松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

遠江南画の全盛

2014-08-19 | 画人伝・遠州

 

文献:遠州画人伝

文晁に次いで、さらに遠江と深い関係にあったのが渡辺崋山である。崋山門下として椿椿山と並んで双璧といわれた福田半香、さらに平井顕斎が出るにいたって、遠江の南画は全盛を迎えた。半香、顕斎の門下からは、小栗松靄、熊谷青城、藤田松湖、中村生海ら、椿山の門下からは、吉田柳蹊、大草水雲、望月雲荘らが出て、さらに渡辺小華門下へと続いていく。父子三代の円山派を結実させた山田蘆岸や、まったくの野の画人である伊藤煙☆(☆は「炯」の「火」を「土」に)、土の仏画家・伊東蘆水ら、ネット検索で出てこない異色の南画家が続々と現れたのも、遠江南画の全盛を物語っている。

山田蘆岸 やまだ・ろがん
享和元年10月23日生まれ。山田鉄支の養子、山田家十二代。名は重武、字は寛夫。はじめの名は昭宜、字は之玉、幼名は孫吉。別号に逢雪斎、松濤舎、無為楽老人などがある。蘆岸は山田の分家孫次郎の長男で、和歌、俳諧、茶技をたしなみ、彫刻も巧みで、画は円山派の長沢蘆洲に学んだ。養父鉄支も同派と交渉があり、山田氏三代の画技は蘆岸によって結実したといわれる。万延元年3月25日、60歳で死去した。

伊藤煙☆ いとう・えんけい(☆は「炯」の「火」を「土」に)
天明4年生まれ。蒲村植松の人。通称は春蔵。師ははっきりとしないが、黄檗楚州と親しく、楚州が大雄庵の住職をしていた頃に詩を収録した『舘山吟草』の「前遊」「後遊」それぞれに挿画が6点ずつ掲載されている。毎日釣りばかりしていて、楚州の出遊の際には寄り添って出掛けたという。蒲村の俳人・徐生とも親しく、この両者との合作が多い。安政4年10月23日、74歳で死去した。

伊東蘆水 いとう・ろすい
浜名郡和田村篠ケ瀬生まれ。生没年不明だが文化文政頃の人。旧姓は鈴木で浜松伝馬町の養子となって伊東姓となった。通称は茂兵衛。はじめ偽峯と号し、次に光山と改めた。別号に弧月窓がある。尾張藩光林斎の門人といわれる。作品の大部分は仏画で、当時の東海道における有数の仏画家として伝えられており、特に金泥は牢固で、葛飾北斎に従って名古屋に行きその盛上法を習得したとされ、「蘆水の金泥はかじっても落ちない」といわれた。

渥美節斎 あつみ・せっさい
寛政2年磐田郡光明村船明の豪家に生まれた。家は代々同所の諏訪明神の神官を勤め、御榑木役所の勤務も兼ねており、節斎は渥美家十二代。名は正載、字は大車、通称は林五左衛門。幼名は八十二、または尊敬蔵。書をよくし、画を描き、詩を作り、歌を詠み、篆刻をし、易学を修め、医学にも詳しく、弓道もするなど多芸多能で、号はだいたい詩文には大車、書には林五左衛門または節斎、画には斎または節斎、和歌には正載などと号を使い分けていた。当時は豊田郡きっての書家ともいわれ、「字の書き手は林五左衛門(節斎)、画かきは福田半香、口ききは河島の近江」と称された。福田半香とは親戚の間柄で、半香はよく渥美家に逗留しており、半香の初期の盤湖落款のもので、節斎との合作が渥美家には多く残っている。嘉永3年2月3日、61歳で死去した。

水野真邦 みずの・まくに
天明5年8月16日小笠郡佐倉村佐倉に生まれた。父・豊麿は池宮神社の神官。通称は貢で真邦は諱、真国とも書く。池有亭、または内膳と号し、画名には梅下山人の号もある。父子二代栗田土満の門に入って国学和歌を学んだ。のちに伊勢松阪に行き、本居宣長の子春庭に従って国学和歌を研究、また本居大平にも従学した。書画を好み、画は伊勢の僧月僊に学んだ。文久2年7月23日、78歳で死去した。

