松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

茨城(6)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-27 | 画人伝・茨城

文献:茨城の古書画人名事典

在顔 ざいがん
元亀年間頃の人。常州真壁城主右衛門佐平宗幹の子。真壁氏の菩提寺である真言宗遍照院光明寺の住職。教学のほか兵略にも通じ、画もよくした。

性安 しゃうあん
常陸国太田村溝山寺(または耕山寺)の住職。画法を祥啓に学び、梅庵と号した。山水花鳥をよくした。明応年間、82歳で死去した。

春休 しゅんきゅう
常陸水戸の人。天正年間の人。

周黙 しゅうもく
常陸の人。文政年間の人。江戸芝山内に住んでいた。桜井雪館の門人。

島村庭暉 しまむら・ていき
水戸藩士。名は伝、号は南圭。画を内藤右膳(鳳翔)に学び、山水をよくした。安政年間に死去。

下野雪篁 しもの・せんこう
文政6年生まれ。名は遠明、通称は隼次郎。水戸藩士下野遠歴の子。金子教孝の娘婿。慶応元年、43歳で死去した。

下野九峰 しもの・きゅうほう
水戸藩士。名は仁。下野雪篁の子。画を父に学び、のちに松平雪山についた。花鳥を得意とした。

鈴木助三郎 すずき・すけさぶろう
寛政年間の人。水戸藩士桜井才治郎の門人で、桜井雪館と同門。

鈴木東海 すずき・とうかい
享保5年生まれ。名は宝鼎。桜井雪館に師事し、花鳥人物を得意とした。幼少より画を学び、故あって僧となり、奥州、長崎を遍歴し、70歳で水戸祇園寺の住職となった。特に河豚の絵を得意とし、「東海の河豚」として珍重された。享和2年、83歳で死去した。

鈴木素陵 すずき・そりょう
龍ヶ崎砂町の人。江戸に出て狩野素川、章信に師事し法眼となる。仙台侯の求めにより《関ヶ原陣営図》を描いた。嘉永2年死去。

鈴木文鴎 すずき・ぶんおう
文政6年生まれ。水戸市五軒町の人。名は文次郎。宇佐美太奇の門人。元治元年、42歳で死去した。

鈴木萬悦 すずき・まんえつ
水戸家の御絵師見習で、山内勝春の門人。明治初年頃死去。

鈴木東洋 すずき・とうよう
水戸市久保町の人。名は任。椿椿山の門人。明治初年頃死去。

杉浦溟一 すぎうら・めいいち
水戸の人。名は熈。江戸に出て春木南溟に学び、南画山水を得意とした。明治初年頃死去。

茨城(6)-ネット検索で出てこない画家


茨城(5)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-25 | 画人伝・茨城

文献:茨城の古書画人名事典

後藤夕山 ごとう・せきざん
水戸市下市肴町の人。名は壬介。松平雪山の門人。明治初年頃死去。

五藤自適 ごとう・じてき
天保10年生まれ。水戸仲町の人。名は近知。東照宮の神官、茨城県庁の知事官房に勤務していた。書をよくし、義烈館の太鼓の書は自適の作だとされる。画は松平雪山に学び、四君子を得意とした。大正2年、75歳で死去した。

佐々重晁 ささ・じゅうちょう
寛政5年生まれ。水戸藩の儒者。西村氏、字は明侯、別号に了斎がある。弘化3年、54歳で死去した。

佐藤松溪 さとう・しょうけい
文化8年生まれ。名は延昌、字は中卿、通称は量平。青山雲龍の子で佐藤中陵の養子となった。天保9年水戸藩に仕え、書画もよしくた。著書に『皇朝書画譜』『楷書類聚』『點画奇賞』『武器図説』『松溪文集』などがある。嘉永6年、43歳で死去した。

佐野盛致 さの・もりむね
水戸の人。松平雪山の門人。四君子と得意とした。藩主徳川斉昭の命により作成された《追鳥狩絵巻十八軸》を加藤雪潭とともに描いた。明治初年頃死去。

