松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

竹田門の四天王のひとりに数えられた博学者・後藤碩田

2017-12-22 | 画人伝・大分

後藤碩田 水墨画山水 大分県立美術館蔵 

文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、豊後の博学 後藤碩田、後藤碩田の偉業、大分県立先哲史料館研究紀要第16号「後藤碩田の情報収集」、大分県立芸術会館所蔵作品選

後藤碩田(1805-1882)の生家は乙海村(現在の大分市鶴崎)にあり、酒造、煙草や穀物売買などを手広く行なっていた豪商で、碩田の父・守只は、家業に励むかたわら、華道や茶道などの文化面にも高い関心を示し、各地の文人たちと広く交友していた。また、この地は海に面しており、船舶の出入りする港があったことから、文人墨客たちの往来も多く、田能村竹田も京都方面に出るたびに、必ず後藤家に立ち寄っていたという。

そんな文人・知識人たちが集う環境のなかに育った碩田は、幼いころから日出の帆足万里に儒学を、中津藩の渡辺重名や肥後藩の長瀬真幸に国学を学び、その後は京都に遊学して香川景樹、伴信友に師事した。碩田の学問に対する関心はさらに広がり、史学、考古学などの学問から、射法、砲術などの武芸、さらには茶道、生け花、歌道などの芸能まで、学んでいないものはないというほど、さまざまな学問を修学し、豊かな教養を育てていった。幕末には、肥後藩の宮部鼎蔵、岡藩の小河一敏らと尊王攘夷運動に走り、長州藩士ともつながり、豊後国内で尊王思想を広めた。

絵画と詩は田能村竹田に学んだが、竹田から受けた指導は期間も他の門人に比べ短く、碩田自身も南画に専念していたわけではないが、個性的な作画を続け、のちに高橋草坪帆足杏雨田能村直入らと並んで竹田門の四天王と称されるようになった。しかし、本格的な画人ではなく、むしろ南画をよくした碩学の学者として評価されている。

また、古刀、古器物、古記録などのコレクションマニアで、家が裕福だったこともあり、手当たり次第に買い集めて研究していたという。その集大成が代表作である『碩田叢史』といえる。『碩田叢史』は、碩田が編纂・収集した資史料で、原本455冊が大分県立先哲史料館に収められている。それらは、碩田が購入したもの、自分で写したもの、人に写させたもの、著述したものなどからなっており、日本や大分県の歴史を研究する上で欠かせない貴重な資料となっている。

後藤碩田(1805-1882)
文化2年大分郡乙津村生まれ。豪商・後藤守只の三男。名は真守、字は大化、通称は今四郎。別号に斌楽斎、耕雲主人、遊技三昧堂などがある。後藤家は諸藩御用達の商家で、酒造、煙草及び穀物売買など手広く行なっていた。日出藩の帆足万里に儒学を、中津藩の渡辺重名や肥後藩の長瀬真幸に国学を、京都では香川景樹、伴信友に師事した。絵と詩は田能村竹田に学び、竹田門の四天王のひとりに数えられた。明治4年に西寒多神社の神官となり、明治13年には権大講義に任命された。編纂・収集した『碩田叢史』のほか、画集『大化帖』を出している。明治15年、78歳で死去した。



後藤碩田の偉業―九州近世の先哲 (1976年)
大分県人社
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