松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

タイガー立石と筑豊の画家

2017-05-05 | 画人伝・福岡


文献:多彩な美 田川市美術館の歩み、福岡県の近代絵画展福岡県西洋画 近代画人名鑑福岡県が生んだ画家たち展


炭鉱で栄えた筑豊地区は、戦中戦後の混乱期に石炭増産に沸き、中央から映画や芝居、漫画といった多くの大衆文化が流入してきた。戦後前衛美術の旗手の一人として活躍したタイガー立石(1941-1998)は、田川に生まれ、その特異な活気の中で多くのものを吸収し、作家としての素養を形成していった。上京後は「観光」を作品のキーワードとし、多摩川河原での観光芸術展や、東京駅での路上歩行展などを行なった。いかに観る者に喜びや驚きを与えるか、そのための仕掛けを生涯を通じて生み出し続けた。田川に生まれた石井利秋(1911-2001)は、郷里で炭鉱労働のかたわら制作を続け、当初は炭鉱をモチーフにした抽象的な作品を描いていたが、炭鉱を後世に伝えるという使命感に目覚め、昭和46年から女坑夫の姿や炭鉱災害の場面を具象で描くようになった。飯塚に生まれた立花重雄(1920-1995)は、ボタ山や炭鉱住宅などの風景をテーマに、黒く重厚な絵肌による炭鉱シリーズを発表、「ボタ山画家」と称され一躍名を高めた。飯塚で教員生活を続けた築山節生(1906-1986)と、直方で教員のかたわら自宅に画塾を開いた阿部平臣(1920-2006)は、ともに多くの後進を育て、筑豊の画家たちに大きな影響を与えた。また、筑豊からは織田廣喜、野見山暁治という著名画家も出ている。

タイガー立石(1941-1998)
昭和16年田川郡伊田町生まれ。本名は立石紘一。のちに立石大河亞と改名。昭和36年武蔵野美術短期大学芸能デザイン科に入学、卒業した昭和38年、読売アンデパンダン展でデビューした。翌39年には中村宏と「観光芸術研究所」を設立し、多摩川河原での観光芸術展や、東京駅での路上歩行展などを行なった。昭和40年からサイレント漫画を描き始め、昭和44年にイタリアへ渡ったあと、ストーリー性や時間的要素を取り入れたコマ割り絵画を展開。イタリアではイラストやデザインも手掛け、昭和57年に帰国した。油彩、シルクスクリーン、鉛筆、陶による作品に加え、漫画や絵本の制作など、多彩な分野で活動を行い、「観る」という行為から生じるコミュニケーションを促すための仕掛けを生み出した。平成10年、56歳で死去した。

石井利秋(1911-2001)
明治44年田川郡伊田町生まれ。三井尋常小学校卒業後、大正14年から約2年間、三井田川鉱業所で坑内雑夫として働いた。その後、画家を志して上京、昭和7年に日本美術学校洋画部に入学した。在学中および卒業後も大久保作次郎に師事した。昭和11年帰郷して再び三井田川に勤務した。以後は田川を離れることなく、炭鉱労働のかたわら制作を続けた。昭和12年、日本美術学校の先輩である田川在住の横山群らと、田川で初めての絵画グループ「彩人社」を結成。昭和21年、三井田川洋画同好会の結成に参加した。同会で、福岡学芸大学田川分校で教鞭をとっていた築山節生を招き、指導を受けた。31年モダンアート展に初入選、以後も出品を続け、昭和42年、会友となり福岡支部長。昭和44年に会員となった。この頃までは炭鉱をモチーフに抽象的な作品を描いていたが、炭鉱を後世に伝えるという使命感に目覚め、昭和46年から、女坑夫の姿や炭鉱災害の場面を具象で描くようになった。平成13年、90歳で死去した。

立花重雄(1920-1995)
大正9年福岡県飯塚市生まれ。少年時代から絵を好んだが、召集のため本格的に学ぶことはなかった。復員後、飯塚市で旅館や料理店を営むうち、絵への思いが再燃し、昭和30年に上京、同郷の田崎廣助に師事するとともに、中央美術学園に学んだ。昭和32年に卒業して帰郷、帰途に汽車から眺めた、見慣れたはずの郷里の炭鉱風景に衝撃を受け、ボタ山や炭鉱住宅などの風景をテーマに黒く重厚な絵肌による炭鉱シリーズを発表、折りしも筑豊から炭鉱が姿を消しつつある時期で、立花は「ボタ山画家」と称され、一躍名を知られるようになった。昭和39年日展で特選、昭和62年日展会員となった。昭和42年に初めて欧州を訪れ、スペインの街並みに炭鉱町に似た感覚を受け、以後は赤や黄の原色の太陽の下、哀愁を帯びた街並みを描いた。平成7年、75歳で死去した。

築山節生(1906-1986)
明治39年佐賀県唐津市生まれ。のちに釜山に移った。小学校を卒業後、北九州、大阪、東京など、職を変えながら渡り歩き、18歳頃に画家を志すようになった。大正14年朝鮮で小学校教員試験に合格、さらに苦学して昭和8年文部省施行の西洋画・用器画教員試験に合格した。翌9年から幾つかの師範学校で教鞭をとってのち、昭和22年福岡第二師範学校に赴任した。本校および分校で指導するにあたり、中間地点である飯塚に居を構え、同校が福岡学芸大学、福岡教育大学と名称変更するなか、昭和45年まで勤務した。27歳頃から宮本三郎に私淑し、二紀展に出品、昭和32年二紀会委員となった。昭和61年、79歳で死去した。

阿部平臣(1920-2006)
大正9年鞍手郡直方町生まれ。昭和14年東京美術学校油画科予科に入学、翌年本科に進んだが、昭和18年に戦時による繰上げ卒業となり帰郷した。田川中学校に就職した後、戦後は直方の中学校を転勤しながら教師生活を続けた。昭和25年から自由美術家協会展、昭和27年から春陽会展に出品していたが、その後は行動美術展に出品し、昭和37年行動美術協会会員となった。教師生活のかたわら、自宅に画塾を開いて多くの後進を育て、筑豊の画家たちに大きな影響を与えた。平成18年、85歳で死去した。



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