酒井藍山 さかい・あいざん
後藤文琳の子で酒井家を継いだ。画は父に学び山水を得意とした。明治初年頃死去。

坂場奇一 さかば・きいち
水戸市蓮池町の人。名は時成、通称が奇一で号は荷亭。松平雪山の門人で花鳥山水をよくした。明治初年頃死去。

酒巻于宜 さかまき・とくぎ
水戸市紺屋町の人。明治期の画家。はじめ一柳友善を師とし、のちに立原杏所の門人となる。人物画を得意とした。

斎藤無岳 さいとう・むがく
新治郡中家村の人。明治期の画家。名は伝。早くから東京に出て菊池容斎の門人となり歴史画を学んだ。

坂田鴎谷 さかた・おうこく
新潟蒲生郡鹿久間生まれ。名は愛、字は世誨、通称は亮八。別号に鹿園がある。奥原晴湖と特に親交があり、鈴木鵞古や介庵らとともに江戸で「下谷文人画家」を結成。《雲畑供養》の画帳の中に晴湖とともに山水画を描いている。明治14年死去。

桜井武彦 さくらい・たけひこ
嘉永5年生まれ。西茨城郡石井村の人。号桂山。幼い頃から画を好んでいたが家が貧しくて師につくことができず、独学で研究した。

桜井華水 さくらい・かすい
笠間の人。名は憲。桜井華陵の子。茨城師範を明治44年に卒業、教鞭をとった。水彩画を得意とした。

笹沼竹風 ささぬま・ちくふう
明治36年生まれ。西茨城郡笠間大字石井の人。別号に青波、静波。晩年は明峯と号した。大正8年松本楓湖の門人となり、楓湖没後は木村武山に師事した。昭和56年、79歳で死去した。

茨城(5)-ネット検索で出てこない画家


茨城(4)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-19 | 画人伝・茨城

文献:茨城の古書画人名事典

河西雪渚 かわにし・せつしょ
通称は蕭四。松平雪山の門人で山水をよくした。明治初年頃死去。

軽部竹堂 かるべ・ちくどう
江戸崎の人。名は愼。画を人見淇堂に学び、椿山派の花鳥を描いた。明治初年頃死去。

梶山大海 かじやま・たいかい
天保7年常陸太田市内田町生まれ。画を宇佐美太奇に学び、人物、山水を得意とした。大正12年、88歳で死去した。

金子雲英 かねこ・うんえい
明治23年下館市生まれ。名は英太郎、上京して尾竹国観に師事、土佐派を研究して山水を得意とした。明治45年日本美術協会に《嵐山の図》を出品。

菊池江外 きくち・こうがい
筑波郡真瀬村の人。名は徳。南画山水をよくした。明治初年頃死去。

栗田長 くりた・ちょうみん
宝暦2年生まれ。水戸藩士。名は吉、通称は八郎兵衛。別号に蕉鹿(一説は丘鹿)がある。南蘋の画法を学んで、密画の花鳥人物をよくした。文化5年、57歳で死去した。

久米悦之助 くめ・えつのすけ
水戸藩士。松平雪山の門に入り画を学び、人物をよくした。慶応年間に死去。

久米霞岳 くめ・かがく
文化12年生まれ。名は雅禮、通称は波衛門。14歳の時に道口雪窓につき画を学び、のちに加藤雪潭の門人となり、花鳥山水を得意とした。藩主徳川斉昭の命により作成された《追鳥狩絵巻物十八軸》を佐野盛致とともに手伝った。明治33年、86歳で死去した。

小林玄甫 こばやし・げんぽ
水戸の人。名は抱古。はじめ立原杏所に学び、のちに松平雪山の門に入った。花鳥山水をよくした。慶応年間に死去。

児玉梅坪 こだま・ばいへい
享和元年生まれ。大和国柳生の人。はじめ柳生藩学校に学び、のちに頼山陽および佐藤一斎に師事した。漢詩をよくし、柳生藩文武館の教授を務めた。書画を好み、画は倪雲林を慕い、書は顔真卿にならった。明治元年、68歳で死去した。

小杉後楽斎 こすぎ・こうらくさい
古河の人。名は長兵衛。岡野梅老に画を学び、のちに渡辺崋山の門人となり、花鳥を学んだ。明治初年頃死去。

国府田亀山 こくぶた・きざん
結城郡豊加味村の人。小林蔵六の門人で、のちに猪瀬東寧に師事した。明治17年死去。

小沢鉄巌 こざわ・てつげん
文久3年水戸市仲町生まれ。名は亮、字は子敬、別号に有竹居がある。野竹我師に師事し、竹の絵を得意とした。内務省に勤務する傍ら画技を磨いた。漢詩、和歌、琴曲も得意とした。

