松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま北海道を探索中。

東三河における小華門(2)

2014-11-28 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝

大河戸晩翠
弘化2年2月12日吉田指笠町生まれ。真宗高田派願成寺の住職・福沢諦聞の四男。名は挺秀、幼名は霊台、字は守節。別号に梅笠、六聰散人、吉祥山人、馴雀園などがある。安政2年、11歳の時に、同派牛川の名刹正太寺の養嗣子として迎えられ十一代住職となった。仏典は伊勢の松山忍成師に、漢学は関根痴堂、小野湖山について学んだ。幼い頃より絵を描くのが好きで、稲田文笠の門に入り画を学び、梅笠と号した。

この頃の作品としては、文久2年に大村珠光院不動堂の内陣天井画作成に文笠一門として参加して描いた草花図三枚が残っている。安政5年には稲田文笠主催の書画展覧会に出品、この展覧会には、後に師と仰ぐ渡辺小華と、終生のライバルとなる鈴木拳山も出品している。明治6年文笠が66歳で死去すると、崋椿系南画に傾注しはじめた時代の風潮に従い、小華の門に入り南画の奥儀を極め、東三河における小華門の第一人者として名声を高めた。

小華の上京後は、深く画を研究するため、大分県日田市の専念寺住職、田能村竹田門下の平野五岳をたずね、その画風の会得につとめたりもした。生涯仏道のために身を尽くすかたわら、興学にもつとめ、正太寺では江戸時代中頃から寺小屋を創設し、晩翠自ら読み書き、算術を指導して村民の教育につとめ、明治5年の学制発布により寺小屋が廃止された後は、小学校創設の必要性を説き、明治6年に牛川村中郷に第九中学区第四十二番小学牛川学校が開設され、歴代校長に名を連ねた。大正10年10月18日、77歳で死去した。

井村常山
茨城県鹿島町の人。名は貫一、初号は百籟で、のちに常山と改めた。明治11年に愛知県八等警部として赴任、12年に渥美郡書記に転任した。書を中沢雪城に師事し、画を小華に学んだ。晩年は各地を遊歴し、大正14年、東京で86歳で死去した。

植田衣洲
安政2年10月16日渥美郡高須新田生まれ。吉田藩御用達植田七三郎(六代敏樹)の二男。幼名は耕三郎、名は新寛、字は耕圃、通称は七三郎。松月堂古流の活花を幽照軒五道に学び、垂蔭亭苔石と称した。画は小華に学び、崋椿系南画を受け継ぎ、牡丹、菊を得意とした。三ツ相栄昌寺観音堂天井画作成には大河戸晩翠、森田緑雲らとともに小華一門として参加。緑雲、晩翠なきあとは、三河のおける小華門の長老として活躍した。大正14年4月19日、71歳で死去した。

渡辺華石
名古屋の旧藩士で、名は小川静雄。明治10年頃、渥美郡役所の書記として在任した。小華門人の中でも前途を嘱望され、明治15年に小華が東京に転出した際には、前後して上京し引き続き小華の教えを受けた。明治20年に小華が死去すると、渡辺姓を名乗り、華石と号した。晩年は小室翠雲とならぶ南画界の両大関の観があったといわれる。崋山、椿山の鑑定にもすぐれていた。昭和5年11月6日、79歳で死去した。

井上華陵
田原の旧藩士で、通称は井上泰次郎。別号に華斉、明聲館がある。小華に師事した。八名郡の小学校、仁崎小学校などで教鞭をとり、退職後は神官となった。崋山の鑑定に精通し、同郷の鏑木華国とともに、崋椿系の鑑識には定評があった。昭和5年、71歳で死去した。

鏑木華国
慶応4年渥美郡田原生まれ。祖父は田原藩士。名は武輔。銀行に勤務する傍ら小華に師事した。井上華陵とともに崋椿系の鑑識に定評があった。明治40年10月、「崋山先生七十年祭記念遺墨展覧会」を田原町で開催した際に、出品作300点の中から200余点を選び、これに不出品の名作20点を加えて「渡辺崋山遺墨帖」を編集するなど、崋山顕彰のため尽力した。昭和17年6月5日、75歳で死去した。

東三河(6)-ネット検索で出てこない画家


東三河における小華門(1)

2014-11-22 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝

明治7年に渡辺小華が豊橋に移り住み、従来の石峰・文笠一門であった画家たちも南画一色となり、小華門は最盛期を迎える。小華門下では、遠江の山下青、豊橋の深井清華、大河戸晩翠、稲田耕山、鈴木梅巌、田原の井上華陵、鏑木華国らが名声を高めた。

深井清華
名は諌雄。深井家は代々吉田藩主大河内家の家老職で、廃藩当時は御中老だった。明治初期に写真家で画家の下岡連杖に師事し、はじめて豊橋に写真術を移入、大手に深井写真館を開業した。渡辺小華が豊橋に来たのを機に、小華について画を学んだ。明治21年、62歳で死去した。

大平小洲
信州飯田の人で、小華を慕い豊橋に来て小華門に入った。豊橋と飯田の間を往来していたが、のちに飯田に定住し、門人も多く育てた。作品は豊橋地方に散見される。

関根痴堂
本名は録三郎、字は美意または美柔、別号に致堂がある。長兄は関根杏村。藩校時習館教授。小華とは交友が深く、文人画を余技として描いた。明治23年9月21日、51歳で死去した。

