松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

福田平八郎の登場、そして高山辰雄へと続く大分出身の日本画家

2018-01-26 | 画人伝・大分

漣 福田平八郎

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

大分県の近代日本画史の上に占める福田平八郎の存在は大きい。大分県では明治末期まで幅広い南画の展開がみられ、明治30年代における新日本画運動も弱々しいものだったが、平八郎の登場により、大分画壇はにわかに活気づき、平八郎に学ぼうと、せきを切ったように画家を志す若者たちが京都に向かうようになった。

平八郎の目指したものは、日本美術の伝統を踏まえたうえで、自然や対象を凝視し、本質的な美しさを表現することだった。それが結実したのが、昭和7年第13回帝展に出品された「漣」だった。それは徹底した自然観照による堅実な写実に、桃山美術にみられる大胆な装飾性や様式性を統合させたもので、その後も平八郎は、対象をより把握するために単純化、装飾化、様式化を試み、古典を乗り越えた、新しい日本画様式へと画風を展開していったのである。

平八郎に続き、大分市から高山辰雄が出て日本画壇をリードした。高山は、戦後の日本画滅亡論や危機論が飛び交うなか、画壇の先頭にたって絶えず新鮮な制作を続けた。高山の目指すものは、終戦を境にしてより鮮明になった。それは、単なる日本画の洋画化ではなく、既成の絵画区分をこえた新しい日本画を創造しようというものだった。昭和54年に文化功労者に選ばれた際も「日本画と洋画の間の障壁除去に努力した」が推挙理由となった。

平八郎と高山はともに大分市の出身で、実家は数百メートルしか離れていない。しかも、高山が通っていた大分県師範学校付属小学校の前に、平八郎の実家があった。平八郎の父は学童相手に文房具店を営んでおり、店内には当時新進気鋭の画家だった平八郎の写生画も飾られていた。高山は幼いころから平八郎の絵を見て感性を育み、小学校5年生の時に講堂に陳列された平八郎の「安石榴」や「鶴」に感銘を受け、画家になる決意を固めたという。

他に戦後に活躍した大分県出身の日本画家としては、帝展から院展に舞台を変えた池田栄廣、福田平八郎に師事した正井和行、川端龍子に師事し東方美術協会を創設した佐藤土筆、そして日田出身で日展の重鎮として活躍した岩澤重夫らがいる。

福田平八郎(1892-1974)
明治25年大分市王子町生まれ。本名が平八郎。初期は素仙、九州の号を用いた。明治43年画家を志し大分中学を3年で中退し、中学2年修了で入学資格のある京都市立絵画専門学校の別科に進み、翌年京都市立美術工芸学校に入学した。大正4年に同学を卒業、同年京都市立絵画専門学校に入学、大正7年に同校を卒業した。大正8年帝展に初入選。大正10年帝展で「鯉」が特選となり、一躍画壇の注目をあびた。昭和11年京都市立絵画専門学校教授となるが、翌年病気を理由に辞退、画業に専念する。昭和22年帝国芸術院会員となった。昭和24年第1回毎日美術賞を受賞。昭和33年日展が発足し常任理事となった。昭和36年新日展に出品、これが日展最後の出品となった。同年文化功労者となり、文化勲章を受章した。昭和44年日展が改組され顧問となった。昭和49年、82歳で死去した。

高山辰雄(1912-2007)(「高」は正しくは「はしごだか」)
明治45年大分市中央町生まれ。昭和5年大分県立大分中学校を卒業後上京、荻生天泉、小泉勝爾に画の手ほどきを受けた。昭和6年東京美術学校日本画科に入学、在学中に松岡映丘の画塾・木之華社に入門した。卒業後は映丘門下の浦田正夫、杉山寧らが結成した瑠爽画社に参加、同会解散後は旧会員を中心とした一采社を結成。川崎小虎、山本丘人らの国土会にも出品した。昭和9年帝展初入選。第2回・5回日展で特選となり、その後も日展で受賞を重ね、日展では昭和50年から52年まで理事長をつとめた。昭和35年日本芸術院賞、昭和40年芸術選奨文部大臣賞、昭和45年日本芸術大賞を受賞。昭和47年日本芸術院会員、昭和54年には文化功労者となり、昭和57年文化勲章を受章した。平成19年、95歳で死去した。

池田栄廣(1901-1992)
明治34年広島県呉市生まれ。本名は栄。大分の牧皎堂や古庄九汀の指導を受けた。京都に出て堂本印象、のちに安田靫彦に師事した。昭和2年第8回帝展に初入選。昭和21年第2回日展で特選となった。翌22年からは院展に出品し受賞を重ね、日本美術院特待となった。平成4年死去した。

正井和行(1910-1999)
明治43年兵庫県明石市生まれ。本名は幸蔵。昭和3年京都市立絵画専門学校に入学、福田平八郎に師事した。在学中の昭和9年に第15回帝展に初入選するが、昭和12年に病を発し、大分市に転居して療養生活を送った。実家にアトリエを構えた平八郎のもとに通い、大分県美術協会を舞台に活躍。大分県立別府第二高校で後進の指導にもあたった。昭和28年から画壇に復帰し、昭和47年・57年の改組日展で特選。平成元年京都市芸術功労賞受賞。平成2年には京都府文化功労賞を受賞した。平成11年、88歳で死去した。

佐藤土筆(1911-2004)
明治44年大分郡狭間町生まれ。本名は博。大分県師範学校卒業後、京都市立絵画専門学校で学び、在学中の昭和12年第9回青龍社展に初入選。卒業後は川端龍子に師事した。昭和21年と22年には同展で奨励賞を受賞。昭和25年青龍社の社人に推挙された。昭和41年川端龍子の死によって青龍社が解散するまで同展に出品し、その後は社人有志ととともに東方美術協会を創立し、以後会員として同展に出品した。平成16年、93歳で死去した。

岩澤重夫(1927-2009)
昭和2年日田市豆田町生まれ。昭和27年に京都市立美術専門学校を卒業、その後堂本印象に師事し東丘社に入塾した。在学中の昭和26年第7回日展に初入選。以後日展で受賞を重ね、昭和47年日展会員になり、その後常務理事をつとめるなど日展の重鎮として活躍した。昭和60年第8回山種美術館賞展で大賞を受賞。第17回日展で文部大臣賞受賞。平成2年京都府文化功労賞、平成4年第5回MOA岡田茂吉賞大賞、平成5年第49回日本芸術院賞、平成6年京都市文化功労賞を受賞。平成12年日本芸術院会員、平成21年には文化功労者になった。平成21年、81歳で死去した。



福田平八郎 (Suiko arts)
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