後藤文琳 ごとう・ぶんりん
天保年間の人。名は幸蔵。谷文晁の門人で山水を得意とした。

茨城(4)-ネット検索で出てこない画家


茨城(3)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-17 | 画人伝・茨城

文献:茨城の古書画人名事典

岡崎江山 おかざき・こうざん
先祖は江戸初期に近江国より来往した商人で、酒造業を営んでいたといわれる。名は邦彦。江戸崎の人で、水戸に出て松平雪山に師事。山水を得意とした。作品は菩提寺である大念寺本堂、瑞祥院本堂などに残っている。明治14年5月26日死去。

奥村永伯 おくむら・えいはく
天保2年行方郡吉川村生まれ。老圃の父。江戸に出て佐竹永海の門に入り、帰郷して私塾を開き、門下生は600人に及んだ。行方郡最初の吉川小学校校長となった。明治19年、56歳で死去した。

小笠原笠斎 おがさわら・りゅうさい
天保6年常陸国生まれ。明治年間の画家で文人画をよくした。

奥村老圃 おくむら・ろうほ
万延元年生まれ。名は亀三郎。画を父の永伯に学んだ。山水と得意とした。昭和元年死去。

大内適斎 おおうち・てきさい
慶応元年水戸備前町生まれ。水戸藩士種一の子。名は栄、通称は得斎。画を松平雪人に学び、茶を光庵に、花を本松斎一得に学んだ。古書画の鑑定と篆刻を得意とした。また、杏所の偽筆を作っては天下一品といわれたという。昭和2年、63歳で死去した。

奥村霜樹 おくむら・そうじ
明治15年生まれ。名は寅雄、奥村老圃の二男。早稲田大学を中退して、画を父に学んだ。昭和2年、46歳で死去した。

岡里古軒 おかざと・こけん
明治18年津澄村山田生まれ。名は七郎。土浦中学を中退、のちに県会議員を二期、津澄村長などを務めた。絵は達磨を得意とした。

可卜 かぼく
貞和年間の人。可木という。鎌倉建長寺の住職で、画を啓書記に学び、人物、山水などをよくした。別号に棟隠子がある。

化蔵院 かぞうえん
常州の人。詳細は不明。天正19年死去。

神谷栄春 かみや・えいしゅん
寛政2年頃の水戸藩の画員。名は惟雪。のちに養秋と号した。神谷栄秋の子。

狩野涼 かのう・りょうみん
宝暦元年生まれ。水戸藩の絵師。本姓は池田、名は貴信。池田幽石の子。はじめ狩野深信の門に学び、のちに永叔の門に入った。代表作に《日の出に大黒》がある。文化11年、64歳で死去した。

加藤文昇 かとう・ぶんしょう
水戸の人。後藤文琳の門人で、谷文晁の画法を学び、山水を得意とした。文久2年死去。

加藤礬桂 かとう・ばんけい
通称は辰蔵。加藤雪潭の子。画を父に学び、のちに松平雪山に学んだ。山水人物を得意とした。明治初年頃死去。

茨城(3)-ネット検索で出てこない画家


茨城(2)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-13 | 画人伝・茨城

文献:茨城の古書画人名事典

池田阿彦 いけだ・あひこ
明治年間の画家。水戸藩の画員池田養信の子。代々狩野派だったが、時の藩主の命により住吉弘定に学んだ。

岩間華仙 いわま・かせん
明治16年生まれ。名は久子。岩間東芝の孫。梅津霞峰の門に入り山水を学び、のちに相馬寛哉に花鳥を学んだ。大正13年、32歳で死去した。

飯田芳文 いいだ・ほうぶん
明治元年生まれ。鹿島郡松川藩の人。津島寿山の門人。茨城県女子師範、水戸高女の図画教師を勤め、退職後も画技を研究し茨展などに出品した。昭和15年、73歳で死去した。

磯山六郎 いそやま・ろくろう
明治40年笠間市荒町生まれ。16歳で木村武山の門に入り、青々と号した。昭和13年院展に入選、以後昭和17年まで連続入選。昭和19年5月17日、38歳でニューギニアで戦死した。

