松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

田能村竹田と豊後杵築ゆかりの儒者・篠崎小竹

2017-12-15 | 画人伝・大分

田能村竹田 梅花宿鳥図 大分県立美術館蔵
竹田が深山桜と名付けた大坂の寓居で描かれたもので、右上にある落記には親友の頼山陽と篠崎小竹の着語を待つと記されている。その言葉どおりに篠崎小竹は左上に詩を書いているが、頼山陽のほうは実現せず、替わりに山陽の弟子である後藤松陰が右下に詩を書いている。

文献:杵築の書画人名鑑、陶説5月号「青木木米の交流(7)篠崎小竹」、大分県立芸術会館所蔵名品図録

篠崎小竹(1781-1851)は、近世後期の大坂を代表する文人で、漢詩、漢文に優れ、書家としても高名である。父親が豊後杵築の出身ということもあり、田能村竹田とは京坂の文人グループで親しく交遊し、よく遊歴に同行している。小竹は、竹田の生涯の友である頼山陽(1781-1832)とも親しく、小竹と頼山陽が、それぞれ18歳と19歳の時に大坂で知り合って以来親しく交遊し、山陽が菅茶山の廉塾から逃げ出して来た時も、小竹の大坂の家に身を寄せている。

『杵築の書画人名鑑』によると、若いころ杵築に帰って生家に住んだ小竹は、故郷を愛し、大坂を訪れた杵築人の世話をよくし、杵築藩主教育係となった小川含章も小竹が世話をした学者だったという。

小竹の父・加藤周貞の出身地である豊後杵築は、代々の藩主が学問を奨励していたため、文教の地として名高く、豊後三賢の一人である三浦梅園をはじめ、その子・三浦黄鶴、麻田剛立、石川遠明ら多くの優れた学者を輩出している。

篠崎小竹(1781-1851)
天明元年生まれ。幼名は金吾、名は弼、字は承弼、通称は長左衛門。別号に南豊、了橋、棠陰、退庵、異堂、紅相居主人などがある。父親の加藤周貞は、若くして医学を修め、のちに大坂に移って開業した。小竹は9歳の時に大坂の儒者・篠崎三島について学び、才能を認められて13歳で養子となった。寛政11年江戸に遊学に出たが、養母が没したため帰郷。同年から父に代わって阿波の藩老稲田家に出講釈をし、以後毎年行った。享和3年、23歳の時に九州、四国を遊歴、文化5年には再び江戸に出て昌平坂の学問所で古賀精里に学んだが、同年父三島が病んだため、梅花社を継いだ。嘉永4年、72歳で死去した。



小竹先生手稿 9巻目録付尾各1巻 [6] (国会図書館コレクション)
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