松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

東京で学んだ宮崎県の洋画家

2018-03-27 | 画人伝・宮崎

冬着のアーニャ 山田新一

文献:宮崎の洋画100年展、郷土作家美術コレクション展、都城美術史、都城 美の足跡、宮崎近代美術創成期の美術家、東京美術学校に学んだ郷土の画家

宮崎から新しい美術を求めて東京に向かった画家としては、日本画では山内多門益田玉城大野重幸根井南華があげられる。洋画では塩月桃甫が、東京美術学校に学び、その後台湾に渡っている。塩月に続いて東京をめざした洋画家としては、山田新一、鱸利彦、出水勝利、末原晴人、岩下資治、小野彦三郎、落合ランらがいる。

山田新一は、東京美術学校卒業後朝鮮に渡ったが、戦後は京都に住み、日展、光風会の重鎮として活躍した。千葉県出身で、幼少時を宮崎で過ごし鱸利彦は、東京美術学校で学び、卒業後は旺玄社、二科会、一陽会などに所属したが、いずれも退会して以後は無所属として個展を中心に作品を発表、一貫して穏健な自然美を追求した。出水勝利は、東京美術学校卒業後は宮崎で教職につき、宮崎県美術協会の設立に参加、会長として美術団体の育成と会の運営に尽力した。

日南高校に勤務したのち千葉県に移り住んだ岩下資治は、一水会会員として活動、一貫して千葉県の花畑やそこで働く女性を明るい色彩で描いた。末原晴人は、白を基調とする「地中海シリーズ」を手がけ、具象だけでなく抽象も描くなど幅広い画風を展開した。小野彦三郎は、帝国美術学校に学んだ後、創元会、日展で活躍、のちに渡欧し、独自の大和絵風の風景画を完成させた。

山田新一(1899-1991)
明治32年台北市生まれ。父の転勤により青森、小樽、東京、栃木を転々とした後、旧制都城中学校に入学、図画教師・野村房雄に絵画を学んだ。大正6年に上京して川端画学校に入学、佐伯祐三らと交友した。翌年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事した。大正12年から京城に移住し、高等学校で教職についた。昭和3年に渡欧し、パリでアマン・ジャンに師事。帝展、朝鮮美術展で入選、受賞を重ね、昭和16年朝鮮総督から美術功労者として表彰された。終戦直後はGHQからの依頼で戦争記録画の収集を行なった。戦後は京都に住み、日展、光風会展に出品、日展参与、光風会名誉会員をつとめた。平成3年、92歳で死去した。

鱸利彦(1894-1993)
明治27年千葉県生まれ。明治29年に宮崎市に移住し、幼年期を宮崎で過ごした。明治45年旧制県立宮崎中学校を卒業。大正2年東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝らに師事した。大正7年同校を卒業し、昭和5年パリに2年間留学した。昭和21年二科会会員になった。昭和25年に共立女子大学教授に就任。昭和30年に二科会を退会し、一陽会を創立したが、昭和40年に同会を退会し、以後無職として活動、個展を主として意欲的に作品発表を行なった。平成2年には宮崎県文化賞を受賞。平成5年、98歳で死去した。

出水勝利(1906-1990)
明治39年南那珂郡北郷町生まれ。旧制県立飫肥中学校で柏原覚太郎に指導を受け、東京美術学校に進んだ。同校卒業後は旧制県立飫肥中学校をはじめ、兵庫県立伊丹高等女学校、兵庫県師範学校、昭和21年には宮崎師範学校につとめ、昭和24年宮崎大学学芸学部教授となった。また、宮崎県美術協会の設立に参加し、昭和45年に会長に就任、美術団体の育成と会の運営に尽力した。昭和62年に宮崎県文化賞を受賞。平成2年、84歳で死去した。

末原晴人(1907-1990)
明治40年大阪市生まれ。明治43年父の故郷である都城市に転居した。大正15年県立都城商業学校を卒業し上京。同舟舎洋画研究所、川端画学校に入り、藤島武二にデッサンを学んだ。昭和8年から都城市立明道小学校教員をはじめ、旧制都城中学校、泉ヶ丘高校、宮崎南高校、宮崎女子短期大学で教職についた。昭和26年日展、光風会展に初入選し、以後両展に出品を続け、昭和35年光風会会員となった。昭和40、41、47年に渡欧、白を基調とする「地中海シリーズ」を手がけた。昭和41年宮崎県文化賞を受賞した。平成2年、83歳で死去した。

岩下資治(1908-1989)
明治41年串間市生まれ。旧制県立飫肥中学校卒業後、東京美術学校図画師範科に進んだ。昭和4年同校卒業、二科展に入選し、昭和16年まで出品を続けた。昭和18年まで千葉県で教師をつとめた。終戦後帰郷し、県立日南高校で昭和14年に退職するまで美術を教えた。その間、県展(現宮日展)にも出品、奨励賞を受賞した。昭和45年に再上京し、その年から一水会展に出品を続け、昭和52年会員となった。平成元年、81歳で死去した。

小野彦三郎(1912-1971)
明治45年小林市生まれ。昭和7年旧制県立小林中学校を卒業。はじめ川端画学校で学び、のちに帝国美術学校に入学、昭和13年同校を卒業した。大久保作次郎に師事し、昭和17年文展に初入選、同年創元展で創元賞を受賞した。昭和24年には日展で特選となった。昭和28年から2年間政府留学生として渡仏し、昭和30年に帰国した。昭和32年に創元会を退会し、翌33年に十一会の結成に参加し創立会員となった。その後、十一会も脱会して無所属として活動、毎年個展を開催した。昭和40年と41年には県展(現宮日展)の審査員をつとめた。昭和46年、59歳で死去した。



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