松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

秋田(2)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-30 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸中期の画家(1)
備前屋昌益
仙北郡六郷町の町人。大正・昭和期に入って安藤昌益や遠藤昌益と混同されるが別人。竹村吉明編『六野燭談』には「備前屋五郎右衛門。生得滑稽にして、世の機変に応じおもしろき人也。画は法橋洞昌の門人。昌益と号す。歿後四、五十年に相成可申哉」とある。延享・宝暦頃死去。

安井亘
明和6年6月15日生まれ。秋田藩士。名は本生、通称は竜之助、亘。天明4年1月14日大番に入る。妻は林七郎隆英の子。肖像画をよくし、多くの藩士の似顔絵を描いた。大館市立栗盛記念図書館に画集が収蔵されている。

森田魯舟
享保7年生まれ。名は作兵衛、字は顕忠、別号に百花園がある。秋田の俳人で、書画もよくした。天明3年8月21日死去。

雪洞山人
比内の生まれ。寛政頃三都や諸国を遍歴し、子を背負って「画を買わぬか、猫の画を描こう」と触れ歩いた。山形あたりで彼の精巧な猫の画を掛けたところ、鼠が恐れて近寄らず、養蚕家が金二歩で求めたという。

藤原憲承
秋田蘭画家の一人。経歴は不詳。秋田人としたら享保の俳人・藤原非琴との関係が考えられる。作品は、《牡丹》(平野政吉コレクション)や《円窓美人》(個人蔵)などが残っている。

北条蟠木
享保5年6月19日生まれ。秋田藩士。名は忠友、通称は重蔵、本名は幡木、別号に八十がある。俳句、書画をよくした。駒木根投李、吉川五明、佐藤晩得らを含め、安永天明期の「秋田俳家四大人」と称される。寛政元年2月4日死去。
               
大山二楽斎
正徳2年生まれ。秋田藩士で久保田の人。本名は惟清、通称は久蔵、与右衛門、別号に喜楽翁、善喜翁、不尤などがある。「天神」を得意とし、愉快でユーモラスな筆が特徴。書もよくし、大橋流の技法を持っていた。寛政4年10月14日死去。

小野岡義年
宝暦6年7月9日生まれ。秋田藩執政。源四郎、大和と称した。字は楽圃。佐竹義敦、義和に仕え、画もよくした。寛政12年12月29日死去。

岡本雄山
宝暦元年7月生まれ。秋田藩家老。名は元亮。漢詩、画、俳句もよくし、俳号は掬月斎。享和3年2月3日死去。

大越靖国
秋田の人。別号に秀岳がある。狩野秀水に師事した。

赤坂雪峰
横手の人。横手には「峰」の付く雅号の系譜がある。

秋田(2)-ネット検索で出てこない画家


秋田(1)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-28 | 画人伝・秋田

文献:秋田書画人伝

江戸前期の画家
西海杖太郎左衛門
16世紀の初め、室町時代の画家。姓は小野寺ともいう。出羽国小野の城主といい、雄勝郡雄勝町小野の人と思われる。雪舟の門下で筆力奔放と伝えられている。

狩野興信
雄勝町院内生まれ。二代目秋田藩主佐竹義隆のお抱え絵師。「秋田狩野派」の祖であった狩野定信の妻の弟。若い頃京都に絵の修業に行くが、不才を恥じて真言僧となり、不洗と号したこともある。のちに定信の養子となり狩野派を継いだ。

武田永球
元和8年生まれ。本名は安親。秋田市に独自の狩野派を築いた「武田狩野」の祖。父信親は甲州武田系の人で、山形最上郡に住み、慶長14年秋田に来て佐竹氏に仕えた。佐竹義隆に見込まれて絵師になり、延宝2年法橋の位を得た。俗に古永球と呼ばれた。延宝3年死去。

平野喜伯
本名は益信。別号に船遊斎。三代目秋田藩主佐竹義処のお抱え絵師。秋田にいたのではなく江戸に住み、佐竹の江戸屋敷にかよっていた絵画教師である。『群玉宝鑑』の挿絵を描いた。八橋の日吉八幡神社に額が残っている。

