松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

鳥取画壇の祖・土方稲嶺、鯉の名手と謳われた門人の黒田稲皐と小畑稲升

2017-02-03 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画、鳥取縣書画百藝名人集

鳥取画壇の祖と称される土方稲嶺(1741-1807)は、鳥取に生まれ、江戸に出て宋紫石の門に入り南蘋派を学んだ。のちに京都に移り、一説には円山応挙に師事したとされる。寛政10年に鳥取藩絵師として召し抱えられ、58歳で帰郷した。大画面の構成にすぐれ、写実性と装飾性の調和に創意を凝らし、生物の一瞬の動作をとらえた作品や、南画風の山水図を多く残した。稲嶺に写生画法を学んだ黒田稲皐(1787-1846)は、鯉を得意とし、鯉を描いては師の稲嶺に匹敵する名手とされた。また、稲皐に学んだ小畑稲升(1812-1886)も鯉の絵をよく描いた。稲嶺の家系は、子の土方稲林(1796-1859)、孫の土方稲洋(不明-不明)へと続き、稲皐の家系は甥の黒田稲観(不明-不明)に受け継がれた。稲観は画をよくしたが、若くして没した。

土方稲嶺(1741-1807)
寛保元年生まれ。字は子直、名は廣邦、のちに鳥取藩御用絵師になってから廣輔と改めた。初号は虎睡軒。鳥取藩の家老・荒尾志摩の家臣・土方弥右衛門の子。幼いころから画を好み、沈南蘋の画風を慕って江戸に出て宋紫石の門に入った。門人の中でも右に出るものがなかったという。のちに京都に移住し、粟田宮家に仕えた。寛政10年帰郷し、藩御用絵師となったが、寛政12年には江戸詰を命じられた。没年にいたるまで制作を続け、画題、技法ともに幅広く、鳥取画壇の祖と称された。子に稲林がいて、跡を継いで藩の絵師となった。高弟に黒田稲皐がいて、画系を受け継いだ。文化4年、67歳で死去した。



黒田稲皐(1787-1846)
天明7年生まれ。名は文祥、通称は六之丞。初号は稲葉。幼いころから画を好み、土方稲嶺について写生画を学んだ。弓馬、刀槍、水練など、武芸全般に長じ、藩主・池田仲雅に仕えた。仲雅没後は画業に専念し、家に鷹を飼い、池に鯉を放してその生態を観察し、写生をした。特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と称された。甥の稲観、小畑稲升が画系を受け継いだ。弘化3年、60歳で死去した。



小畑稲升(1812-1886)
文化9年鳥取市吉方生まれ。名は広助、のちに成章。初号は五石。幼いころから画を好み、鯉の名手と謳われた黒田稲皐に師事し、自身も鯉を得意とした。弘化2年鳥取城二の丸造営の時、新殿に屏風などを描き、翌年は京都に出て中林竹洞のもとで修行し、その年の冬、藩御用絵師に取り立てられた。嘉永5年には画道修業のため3年間江戸に出た。晩年は岩美町荒金に住み、明治19年同地において、75歳で死去した。



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