松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

豊後南画の隆盛・田能村竹田の出現

2017-12-13 | 画人伝・大分

田能村竹田 歳寒三友双鶴図 大分県立美術館蔵
頼山陽が賛を入れ、満徳寺法要のために豊後竹田に来ていた中津正行寺の雲華上人も追賛。さらに岡藩儒者・角田九華も賛し、竹田の自賛も入っている。   

文献:大分県史、山中人饒舌、竹田荘師友画録、大分の美術千年展、田能村竹田と上方文化、大分県立芸術会館所蔵作品選図録

田能村竹田(1777-1835)が正統南宗画法によって本格的に南画を描き始めた年には、すでに与謝蕪村、池大雅は没しており、南画では浦上玉堂、岡田米山人、青木木米らが作画を行なっていた。そこに、次世代として浦上春琴、岡田半江、頼山陽らが出現、まさに南画の隆盛が始まろうとしていた時だった。そして、二豊(大分県)の地においても、竹田の出現を得て、豊後南画が開花することとなるのである。

この時期は1810年代から1840年代に設定できるが、この間、二豊の地には竹田を核として、各地から優れた南画家が出現した。竹田の出身地である岡をはじめ、日田、府内、鶴崎などは竹田がたびたび訪れ、中津、杵築にも『豊後国志』編纂のため訪れている。それらの地の南画家たちは、竹田から直接、間接の感化を強く受けて画技を進めている。直接の門人としては、高橋草坪、帆足杏雨、田能村直入、後藤碩田らがいる。

二豊の地だけでなく、各地を旅した竹田は、その芸術生活において、読書や旅の重要性を説いている。中国の文人・董其昌の「万巻の書を読まず、万里の路を行かずんば、画祖とならんと欲するも、其れ得べけんや」という言葉を引き、よい絵を描くには、多くの書物から得た知識や、旅を通しての体験や見聞が必要とし、それを実践した。竹田の画業は、旅と各地の文人との交流の積み重ねの上にあるといっていい。

竹田の旅の始まりは25歳の時だった。寛政10年、藩命により編纂していた『豊後国志』を幕府に納める準備のため、初めて江戸に向けて旅立った。途中、大坂で木村蒹葭堂に、江戸で谷文晁と面識を得て、翌年帰藩した。享和4年、28歳の時には熊本に遊学、高本紫溟、村井琴山を訪ね、教えを受けた。そして翌年、29歳で長崎を振り出しに京都に向かい、帰ってきたのは31歳の時だった。その間、儒者・村瀬栲亭に学んだほか、中島棕隠、浦上玉堂、岡田米山人、上田秋成らと親しく交流した。

35歳で再び京坂遊歴の旅に出て、途中備後に菅茶山を訪ねてから、大坂に行き、そこで初めて頼山陽に会った。竹田と山陽はその後も親しく交流し、生涯の友としてお互いを刺激しあう仲となった。そして、紀州に野呂介石を訪ね、半年後に国に帰った。その年岡藩の領内で百姓一揆が起こり、竹田は二度にわたり藩政に意見を述べたが受け入れられず、37歳で藩から退隠することとなり、ここから竹田の本格的な作画活動が始まる。

文政6年、47歳の時に長男太一と門人高橋草坪を伴って京都を訪れ、頼山陽、雲華上人、浦上春琴、青木木米、岡田半江、小石元瑞、篠崎小竹ら多くの文人墨客と交遊し、京都・大坂に1年ほど滞在した。文政9年、長崎に遊び、1年あまり滞在し、木下逸雲、鉄翁祖門らと交遊するとともに清人・江芸閣らと詩文書画の交わりをし、中国から舶載された書画によって眼識を高めた。翌10年に熊本、鹿児島を巡って帰郷した。文政11年以降もたびたび上方とを往復し、京都・大坂の文人たちと交流した。

天保3年、豊後竹田を出発し、大分、別府、立石、宇佐などを経て中津に入った。そこに滞在中に、頼山陽の訃報を聞いた。天保5年、58歳の時に大坂で新しい友人・大塩平八郎と会い、意気投合した。いったん帰郷し、翌天保6年に再び上方を訪れたが、病を得て、大坂において59歳で死去した。

田能村竹田(1777-1835)
安永6年豊後国竹田(現在の大分県竹田市)生まれ。岡藩医師・田能村碩庵の二男。幼名は磯吉、のちに玄乗、さらに行蔵。名は孝憲、字は君彝。居宅を竹田荘・墨荘と称し、その室に花竹幽窓、緑苔窩、補拙廬、雪月楼、秋声館などと名付け、それらを号とした。ほかに別号として九畳仙史、九畳外史、九峰衲子、随縁居士、紅荳詞人、六止草堂、三我主人、藍渓釣徒、藍渓狂客、西野小隠などがある。家業は代々藩医で、兄周助死去のため18歳で医業を継いだ。幼い時から藩校・由学館に学び、画を同郷の画人・淵野真斎、渡辺蓬島らに学んだ。寛政10年、22歳の時に藩命により医業を廃し、由学館の儒員となり、唐橋君山に従い『豊後国志』の編纂に携わった。のちに村瀬栲亭の門に入り詩文を学び、浦上玉堂、岡田米山人らの知遇を得た。文化8年に岡城下で起こった農民一揆のことから政治を忌避し、文化10年隠居、この頃から本格的に南宗画法による作画を始め、以後京都・大坂など各地に遊歴し、文人と交遊、詩書画に高い評価を得て画名が高まった。『山中人饒舌』『竹田荘師友画録』など多くの著書がある。天保6年、59歳で死去した。

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