松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

「大正の歌麿」と称された橋口五葉

2018-06-04 | 画人伝・鹿児島

髪梳ける女 橋口五葉

文献:鹿児島の美術、20世紀回顧 鹿児島と洋画展、生誕130年 橋口五葉展

明治31年に東京美術学校に新設された西洋画科は、黒田清輝が初代教授をつとめ、藤島武二和田英作も助教授として教鞭をとっていたため、鹿児島出身の画家たちで同校西洋画科に学んだものは多い。のちに浮世絵版画の創造に向かい、「大正の歌麿」と称された橋口五葉(1880-1921)もそのひとりだった。

鹿児島市に生まれた橋口五葉は、10歳頃から郷里の狩野派の画家に手ほどきを受け、中学校卒業後に帝大在学中の兄を頼って上京、橋本雅邦に師事した。のちに黒田清輝のすすめで洋画を学び、白馬会洋画研究所に入り、東京美術学校西洋画科に進学した。在学中から白馬会展に出品、成績優秀で特待生にも選ばれ、卒業後は第1回文展にも入選したが、その後は油彩画を離れ、美人版画の研究と制作に没頭した。

東京美術学校卒業の年に、夏目漱石の『我輩は猫である』の装幀を担当、評判となり以来多くの装幀を手がけた。明治44年には三越呉服店が募集した懸賞パスターに浮世絵風の美人画が1等賞となり、五葉の名は高まっていった。この頃から五葉の浮世絵版画の研究が始まっている。

大正4年には「新版画」を提唱する版元・渡辺庄三郎と共に「浴場の女」を制作、木版画の衰退期にあって伝統的な方法による可能性を十分に期待させ、新版画の前途を明るくさせる出来ばえとされたが、五葉にとっては満足するものではなく、渡辺との版画制作はこの一作で途絶えた。しかし、この試みが五葉にとって版画家の道を選ぶ重要なきっかけとなったとみられる。

五葉が理想とした版画制作は、創作版画にみられる自彫、自摺ではなく、彫師、摺師の協力によって制作する浮世絵版画独特のシステムを活かすことだった。その研究のために2年を費やし、大正7年に「耶馬溪」「化粧する女」の二作を制作、さらに研究を重ねて大正9年に「髪梳ける女」「長襦袢を着たる女」などを発表した。五葉の作品は、特にアメリカで人気を呼び、しばしば版画展が開かれ、美術館にも多くの作品が収蔵されたが、大正10年、中耳炎の悪化によって、志半ばにして41歳の生涯を閉じている。

橋口五葉(1880-1921)
明治13年鹿児島市生まれ。本名は清。10歳ころから郷里の狩野派の画家に手ほどきを受け、中学時代に早くも霧岳、清水、翠峰などの号を用いている。鹿児島造士館中学校を卒業後、帝大在学中の兄を頼って、明治32年に上京し、橋本雅邦に師事した。のちに黒田清輝のすすめで洋画を学び、黒田の白馬会洋画研究所に入り、同年東京美術学校西洋画科で学びはじめた。明治38年に同校を卒業、同年夏目漱石の『我輩は猫である』の装幀をし、以後いくつかの夏目の著書の装幀をしている。明治40年第1回文展に入選、東京勧業博覧会で二等賞を受けた。その後は文展に落選し、油彩画はほとんど描かなくなった。明治44年、三越が募集した懸賞ポスターに浮世絵風の美人画が一等に入賞、五葉の名が知られるようになった。この頃から浮世絵の研究に入り、多くの研究論文を出した。大正4年には版元・渡辺庄三郎と協力して「浴場の女」を制作、以後研究論文を発表するとともに版画を制作した。大正10年、41歳で死去した。



橋口五葉―装飾への情熱 (ToBi selection)
西山 純子
東京美術
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