板倉呂仙 いたくら・ろせん
寛政12年磐田郡掛塚港生まれ。のちに榛原郡相良の板倉家の養子となった。通称は市兵衛門。安政5年2月4日、59歳で死去した。

遠州(3)-ネット検索で出てこない画家

 


遠江画壇における文晁・以弘の門人たち

2014-08-12 | 画人伝・遠州

文献:遠州画人伝郷土画人展-村松以弘の師、月僊と文晁 以弘の門下、半香と顕斎他-

江戸後期における遠州地方の南画は、掛川藩お抱え絵師だった村松以弘によって始まったとされる。以弘は月僊に学び、その後上京して江戸の谷文晁に学んだと伝えられる。遠江画壇に大きな影響を与えた文晁門下には、他に三宅鴨渓、村松弘道、大橋享斎、小栗文明らがいる。そして、以弘門下には、大庭松風をはじめ、福田半香、平井顕斎、釈思玄、熊谷青城、小栗松靄、武田桜園、村松弘道らが出ており、福田半香、平井顕斎は後に渡辺崋山に学び、「崋山十哲」に数えられるほどの力量を蓄え、共に多くの門人を育てた。

三宅鴨渓 みやけ・おうけい
寛政6年磐田郡見付町生まれ。名は寅、字は希唐、通称は熊五郎、別号に緑个がある。江戸に出て谷文晁の門に学び、郷里に帰って風流三昧の生活を送った。鴨渓が編纂に係った『遠江名勝図』には、文晁、武清、椿山、隆古、半香、文一、桂叢らの筆による遠江名勝の真景十数葉を実写したものがあり、最後に鴨渓の大浦図一葉がある。同書には他に、芙蓉、山塘、省亭の詩文、秋巌の書、真淵の歌二首、依平の長唄などが収録されている。画家というよりも雅人として生き、安政4年6月、64歳で死去した。

村松弘道 むらまつ・こうどう
寛政7年生まれ。小笠郡和田岡村吉岡の人。通称は孫兵衛。原谷と号した。和歌をよくし、はじめ石川依平の門に国学を学び、当時の名士と往来した。また絵画は、はじめ村松以弘に学び、のちに江戸に出て谷文晁の門に学んだ。門人に大庭峰翠がいる。文久2年10月8日、68歳で死去。

大橋享斎 おおはし・きょうさい
磐田郡井通村森本の人。名は喜久、通称は紋太郎。谷文晁の門に学んだ。

小栗文明 おぐり・ぶんめい
浜名郡豊西村恒武の人。通称は良三郎。小栗松靄の家の分家にあたる。谷文晁の門に学んだ。

釈思玄 しゃく・しげん
天明6年久努村生まれの画僧。名は智鳳。石川清衛門の三男。法多山尊永寺の第十九世智盈上人について得度し、42歳で同寺の第二十一世になった。絵画は20歳の時に村松以弘について学び、村松以弘、福田半香、平井顕斎らと画会を開いた。弘化2年死去。

小栗松靄 おぐり・しょうあい
文化11年生まれ。浜名郡豊西村の豪農・小栗仁右衛門の長男。名は徳方、字は子直、通称は武右衛門。初号は木鶏・松斎、別号に青地、晴曠堂がある。16歳の時に村松以弘に学び、のちに福田半香に学んだ。明治27年死去。

熊谷青城 くまがい・せいじょう
文政2年生まれ。磐田郡西之島村の利右衛門の長男。字は子方、別号に全安、此君楼がある。幼児より絵を好み、はじめ村松以弘に学び、後に福田半香の門人となった。明治33年11月23日死去。

武田桜園 たけだ・おうえん
文化11年掛川生まれ。真宗広楽寺の住職で、名は慶曜、晩年は墨翁と号した。絵画ははじめ村松以弘に学び、のちに福田半香の門人となり、平井顕斎や喜多武清らの画法を研究した。明治12年2月年死去。

遠州(2)-ネット検索で出てこない画家