松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀

2017-08-28 | 画人伝・長崎

川原慶賀 洋人絵画鑑賞図

文献:肥前の近世絵画西洋絵画への挑戦-洋風画から洋画へ,そしてシーボルトと町絵師慶賀

文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

川原慶賀(1786-不明)
天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

川原慮谷(不明-1872)
川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

田口慮慶(不明-不明)
絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。



江戸時代 人物画帳 シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀が描いた庶民の姿
朝日新聞出版
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