松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

京都の大分県画壇の草分け・高倉観崖と牧皎堂

2018-01-25 | 画人伝・大分

高倉観崖

文献:大分県史(美術編)、大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選

福田平八郎が画壇で注目を受ける以前に、京都で活躍した大分県出身の日本画家として、高倉観崖と牧皎堂がいる。彼らは京都での大分県画壇の草分けともいえる存在で、大分県内で藤原竹郷や松本古村らが興した近代日本画化へのその後の流れに、少なからぬ影響を与えた。

高倉観崖(1884-1957)は、京都市立美術工芸学校に学び、竹内栖鳳に師事した。竹内栖鳳は四条派に洋風様式を取り入れて新しい画風を開いた人物で、観崖はその影響を強く受け、四条派と南画風に写実味を加えた、独自の世界を切り開いた。

観崖の親友である、牧皎堂(1884-1954)も日本画家を目指し、大分中学校を中退して京都市立絵画専門学校に入学した。卒業後は主に京都で制作に励んだが、大正11年に帰郷し、第一高等女学校で教鞭をとった。

彼らは、写実と装飾、南画と新日本画など様々な問題のはざまに立ち、その解決にむけて努力をしたようだが、新しい日本画の確立とまではいかず、それを達成するには福田平八郎の出現を待たねばならなかった。観崖は「辛」を抱きしめる武士のような心境で作画に臨んでいたのかもしない。

高倉観崖(1884-1957)
明治17年大分市白銀町生まれ。旧姓は安東、本名は孫三郎、通称は宏明。京都市立美術工芸学校に入学、竹内栖鳳に師事した。大正3年第8回文展に「鴨川の春」が初入選し褒状を受けた。同作品は、同年のサンフランシスコ万国博覧会でも金牌賞を受賞した。以後、第9回文展に「蜜柑」、第10回文展に「春の遊び」、第12回文展に「浙江所見(水郷春色、官苑の夏、山寺春色)」が入選した。昭和3年には中華漫遊画集『蘇江所見』を出版した。絵のかたわら俳句もよくした。昭和32年、73歳で死去した。

牧皎堂(1884-1954)
明治17年大分郡判田村生まれ。名は照蔵。別号に扇岳がある。大分中学校を中退して京都に出て学び、明治39年京都市立美術工芸学校、大正9年京都市立絵画専門学校を卒業した。この間の大正6年第11回文展で「孔雀」が入選した。卒業後、諸地方を遊学、東京の寺崎広業について画技を進めた。その後帰郷し、大分市に居をかまえ、大分高等女学校で教鞭をとった。また、大分県美術協会の幹事を長年つとめ、同会の設立や大分県の美術界に貢献した。昭和29年、70歳で死去した。

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