松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

寺田政明と福岡の異色洋画家

2017-05-01 | 画人伝・福岡


文献:生誕100年 寺田政明展、福岡県の近代絵画展近代洋画と福岡県福岡県西洋画 近代画人名鑑

福岡県八幡市(現北九州市)に生まれた寺田政明(1912-1989)は、16歳で上京、福沢一郎や松本竣介らと前衛美術運動を展開し、池袋モンパルナスの中心人物として活躍した。田川郡赤池町生まれの長末友喜(1916-1949)は、寺田のすすめで活動をともにし八幡市美術協会の設立に参加するなど地元でも活動していたが33歳で早世した。久留米市生まれの藤森静雄(1891-1943)は、恩地孝四郎らと一緒に創作版画運動の中心となって活動し、日本創作版画協会、日本版画協会の創設に参加するなど、日本版画の黎明期に活躍した。愛媛に生まれ北九州で育った柳瀬正夢(1900-1945)は、村山知義らと前衛的な芸術運動を展開。福岡市生まれの板谷房(1923-1971)は、東京美術学校卒業後に渡仏し、パリで藤田嗣治の知遇を得て生涯パリで活動した。大分に生まれ北九州市で育った平野遼(1927-1992)は、独学で洋画を修得、主体美術協会の創立に参加したが、のちに退会し無所属で活動、独自の画風を確立した。

寺田政明(1912-1989)
明治45年福岡県八幡市生まれ。幼い頃に怪我で入院した際、病院の庭で絵を描いている医師と出会ったことがきっかけで画家を志すようになった。16歳で上京、小林萬吾の同舟舎絵画研究所を経て太平洋美術学校に学び、ここで吉井忠、鶴岡政男、松本竣介、麻生三郎らと知り合った。また、画家や文士の溜り場だった茶房リリオムで長谷川利行、靉光らと出会った。昭和7年独立美術協会展に初入選、12年に同展協会賞を受賞した。昭和8年鶴岡政男らが結成したNOVA美術協会に出品、同年豊島区長崎に転居した。当時この地域には画家や文士が多く集まっており「池袋モンパルナス」と称されていた。この地で、詩人の小熊秀雄ら多くの画家や詩人と交遊し、さまざまな美術運動を展開した。昭和11年麻生三郎、吉井忠らとエコール・ド・東京を結成、同年前衛作家約80名により結成されたアヴァン・ガルド芸術クラブの発起人の一人となった。さらに、同年池袋美術家クラブを設立。昭和13年には、エコール・ド・東京を解散し、糸園和三郎、古沢岩美らと創紀美術協会を結成したが翌年解散。昭和14年に福沢一郎らと美術文化協会を、昭和18年には靉光、麻生三郎らと新人画会を結成した。戦後は、昭和24年に美術文化協会を脱退し、自由美術家協会に移ったが、昭和29年には同会を退会し、森芳雄、吉井忠らと主体美術協会を結成、以後同展に出品した。晩年は小樽運河の連作や樹木シリーズなど、詩情と哀感の漂う作品を制作した。昭和元年、77歳で死去した。

長末友喜(1916-1949)
大正5年田川郡赤池町生まれ。昭和6年嘉穂郡伊岐須高等小学校を卒業し、しばらく八幡製鉄所で働き、昭和9年花尾職業学校冶金科に入学した。昭和11年同校を卒業したが、翌年召集され中国山西省に赴いた。昭和13年帰国し、翌年再び八幡製鉄所に入社。昭和13年に福沢一郎らが創立した美術文化協会に翌年の第1回展から連続出品し、昭和21年会員となった。一方、地元でも製鉄所洋画部、北九州美術家連盟などで活躍。昭和21年の八幡市美術協会設立に際し、委員として参加した。昭和23年村田東作らと美術団体橄欖社創立したが、翌24年、33歳で死去した。

藤森静雄(1891-1943)
明治24年久留米市生まれ。明治43年中学明善校卒業後上京、白馬会原町洋画研究所に通った。翌44年東京美術学校予備科に入学、在学中に恩地孝四郎、田中恭吉と親しく交遊し、三人でしばしば竹久夢二と訪ねた。大正2年木版画制作を開始し、翌年恩地らと自摺私輯「月映」を創刊、大正4年の第7号まで刊行した。大正5年東京美術学校西洋画本科を卒業、父が町長を務める福岡県嘉穂郡飯塚町に戻り、一時台湾の中学校で教鞭についたが、大正11年まで嘉穂中学校の教員を務めた。大正7年に日本創作版画協会の創立に参加。大正11年に再上京し、15年から春陽会展に出品した。昭和3年からは版画のみを出品した。昭和6年に日本版画協会の創立に参加。その間、福岡日日新聞に連載挿絵を2度担当した。昭和15年帰郷し、以後は飯塚市に住んだ。昭和18年、53歳で死去した。

柳瀬正夢(1900-1945)
明治33年愛媛県生まれ。本名は正六。明治44年福岡県門司市に移り、市立門司小学校に転入。大正3年に上京して日本水彩画会研究所で学び、同年日本水彩画会展に入選した。翌年門司に戻り、院展入選。大正7年再上京して本郷洋画研究所に学んだ。大正10年未来派美術協会に参加。大正12年村山知義を知り、前衛的な美術運動に共鳴、マヴォ結成に参加した。翌年三科造形美術協会発起人となった。この頃から社会主義思想に傾き、労働運動に関わって油絵制作から遠ざかった。昭和1年プロレタリア芸術連盟創立に参加、中央委員となった。ほかにもナップ、前衛座、日本漫画連盟などの創立に参加。文芸誌や機関誌の装丁や挿絵、舞台装置考案などでも活躍した。昭和6年日本共産党に入党、翌年逮捕され、昭和8年治安維持法違反で有罪判決が下り、活動を制限され画家生活に戻った。昭和20年、新宿駅空襲の時に焼夷弾を受け、46歳で死去した。

板谷房(1923-1971)
大正13年福岡市生まれ。北崎高等小学校から小倉師範学校に学び、2年間教職についたのち東京美術学校図画師範科に入学。昭和27年に同校を卒業し、翌年渡仏し終生のほとんどをこの地で過ごした。藤田嗣治の親交を得て、昭和29年2人で「猫展」を開催。翌年パリで第1回個展を開き、エルサレム美術館、在パリ日本大使館、カーネギー財団に作品を買い上げられた。サロン・ドートンヌ、ル・サロンに出品。昭和38年フランス政府から芸術院賞を授与された。昭和46年、48歳で死去した。

平野遼(1927-1992)
昭和2年大分県佐賀関町生まれ。すぐに福岡県八幡市に転居。昭和15年徴用令のため造船所で働き、終戦後は住居を転々としつつ米軍のポスター描きや似顔絵描きをした。昭和24年新制作派協会展に独自に編み出した蝋画が初入選。同年前衛美術展に出品した。昭和25年帰郷して小倉にアトリエを構えた。翌年自由美術家協会展に入選、以後出品し、昭和33年会員となったが、昭和39年同会を退会して、森芳雄、大野五郎らと主体美術協会の創立に参加したが、昭和50年に同会を退会、以後は無所属で活動した。平成4年、65歳で死去した。



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