松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

西洋の新思潮と格闘しながら多彩な画業を展開した萬鉄五郎

2019-01-18 | 画人伝・岩手

雲のある自画像 萬鉄五郎 岩手県立博物館蔵

文献:萬鉄五郎の自画像、岩手の近代絵画展、岩手県立美術館所蔵作品選、いわて未来への遺産、東北画人伝

萬鉄五郎(1885-1927)がその才能を開花させたのは、明治末期から大正初めのことである。その時期は、続々と西洋の新しい絵画思潮が紹介されはじめており、萬はそれらと格闘しながら多彩な画業を展開させ、晩年には南画も試みている。個性的な画家が次々と出現した大正期にあって、とくに際立った才能を輝かせたといえる。

花巻市東和町土沢に生まれた萬が、18歳で上京し、白馬会研究所に通いはじめたのが20歳の頃で、その後渡米を経て、22歳の時に東京美術学校西洋画科に入学した。在学中から白馬会に出品し、フォーヴィスムやキュビスムの方法を採り入れながらも、いたずらに新しさを追い求めず、東京美術学校の卒業制作「裸体美人」は、日本フォーヴィスムの先駆として注目を集めるようになった。

萬は、同時期の画家のなかでも自画像を数多く制作した画家のひとりである。萬が自画像を多く描いた時期は大きく分けて2つあり、それは西洋の新思潮と格闘していた時期と重なる。まずひとつは、美術学校後期から卒業後まもなくフュウザン会に参加する頃で、この時は、後期印象派からフォーヴィスム、表現主義、未来派的な模索を行なっていた。

また、もうひとつは、大正3年から5年にかけて郷里の土沢に帰って制作していた頃で、この時はキュビスムの模索を行なっていた。この2つの時期には特に自画像を実験素材としていたむきがあり、自画像制作が重要な意味を持っていたと思われる。

掲載の「雲のある自画像」は、明治末から大正初めにかけて描かれたもので、同時期に描かれた東京美術学校の卒業制作「裸体美人」同様に雲が出現している。

萬鉄五郎(1885-1927)よろず・てつごろう
明治18年岩手県東和賀郡土沢生まれ。明治19年土沢高等小学校に入学、同級生に佐々木理平治(のちの歌人・小田島孤舟)がいた。3年生ころから日本画を独習しはじめ、落款作りに熱中した。明治34年大下藤次郎著『水彩画之栞』を知り、水彩画を描きだし、大下に作品を送って指導を受けたりもした。明治36年上京、私立神田中学校に編入し、さらに私立中学郁文館、私立早稲田中学に編入した。明治38年、20歳のころから白馬会第二洋画研究所に通いはじめ、長原孝太郎、小林鐘吉の指導を受けた。翌年渡米し、美術学校に入学しようとしたが、サンフランシスコ大地震の影響もあり、進学を断念して帰国。東京美術学校入学を考え、再び白馬会第二洋画研究所に通いはじめた。明治40年東京美術学校西洋画科予備科に入学。同年白馬会に出品。明治45年同校を卒業、卒業制作「裸体美人」が注目を集めた。同年盛岡で開催された北虹会に出品、また同年結成されたヒュウザン会に参加。大正3年一時土沢に帰り制作に専念し、大正5年に再上京、二科展、院展洋画部などに出品。大正8年茅ヶ崎に転居、この頃から南画も試みるようになった。昭和2年、41歳で死去した。



近代の美術29 萬鉄五郎
至文堂
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芸術
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