松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

ネット検索で出てこない画家 その4

2014-02-27 | 画人伝・プレ

文献:明治大正文學美術人名辭書 

田中實 たなか・みのる
明治2年7月9日常陸国笠間に生まれる。藩士・猪瀬虎之助義治の三男。幼名は龍太郎、後に田中氏を継ぎ名を實と改めた。別号に鉄齋、和堂、二波山人。幼い頃から画を好み、後に上京して滝和亭に師事した。絵画共進会、日本美術協会、青年絵画共進会、内国勧業博覧会等で多数受賞した。

玉手菊洲 たまて・きくしゅう
天保10年9月大阪生まれ。玉手棠洲の子。通称は治郎。父に画法を学び、明治15年夏、東山路木曽路を遊歴して上京した。絵画共進会開会に際し出品。北宗画に力を入れた。

田原梅谷 たわら・ばいこく
慶應元年2月生まれ。東京の人。名は和、字は致中、通称は銀次郎、別号に華堂。老川文蔵の子だが後に田原屋を継いだ。幼い頃に高林芳谷に南宗画を学び、さらに藤堂二州伯に学んだ。明治19年東洋絵画共進会で褒賞を受け、翌年絵画共進会で獨逸国皇室の御用品となった。

田鶴年 でん・かくねん
慶應元年5月江戸浅草今戸に生まれる。石工彫刻師で書画を好んだ。湧田定次郎の三男。通称豊太郎。幼き頃に石川氏を継ぎ、石工彫刻に就いた。東京石工組合設立に際して尽力した。また同業者とともに東京石工合資会社を創立し監査役を務めた。

都島雲香 ととり・うんこう
明治2年6月生まれ。都鳥英喜の妻。名は鈴子。14歳の時に野口小蘋の門に入って花鳥山水を習い、写生を好み花草をよくした。


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天夢人

ネット検索で出てこない画家 その3

2014-02-24 | 画人伝・プレ

文献:明治大正文學美術人名辭書

酒井覚酔 さかい・かくすい
元治元年7月生まれ。播州の人。幼名は金三郎、号は大斗。高橋由一に洋画を学ぶ傍ら写真術を研究した。朝野新聞に掲載した洋風挿画は、わが国初の新聞洋風画挿画とされる。後に写真師となったが、洋画の素養を応用して、濕版法乾版(瞬間写真)不変色写真などの技術の研究に尽力した。

眞田久吉 さなだ・ひさきち
明治17年11月東京本郷に生まれる。はじめ白馬会溜池研究所に入って学び、のちに東京美術学校に入学、42年に西洋画科を卒業した。大正元年に斎藤与里、高村光太郎とフューザン会を起こし、第一回展に「ダリヤの花」を出品する。大正5年、台湾を巡遊して帰国後に、又木亨三とともに個人展覧会を開催、同年、斎藤与里、萬鉄五郎らと日本美術家協会を結成した。

高田常齋 たかだ・つねとき
安政元年伊豆国三島町に生まれる。名は常三郎、別号に三島堂。山中松韻、村田香谷に南宗画を、中丸精十郎、清水東谷に洋画を学び、のちにシーボルト、ワーグマンにも学んだ。明治28年10月、神奈川権現山に香雪館を設け、本田錦吉郎、山本芳翠、原田直次郎、中丸精十郎、小山正太郎、五姓田芳柳らと往来して、日本浮上、油絵の輸出に尽くした。

高安紫山 たかやす・しざん
天保6年7月11日茨城郡加茂部村に生まれる。名は知明、字は子周、別号に雨岳古樵。幼い時に怙恃を失い、土浦藩高安源貞の養嗣となった。長じて水戸に遊び医学を本間棗軒に学び、慶應3年江戸に移って開業した。山水花草を好み、古名家に出入りし、古人の粉本を模写した。

武田粲 たけだ・あきら
明治16年東京生まれ。彫刻家。父は小説家の武田仰天子。はじめ竹中光重に木彫を学び、のちに東京美術学校に入学、明治40年に木彫科を卒業した。まもなくイタリアに渡り、後にイギリスに転じ建築装飾を学んで大正9年1月に帰国した。東台彫塑会会員。


考える江戸の人々: 自立する生き方をさぐる
吉川弘文館

ネット検索で出てこない画家 その2

2014-02-21 | 画人伝・プレ

文献:明治大正文學美術人名辭書

茨木不仙 いばらき・ふせん
明治20年10月静岡県富士郡生まれ。名は猪之吉。浅井忠に学ぶ。40年東京博覧会で受賞。第1回文展「深山の夏」、第5回文展「北國街道」、第2回院展「雷鳥境」出品。
大正7年2月、下村為山、丸山晩霞らと新日本画協会を起こした。太平洋画会会員。

