松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

無音の風景・松本竣介

2019-01-25 | 画人伝・岩手

煙突のある風景 松本竣介 岩手県立博物館蔵

文献:生誕100年 松本竣介展、盛岡の先人たち、岩手の近代絵画展、いわて未来への遺産、岩手県立美術館所蔵作品選、岩手県立博物館近代美術作品集、東北画人伝

松本竣介(1911-1948)は東京に生まれ、少年時代を岩手県盛岡で過ごした。中学入学の直前に激しい頭痛に見舞われ、その影響で聴覚を失い、この頃から画家を志すようになった。17歳で中学を中退して上京、池袋に住み、太平洋画会研究所に通いはじめた。当時の池袋は「池袋モンパルナス」と称され、多くの若い画家や詩人たちが住み、互いに影響しあいながら自らの表現を模索していた。そんな環境のなか、松本は様々な画友との出会いを重ね、自己の画風を確立していった。

昭和10年、二科展初入選を果たし、新進気鋭の画家として注目されるようになった。また、生涯の伴侶となる禎子と出会い結婚、エッセイとデザインの雑誌「雑記帳」を創刊するなど、活動の場を広げていった。画風にも新たな展開が見られるようになり、それまで都会の情景を風景と人物で描き分けていたが、次第に両者を融合した画面がみられるようになった。

昭和15年、東京銀座の日動画廊で開いた初個展を契機に、また新たな絵画の模索をはじめ、この時期を境に画風はさらに大きな変化をみせはじめる。人物画は、自画像から婦人像や子ども像まで表現を一新し、新たな風景画も精力的に描き始めた。この時期に描かれた抑制された静謐な都会風景は、のちに「無音の風景」と称され、多くの美術愛好家を魅了してやまなかった。

昭和20年、空襲が激化するなか、家族を疎開させたのちも松本は東京に留まった。終戦後は生活の糧を得るために忙殺されながらも、新たな文芸誌創刊の計画に奔走し、美術家組合の結成を呼びかけ、また新たな絵画を模索した。昭和22年には自由美術家協会の再建に参加し、それを機に新たな主題と画法による作品を発表、再び大きな画風の変化を見せていたが、昭和23年、36歳で病死、その画業の幕は突然閉じられることとなった。

松本竣介(1911-1948)まつもと・しゅんすけ
明治45年東京渋谷生まれ。旧姓は佐藤。大正3年2歳の時に一家で現在の花巻市に移住、さらに大正11年に父親の郷里・盛岡に移った。大正14年岩手県立盛岡中学校の入学式に出席するが、激しい頭痛のため式を早退して入院。重体が数日続き、聴覚を失った。17歳で盛岡中学を中退して上京、小学校の恩師で池袋に住んでいた佐藤瑞彦の世話でその隣家に住み、太平洋画会研究所に通いはじめた。昭和6年石田新一、薗田猛、勝本勝義、田尻稲四郎らと太平洋近代芸術研究所を結成、麻生三郎、寺田政明も参加した。昭和7年20歳の時に石田、勝本、田尻、山内為男らと「赤荳会」を結成、現在の豊島区要町の雀ケ丘に貸しアトリエを共同で借りて研究所とした。昭和10年第22回二科展に初入選。昭和11年松本禎子と結婚し、松本姓を名乗るようになった。同年月刊誌「雑記帳」を発刊。昭和15年日動画廊で初個展開催。同年岩手美術連盟の結成に参加。昭和17年日動画廊で2度目の個展開催。昭和18年井上長三郎、鶴岡政男、靉光、麻生三郎らと「新人画会」を結成したが3回展で解散。昭和21年美術家組合の提唱文「全日本美術家に諮る」を画家中心に各方面の知識人に発送。昭和22年自由美術家協会の会員となる。昭和23年、36歳で死去した。



青い絵具の匂い - 松本竣介と私 (中公文庫)
中央公論新社
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芸術
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