松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

遠州における岸派

2014-09-30 | 画人伝・遠州

 

文献:遠州画人伝

遠江において岸派を学んだものは、石川晶斎、宮本龍嶺、駿河に柴田泰山がいる。画派としては南画におされて振るわず、極少数派であった。岸駒に学んだものに巫山がいるが、その経歴は不明である。この時期の南画以外としては、ほかに木村月塘、大矢米年がいる。また明治期に浜松に在住していたものとしては、宮原水雲、水野松巌、宮坂勝春、花谷式人ら異色の画人もいる。

石川晶斎 いしかわ・しょうさい
文化7年7月3日生まれ。名は雅琢、字は盛器、幼名は玉治、通称は田十郎。はじめ玉台と号し、後に晶斎と改めた。別号に岸琢がある。20歳の時に早川斯尹に学んだが、斯尹が没したため、その遺旨をうけて京都に入り岸岱に師事した。明治12年故師岸岱追慕会を浜松で開いている。画事は温雅で着実だったという。明治17年9月1日、75歳で死去した。

宮本龍嶺 みやもと・りゅうれい
文政2年生まれ。浜松の人。岸岱に師事した。門人が山下嶺月がいる。

木村月塘 きむら・げっとう
文化9年生まれ。榛原郡金谷町の人。名は肇好、童名は哲丸。別号に洗耳坊がある。木村半雨の父で、金谷町西照寺の住職。板倉呂仙に師事。明治9年2月4日、66歳で死去した。

大矢米年 おおや・べいねん
久保田米僊に師事。明治28年に浜松市田町の市川霊雲が漆器製造所を創立して、東京から蒔絵師の秋山某、塗師の山岡徳三、研屋の栄次、色漆の井上為山らを招いて美術漆器の製造販売を始めた。好評だったため、次いで画工として浜松に来たのが米年である。米年は洒脱豪放な画風で評判はよかったのだが、事業は次第に縮小していったという。

宮原水雲 みずはら・すいうん
名は廉。明治初年頃、浜松県課長を務めていた。

水野松巌 みずの・しょうげん
狩野素川と共に浜松に来ていた徳川藩士。別名は原島松巌。

宮坂勝春 みやさか・しょうしゅん
代々の菓子商。画は菓子の余戯として描いた。

花谷式人 はなや・しきじん
浜松市三組町の神明社の側、九尺二間の家に住んでいた。百余歳まで生き、野人らしい画を描き、縁起をかつぐ人達に喜ばれた。相当数の作品が残っている。

遠州(8)-ネット検索で出てこない画家


独自の技をもった南画家たち

2014-09-24 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝

当時の遠州では、隆盛を誇った崋椿系だけではなく、独自の技をもった南画系も数多くみられた。楚州に師事した黄檗宗禅僧・禅統をはじめ、野賀岐山、石川鴻斎、金原霞汀、柏木緑雨、高橋月査、田中梅崖、杉山小谷、新貝真蔭、小国重友ら多彩な南画家がいる。

金原霞汀 きんぱら・かてい
天保10年10月4日長上郡三河島村生まれ。名は玉城。嘉永6年15歳の時、天龍川納水の親と称される金原明善と結婚。はじめ静岡の鵜殿霞舟に学び、のちに衣笠豪谷に丹青の法を受けて、南画をよくした。明治37年、66歳で死去した。

柏木緑雨 かしわぎ・りょくう
天保14年9月15日尾張国津島町生まれ。津島神社の神官堀田益人の二男。16歳の時に無断で家を出奔し、京都に入り中西耕石の門に学んだ。耕石は緑雨の画才を認め、養子となることを望んだが、田舎が恋しいとこの求めを断り、京都を出て各地の景勝地で画の修行をした。慶応2年頃遠江に入り、浜名湖北岸の引佐郡三ケ日町鵺代の豪農で歌人柏木☆彦(☆は「木」+「解」)の長女くみの養子となった。養子になった当時は半農と号し、のちに石亭、松処と号し、さらに緑雨と改めた。遠江人になってから浅井白山の東遊に際して、雄踏町の藤田葉山と共に画法を問い、渡辺小華にも学んだ。その画才は中村生海も「遠江画人中、最も確かな手腕を持っている」と認めていたが、晩年に至り不幸続きとなり遂に落莫してしまったという。明治30年11月29日、55歳で死去した。

