松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

児島善三郎と福岡の独立美術協会

2017-04-22 | 画人伝・福岡


文献:田園の輝き児島善三郎、福岡県の近代絵画展近代洋画と福岡県北九州市立美術館コレクション 1974-1991
参考:UAG美人画研究室(児島善三郎)


日本の自然風景を装飾化、様式化することによって「児島様式」と呼ばれる日本的洋画を完成させた児島善三郎(1893-1962)は、昭和5年二科会を脱退し、日本のフォビスムを旗印に同志14名とともに独立美術協会を創設した。児島の活動拠点は東京だったが、独立美術協会を通じて多くの後進に影響を与え、福岡には児島に続く独立画家たちが多く現れ、そのグループを核にして福岡の洋画壇は活性化していった。福岡の独立美術協会の画家としては、粕屋郡生まれの赤星孝、福岡市生まれの山田栄二、青柳暢夫、大牟田市生まれの藤岡一、粕屋郡生まれの熊代駿、大宰府生まれの井上寛信、筑後市生まれの下川都一朗、それに高知県生まれで戦後に福岡に来て早世した今西中通らがいる。

児島善三郎(1893-1962)
明治26年福岡市中島町生まれ。紙問屋児島本家の当主・児島善一郎の長男。中学修猷館3年生の時に絵画同好会「パレット会」を作り、2歳年下の中村研一やその弟・琢二らと活動した。卒業後は画家を志望したが、父の許しが得られず、長崎医学専門学校薬学科に進学したが、ほどなく中退、店の売り上げを持ち出して家出して東京に向かった。大正3年岡田三郎助の本郷洋画研究所で二ヶ月ほど学び、東京美術学校を受験するが失敗、以後は師につくことなく独学で画を学んだ。大正10年二科展に初入選。翌年には二科賞を受賞するなど順調な歩みをみせるが、大正14年基礎を学ぶため渡仏。約3年の滞欧の後、昭和4年には二科会会員となるが、翌年脱退。西洋の模倣ばかりでなく、日本人は日本人の絵画を持つべきだとの信念のもと、同志たちと独立美術協会を結成した。洋画に学んだ基礎の上に、南画や琳派の研究によって得た作風を取り込み、日本の自然風景を、装飾化、様式化して描いた。活動の拠点は東京だったが、独立美術協会を通じて多くの後進に影響を与え、福岡には児島に続く独立画家が多く現れた。また、昭和8年の筑前美術会や昭和15年の福岡県美術協会結成にも大きな役割を果した。昭和37年、69歳で死去した。

足達襄(1911-1999)
明治44年福岡市中央区生まれ。中学修猷館在学中、福岡県商品陳列所で開催された児島善三郎の滞欧作品展に感銘を受け、画家を志すようになった。卒業後に上京、昭和5年帝国美術学校に入学、清水多嘉示に師事した。翌年、児島らが結成した独立美術展第1回展に初入選し、以後も出品を続け、昭和23年独立美術協会会員となった。この間、福岡独立作家協会の結成に参加。戦前は東京に住んでいたが、戦後は帰郷し大宰府にアトリエを構え、独立展の主要画家として、地元でも精力的に活動し、松田諦晶主宰の来目洋画道場の講師もつとめた。昭和32年には筑紫野市に筑後芸術学院を開設、後進の指導につとめた。平成11年、88歳で死去した。

山田栄二(1912-1985)
明治45年福岡市上新川端町生まれ。中学修猷館を卒業後、画家を志し上京。昭和8年二科展に、翌年独立展に初入選した。以後は発表の場を独立展に定め、昭和13年に独立賞を受賞、昭和22年には独立美術協会会員となった。また、同年、赤星孝、上田宇三郎、宇治山哲平、久野大正と5名による「朱貌社」を結成、約6年間、講習会や展覧会を続けた。昭和28年、朱貌社の解散とともに渡仏、約5年パリで学んだ。さらに昭和48年にも再渡欧し、昭和57年には滞欧15年を記念して福岡で大個展を開催した。73歳で死去した。昭和60年、73歳で死去した。

赤星孝(1912-1983)
明治45年粕屋郡古賀町生まれ。福岡中学校を卒業後、昭和7年に上京、武蔵野美術大学で学んだ。同年独立展に初入選し、昭和15年に独立賞を受賞、昭和23年に独立美術協会会員となった。昭和16年召集され、久留米で4年間の兵役生活を送る中、戦時下の必勝美術展覧会会合で坂本繁二郎に出会い、これを機に八女のアトリエを訪れるようになり、私淑した。「朱貌社」の結成にも参加、昭和24年には福岡県美術協会の再興に参加するなど、福岡の美術界活性化に貢献した。昭和58年、71歳で死去した。



近代の美術59 児島善三郎
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