小川隆雅
十文字町新田目の出身で、横手の商人・小川甚兵衛家の養子となった。横手地方に好んで鷹を描いた「横手鷹」といわれる絵の系譜があり、その継承者。増田町満福寺に黙山賛《達磨図》が残っている。全国を流浪し、三重県で死去したらしい。

根本古柳
明暦2年4月28日生まれ。名は通猶、通称は正右衛門、別号に述情がある。秋田藩。詩歌もよくした。著書に『俗老損益解』がある。元文元年8月7日死去。
       
赤石蒲池
寛永3年9月24日生まれ。秋田藩士。本名は行保。罪を得て郊外の水口村に隠棲した。画に親しみ、諸種の著述をなした。平元梅隣に学んだ。『水口夜話』『水口雑話』『麓の塵』などの著書もある。明和元年11月2日死去。

秋田(1)-ネット検索で出てこない画家


水沢(2)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-24 | 画人伝・水沢

文献:水沢画人伝

三宮竹谷 さんのみや・ちっこく
慶応元年吉小路に生まれる。名は小太郎。三宮郡蔵の子。菅原竹侶に学び、宮城、秋田、山形などを遊歴した。明治17年19歳の時、内国絵事共進会に、南画の山水、花卉を出品している。明治25年から28年まで水沢町有給助役、明治34年から40年まで町会議員を務めた。画業に関しては不明な点が多く、市内に残っている作品は極めて少ない。昭和6年、堺市において66歳で死去した。

村上望山 むらかみ・ぼうざん
明治3年1月15日吉小路に生まれる。名は望子(もちこ)。留守家の家臣・佐藤竜三郎の長女。旧姓は佐藤。幼時から絵画を好み、4歳から菅原竹侶に学び、7歳の時には「香」の号と「望女七歳」の印を使っていた。9歳で仙台絵画会に臨み、上京して服部波山に師事した。明治14年に帰郷し明治天皇行幸の時行在所で「御給仕役」として出任、以後は望山と号した。明治15年、12歳の時に祖父とともに上京、滝和亭、木村香雨、服部波山らの指導を受けた。結婚後は東京に住んでいたため、水沢にはほとんど作品は残っていない。昭和14年7月20日、69歳で死去した。

佐藤耕方 さとう・こうほう
明治21年旧水沢町に生まれる。名は藤太郎。文化年間から繁栄した太物商の五代目当主として生まれたが、母ハツは耕方出生直後に19歳で死去し、一関から来た父の初は実家に戻り、戸籍上では祖父弥一、祖父ミノの子となっている。小学校在学中に祖父が死去し、卒業後は呉服修業のため上京、奉公先の子どもの子守をしながら、近所に住んでいた水野年方の家の庭先で年方が絵を描くのを見るのが日課となり、その熱心さをかわれて年方の直弟子となった。明治37年祖父が死去したため帰郷して家業を継ぐが、水沢と東京間を往復して画業に励んだ。明治41年年方が死去したため、大正2年妻子を残して単身で上京、尾形月耕に師事した。この時、両師匠の雅号の一字を許されて「耕方」と号した。大正5年家業を分家に任せて一家で上京、本格的に画業に取り組むが、大正7年二男耕也、長女よし子、妻りんらをスペイン風邪で次々に亡くし、大正9年には月耕が死去、大正10年には自身の病のため帰郷するが、12年には再度上京して日暮里方面に画友と住んで画業に励むが、昭和2年病が再発して帰郷した。並々ならぬ画業への意欲を見せるなか、幾多の苦難を経るうちに酒におぼれ、この地方では「酒のみ、屋台つぶしの画人耕方」として、陽の目をみずにいた薄幸の画人として伝わっている。昭和12年5月28日、49歳で死去した。

水沢(2)-ネット検索で出てこない画家


水沢(1)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-21 | 画人伝・水沢

文献:水沢画人伝

小沢晁洲 おざわ・ちょうしゅう
文化8年生まれ。名は泰助。祖先は小沢嘉右衛門。若い頃から谷文晁に学び、文政11年の17歳の時には、上院で「韓国遣使を脾☆する図」(☆は「月」+「皃」)の歴史人物画を描き奉納した。以後弘化・嘉永年間を経て、死去するまでの49年間、旧塩釜村に住み、山水、花鳥、人物などの絵画を描き残している。『水沢町誌』や『仙台人名大辞書』などには、「特に山水を良くし、最も富士を描くに妙を得た」と記載されている。明治10年、66歳で死去した。

