松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

新南画ともいえる独自の画風を開拓した冨田溪仙

2017-04-07 | 画人伝・福岡


文献:福岡県日本画 古今画人名鑑日本画 その伝統と近代の息吹き
参考:UAG美人画研究室(冨田溪仙)


福岡県を代表する近代日本画家としては、福岡市生まれの冨田溪仙(1879-1936)が挙げられる。溪仙は、上田鉄耕に学んだのち、京都に出て四条派の都路華香に入門、25歳で華香門を独立した。明治45年、文展初入選作が横山大観に認められ、大正4年には再興日本美術院の同人として迎えられ、その後は院展を舞台に活躍した。仙厓義梵、池大雅、与謝蕪村らに傾倒し、南画、大和絵、仏画にいたるまで修練、さらに仏教、キリスト教、儒教、日本古典を研究し、新南画ともいえる独自の画風を開拓した。昭和10年の帝国美術院改組により日本画部新会員となったが、翌11年、帝展改組に対する処置を不満とする横山大観らとともに帝国美術院会員を辞任、同年、58歳で急逝した。溪仙の最初の師である上田鉄耕(1849-1914)は、博多に生まれ村田東圃の門人であった父に南画を学んだのち、京都で中西耕石や日根対山にも学んだとされる。明治20年頃に博多に帰ってから画塾を開き、門下からは溪仙のほかに今中素友(1886-1959)、彫刻家の冨永朝堂らが出ており、教育者としての功績は大きい。

冨田溪仙(1879-1936)
明治12年福岡麹屋町生まれ。名は鎮五郎、字は隆鎮。初号は雪仙のちに華仙。別号に溪山人、燕巣楼、久彭などがある。13歳頃から衣笠守正に狩野派を学び、のちに上田鉄耕に師事した。18歳で画家を志して京都に出て、翌年四条派の都路華香に入門し、雪仙の号を華仙に改め、さらに溪仙に改号した。明治32年日本絵画協会・美術院連合共催会展に入選。翌年新古美術10年回顧展で3等受賞。明治34年日本絵画協会展、翌年後素協会展などに入選した。明治35年富岡鉄斎に「神功皇后釣鮎図」の時代考証の教示を仰ぎ、翌年大阪内回内国勧業博覧会に同作を出品、褒賞を受けた。同年、25歳で華香門から独立した。明治40年の2度目の紀州旅行をきっかけに平安仏画などを研究。また仙厓義梵、池大雅、与謝蕪村らに傾倒し、南画、大和絵、仏画にいたるまで修練した。明治42年に台湾・中国を旅行して研鑽に励んだ。明治45年の文展初入選作が横山大観に認められ、大正3年再興院展に京都派から初参加。翌年日本美術同人に迎えられ、院展に出品しながら、さらに仏教、キリスト教、儒教、日本古典を学び、独自の画風を確立した。大正11年詩人で中日仏国大使・クローデルと知り合い、詩画集を合作。また、大正末から博多幻住庵の仙厓旧居再興に尽力した。昭和10年帝国美術院改組により日本画部新会員となったが、翌11年、文部大臣平生鋭三郎の帝展改組に対する処置を不満とする横山大観ら13名とともに帝国美術院会員を辞任。同年、58歳で死去した。

上田鉄耕(1849-1914)
嘉永2年筑前博多生まれ。名は要三郎。父の桂園は村田東圃に師事した南画家で、父に南画の手ほどきを受け、のちに京都に出て中西耕石または日根対山に師事したとされる。明治20年に博多矢倉門町に画塾を開いた。門下からは冨田溪仙、今中素友、彫刻家の冨永朝堂らが出ており、教育者としての功績は大きい。研究心旺盛で、南画だけではなく中央の新傾向を取り入れてしたという。明治32年に結成された九州美術協会の中心的存在として活躍した。大正3年、66歳で死去した。

今中素友(1886-1959)
明治19年福岡市鳥飼村字谷六本松生まれ。名は善蔵、字は知章。別号に草江軒がある。修猷館を受けたが不合格となり、母校の教師だった波多江幸次の勧めにより上田鉄耕について画を学んだ。さらに、明治38年上京して川合玉堂に師事した。明治41年文展初入選、以来文展、帝展に出品、昭和8年帝展無鑑査となった。昭和34年、74歳で死去した。



富田渓仙―京都画壇の異才
京都新聞社
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