稲田耕山
渥美郡堀切の名門、藤波平太夫の子。稲田文笠の養女の配偶として養嗣となった。各地の小学校で教鞭をとるかたわら、小華に画を学んだ。明治27年2月25日、42歳で死去した。

長尾清江
吉田藩の経士。小華に師事し、墨竹を専門に学び、竹以外は描かなかった。別号に聽竹がある。明治44年死去。

森田緑雲
名は光文。渥美郡牟呂村の牟呂八幡社世襲の神主である森田光尋の子で、父光尋についで神職となった。明治9年から小華に学び、崋椿系南画を受け継ぎ、小華なきあとは、晩翠、衣洲らとともに三河における小華門を盛り上げた。多くの展覧会に出品しており、明治17年の第2回内国絵画共進会には、原田圭岳、長尾華陽、深井清華、稲田耕山、鈴木拳山らとともに出品。明治17年には、三ツ相栄昌寺観音堂天井画作成に大河内晩翠、植田衣洲らと小華一門として参加。明治23年には第3回内国勧業博覧会で褒状、明治24年に日本青年絵画共進会で一等を受けている。大正2年8月25日、61歳で死去した。

小野杜堂
天保11年8月29日生まれ。本町の酒造家久兵衛の子。幼名は柳三郎、通称は久六で、のちに道平と改めた。諱は正爾。画は百花園に通って小華に師事し、号は掃石。俳画をよくした。明治25年に豊橋町の三代目町長となったが、39年の市制施行後の市長選にやぶれ、その後はいっさいの俗事をのがれ、俳諧書画の世界に遊んだ。大正4年10月14日、76歳で死去した。

鈴木梅巌
天保7年花園町生まれ。名は五平次。本家に子がなく、本家に入って鈴木吉兵衛を襲名した。本町の大山梧平とともに上京し、梧平は表具師を、梅巌は画家を志し塩川文麟に四條派を学んだ。帰郷後まもなく明治の時代となり、四條派から南画へと嗜好が移りゆくなか、梅巌も明治7年に小華が豊橋に来たのを機に、小華について文人画を学んだ。書も能筆で、書画の鑑定にもすぐれ、崋椿一派はもちろん、故人の書画鑑定にも信頼があったという。大正7年、83歳で死去した。

村田小圃
三ツ相生まれ。名は周作。最初は文笠に画を学び、表具師となって船町に住んだ。小華が豊橋に住むようになって、小華の門に出入りするようになり、自然に小華の影響を受けるようになった。大正10年死去。

加藤玉壺
名は皆蔵。船町で表具屋をしていて、小華が豊橋に来たのちに親近の間柄となり、画を学んだ。花道で高名で、松月堂古流の日本総会頭だった。大正8年6月3日、91歳で死去した。

東三河(5)-ネット検索で出てこない画家


崋椿系が根付く前の東三河画壇(2)

2014-11-11 | 画人伝・東三河

文献:東三画人伝とよかわの美術家たち

星野田斉
関東地方の出身で、文久、慶応の頃に吉田に足を止め、本町の金子家に長く滞在した。別号に天福道人ある。鉄筆画を得意とした。

土井平所
御油の問屋役で、通称は竹屋権四郎、別号に蒲碧堂、蘭竹草堂がある。

榊原翠塘
湊町の表具屋で、名は孫兵衛。石峰門下で、表具屋の傍ら彫刻をよくした。湊町神明社の二尊の大額、悟真寺専称軒の涅槃像が代表作である。明治3年、62歳で死去した。

了覚
札木本陣・山田新右衛門の子。仁連木の臨済寺で得度し、僧籍に入った。豊橋市中八町神明社の掛額一面は了覚の筆といわれる。

佐藤梅鄰
船町の佐藤新兵衛大寛の子。佐藤新兵衛を襲名、のちに孫平とした。名は維淳、字は伯還。幼い頃から石峰について学んだ。のちに志をたて、京都の鈴木南領の門に入る。さらに岡本豊彦に師事し、四條派の画をよくした。茶道は堀田宗完に学び、豊彦の門にいた頃には、原田圭岳、柴田是真と特に親交があった。文政の頃、家政を継ぐが、終生画を描き、多くの遺墨を残している。明治6年、69歳で死去した。

夏目周岳
上伝馬町の表具師・夏目三之助の弟で、通称は重八。名古屋の渡辺清について土佐派を学び、和歌、俳句もよくした。明治8年、68歳で死去した。

山田永豊
吉田藩のお抱え絵師・山田洞雪の孫で、香雪の子。字は修、別号に秋錦堂がある。父・香雪が早逝し、9歳で家を継いだ。画筆をもって藩に仕える家柄のため、幼い頃から佐竹永海について画を学んだが、成年した頃に明治維新の廃藩のため祿を失い、画業も完成の域に達したとはいえない。明治17年11月、36歳で死去した。

内藤飛雪
豊橋上伝馬町の笹屋という金物屋で、名は源蔵。本町の大問屋で勢力のあった九文字屋源兵衛の実弟。で知られる夏目可敬の家を株付で買って別家とした。俳人・佐野蓬宇の高弟で、俳画もよくした。明治の初めに隣地に家を新築し、鋒々舎と称して、新刊書籍の販売と新聞の配達を創始した。明治19年死去。

山田太古
札木町本陣江戸屋の主人で、名は新一郎。篆刻を得意とし、墨画もよくした。明治21年、41歳で死去した。

東三河(4)-ネット検索で出てこない画家