今戸蝸牛 いまど・かぎゅう
明治14年6月大分県宇佐郡柳ヶ浦生まれ。彫刻家。名は精司。田中主水、山田鬼斎、高村光雲に師事した後に東京美術学校彫刻科木彫科に入学、35年に卒業した。33年日本美術協会で褒状、34年に東京彫工会で褒状を受けた。大正8年11月39歳で没。

上杉信斎 うえすぎ・しんさい
嘉永3年7月江戸生まれ。画家・書家。名は義順。林鶴梁、長三洲、蒲生聚亭らの鴻儒に就いて経史詩文を修め、市河萬庵に篆隷の書法を学び、野口幽谷に南宗派の画法を学んだ。博覧会や展覧会でたびたび褒賞状を受けた。

大草小雲 おおぐさ・しょううん
文政8年3月24日周防国岩国藩の城下に生まれる。幼名與四郎、のち與兵衛。藤岡甚右衛門の四男。性風流を好み、南宗の画を作り、詩歌花茶など幅広く嗜み、神社仏閣を拝すること千数百に及んだ。茶道の七事を最も解し門人が三百余人あり、茶室別荘が、西推寺、守採堂、反古庵、安閑屈、琥珀園、兎唇樵舎、容膝齋、桂山坊と八ケ所あった。著書に『骨董集』二十五巻、『賣筆日記』二十巻、『仁壽小集』一巻がある。

大瀧雨山 おおたき・うざん
明治4年2月山形県鶴岡町に生まれた。名は正治。石川静山、川村雨水に南宗画を学び、41年以来南宗画会、日本美術協会等で受賞、日本南宗画会評議員となった。第9回文展に「溪山幽邃」を、第10回文展に「山驛」を出品した。

海外天年 かいがい・てんねん
万延元年11月生まれ。京都の人。庄右衛門の長子。岸竹堂、鈴木百年に師事し、大博覧会や共進会等で数回褒賞を受けた。常に意匠考案に思いを凝らし、明治31年11月『天年模様鑑』七部を著した。

加藤子柏堂 かとう・しはくどう
明治5年1月京都市に生まれる。名は直彦。望月玉泉、岸竹堂に学び、内国勧業博覧会等で褒状を得た。日英博覧会東京出品館に壁張天井画を、東京歌舞伎座に二度天井画を描いた。日本美術協会会員、巽画会会員。第11回文展に「☆膊飛揚」を出品。(☆は「幅」の「巾」を「月」に)


粋を食す 江戸の蕎麦文化
天夢人

ネット検索で出てこない画家 その1

2014-02-14 | 画人伝・プレ

ネット検索で経歴の出てこない画家を紹介していきます。

文献:明治大正文學美術人名辭書 

安達半僊 あだち・はんせん
明治3年2月27日大分県北海部郡臼杵町に生まれる。名は盛保、字は如痴、通称は仁平、居を花月庵、相君亭、呉竹園。児玉蘆香、小栗布岳に師事し南宗派を修める。帝国絵画協会会員、日本南宗画会会員、九州書画鑑定会会長。俳句を好み、安東石友、佐藤硯山らに学んだ。また、盆栽を愛し、当時の大分県下に珍盆栽ブームを起こした。著書に『花竹幽☆小誌』。(☆は「總」の「糸」を「爿」に)

有友藺溪 ありとも・りんけい
嘉永5年4月16日岡山県津山町に生まれる。名は一郎、字は富行、別号を臥雲閣、愛竹。狩野如林宗信に師事し狩野派を修め、塘雲田に師事し南宗派を学んだ。山水人物動物を得意とした。明治35年に日本千景会を起こしてからは各地の名山大川を題材とした。内国勧業博覧会や各地の博覧会で70余回受賞。宮内省、皇后職及び東宮職の買い上げを5回受けた。帝国絵画協会会員、日本美術会会員、美術研精会会員。

有馬素岳 ありま・そがく
明治元年2月2日鹿児島県鹿児島市新町に生まれる。名は善太郎、字は君徳、別号に自在将軍、春岳。高瀬梅堂、平山東岳、天野方壺、鈴木百年、後藤碩田らに師事し南宗派を学んだ。山水を得意とし、書道、篆刻もよくした。左右両手で揮毫できることから韓国の金玉均から「自在将軍」の称を贈られた。

井澤蘇水 いざわ・そすい
東京の人。川合玉堂に師事。選画会等で受賞。第8回文展「鵜」、第9回文展「水郷」
第10回文展「驕樂」を出品。

石川丹麗 いしかわ・たんれい
明治15年6月東京に生まれる。名はてる子、旧号玉溪、精華。父は彫刻家の石川光明、夫は彫刻家の石川確治。川端玉章、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業に学ぶ。第3回文展「對月」出品。日本美術院研究会員。

伊藤鐵女 いとう・てつじょ
文久3年8月小石川に生まれる。号古仙。父は伊藤利量。幼い頃から土佐派を学ぶ。明治7年から京浜及び水戸地方に遊び、22年女子成立学校画学教員、後に浅草成工学校に転じた。26年米国コロンブス万国博覧会に音楽学校の大幅を揮毫、共進会等で褒賞を受けた。


