松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

近世薩摩画壇を代表する絵師・木村探元

2018-04-12 | 画人伝・鹿児島

竹林山水図 木村探元

文献:近世薩摩画壇の隆盛 木村探元展、薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、薩摩画人伝

江戸時代の薩摩を代表する絵師として木村探元(1679-1767)がいる。探元は25歳の時に江戸に出て鍛冶橋狩野家の狩野探信に入門した。当時の薩摩の絵師は、木挽町狩野家に学ぶものが多く、探元の鍛冶橋狩野家入門は例外的だったが、その理由について木挽町狩野家の常信は「探元が深信に学ぶのは、深信を師と考えてのことではなく、深信の親・探幽が所蔵していた和漢の名画を研究するためである」と語っている。また、探元自身も『白鷺洲』のなかで「探信の絵は下手である。私の師匠は深信の親・探幽であって、私は探幽の孫弟子である」とし、探元が生まれた時にはすでに没していた探幽への思いを語っている。

狩野探幽(1602-1674)は、大和絵と漢画の双方を研究し、そのうえで新しい江戸狩野様式を生み出した狩野派を代表する絵師である。探元もその探幽芸術の源泉となる和漢の名画を研究し、探幽様式を基礎に、雪舟や秋月等観らの技法を取り入れた画風を確立、多くの門人を育て、今日に続く薩摩画壇の基礎をつくった。また、書や茶道、和歌にも長じ、薩摩藩を代表する文化人でもあった。

鹿児島には「見事探元」(みごったんげん)という言葉が残っているが、これは絵画に限らず、優れた出来ばえを褒める時に使う言葉である。褒め言葉に名前が残るほど、鹿児島では探元の存在が大きかったことを物語っている。

木村探元(1679-1767)
延宝7年鹿児島城下甲突川河畔生まれ。木村時喜の二男。幼名は金八、のちに金左衛門。13歳の時に狩野派の絵師・小浜常慶について学んだ。坂本養伯が師という説もある。元禄8年17歳の時に二十代藩主・島津綱貴に謁見することが許され、同年時員の雅号を使い、元禄12年には守廣と号した。元禄16年、25歳の時に江戸に出て鍛冶橋狩野家2代当主・狩野探信の門人となり、探信を通してその父探幽の画法を学んだといわれる。2年後の宝永2年に帰郷した。宝永4年、29歳の時に鹿児島城造営に際し、御対面所上段や中段孝行ノ間敷舞台軒上などの絵を描いた。同年藩主島津吉貴から剃髪の命があり、探元の名を賜った。正徳4年、琉球の江戸慶賀である掌翰史程順則が鹿児島に来航、藩主吉貴とともに江戸に出て、東照大権現宮に参詣するが、この時探元の作品に程順則が賛を入れている。享保11年、島津吉貴夫人於須磨の方が伊勢大廟へ参宮の折、側役伊集院権右衛門久盛、美代五郎兵衛清己などと共に供奉した。享保2年島津家伝来の「時雨の軍旗」を模写。享保19年京都の近衛家に招かれ、門人の押川元春、能勢探龍と共に京都に行き翌年4月末まで滞在。この間に法橋に叙せられ、近衛家や禁裏のために作品を描き、大貳の呼び名を賜った。宝暦11年、83歳の時に藩主・島津重豪の命によって絵を献上、褒美として白銀を賜り、これをもとに三暁庵を造立した。翌宝暦12年口述筆記『三暁庵主談話』を刊行した。明和4年、89歳で死去した。

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