松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

沖縄で初めて本格的な油彩画を紹介した山本森之助

2018-07-03 | 画人伝・沖縄

琉球の燈台 山本森之助 東京藝術大学大学美術館蔵

文献:沖縄美術全集4、琉球絵師展

沖縄県で洋画技法が普及するのは、明治30年代に入ってからである。洋画の普及に大きな影響力を持ったのは、明治後期に本土から派遣された美術教師たちで、沖縄最初の美術教師は、1896(明治29)年に沖縄県立師範学校に赴任した日本画家の山口辰吉(1868-1933)だった。山口は、沖縄絵画同好会を主宰したり、丹青協会を結成して美術の普及につとめた。

油彩画では、東京美術学校一期生の山本森之助(1877-1928)が、1901(明治34)年に沖縄県立第一中学校に赴任したのが初となる。山本は、在任中に沖縄を題材に描き、白馬会に出品して会員となっている。沖縄滞在はわずか2年だったが、山本の作品が最初の沖縄での本格的な洋画の紹介となった。

明治から大正にかけて、山口辰吉は美術グループ活動の在り方を示し、山本森之助は東京美術学校への夢を若者たちに抱かせた。

沖縄県出身の美術教師として初期に登場するのは渡嘉敷唯選(1886-1927)と西銘生楽(1887-1924)である。渡嘉敷については、具体的な文献はないが、山本森之助の指導を受けたと思われる。西銘は沖縄県出身としてはじめて東京美術学校に学び、沖縄師範で教鞭をとった。

1922(大正11)年には比嘉景常(1892-1941)が県立第二中学校の美術教師に赴任し、宮城与徳、名渡山愛順、大城皓也、山元恵一、大嶺政寛、安谷屋正義ら多くの画家を育てた。のちにこの教え子たちが沖縄の美術界をリードしていくことになる。

山本森之助(1877-1928)
1877(明治10)年長崎県生まれ。山内愚仙に師事したのち、上京して東京美術学校に入学、黒田清輝に師事した。卒業後の1900年には沖縄県立第一中学校に赴任し、美術教師として教鞭をとった。沖縄の風物を描いた「琉球の燈台」「首里の夕月」などの作品がある。1928年、52歳で死去した。

山口辰吉(1868-1933)
1868(明治元)年栃木県生まれ。雅号は瑞雨。旧名は丸山正美。平福穂庵に師事した。1903年に沖縄師範学校に赴任し、沖縄の美術教育に携わった。滞在中に美術団体・沖縄絵画同好会を結社し、さらに丹青協会の設立にも尽力し、会長となった。のちに丹青協会は、沖縄師範学校へ赴任した東京美術学校卒業の西銘生楽を中心として活動が行なわれた。作品に「沖縄人物風俗図」がある。1933年、65歳で死去した。

渡嘉敷唯選(1886-1927)
1886(明治19)年那覇若狭町生まれ。衣川と号した。「琉球新報」や「沖縄毎日新聞」の記者を経て、1921から27年の間に県立第三高等女学校で美術教師として教鞭をとった。丹青協会に参加し、後年はふたば会に移った。弟に渡嘉敷唯錦、野津唯尹、娘に山元文子がいる。1927年、41歳で死去した。

西銘生楽(1887-1924)
1887(明治20)年那覇若狭町生まれ。沖縄県人として初めて東京美術学校で学んだ。1918年県立師範学校で美術教師として教鞭をとり、美術教育に力をそそいだ。のちに県内の美術教師を主な構成員とする丹青協会の会長もつとめた。1922年には、西銘が中心となり県立二中の学生とともに絵画グループ・樹緑会を結成した。作品は現存しない。子に西銘生一がいる。1924年、37歳で死去した。

比嘉景常(1892-1941)
1892(明治25)年首里山川村生まれ。東京高等師範学校を卒業後、沖縄県立第二中学校の美術教師になった。西銘生楽が結成した樹緑会を引き継ぎ、戦後の沖縄美術を担う多くの人材を育てた。また、王国時代の絵師の調査を行ない、新聞、雑誌に論考を発表した。尚家の書庫にも出入りを許され「琉球画人伝」の原稿を作成したが、刊行されることはなく、十・十空襲で焼失した。1941年、49歳で死去した。



首里城への坂道:鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像
与那原恵
筑摩書房
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