砂金文洲 さがね・ぶんしゅう
文政元年生まれ。名は銕之助、別号九仙。砂金嘉門次郎の子。慶長年間に川原小路東南に住んでいた。四条派の東東洋、東莱らに学んだとされる。文洲の義孫にあたる砂金青章の文洲評によると「文洲は四条・狩野・土佐などの諸派の画法を研鑽し消化している。画法は、これら諸流派の特長を適宜組み入れ、山水・花鳥・動物・人物画とあらゆる分野で豪放と繊細を縦横に使い分けながら、真実味豊かな作品を描き、特に大和絵にはその傾向を強く表わしている画人である。同期の画友菅原竹侶や小沢晁洲の画法とは異なる独自のものがあり、その代表作は《鐘馗剣磨之図》である」とある。明治初期に近親の砂金佐太郎が北海道に渡ったので、その後を慕って渡道し、各地を遍歴中に小樽付近で明治4年、53歳で死去した。文洲亡きあと、菅原竹侶の二男竹香があとを継いで新小路に住み画業を続け、その子青章も画人となった。

小沢丹田 おざわ・たんでん
弘化2年生まれ・名は守真、別号は翆石、翆月。小沢晁洲の子。絵事を志して各地を遊歴し、東京では河鍋暁斎に学んだ。暁斎の影響か水沢地方に残っている作品は、水沢地方の諸生活を軽妙な筆さばきで描いたものが多く、近世末期から明治初期までの風俗史を知る上でも貴重な資料となっている。明治15年と17年の内国絵事共進会には《豫護図》《児島高徳図》《人物》などを出品している。明治22年の水沢町制発足時には初代議長となっており、また第五区長として町政に参与している。大正6年、青森市において72歳で死去した。

菅原嘯雲 すがわら・しょううん
嘉永6年11月2日生まれ。名は好策。菅原竹侶の長男。大畑小路に住んでいた。父を継ぎ絵事に励んだが、生涯について不明な点が多い。水沢市立図書館蔵の《村景君御上江御行列の巻》には、父竹侶が墨絵を、子嘯雲が彩色を担当したと記録がある。明治15年と17年には内国共進会に山水、花卉の絵を出品しているが、病弱だったらしく後年の作品は少ない。明治37年、51歳で死去した。

水沢(1)-ネット検索で出てこない画家


南部(5)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-17 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

松島芝谷
明治16年新潟に生まれる。小坂芝田に師事。日本南画院を中心に発表し、最高賞、特選などを受賞。明治末には大東南宗院同人となるが、大正6年に芝田が急逝すると、絵行脚の旅に出る。県南(八戸、三戸、五戸、七戸)などに多くの南画の作品を残しており、津軽、秋田県北にも多く見られることからこの地方を遊歴したとみられる。昭和25年東京で死去した。
      
村井芳雲
彫刻家。明治42年八戸市鳥屋部町に生まれる。日本画家の村井芳流の二男。父の影響で早くから作家の道を進み、上京して加藤景雲の内弟子となる。戦時中は武器の木型工場などに動員され、戦後は帰郷した。作品は朔日町の来迎寺観音像など、無記名のものが多く詳細はつかめない。昭和54年死去。
       
村井芳流
明治13年八戸市生まれ。本名は勇蔵、旧号は静古。東京美術学校で日本画を学び、その後、藤島静村に師事する。日光東照宮の塗り替え作業に従事したと伝えられる。帰郷後、遠縁にあたる村井家に婿入りした。作品は長者山、神明宮の奉納額、襖絵など、八戸市を中心に多く残されている。昭和28年死去。

吉田朝太郎
明治35年京都に生まれる。京都絵画専門学校で日本画を学ぶが、在学中に鳥瞰図で活躍していた吉田初三郎を知り師事した。旧姓は不詳。昭和7年、師とともに十和田取材の途中、鮫の石田屋に宿泊したのを機に、八戸種差に居を構え、京都の師との間を往来する生活を居宅が火災に遭う昭和19年まで続けた。昭和の初め、子息に恵まれなかった初三郎は、朝太郎を実子として入籍、画風は師に酷似している。昭和53年頃に京都で死去した。                           