写楽 - 江戸人としての実像 (中公文庫)
中央公論新社

薔薇の花を育てた画家

2014-02-12 | 画家外伝

美術家調査の文献に村上護『落合文士村』を追加しました。
→『落合文士村

 

昭和初期には、落合界隈に住む新進作家によって文学運動や雑誌の創刊が盛んに行なわれていました。

昭和3年(1928)に創刊された「女人芸術」もそのひとつで、執筆や編集などをすべて女性が行なっており、多くの新進女性作家がかかわっていました。中でも異彩を放っていたのが林芙美子(1903-1951)で、この雑誌に掲載された『放浪記』が大きな反響を呼び、その後『放浪記』シリーズはベストセラーになりました。

幼い頃からの放浪を描いた『放浪記』で一世を風靡した林芙美子は、恋の放浪者でもありました。信州出身の画学生、手塚緑敏(1902-1989)と結婚してからも、その奔放な恋愛は収まることはなく、緑敏の穏やかで献身的な性格なくして成立しないような結婚生活でした。

緑敏の慈愛あふれる行動は、様々なところで見られますが、薔薇の生育にかけた愛情もそのひとつでした。

現在では「林芙美子記念館」になっている自宅裏で、緑敏は薔薇の花を育てていました。その花の出来はとても素晴らしく、隣に住んでいた刑部人(1906-1978)をはじめ、梅原龍三郎(1888-1986)や中川一政(1893-1991)など、数多くの画家たちが好んで緑敏の薔薇を題材にしました。

中でも梅原龍三郎は「緑敏氏の薔薇でなくては描く気がしない」とまで言い、薔薇の絵のほとんどが緑敏の花を題材にしたものといわれています。あの力強い薔薇の傑作は、緑敏なくして生まれてこなかったのかもしれません。

画家として名を残さなかった緑敏は、薔薇の花を育て、梅原龍三郎や中川一政の薔薇の名作を生み出しました。また、才能豊かな芙美子の活動を献身的に支え、芙美子の死後には、自宅を記念館として開放し、丁寧に保管していた書簡や資料などによって芙美子の仕事を後世に伝えました。

奔放に生き、鮮やかに才能を開花させた林芙美子の薔薇のような人生もまた、緑敏が育てた花のひとつなのかもしれません。


東京10000歩ウォーキング―文学と歴史を巡る〈No.15〉新宿区 落合文士村・目白文化村コース
明治書院

ひきこもりの美学

2014-02-05 | 画家外伝

美術家調査の文献に村上護『阿佐ヶ谷文士村』を追加しました。
→『阿佐ヶ谷文士村

 

関東大震災後の阿佐ヶ谷界隈には、安いアパートが立ち並び、多くの若い文士たちが住んでいました。その住民たちは錚々たるメンバーで、本書では「この界隈に住んだ文士たちが、昭和に入って、文壇のイニシアチブを常に取りつづけている」と記しています。

そんな中でも古くからこの地に住み、中心的な存在であったのが井伏鱒二(1898-1993)と青柳瑞穂(1899-1971)で、文士たちは二人を中心に将棋をさし、酒を飲み、少なからぬ向上心を燃やしていました。

詩人の青柳瑞穂は骨董品蒐集家でもあり、尾形光琳の唯一の肖像画といわれる「中村内蔵助像」を古道具屋で見つけ出したことでも知られ、この絵はその後、重要文化財に指定され、現在は大和文華館に収蔵されています。

青柳瑞穂の骨董に対する思いは熱く、気に入った骨董を見つけるとそれを幾日も眺め続けるために、せっかく軌道に乗っていた翻訳の仕事も滞りがちだったといいます。

また、こんなエピソードもあります。

たまたま北海道に旅をすることになったので、青柳は旅の途中でも楽しめるように茶碗を二つ持っていきました。しかし、阿佐ヶ谷の家ではあれほど精彩を放っていた茶碗が、北海道では、ちっぽけで、ひねこびて、取るにたらないものに見えたそうです。このことで、青柳は改めて阿佐ヶ谷のわが家にこもって骨董を鑑賞することの楽しさを発見したそうです。

つまり、ちっぽけで、ひねこびて、取るにたらないものに見えた茶碗を嫌うのではなく、そう見せた大自然を否定したわけです。その考えはまさに「ひきこもりの美学」そのものであります。

そんな文士たちが熱烈に過ごした阿佐ヶ谷界隈ですが、多くの文士たちが貸家住まいで引越しも頻繁だったため、現在では住居跡などその面影はないものの、若いクリエーターたちが好んで住み、夕方ともなれば小さな路地が酔客で大賑わいを見せています。おそらく熱や狂気を持った文士たちの向上心が連綿としてこの地に留まり、この街の活気を導いているのでしょう。


「阿佐ヶ谷会」文学アルバム
幻戯書房