した。

尾崎聖峰
明治25年宝飯郡神ノ郷村生まれ。名は市郎。県立岡崎中学校を卒業後、上京して四條派の畑仙齢に学ぶが、病気のため帰郷。大正5年、京都の川村曼舟に師事し、翌年明治絵画会第7回絵画展覧会にが入選。郷里の神ノ郷村にやが残っている。大正15年死去した。

小笠原華文
明治11年渥美郡赤羽根村生まれ。眞宗光明寺住職・小笠原暉山の二男。幼い頃から鏑木華国に師事、のちに名古屋の三浦石斎、織田杏斎について文晁系南画を修めた。この頃、田原の西光寺に滞在し、多くの作品を残している。大正5年頃に上京し、荒木十畝に師事して「読画会」に入門した。帝国絵画共進会や中央南宗画会などに出品し、将来を嘱望されたが、大正13年豊橋に滞在中に47歳で死去した。

高柳淳彦
明治31年渥美郡老津村生まれ。名は淳。大正6年に豊橋中学校を卒業し上京、同9年に東京美術学校に入学し、松岡映丘に師事した。当時の課題制作が東京芸術大学に残されている。大正15年に卒業し、高田装束店につとめた。昭和7年に第13回帝展に初入選。目黒雅叙園に作品が残されている。昭和32年、58歳で東京で死去した。

鵜飼節夫
明治35年渥美郡野田村生まれ。日本美術学校卒業後、はじめ小茂田青樹に師事したが、のちに堅山南風の門に入る。昭和5年、第17回日本美術院展に初入選、以後院展に出品し、昭和53年に日本美術院特待となる。郷里の野田町の公民館や中学校に作品が残っている。昭和58年、東京で死去した。

遠山唯一
明治40年北設楽郡田口町生まれ。名も唯一。上京して松林桂月に師事、山水、花鳥を得意とした。帝展・日展に11回入選、白壽賞を受賞した。昭和34年、52歳で死去した。

村松乙彦
大正元年北設楽郡下津具村生まれ。浜松中学卒業後に日本美術学校を卒業。児玉希望に師事。昭和58年、71歳で死去した。

 東三河(10)-ネット検索で出てこない画家


南画一色の東三河画壇で異彩を放った狩野派・加藤元白

2014-12-09 | 画人伝・東三河

文献:東三河画人伝とよかわの美術家たち

渡辺崋山以降、南画一色となった東三河地方で、狩野派を学んだ異色の存在として、加藤元白がいる。元白は砥鹿神社南部に位置する八名郡橋尾村に生まれ、京都に出て狩野派に学び、京都画壇で未来を嘱望されながらも、家庭の事情で帰郷、団体に属さず、各種コンクールなどにも積極的に出品しなかったため残された記録は少ない。

白井烟も著書『東三河画人伝』の中で「八名郡出身の加藤綜猿元白という狩野派の画家が活躍していることをうかがった」とその存在を気にかけ、「曾孫の白井政義君が、極力遺墨の収集と遺墨画集の製作に努力しておられる」とその成果を期待していた。

その研究の成果として、平成4年に刊行された『定本・東三河の美術』に白井政義が加藤元白の詳細を掲載している。また、平成24年には桜ヶ丘ミュージアムで開催された「とよかわの美術家たち」に加藤元白の作品が出品され、展覧会図録には「画は動きのある人物と対比させた水墨の山水画などを得意とした。大胆な筆使いと繊細な描写で、墨の濃淡によるダイナミズムなど対照的構図が多くみられ、優れた技量がうかがえる」と評されている。

加藤元白
文政8年八名郡橋尾村生まれ。加藤政五郎の長男。政五郎は名字帯刀を許された助郷総代を務めた大庄屋。名は椋猿、別号に光宜がある。弘化2年より8年間、狩野派の画人・桜斉広元に学び、若き日には京都の御所に招かれたという。画家としての能力は高く、狩野派の逸材として知られたが、親の賛同を得られず、京都画壇で活躍することなく帰郷、遠州三ケ日の森田美江を妻に迎え、二男五女をもうけた。