高橋月査 たかはし・げっさ
文政5年4月3日三河国渥美郡杉山村生まれ。俗姓が高橋、名は行慶、別号に遠湖がある。高野山に登り苦学してその奥を修めた。画は川本月下に学び墨梅をよく描いた。

田中梅崖 たなか・ばいがい
慶応元年生まれ。名は音次郎。大阪市の出身だが、明治34年に初代の浜松郵便局長として浜松に来た。画歴は不明だが、白描の観音像などが残っている。明治40年2月19日、43歳で死去した。

杉山小谷 すぎやま・しょうこく
文久3年生まれ。浜名郡白須賀町の人。名は義光、通称は半十。小谷と号し、雪嶺、さらに呉洲と改めた。また別号に惟一斎、桜香舘、臥龍もある。跡見復山に画を学び、滝和亭にも従ったが、のちに尾張の山本梅荘の門に入った。大正11年死去。

遠州(7)-ネット検索で出てこない画家


小華へと続く崋椿の流れ

2014-09-16 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝

多くの崋山・椿山門下生を輩出している遠州画壇にあって、渡辺崋山の子であり、崋山没後は福田半香がひきとり椿椿山が指導した渡辺小華へと流れが続いていくことは自然なことだった。遠州画壇を盛り上げた小華門下には、飯塚香山、山本愛山を筆頭に、跡見復山、吉川如水、水野梅崖、飯塚哲斎、大塚半山、小山汪水、村松小洲、大竹湘堂ら、そして「東海道における小華系花鳥の雄」と称された山下青がいる。ここではネット検索で詳細が出てこない下記の画家を紹介する。

吉川如水 よしかわ・じょすい
安政5年5月20日生まれ。岩田郡中泉の人。通称は由郎、別号に舒翠、如翠、午道人、澹庵がある。山水に長じていた。昭和10年11月3日、78歳の時に名古屋で死去した。

村松小洲 むらまつ・しょうしゅう
小笠郡掛川町の人。初め小邨と号した。福田半香に学んだ村松白華の子。

水野梅崖 みずの・ばいがい
嘉永2年生まれ。名は轉、通称は源市、別号に葦昌、茅春、乕信、桜湖、永照堂斎などがある。初め水野真邦および祖父の梅川に学び、さらに吉田柳蹊に学び、長じて小華の門に入った。山水に長じている。大正10年4月23日、73歳で死去した。

大塚半山 おおつか・はんざん
弘化3年榛原郡初倉村生まれ。名は宜逸。浜名郡役所の課長をながく勤め、のち庵原郡長となった。幼くして福田半香に学び、のちに大草水雲に学んだが、長じて小華の門に入った。静岡の丹青社の同人でもあった。

大竹湘堂 おおたけ・しょうどう
磐田郡福田町の人。

白井小石 しらい・しょうせき
浜名郡白須賀町の人。

兼子東雨 かねこ・とうう
文久2年10月10日小笠郡掛川町生まれ。別号に小華堂がある。俳号は雨来。

遠州(6)-ネット検索で出てこない画家


自適にして名を求めず・中村生海

2014-09-10 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝

平井顕斎は、福田半香と並び称されながらも、画壇にあって不遇であり門弟に恵まれたともいえない。顕斎の門弟は出生地の川崎地方と浜松地方に多く、浜松に思斎の子、樋口如璋、曳馬村に中村翠濤と中村松塢、積志村に栩木夷白、斎藤秋山ら、浜名湖の東岸雄踏町に中村簡斎、中村生海の兄弟がいた。その中にあって、中村生海は顕斎の筆意を受け継ぎ、衣鉢を伝える逸材の声が高かった。しかし、生海は悠々と生き、決して名を求めなかったため、広く画名を知られることはなかった。