雲友 うんゆう
明和元年生まれ。常州の人。鼠除猫の絵を得意とし、京洛中この絵を描き歩いたと『白心伝』に記載されている。安永3年頃死去。

宇佐美竹城 うさみ・ちくじょう
常陸大田の宇佐美太奇の子。名は翼。水戸市雷神町前で父の画法を伝えて、花鳥を得意とした。のちに江戸に出て英語を学び、写真を研究し、明治5年に雷神前で写真館を開業した。明治22年死去。

恵鶴椿南 えつる・ちんなん
寛政6年生まれ。古河の人。早瀬清蔵の長男。名は寿、字は芥舟。椿椿山の門人で南画をよくした。妻は雲幹。明治3年、75歳で死去した。

恵鶴雲幹 えつる・うんかん
文化元年潮来生まれ。亀坂京助の長女、名はせき、女性画家として南画の山水をよくした。夫は椿南。明治22年、86歳で死去した。

海老沢柳糖 えびさわ・りゅうとう
明治20年生まれ。下館の人。橋本雅邦の長男・秀邦に絵を学んだ。

小栗宗甫 おぐり・そうほ
長禄頃の画家。小栗宗舟の弟、画を兄に学んだ。

小栗宗佐 おぐり・そうすけ
永正年間の画家。小栗宗舟の子、画を父に学び、これより代々宗佐と称した。

越智凌雲 おち・りょううん
慶応年間の人。水戸藩士。名は兼良。松平雪山の門人で、花鳥山水を得意とした。

岡野梅老 おかの・ばいろう
文化元年生まれ。古河藩士。名は為治。漢詩、和歌、俳句、南画をよくし、使番用人などを勤めた。渡辺崋山に師事した。枚田水石と親戚筋で、奥原晴湖にも影響を受けた。明治5年死去。

茨城(2)-ネット検索で出てこない画家


茨城(1)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-10 | 画人伝・茨城

文献:茨城の古書画人名事典

秋山蘭谷 あきやま・らんこく
水戸藩士。通称は熊之介。渡辺崋山の門人。花鳥人物を得意とした。天保年間に死去。

赤荻丹崖 あかおぎ・たんがい
文化4年生まれ。名は徹、字は元徹、通称は順平。結城の人で江戸で生まれた。代々幕府に仕えており、赤荻欣左衛門の二子。漢籍に精通した儒者で、はじめ春木南湖に、南湖没後は谷文晁に師事した。諸国を遊歴、山水を得意とした。弘化5年2月に結城をたち、江戸の兄の家で42歳で死去した。

雨宮荊城 あまみや・けいじょう
名は圭。はじめ立原杏所に学び、のちに松平雪山の門人となった。山水を得意とした。文久年間に死去。

朝倉玉蘭 あさくら・ぎょくらん
明治19年生まれ。水戸の人。朝倉政通の娘。松平雪江の門に学び、出藍の名があったが、明治39年21歳で死去した。

粟野千秋 あわの・せんしゅう
明治16年結城郡玉村大字原宿生まれ。下妻市に住み、現在の下妻一高の図画教師を務めた。水彩画を研究して山水花鳥をよくした。画道のほかに剣道、尺八もたしなんだ。

池田知足 いけだ・ちそく
水戸藩の御用絵師、阿亥といった。山内伊村の門人。安政年間に死去。

飯島鐸斎 いいじま・たくさい
水戸の人。名は金平。別号に竹外堂がある。松平雪山の門人。明治初年頃死去。

生駒月處 いこま・げつしょ
水戸の生まれ。幼名は吉五郎。生駒貞応の養子となり、安政元年家督を継いだ。名は応、通称は誠蔵。はじめ立原杏所に学び、後に椿椿山に、さらに松平雪山に師事した。人物山水を得意とした。明治初年頃死去。

石井石欄 いしい・せきらん
明治初期の久慈郡磯初村の人。名は良知。東京に出て四条派を研究した。花鳥人物を得意とした。

岩間東芝 いわま・とうし
文化8年生まれ。名は平治郎。水戸の人で、下市茅根家より養子となった。目薬北斗香の薬舗の主人。明治8年死去。

飯田晴圃 いいだ・せいほ
真壁郡下妻の人。奥原晴湖の門人。明治20年死去。

伊藤耕洲 いとう・こうしゅう
嘉永5年生まれ。現江戸崎町高田の人。本名は弥六。明治4年に福島柳圃の門に入り画の六法を研究、明治11年関西諸国を遊歴した。のちに県会議員になった。明治43年、59歳で死去した。