長男の虎次郎が東京で加藤運送店を開業させたため、元白も晩年は東京で暮らし、明治43年、85歳で死去した。長男が写真嫌いで酒好きの元白を東京上野に誘い出し、途中の日本橋の写真館で無理やり写真を撮ったため、2週間後に亡くなったという逸話がある。作品は出身地である橋尾町の東光寺、本宮山松源院に残っている。

東三河(9)-ネット検索で出てこない画家


崋山・椿山の画風を継いだ最後のひと・白井烟

2014-12-05 | 画人伝・東三河

文献:東三河画人伝

従兄の白井永川から南画の手ほどきを受けた白井烟は、その後上京して崋椿系南画の流れを汲む松林桂月に学び、戦前・戦後を通じて中央画壇で活躍した。平成14年には田原市博物館で「崋山・椿山の画風を継いだ最後のひと・白井烟」が開催され、その経歴は展覧会図録や他サイトに詳しい。ここでは、烟の著書『東三河画人伝』の中から、他では掲載されていない画家やその周辺の人物について紹介する。

高須華外
曲尺手の南側に呉服や漆器、嫁入り道具一式を商う「八星」という大きな店があり、その店の主人。前項に登場した南画研鑚会「尚雅会」の会場となった店である。華外は裕福な好事家で、邸内は広く、別棟に数奇を凝らした庭園などがあり、「雅人の集まりには極めて都合がよかった」という。いつかしら日を定めて会合するようになり、持ち寄った作品の批評やら席画を楽しんだ。風流人・華外は闊達磊落な人物で、薄墨で上品で格調高い画を描いており、烟は「余り数は描かず作品も少ないと思うが、今あれば、きっと名品のはず」と評している。

下村快雨
豊橋市指笠町の願成寺の住職。椿山風の極めて温雅な作風だった。席画もなかなか達者で、よく画会で同席した。豊橋には作品が相当残っているはずだが、「帰郷の度に探すが、いまだお目にかかれない」

武田松荷
豊橋市東田町の全久院二十七世の住職。玉珠の玉を得意とし、描くのが速かった。会が終わってからの宴席で隣だったので、お膳についた魚をどうするか見ていたら、刺身をむしゃむしゃ食べていて驚いた。「全久院は生臭坊主だ、と毒付いたこともあったが、今考えると恥じ入るばかり」とのこと。

井戸芳水
東雲座の近くの小庵に住む半俗半僧。尚雅会では「井戸坊」と呼ばれていた。どこへでも顔を出すので、よく会った。遊びに来いと誘われたが、「その作品から受ける感じから訪ねる勇気はなかった」

角煙巌
小坂井市出身の詩人。いつも羽織袴で、笑った顔を見たことがないが、「詩も書も一番うまかった」。烟が師匠の松林桂月に雅号を決めてもらう際、故郷の煙巌山から「エンガン」にしろと言われたが、「先輩の詩人に角煙巌というひとがいるからまずい」と難色を示すも、桂月に「画を描かない人ならかまわんじゃあないか、それにしろ」と押し切られ「エンガン」に決まった。同じ読みの雅号に煙巌も気になっていたのか、烟の画に賛をしてみたいと望んでいたらしいが、それもかなわず煙巌は他界した。その報に烟は「同じ"エンガン"を名乗りながらも、なんと薄縁であったか」と嘆いた。

松坂眠石
牛川の松坂家の二男。青年時代は百花園に通って小華に学んだが、自分の才能が絵よりも印刻にあると思い、印刻に専念するようになった。親の財産を継いだ時に三河製糸工場を創立したが失敗。意を決して料理研究の目的で米国に渡り、7年間滞留して帰国後に料亭を開いたが失敗。食うや食わずの生活をしていたが、晩年は印刻が博物館で認められ騒がれるようになった。その博識は驚くべきもので、知らないと言ったことがない。「当時は誰も口にしなかったベターメン(ビタミン)という言葉がしきりに出た」

