松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

十和田湖に魅せられてその紹介に尽力した鳥谷幡山

2018-10-22 | 画人伝・青森

白籠巖頭之眺臨 鎧嶋虹影 鳥谷幡山

文献:青森県史叢書・近現代の美術家、東奥美術展の画家たち、青森県近代日本画のあゆみ展、青森県南部書画人名典十和田勝景画譜支那周遊図録

七戸町に生まれた鳥谷幡山(1876-1966)は、函館にいた兄を頼って函館商業学校に入り、当時函館に来ていた寺崎広業と出会い、学校を中退して上京、広業に師事した。幡山が、愛してやまなかった十和田湖を初めて訪れたのはこの頃で、今日でこそ名勝として多くの観光客が訪れる十和田湖だが、当時はまだ交通の便が悪く、地元でも一部の人のみが知る秘境の地だった。幡山は、その神秘的な美しさに魅せられ、十和田湖を「神苑霊湖」と称し、自らの絵の題材とするとともに、その紹介に尽力した。

十和田湖という題材を得て、広業のもと画業に邁進していた幡山は、明治30年に東京美術学校日本画科2年に編入するが、その翌年、岡倉天心校長の罷免のためにおきたストライキに連座して多くの学生たちとともに同校を退学してしまう。その後広業の天籟画塾で塾頭をつとめ、そのかたわら「美術研精会」の創立に参加し、以後10数年に渡って主任幹事をつとめたが、文展創設の意見から広業と反目するようになり、大正元年から一切の職を辞し、やがて中央画壇から遠ざかっていった。

画壇から離れた幡山は、国内各地をはじめ、台湾や中国、朝鮮を周遊し、『支那周遊図録』などを刊行した。また、十和田湖の紹介も本格化させ、『十和田湖勝景画譜』『十和田湖大観』なども出版した。しかし、画業としては、昭和6年に第1回東奥美術展の審査員をつとめてはいるが、その後は東北地方に出かけて絵を描く程度で、晩年は新郷村のキリスト伝説の研究に没頭し、戦後は昭和30年に『日本のキリスト』を出版したこと以外、その経歴はほとんど空白となっている。

鳥谷幡山(1876-1966)とや・ばんざん
明治9年七戸町生まれ。本名は又蔵。瑞竜寺・鳥谷丹堂の二男。雅号は、七戸町の西になだらかな稜線を描く「八幡岳」による。明治24年長兄を頼り函館に渡り、実業家を望んだ兄の勧めで函館商業学校に入学。明治27年に函館に滞在中の寺崎広業に弟子入りを志願し許され入門。翌年商業学校を中退して上京した。明治30年東京美術学校日本画科2年に編入、橋本雅邦に師事した。その翌年、東京美術学校騒動によって橋本雅邦、寺崎広業、横山大観ら教授10数名が辞職、幡山もこれに従い退学し、明治34年に広業の天籟画塾で塾頭となった。日本画の美術団体「美術研精会」創立にも参加し、以降10数年に渡って主任幹事をつとめた。大正元年、一切の職責を辞して中央画壇から離れた。その後、中国、朝鮮をはじめ国内各地を周遊後、本格的に十和田湖の紹介に尽力した。昭和41年、90歳で死去した。



十和田湖・奥入瀬川 和田光弘 写真集
東奥日報社
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