中村生海 なかむら・せいかい
天保5年5月宇布見村生まれ。中村重三郎の子。名は恕、字は碧、はじめ碧水と号したが、まもなく生海とした。通称は房次郎。14歳の時に平井顕斎の門に入り学ぶ。以来、顕斎の遊歴に従いつつ画を学び、安政3年4月に顕斎が三州岡崎で病死するまで、必ず随伴していた。顕斎死去の時、生海は23歳だった。

生海は顕斎から非常に愛され将来を嘱目されていた。福田半香からもその手腕を認められており、半香は人に「顕斎は実にいい後継者を持っている。自分には鈴木香峰があって、その将来に期待するものがあるが、香峰の技も若い生海にはなお及ばざるものがある。うらやましい弟子だ」と言っていた。

顕斎の死後、生海は故山の家に帰り、その後は誰にも師事せず、顕斎からの教えを守り研鑚に努めた。渡辺小華は生海を評して「顕斎、半香没後、独り乃父の山水を伝うるもの、唯この翁に存するのみ」とした。また、田中梅崖は遠州の七不思議の一つとして「僕遠州に来り不思議の念に堪へざるは、生海の画技遥かに青の上にありながら、人青を知りて生海を知らず」と記している。

生海は茶道をたしなみ、生涯怒声を発したり、軽はずみに人を批判したりすることはなかったという。悠々自適に俗塵を絶って絵筆をとり、決して名を求めることのない人生を送り、明治36年3月21日、70歳で死去した。

遠州(5)-ネット検索で出てこない画家


遠州における椿山門下

2014-09-01 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝静岡県の100人展図録

明治に入り、渡辺崋山門下によって培われた南画全盛の気運が、この期に結実したとみられる盛況をみせた。椿椿山の門下では、吉田柳蹊、大草水雲、望月雲荘の三人が名をなすが、いずれもネット検索では詳細が出てこない。

吉田柳蹊 よしだ・りゅうけい
文政3年江戸伝通院生まれ。名は久道、通称は左吾左衛門で、のちに左吾と改めた。別号に暫庵がある。35歳の時に、幕末の徳川幕府の三代官といわれた林鶴梁の下に吏となって磐田郡中泉町を訪れた。その後40歳くらいまでは中泉にいたようだが明確でない部分も多い。慶応の頃から没年までは再び遠江に居住してこの地で没した。師椿山に似て勤勉で、椿山の鶏図の名作を模したけれどもうまくいかず、鶏ばかり500枚も描き、そのためか病を得て没したといわれ、当時の人は「柳蹊は椿山の鶏に食い殺された」と噂したという。明治3年、52歳で死去した。

大草水雲 おおくさ・すいうん
文化14年生まれ。東海道金谷駅の西照寺の住職・木村円海の第二子。幼い頃、父と従兄弟の川崎町静波真宗明照寺第十三世大草良因が早世したので、養嗣子となった。名は亮道、字は皆令、別号に微笑、桂華、煙雨亭主人などがある。16歳の時に西京に行き本山学寮に入り霊往満師として宗乗を学び、30歳の時に帰郷し法職を継いだ。画は西京にいる時に山本梅逸の門に学び、のちに椿椿山に師事した。明治7年12月6日、58歳で死去した。

望月雲荘 もちづき・うんそう
天保3年江戸生まれ。父は勘五郎といい江戸の藩士、母は静岡藩士・望月安兵衛の長女。名は俊。椿椿山に学んで渡辺小華とは寝起きを共にした同輩。明治4年、明治維新の開墾事業に従事するため三方原に移住したが、不馴れな仕事のため、生活的にも生存的にも苦しみ、習いおぼえた絵筆をとって盆燈籠などの絵を描いたところ、小野江忠兵衛に認められ、一度はあきらめた画家として立つこととなった。三方原に住んでいたため「原の雲荘」と呼ばれたが、のちに浜松田町に移り住み一家をなした。しかし東京で名をなすことの思いは強く、明治20年頃に上京するが、失敗に終わり、23年再び浜松に戻り中泉に居を移し後妻を迎え62歳で子供が生まれるが、間もなく再び上京、東京で明治29年、死去した。

遠州(4)-ネット検索で出てこない画家