伊東俊了 いとう・しんりょう
天保4年生まれ。結城郡袋村に住んでいた。伊東照広の子。嘉永元年より小田寿山に学び、その皆伝を受け、文久元年に西京大谷派本願寺画師となり、雲谷と号した。

茨城(1)-ネット検索で出てこない画家


秋田(15)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-06 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

昭和期の画家(2)
牧野昌広
明治16年本荘市中横町生まれ。本名は昌造、雪僊の孫。18歳で上京し、小林清親に学び、のちに郷土の先輩・寺崎広業に師事した。身体が弱く、十分に実力を発揮できなかった。昭和14年東京で死去。

伊藤春興
明治27年横手市生まれ。本名は粂之助。少年時代に近所に住んでいた柴田棋渓に手ほどきを受けた。師の棋渓は京都の幸野楳嶺の門人で幅広い知識を持っていたため、春興も修業中に古今の絵画知識を広めることができたようで、いろいろな流儀の絵を描いたが、特に四条派の山水、花鳥、人物を得意とした。絵のほかに音楽、書道を趣味とし、横手で書道研究会を開いていた。昭和16年5月死去。

荘司半仙
明治3年7月3日由利町町村生まれ。荘司義敦の長男。代々神職だった。絵は牧野雪僊に学んだ。明治24年から43年まで小学校教師。昭和19年4月14日、74歳で死去した。

鈴木大祥
明治16年北秋田郡森吉町阿仁前田の名家・佐藤家に生まれ、神官の鈴木家の養子になった。大館中学を卒業後に上京して洋画を学び、帰郷後は森吉神社に奉仕した。その合間に地元の庄司穂軒に日本画を学び、のちの再び上京して小室翠雲に師事した。昭和19年11月11日死去。

柴田松谷
明治23年横手市上田中生まれ。南谷の孫、楳渓の子。京都美術学校、次いで京都絵画専門学校に入学し、森本東閣や木島桜谷に四条派を学んだ。この時期に竹内栖鳳、山元春挙、菊池芳文らにも教えを受けた。京都から帰って一時横手高女の絵画教師をしていたが、こんどは東京に出て、川合玉堂について学んだ。昭和20年死去。

矢野文川
明治9年生まれ。本名は健蔵。佐竹北家の士族操八郎の長男。角館小、刈和野小を経て、明治34年からは中仙町長野小校長を務めた。42年長男の大学進学のため横浜に転居、近郊の小学校教師となる。近くに南画家の征田文圃がいたので絵を習い、師に一字を譲り受けて雅号とした。昭和21年10月21日死去。

藤林豊稔
明治31年西仙北町刈和野字刈和野生まれ。本名は豊治郎。兄の柴関も日本画家。青年時代に上京し川端画学校日本画科に学び、帝展に《松》を出品した。昭和24年死去。

藤林柴関
明治28年生まれ。本名は喜一郎。豊稔の兄。平福百穂の白田舎に学び、光風会や院展に出品した。その後中央と秋田を行き来していたが、昭和35年大宮市で死去。

伊坂天坊
明治12年横手市新町生まれ。本名は新之助。別号に旭江、胡山がある。はじめ横手の木町の樋渡漆屋に奉公し、まき絵職人になった。まき絵の下絵を習っているうちに絵に興味を持ち、志を立てて上京、寺崎広業の門に入った。その後、台湾にわたり逓信省郵務官という肩書きで30年いて、東京に戻り久我山に住んだ。被災後は秋田県内を放浪、晩年には、肩からいくつもの布袋をさげ、洗面器から嗜好品までそれに入れ、自製の特大ウチワで懐に風を入れながら、夏の道を旅した。請われると軽妙に筆を走らせ、山水や人物を描いたという。昭和27年死去。

信田邦彦
明治18年昭和町大久保の円福寺に生まれた。本名は鉄治。玉常智仙の三男。大久保小を出ると、父の勧めで会津柳津の円蔵寺や京都妙心寺で修業した。花園中学を卒業すると、一転して京都絵画専門学校に入り、竹内栖鳳に手ほどきを受けた。同窓に土田麦僊や石崎光瑤がいる。卒業すると新進画家として注目されたが、兄の死などのため大正9年に帰郷、智詰和尚と称して千軒近い檀家をかかえた。絵は四条派で、禅画を得意とした。本来は信太の姓だが、京都から秋田に帰るとき役場の手違いで信田となり、そのまま信田とした。昭和34年死去。