吉田小南
明治9年野辺地に生まれる。本名は泰治。野辺地小学校を卒業後、医学を志し上京。東京済生学舎に学ぶが、漢詩漢学に興味をおぼえたのが昂じて南宗画の児玉果亭の門をたたき、さらに小室翠雲の門下となる。七戸の鳥谷幡山と交友があり、南画展に出品、東奥日報の客員でもあった。昭和14年に青森市で一度だけ個展を開催した。昭和20年4月死去。

量林
寛政頃の八戸藩御抱え絵師。当時の八戸藩と交流があった絵師は藩江戸屋敷を通してだったようだが、量林は八戸に長く逗留しており、八戸藩二十景のほか、八戸南部城内の襖絵は量林の作だと伝えられる。生没年不詳。

渡辺直堂
明治19年秋田市に生まれる。本名は直吉。秋田中学を卒業後、上京し寺崎広業の門をたたくが、長沢蘆雪に強く傾倒しており、作風も蘆雪風だといわれる。旅に明け暮れ山水画を描いたが、のちに武者絵に移っていった。晩年上北郡百石町に10年ほど逗留、武者絵を中心に多くの作品を残している。昭和29年、68歳で死去した。

南部(5)-ネット検索で出てこない画家


南部(4)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-15 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

原佑知
文政10年三戸郡三戸町に生まれる。工藤数馬から維新後、原佑知と改めた。経典を修め、槍術、馬術に練達し、安政3年盛岡に出て3年間家老東中務に仕えた。その間、文武を磨き、安政6年三戸に帰り塾を開き子弟を育成した。維新後は奥入瀬川、切田川を分流、相坂、折茂を経て下田に達する上水工事を計画し、資金調達などで奔走するが未完のまま明治26年死去したといわれる。翠葉亭竹山と号し、水墨画をたくさん残している。
     
福田寛
明治34年八戸市上徒士町に生まれる。県立八戸中学校から東京美術学校に進み、大正10年卒業。香川県高松高等師範学校をはじめ、函館女子校、八戸高等女学校、青森女子師範学校、そして母校の八戸中学校の教諭を務めた。画業では帝展に出品、昭和9年に十和田湖風景画会を組織し後進の育成に努めた。昭和25年、50歳で死去した。

藤島北泉
鋳造家。明治25年盛岡市に生まれる。本名は藤島兵右エ門。明治末盛岡の鋳造家・初代宮昌太郎に師事した。昭和初期には岩手水沢羽田村にて砂鉄を使って鋳造技術を指導していたという。同時期、岩手県工業試験場技師の蒔田三千蔵にこわれ、八戸番町の蒔田炉において職人として鉄瓶、茶釜、香炉、置物、ブロンズ、花瓶、半鐘、火鉢などを制作した。帝展工芸部出品。

船越霊戒
明治7年岩手県宮古の金浜に生まれる。本名は元孝。月浦山凌雲寺二十一世住職。達磨の霊戒と称され、達磨を得意とした。若い頃から画才に優れ、菊池黙堂に師事、戦時中は、曹洞宗本山布教師として全国を絵行脚、八戸にもたびたび訪れ多数の達磨図、蘭画などを残している。昭和22年8月、73歳で死去した。

槇玄範
安政5年下北郡田名部に生まれる。幼名は謙治。本職は漢方医、製薬業だが、隣仙と号して絵を描いた。大正10年、70歳で死去した。

蒔田三千蔵
鋳造家。明治26年八戸番町に生まれる。県立八戸中学校を経て、東京美術学校鋳造科を卒業。大正12年岩手県工業試験場に金工部長として勤務。昭和3年全国産業博覧会審査員、同4年秋田県工技師転任、同7年退官し八戸で自営をはじめる。昭和2年と3年に帝展工芸部連続入選、商工省展2等受賞。同8年より青森県工産物共進会の審査員を務めた。昭和47年死去。

松尾少輔
彫刻家・版画家。明治38年三戸郡三戸町に生まれる。本名は庄助。大正13年京都芸大に入学、森鳳声に師事した。昭和6年帰郷し、彫刻・版画の制作をした。彫刻では、昭和元年日本美術協会展入選、昭和12年東奥美術展で《ある日の西有穆山》が特選になった。版画では、昭和10年版画協会展に出品、同36年には日本板画院の会員となっている。昭和43年、63歳で死去した。

