松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

宮崎の美術教育に尽力したボヘミアン・有田四郎

2018-03-24 | 画人伝・宮崎

霊峰霧島 有田四郎 宮崎県立美術館蔵

文献:明星大学研究紀要第24号「有田四郎-ボヘミアンと呼ばれた芸術家」、宮崎の洋画100年展、宮崎近代美術創成期の美術家、東京美術学校に学んだ郷土の画家

宮崎の美術教育に大きく貢献した人物に有田四郎(1885-1946)がいる。有田は東京に生まれ、幼時を熊本県で過ごした。東京美術学校では黒田清輝に師事し、和田英作とも親しく交流した。熱心なキリスト教信者で在学中に洗礼を受けている。歌人、著述家としての顔も持ち、芥川龍之介や有島武郎ら多くの文化人たちと交流した。

また、ボヘミアンと称されるほどに旅を好み、田園生活にあこがれて転居も繰り返した。宮崎には大正14年に訪れ、農耕にたずさわる一方、旧制県立延岡中学校、高鍋中学校、宮崎師範学校で美術教師として教鞭をとった。独特のヒゲを蓄えていたことから延岡中学の学生からは「延中の沙翁(シェークスピア)」と呼ばれ慕われた。

そのヒゲ面に蝶ネクタイをキリリと締めた有田の姿に、教え子たちは「さすがは美術教師、時代の先端を行くスタイリストだ」と惹き付けられ、東京の美術学校を目指すものが急増した。旧制県立延岡中学校での教え子からは、東京美術学校西洋画科に岡田和夫と高見清一、彫刻科に渡辺小五郎、漆工科に今村亨が進学した。また、平原美夫、河野扶らが有田の薫陶を受けて美術の道に進んだ。

有田四郎(1885-1946)
明治18年東京生まれ。雅号に残暮庵、ペンネームに田沢藤郎がある。明治36年東京美術学校洋画科に入学、黒田清輝に師事、和田英作と交流した。在学中の明治40年第1回文展入選、その後も文展出品。黒田らが創設した白馬会展にも2度参加した。熱心なキリスト教信者として本郷教会に所属し、在学中に洗礼を受けている。明治44年秋から翌春にかけて、南方への旅に出た。大正4年から鎌倉に転居、芥川龍之介や有島武郎ら文化人たちと交流した。大正12年関東大震災後は愛媛県に転居、大正14年に宮崎県富高町伊勢ケ浜に転居した。昭和2年に旧制県立延岡中学校、昭和10年に宮崎県師範学校の美術教師となり、宮崎の美術教育に尽力した。昭和17年に東京に引き揚げ、エッチングを手がけた。昭和19年瀬戸内海に憧れ香川県に転居。宮崎在住時からのスケッチをもとに水墨や淡彩の制作に励んだ。晩年は仏画も描いた。昭和21年、61歳で死去した。

岡田和夫(1910-1937)
明治43年延岡市生まれ。旧制延岡中学校で有田四郎に学び、東京美術学校に進学、在学中に帝展に初入選し、卒業制作は奨励賞を受けた。将来を嘱望されたが、昭和12年、27歳で死去した。

高見清一(1912-1964)
明治45年延岡市生まれ。旧制延岡中学校で有田四郎に学び、東京美術学校に進学した。卒業後は東京の満州映画協会に入社し映画制作に道を歩んだ。新京国展に佳作入選。戦後は開拓者として都農に入植し制作した。昭和39年、52歳で死去した。

平原美夫(1911-1975)
明治44年東臼杵郡東郷町生まれ。昭和5年宮崎県師範学校を卒業後、教職についたが、有田四郎の勧めで上京、新写実派研究所で学んだ。東京の王子中学校で教師をしながら制作に励み、昭和11年文展に入選、昭和13年に一水会展に入選した。昭和14年旧制県立延岡中学校に転任のため宮崎に帰り、その後美術教師として後進の指導にあたった。高鍋高校時代は野球部の指導に力を注ぎ、昭和29年に甲子園出場に導いた。昭和46年の退職後は再び絵筆をとり制作に専念した。昭和49年、64歳で死去した。

河野扶(1913-2002)
大正2年日向市生まれ。昭和5年旧制県立高鍋中学校を卒業。同時に有田四郎に入門し、デッサン、油絵を学んだ。同年東京美術学校の受験に失敗し、翌年川端画学校に学んだ。昭和10年京都の旧制第三高等学校理科甲類に入学。在学中、独立美術協会京都研究所で須田国太郎に人体デッサンを学んだ。昭和16年東京大学理学部数学科を卒業し会社勤めをするが、戦後は大学で数学を教えた。その間制作も続け、昭和35年独立展に出品、会友となったが、その後退会、無所属として活動した。昭和45年教職を辞め、毎年個展を行なった。平成14年、89歳で死去した。



旅を糧とする芸術家
小佐野 重利
三元社
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