松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

高橋廣湖から堅山南風へと日本美術院の系譜をつないだ山中神風

2017-11-21 | 画人伝・熊本

山中神風 血河の巷 熊本県立美術館蔵

文献:熊本県の美術熊本の近代日本画

高橋廣湖の周辺にいた画家に山中神風(1883-1928)がいる。神風は、はじめ淵上誠方、淵上武貫に土佐派を学び、明治35年頃上京して梶田半古に師事した。その頃東京では、郷里の先輩・高橋廣湖が頭角を現わしており、その影響からか神風も巽画会や二葉会に加わっている。巽画会の展覧会ではたびたび受賞しているが、日本美術院に一度入選したほかは目立った画歴はない。神風の場合、その画業よりも中央と熊本を結ぶパイプ的な存在としての業績のほうが大きく、のちに日本画壇の重鎮として活躍する堅山南風を画家として導いた先輩として語られることのほうが多い。

神風に連れられて明治42年に上京した堅山南風(1887-1980)は、神風の紹介で廣湖に師事し、本格的に画業をスタートさせた。南風は、廣湖の影響のもと歴史画に取り組んだが、廣湖に師事していた頃は、文展には落選続きで巽画会のほかは目立った画歴はない。皮肉にも南風が注目されるのは、廣湖の死後だった。大正2年、それまでの歴史画を離れ画風を一変させた「霜月頃」が、第7回文展で初入選で最高賞という結果となり、無名の南風が一躍脚光を浴びることとなった。これを機に、南風の受賞を強く推した横山大観に師事し、日本美術院に活動の場を移すこととなる。

熊本における日本美術院の系譜は、中心的存在としてその足跡を残した高橋廣湖を筆頭に、次代を担った山中神風、堅山南風、そして南風の門下生である真道黎明、高木古泉、若木山、松山春秋、宮崎東里らへと続いた。

山中神風(1883-1928)
明治16年熊本市生まれ。名は千吉。はじめ淵上誠方、淵上武貫に土佐派を学び、明治35年頃上京して梶田半古に師事した。明治37年から38年の日露戦争に従軍し、この時に大山巌元帥から神風の号をもらった。いったん熊本に戻り、明治40年に再上京して巽画会に加わった。明治42年、26歳の時に「清正公300年祭記念絵画展」を企画し熊本で開催。同年熊本に山中神風後援会が発足した。大正11年日本美術院展に初入選した。昭和3年、45歳で死去した。

堅山南風(1887-1980)
明治20年熊本市生まれ。名は熊次。はじめ熊本で四条派を修めた福島峰雲に学んだのち、明治42年、郷里の先輩・山中神風に連れられて上京、神風の紹介で同郷の高橋廣湖に師事した。当初文展には落選続きだったが、師の廣湖の突然の死後、歴史画を離れ写実から絵を組み立てる画風に一変させ、大正2年文展初入選し、二等賞を受賞した。以後は横山大観に師事し、日本美術院を中心に活躍、大正13年日本美術院同人に推挙された。昭和33年日本芸術院会員に、昭和38年文化功労者となり、昭和43年文化勲章を受章した。昭和55年、93歳で死去した。

真道黎明(1897-1978)
明治30年熊本県宇土市生まれ。中学卒業後上京、日本学園卒業後、太平洋画会に通い中村不折に洋画を学ぶが、たまたま見た菱田春草の作品に感動し、日本画に転向を決意、郷里の先輩・堅山南風に師事した。大正4年日本美術院展初入選、大正10年、24歳の時に日本美術院同人に推挙された。昭和50年院展内閣総理大臣賞を受賞。昭和53年、81歳で死去した。

高木古泉(1878-1963)
明治11年熊本県菊池郡生まれ。名は左直。熊本県師範学校卒業後、東京美術学校に入学したが中退。文部省図画科検定試験に合格し、以来旧制中学校、高等女学校で教鞭をとったのちに辞職、福田平八郎、堅山南風に師事した。院展、霹靂展、明朗展などに出品し、鯉の名手として知られた。昭和38年、85歳で死去した。



院展100年の名画―天心ワールド‐日本美術院 (ショトル・ミュージアム)
小学館
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