松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

津軽に南画をもたらした毛内雲林と津軽の初期南画家

2018-09-26 | 画人伝・青森

三顧之礼図 毛内雲林 弘前市立博物館蔵 

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史

比良野貞彦によって津軽にもたらされた漢画は、その後、弘前藩士の毛内雲林や、商家の当主だった松宮岱陽を通じて展開していった。津軽最初の南画家とされる毛内雲林(不明-1837)は、幼いころから和漢の学問を学び、暦法や茶道にも通じ、特に画に優れていたとされる。画の師ははっきりとしないが、江戸勤番の時に比良野貞彦と交わり、谷文晁について南画を学び、文晁との合作もあったという。

のちに溝城茂と改め、酒井抱一に師事したとされる藩医の三上隆圭(1785-1834)や、弟の養子で墨竹を得意とした石山月澗(不明-不明)を伴って諸国を遊歴し、海浜及び山河を歩き、紀行や草木魚鳥の絵図類を多数制作したと伝わっている。

雲林の門人・工藤五鳳(不明-1841)は、松山雲章とともに雲林門下の双璧とされたが、天保4年に前家老・津軽多膳一派による藩主信順の隠居画策に加わったとして蟄居を命じられ、天保10年に赦されたが、その2年後に没した。そのためか作品は多く残っていない。

また、弘前城下で醸造業を営んでいた松宮岱陽(不明-不明)は、藩の儒者で書家としても知られていた山崎蘭洲に学び、書画のほかに漢学にも優れ、俳諧にも親しんだ。弟子の岩佐半山(1787-1814)は近江から来た商人の子で、のちに京都に上り岸駒に入門したのち、弘前に戻って雲林らと交わったとされる。半山は将来を嘱望されていたが、28歳で病死した。

毛内雲林(不明-1837)もうない・うんりん
幼名は辰次郎、または左門次郎。幼いころから才学を誇り、多種多芸に秀で、和漢書をはじめ、地理、暦法、茶道、華道、書道に通じ、特に画に優れていた。父親は藩の重職を担い、菅江真澄など津軽を訪れた歌人や国学者など多くの文化人と交わっていた。天明2年、父の隠居の後を受けて家督を相続、天明4年有右衛門茂幹と改めた。諸手足軽頭、持筒足軽頭、持鑓奉行などを経て、寛政10年大目付、さらに用人となった。文化3年に留守居組頭、文化8年に隠居して雲林と号した。江戸勤番の折に谷文晁や比良野貞彦らと親交を持ち画技を習い、津軽に南画をもたらした最初の人と伝えられている。隠居後、邸内に一室を造って「春秋庵」と名付け、貴賎の別を問わず、風雅の心あるものを迎えたという。門下生は数十人を数え、松山雲章、工藤五鳳、平尾魯仙、片谷楽斎らがいる。天保8年死去した。

三上隆圭(1785-1834)みかみ・りゅうけい
天明5年江戸生まれ。弘前藩医。月下園、玄路庵と号した。幕府の侍医だった桂川甫周に医学を学び、のちに諸国を漫遊して、長崎では多くの文人墨客と交わり、江戸では酒井抱一に画を学んだとされる。墨梅を得意とした。天保5年、56歳で死去した。

石山月澗(不明-不明)いしやま・げっかん
毛内茂粛の第二子で雲林の弟・石山彦市の養子となった。名は雅朝喜兵衛と称した。和歌を間山祐真に学び、菅江真澄と会い、さらに橘由之に入門し、歌人としても知られている。墨竹を得意とした。

工藤五鳳(不明-1841)くどう・ごほう
弘前藩士。名は俊司。書に優れ、天保3年家老付表右筆を仰せつかっている。毛内雲林に学び、松山雲章とともに雲林門下の双璧とされたが、天保4年に前家老津軽多膳一派による藩主信順の隠居画策に加わったとして蟄居を命じられた。天保10年赦されるが、天保12年死去した。

松宮岱陽(不明-不明)まつみや・たいよう
名は保一、久兵衛英篤といった。弘前の中土手町あたりに住んでいて、家業は先祖代々続く醸造家でその八代目。書は山崎蘭洲に学び、書画はもちろん、篆刻、漢学にも優れていた。門人に岩佐半山がいる。

岩佐半山(1787-1814)いわさ・はんざん
天明7年生まれ。通称は竹屋音次郎。名は貞武。父親の岩佐東助は近江から来た商人。幼いころから画を好み、はじめ松宮岱陽に学び、のちに京都で岸駒の門に入った。弘前では毛内雲林と交わった。半山という雅号は、書斎から岩木山の上半分しか見えないことから名付けたとされる。将来を嘱望されていたが、文化11年、28歳で死去した。

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