南部(4)-ネット検索で出てこない画家


南部(3)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-10 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

田口豊洲
明治40年十和田市に生まれる。京都の臨済宗大本科を修め、京都山本山妙心寺教務執事を経て、南宗寺十七世住職になる。そのかたわら八戸夜間中学講師なども務め、県立八戸高校長、青森県教育委員、八戸市文化財審議委員、八戸市社会教育委員などを歴任した。竹、霊芝などの水墨画を残している。昭和46年、64歳で死去した。

竹村悦人
文化11年三戸に生まれる。旧姓は池野。南部三戸藩の医者。叔父の陽庵の影響で幼少の頃から文名高く、藩士竹村平佐衛門にこわれ養子となり、竹村姓を名乗り藩の代官史生となる。詩や画もよくし、「書画を乞う物列をなし、又弟子百余人に達す」との記録がある。文久2年、48歳で死去した。

種市精一
明治21年岩手県福岡に生まれる。福岡中学を経て新潟医大に進み、のちに八戸市番町で医院を開業した。若い頃から独学で木彫をし、美術に造詣が深く、美術品コレクターとしても知られたが、60余歳にして木版画を始めたとされる。昭和31年日本板画院に出品、同33年には日本板画院の会員となった。棟方志功らが中心の『日本百景』に作品が掲載されている。昭和39年死去。
      
長崎春雨
明治末から大正の中頃まで八戸に滞在していた南画家。生没年不明。京都の重春塘の門下といわれ、絵行脚の途中で八戸に長逗留になったらしい。

奈須川紫狂
明治8年八戸に生まれる。本名は葆光。八戸町長などを務めた奈須川光宝の長男、洋画家・福田剛三郎の実兄。父に伴って上京し、橋本雅邦の画塾に入門、狩野芳崖にも師事したといわれる。兵役ののち帰郷し、八戸新聞社の役員や奥南新報記者などを務めた。昭和9年、61歳で死去した。

七尾対山
文化14年八戸に生まれる。初め清助、のちに清四郎と称した。七尾英鳳は孫。対岳に師事し、恵比須、大黒など慶事用の絵柄を多く描いた。明治30年、82歳で死去した。
                       
袴田恒男
明治44年八戸鮫に生まれる。昭和の初めに画家を志して上京、太平洋美術学校に入学、同期に麻生三郎がいる。同校卒業後は第一美術に出品、すぐに会友に推挙され将来を嘱望されたが、酒におぼれるなどして不遇だったといわれ、僅かな発表の場はグループ五亥会などだけだった。昭和31年、46歳で死去した。

南部(3)-ネット検索で出てこない画家


南部(2)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-07 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

菊池九江
天保9年下北郡大畑に生まれる。本名は貞蔵。別号九皇、起。漢詩人としても知られる。明治12年雑誌「桂林一枝」を発刊、同14年に朝陽新報社を創設した。作品は下北一円の寺院、旧家に残されている。明治33年、71歳で死去した。

北川観雪
文化年間の人。生年は不詳。八戸藩お抱え絵師。本名は小川潤、通称は六三郎、字は士達、別号に墨亭、菊麿、喜久麿、月種。江戸の小伝馬町に住み、草双紙に錦絵を描いていたが、八戸七代藩主信房のとり立てられ、浮世絵をやめ名を観雪に改め画風も一変したと伝えられる。観雪の描いた信房の肖像画は八戸俳諧倶楽部に受け継がれており、八戸藩屋敷にも襖絵や屏風が残っている。文政13年死去。

鶏斉
生没年不詳。天保年間の浮世絵師で葛飾北斎の門下と伝わるが、絵行脚の途中に八戸に逗留して描いたと思われる。八戸風景の肉筆画、摺物絵も小品ながら残っている。

杉山光鳳
明治36年宮城県涌谷町に生まれる。東京美術学校本科卒業。横山大観に師事するが、都の区会議員選に出馬したため破門され、荒木十畝の門に入る。戦時下、夫人の実家を頼り昭和16年から37年まで、八戸類家、鮫に居住、日展、創造展、日本画院に出品するかたわら八戸の農地調整委員をつとめたり、市議会議員選に落選したりした。後年上京後は日本画院を中心に活動した。昭和58年死去。

