松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま北海道を探索中。

木挽町狩野家に学んだ都城の絵師・竹之下信成

2018-02-06 | 画人伝・宮崎

和田合戦の図 竹之下信成 都城市立美術館寄託(城市立明道小学校蔵)

文献:宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ

都城島津家の絵師たちは、ほとんど狩野派に学んでいるが、白谷卜斎にやや遅れて出た内藤等甫(不明-1664)、竹之下信成(1639-1682)、津曲朴栄(1654-1701)は木挽町狩野家に学んでいる。等甫は狩野尚信に師事し、のちに鹿児島宗藩・島津光久に仕えた。信成は晩年近くになってから江戸に行き、狩野常信の門人になった。これは、信成の先輩である内藤等甫が常信の父・尚信の門人であったことと関連があるかもしれない。この尚信から常信へと続く木挽町狩野家は、奥絵師四家のなかでもっとも繁栄した家であり、そのつながりが都城出身の絵師から深まったことは、注目すべきことである。

信成の作品とされる「和田合戦の図」は、都城の藩校明道館に所蔵されていた屏風で、明治になり都城・小学明道校(現在の都城市立明道小学校)に伝わり、現在は都城市立美術館寄託となっている。六曲一双の屏風だが、左隻は所在不明である。鎌倉幕府の重臣だった和田義盛が、健保元年北条氏の横暴を怒り、兵を挙げ門に押し寄せているところを描いたもので、戦いの様子を華麗に破綻なくまとめている。山内多門が明道校に勤めていた時(1894年)に縮小して模写したものが都城市(個人蔵)に残っている。

竹之下信成(1639-1682)
寛永16年生まれ。通称は助之進。晩年に江戸に出て狩野常信に師事した。作品は都城市立明道小学校に「和田合戦の図」が残っている。また、都城市の諏訪神社に残る「紙本著色諏訪神社縁起」は天和2年、44歳の時の作である。正徳3年、73歳で死去した。

内藤等甫(不明-1664)
都城の家臣。名は利実、通称は善左衛門。狩野尚信について学んだ。自閉斎と号した。慶安年中に島津光久に召し抱えられて本府の士となった。弟子に山口等月がいる。等月はもと入来の家臣だったが、師の等甫同様、光久に召し抱えられて本府の士となった。寛政4年死去した。

津曲朴栄(1654-1701)
承応3年生まれ。名は常好、通称は利左衛門。狩野常信に学び、島津家20代綱貴に召されて本府の士になった。都城古今墨蹟に山水画が収められている。元禄14年、49歳で死去した。

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