松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

台湾美術振興に大きく貢献した塩月桃甫

2018-03-26 | 画人伝・宮崎

舞子 塩月桃甫

文献:台湾を描いた画家たち、宮崎の洋画100年展、宮崎近代美術創成期の美術家、 東京美術学校に学んだ郷土の画家、郷土作家美術コレクション展

宮崎県西都市に生まれた塩月桃甫(1886-1954)は、宮崎師範学校を出て東京美術学校に進んだ。卒業後は大阪の浪華小学校、松山の師範学校で教師をつとめ、松山では、高浜虚子ら文人と交流、南画風の作品も残している。その後、妻子を伴って台湾に渡り、彼の地で25年間制作に励み、また、台湾における美術振興にも尽力した。しかし、情熱をそそいだ台湾美術展覧会の審査委員問題などで糾弾され、多くの作品を残したまま、住みなれた台湾を引き揚げることとなった。

大正10年、36歳の時に台湾に渡った塩月は、台北一中と台北高校で教師として美術教育に携わった。在職中の塩月は教師に義務付けられていた官服は一度も身に付けず、教育方法は当時では珍しい個性と創造を重んじた自由主義教育法だったという。昭和2年に創設された台湾美術展覧会(台展)では第1回展から運営と審査に携わり、日本画壇から藤島武二や梅原龍三郎らを審査員として招くなど、台湾の美術振興に情熱をそそいだ。

また、昭和6年には日本の「独立美術協会」の台北巡回展を開催。この展覧会は、台日新報で「大いに在台の画家たちを刺激し(中略)眠れる画壇を刺激した」と評されるなど、革新的展覧会として受け入れられ、その結果、台湾では新興洋画会、台野美術協会、台湾美術連盟などの在野の美術団体が次々と設立されることとなった。しかし、このことが原因で台湾の美術界の分裂を招くことにもなった。

当時の台湾には塩月より14年早く渡っていた水彩画の石川欽一郎(1871-1945)が育てた台湾人画家を中心とする石川派が勢力を占めていた。石川派は自然主義的な画風を主としていたが、塩月が開催した独立美術展以降は、絵画の主流は新興絵画へと移っていき、時代の趨勢もあり、石川派の勢力は弱まっていった。そんな折、第9回の台展で、それ以降の台展では台湾人の審査委員が取り消されることとなり、これが塩月による「台湾人審査委員はずし」とされ、塩月への反発は強まっていったのである。

台展の「台湾人審査委員はずし」がどのような意図で行なわれ、塩月の意志なのかどうかは定かではないが、塩月は台湾人を審査委員から排斥した張本人とされ、台湾を追われることとなった。多くの作品を台湾に残し、昭和21年に宮崎に引き揚げた際には、絵の具も買えないほど逼迫した生活だったというが、そんな中でも旺盛な制作活動を展開し、後進を育て、戦後の宮崎県美術のリーダーとして活躍した。

塩月桃甫(1886-1954)
明治19年宮崎県西都市三財生まれ。本名は善吉。旧佐土原藩士永野家の三男。都農町の塩月家の養子になった。宮崎県師範学校に学び、教職につくが、絵画への道を志して東京美術学校に進み、明治45年に卒業。大阪、松山で教師としてつとめながら画業に励み、大正4年文展に初入選した。大正10年台湾に渡り、台湾美術界の振興に努めた。昭和21年宮崎に引き揚げ、宮崎大学講師と県展(現宮日展)の審査員をつとめるなど宮崎県美術界に大きく貢献。昭和27年宮崎県文化賞を受賞した。昭和29年、69歳で死去した。



台湾を描いた画家たち
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