対岳
古川の人と伝えられる。生年不詳。一説には石井東江の弟子といわれる。生年、本名など不詳。旅の途中に八戸に立ち寄り定住した旅絵師とみられ、八戸に弟子を多く持ち、七尾英鳳の祖父・対山もそのひとり。風俗画を八戸に多く残しており、三島神社、法霊神社、御前神社の額なども対岳の作といわれる。安政2年死去。

高橋愛洲
明治16年山形県飽海郡に生まれる。本名は徳蔵。幼いころから画才に優れ、小学校在学中に凧絵を描き、酒田市内の小売店に納入していたといわれる。小学校を卒業後に絵の勉強のために上京した。一説には荒木寛畝に師事したと伝えられる。大正2年、30歳の時に北海道旭川に居住、美術学校設立に奔走したが頓挫したといわれる。その後は北国各地を歴遊し下北半島に定住、同地で昭和26年、68歳で死去した。

高橋陵山
明治25年八戸番町に生まれる。本名は生悦。独学で油彩を研究。海軍軍人として南洋を従軍のかたわら南洋ポナペ島写生図を海軍省に献納している。除隊後は、家業の印刷業のかたわら日本画を研究、たこ絵も多く制作したとされる。八戸心月院に達磨の図が奉納されている。昭和31年死去。

南部(2)-ネット検索で出てこない画家


南部(1)-ネット検索で出てこない画家

2014-04-04 | 画人伝・南部

文献:青森県南部書画人名典

石井東周
石井東江の子。父から絵を学ぶ。三戸地方を中心に奉納額や絵馬などの作品が残っている。生没年不詳。

石橋一貫
明治31年八戸市十三日町に生まれる。本名は幸蔵。早くから蒔絵に興味を持ち上京して松田権六に入門、のちに寺崎広業に師事する。破滅型の作家で、酒におぼれ生活に困窮していたという。戦時中はメタリコンの技術をかわれ軍属として台湾に赴いた。昭和41年、66歳で死去した。

石橋雪渓
弘化元年八戸に生まれる。本名は幾千蔵。八戸河内屋に縁のある橋本雪蕉の高弟として知られるが、不明な点が多い。家業は八戸十三日町村福菓子舗で、若くして江戸に出て南宋画を修めたといわれる。橋本雪蕉が八戸に帰った明治3年から10年に没するまでの間が画業の全盛で、残っている作品はこの時期が多い。明治39年、62歳で死去した。

石橋一径
明治42年八戸市十八日町に生まれる。本名は山内週五郎。洋画家の石橋宏一郎の従兄弟にあたる。七尾英鳳に絵の手ほどきを受け、昭和3年に上京し尾竹竹坡の内弟子となり本郷に住み、昭和11年に師が亡くなるまで身近にいた。目黒雅叙園の襖絵や内装画を師とともに手掛けている。のちに野田九浦の門に入り帝展などに出品するが、昭和19年戦火を避けて帰郷、その後作画は行なっていない。

鵜飼東岱
文政11年三戸に生まれる。秀真、忠郷といい、和歌をよくし、武技にも通じた。代々南部公に仕え、15歳で菊池東江の門に入り修業、維新ののち北海道函館にわたった。明治3年県役所の一部新築記念三戸大神社に奉納した武者絵の掲額が残っている。明治7年、47歳で死去した。

大久保千尋
明治13年八戸徒士町に生まれる。旧姓は漆沢。八戸中学を出て、明治29年日本美術学校に入学、上級生に橋本雅邦、横山大観、菱田春草らがいた。帰郷後は一時八戸中学の教壇に立ち美術を教えるが、のちに造酒屋大久保家の長女と結婚し、大久保姓を名乗り、その後作画は行なっていない。昭和38年、84歳で死去した。

重茂勝春
明治34年八戸長横町に生まれる。旧姓は接待。柔道家のかたわら風刺漫画家としても活動した。昭和11年に明朗社を創立、雑誌「明朗」を出版し漫画想を連載した。その他、八戸新聞などにも諷刺漫画を執筆した。昭和33年死去。

南部(1)-ネット検索で出てこない画家