秋田(15)-ネット検索で出てこない画家


秋田(14)-ネット検索で出てこない画家

2014-06-02 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

昭和期の画家(1)
皆川東僊
明治10年秋田市手形生まれ。栢山は祖父。足が悪く、9歳の時に両耳が聞こえなくなった。20歳で小室怡々斎に入門、さらに京都の久保田米僊にも数年学んだ。京都から帰ると秋田市柳町鉄砲小路の寺に住み、気が向くと絵を売りながらの旅に出た。昭和の初めに東京に出て、それから大陸に渡り消息を絶った。

柴田馬嶺
嘉永3年雄勝郡羽後町西馬音内本町の柴田家に生まれた。本名は政治。幼い頃に父久助が亡くなったため祖父黒沢八郎兵衛の家で育った。黒沢家は古い染め物屋で、代々絵を得意とし、馬嶺も八郎兵衛の手ほどきを受けた。明治7年馬嶺は町内の柴田弥惣兵衛の長女イチの婿になり「一染」と号した。婿入り先の分家柴田与之助宅には寺崎広業が永住まいしており、広業の東京天籟画塾にも2、3度訪れ修業を積んでいる。師の広業は年長の馬嶺を「馬嶺先生」と呼んでいたという。作品には仏画神像が多い。昭和3年死去。

三浦雪堂
明治4年5月20日由利郡由利町東滝沢の前郷生まれ。本名は六三郎。別号に宋眠、鳥海、俳号に瓢六がある。儀兵衛の五男。兄に東耕、次兄に田村義雄がいる。幼い頃から画才があり、明治21年上京し、呉春派の村瀬玉田に入門した。大正11年の第1回県出身書画作品展に《芦雁》を出品している。菩提寺の慶祥寺に代表作《武帝と達磨問答図》が残っている。昭和3年10月6日死去。

荒岩松庭
弘化4年5月3日比内町大葛生まれ。本名は常吉。大館市谷地町に住んでいたが、大方比内町扇田、独鈷、大葛など転々とめぐり歩いた。扇田の寿仙寺の玄関の天井に《雲龍図》が、個人宅に屏風や襖絵などが残っている。昭和3年12月5日、82歳で死去した。

北村愛竹
明治9年12月23日大館市良風院前生まれ。名は周助。藤助の長男。称置石月を慕い函館で修業後、菅原白竜に学んだ。京都の南画協会に出品した。昭和5年5月1日、都下の大島村で55歳で死去した。

淡路釆草
明治31年山本郡藤里町藤琴字大沢生まれ。本名は浅之助。別号に紫水がある。農業の多助の三男。大正6年上京し大滝雨山について絵を学び、9年には平福百穂の白田舎でさらに研鑽を積んだ。11年の中央美術展で《家鴨の子》が入選した。作品は花鳥が主だが、帝展のために描いた最後の絵《野ぶどうと猿》が残っている。昭和6年12月21日死去。

滑川穫堂
明治14年10月11日湯沢市下町生まれ。本名は道太郎。滑川家は佐竹武士で「槍の滑川」として代々槍術で名高かった。穫堂は県内の小学校の教員を勤め、湯沢高女の校長となった。晩年に広島晃甫と知り合い、旧来の派と異なった新鮮な花鳥画を描いた。昭和7年4月13日死去。

東海林恒吉
明治34年雄勝郡稲川町三梨生まれ。川連小、湯沢女子小、師範付小に勤め、大正14年上京して小石川区駕篭小に勤務した。帝展に《坂のある風景》で初入選、昭和13年頃に秋田美術会(在京美術会)の世話役をしていた。昭和12年2月3日、37歳で死去した。

栗林東一郎
明治39年秋田市保戸野八丁新町生まれ。昭和5年に東京美術学校を卒業、四国の今治高女教諭を経て、昭和8年に秋田市に帰り秋田高女に勤めた。水彩画を得意とし、日本水彩画会に所属していた。昭和15年、34歳で死去した。

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