松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

米国で肖像画家として活躍した伊達孝太郎

2018-03-22 | 画人伝・宮崎

少女 伊達孝太郎

文献:宮崎の洋画100展、20世紀回顧 鹿児島と洋画展、かごしま文化の表情-絵画編、宮崎近代美術創成期の美術家

宮崎における最初の本格的洋画家は、伊達孝太郎(1878-1964)とされる。伊達は、宮崎県高岡町に生まれ、宮崎師範学校を卒業後、旧制小、中学校で図画教師をつとめていたが、明治35年にセントルイスで開催された大博覧会見学のために渡米、そのまま米国に留まり、翌年セントルイスの美術学校に入学した。在学中は全米から選ばれて特待生になるなど優秀な成績を残し、卒業後も選抜試験に合格して、明治40年ニューヨーク美術学校裸体科に入り2年間ここで学んだ。

卒業後はフランスに渡ることを希望したが、第一次大戦勃発のため、パリ行きを断念、セントルイスの肖像画館主任をつとめるなど、肖像画家として活躍した。

大正8年の帰国後は、東京に住み肖像画を描いていたが、関東大震災後に帰郷、しばらく高岡に住んでいたが、のちに鹿児島市に移った。昭和6年には池之上町に伊達洋画研究所を設立、制作のかたわら後進の指導にあたっていたが、研究所は太平洋戦争の空襲で焼失した。戦後は鹿屋市の米軍基地で、進駐軍相手に通訳をしたり、占領軍将校の肖像を描いたりした。

伊達孝太郎(1878-1964)
明治11年宮崎県高岡町生まれ。宮崎県立師範学校を卒業後、明治30年佐賀県の小城中学校に図画教師として赴任。明治35年渡米、翌年セントルイスの美術学校に入学した。明治40年ニューヨーク美術学校裸体科に入学、2年間学んだ。卒業後は第一次大戦勃発のため、パリ行きを断念し、セントルイスの肖像画館の主任をつとめ、アーチスト・ギルド・アートリーグの正会員となった。大正8年帰国し、黒田清輝の推薦により国民美術協会会員になった。大正11年9月9日からの3日間、県議会議事堂で個展を開いている。関東大震災後は、鹿児島市に移り、鹿児島の福山中学校で教鞭をとった。昭和6年には池之上町に伊達洋画研究所を設立し、後進の指導にあたっていたが、太平洋戦争の空襲で研究所は焼失した。戦後は鹿屋市で進駐軍相手に通訳をしたり、肖像画を描いたりした。昭和39年、86歳で死去した。



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