佐藤雨声
八名郡多米村の加藤家に生まれ、石巻村の佐藤家の養子となった。本名は芳一。別号に石邦、対巻居がある。郵便局に勤めながら白井永川に学び、その後上京して、先に東京に出ていたと烟と大塚で共同生活をする。小坂芝田に学び、芝田の死後は福田浩湖に師事した。烟が「貧乏書生が、同年輩の書生一人を抱えた形」と記した4年ほどの悪戦苦闘のすえ、雨声は帰郷して豊橋郵便局へと勤めを戻した。郵便局退職後の雨声は雅人として再起し、豊橋でも個展を再三開催、「芝田でもなく、浩湖でもなく、彼一流の画風になった」と烟も評している。また雨声は短歌もたしなみ、短歌雑誌「犬蓼」「三河アララギ」を発行、書人としての「佐藤房一」も出色で、烟は「どこへ居を移しても、一生を通じて風流人として終始した」と画友を回想している。

東三河(8)-ネット検索で出てこない画家


小華が去った後の豊橋画壇

2014-12-03 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝東三河の日本画家たちとよかわの美術家たち

明治15年に小華が上京した後の豊橋画壇は、小華の直弟子である大河戸晩翠、森田緑雲、植田衣洲らが引き継いで盛り立てた。曲尺手町の呉服屋「八星」では南画研鑚の場として「尚雅会」が開催され、植田衣洲、夏目太果(泰果)、白井永川、白井烟らが参加、それを母体に大正6年には白井永川が「豊橋南宗画会」を興し、白井烟をはじめ、倉内一壺、杉山呉洲、柳沼玄泉、横田琴荘、村上華谷らが参加した。多くの門下生を育てた白井永川・青淵親子をはじめ、多彩な師系の南画家たちが活動したが、やがてその隆盛は陰りを見せ始める。

夏目泰果
明治14年宝飯郡下地町生まれ。名は七作。東京美術学校に入学し洋画を学んだが、中退して郷里に帰り、鈴木拳山に師事して日本画に転じた。はじめ太果と号していたが、のちに泰果と改めた。帝展入選。晩年は豊橋市舟原に住み、肖像画も描いた。昭和26年1月3日、70歳で死去した。

白井永川
豊橋市西羽田町生まれ。白井勝蔵の長男。名は儀三郎。森田緑雲について神職を志すとともに画を学んだ。画は師をしのぐといわれ、山水、花鳥を得意とした。豊橋南宗画会を興して多くの門人を育成した。大正の初め頃に豊橋市内で数回南画展を開き、永川の門人をはじめ、東京から佐藤紫煙、白井烟、大津雲山の出品もあり、盛会だったという。昭和18年4月17日、59歳で死去した。

倉内一壺
明治32年8月豊橋市牟呂町坂津生まれ。倉内幸太郎の二男。名は耕一。初号は寛山道人で、のちに一壺を改めた。白井永川について南画を学んだあと、白井烟をたよって上京し、烟の紹介で福田浩湖の門に入った。

杉山呉洲
文久3年7月27日白須賀生まれ。名は半七、初号は小谷、または雲領と称したが、のちに呉洲と改めた。別号に鹿鳴書屋、櫻香館、鴎夢樓がある。同郷の跡見復山に学んだ。昭和4年5月23日、66歳で死去した。

柳沼玄泉
父は漢学をもって吉田藩に仕えた儒者。豊橋中学から陸士を卒業し、陸軍歩兵少佐で戦前に退職した。白井永川に師事し、山水、花鳥を得意とした。別号に陽谷がある。豊橋市役所食堂に絹本山水画がある。太平洋戦争とともに召集され、胸を病んで60歳前後で死去した。

横田琴荘
豊橋市牟呂町坂津生まれ。名は安治。陸軍主計中佐で終戦を迎えた。戦前、白井永川に師事して画を学び、のちに上京して関屋雲外の門に入った。篆刻もよくした。戦後は東京に住んだ。

村上華谷
名は啓八。村上家は村上源氏の末裔で、代々信州に住んでいた。父清平は石巻神社の神職。農耕、養蚕の傍ら、大河戸晩翠に師事して画を学んだ。昭和2年10月29日、61歳で死去した。

東三河(7)-ネット検索で出てこない画家