松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

豊後府内藩の狩野派

2017-12-05 | 画人伝・大分

二代木崎隆川 白水瀧図 大分県立美術館 

文献:大分県画人名鑑、大分県の美術、大分県史

府内藩は現在の大分市・由布市の大部分と別府市の一部を支配していた藩で、府内の名はこの地におかれた豊後国府に由来する。鎌倉時代に入ると、大友氏が支配し、21代当主・大友宗麟の時代には、中北部九州を治めるなど隆盛を極めた。宗麟はキリスト教を保護し、海外貿易を奨励したため、この地に南蛮文化がいち早く花開き、後年になって「南蛮文化発祥の地」と称されるようになった。しかし、宗麟の子・義統は朝鮮での失策を理由に改易され、豊後国は豊臣秀吉の蔵入地となった。その後は、竹中家、日根野家などを経て、万治元年(1658)に大給松平忠昭が藩主となり、以後廃藩置県まで十代二百余年にわたり、大給松平氏が府内藩を領有することとなった。

府内藩第五代藩主・松平近形(1723-1773)は、父の隠居により家督を継ぎ、藩財政を再建するなど藩政の統治にあたるかたわら、狩野尚信に画を学んだ。遺作は多くないが、すぐれた作品を残している。近形の子・第六代藩主の松平不騫(1755-1840)も文武を奨励し、自らも狩野由信に学び、藩絵師をつとめていた初代木崎隆川にも学んだ。画作も多く、佳作も少なくない。

府内藩絵師としては、藩の選によって江戸で狩野由信に学んだ初代木崎隆川(不明-不明)がいる。師の由信に従って日光廟の修復御用をつとめたこともある。六代藩主の不騫の寵愛を受け、画作などの援助もおこなった。子の二代木崎隆川(1803?-1872)も父に狩野派を学び、藩絵師をつとめた。

松平近形(1723-1773)
享保8年生まれ。府内藩大給氏第五代藩主。松平近貞の長男。幼い時に藩老津久井家お預けとなり、名も津久井桃之助と称した。府内に帰城後は名も大蔵と改めた。藩政の統治にあたるかたわら狩野派の絵師・狩野尚信に画を学んだ。古国府仏光寺所蔵に十六善神図が残っている。安永2年、51歳で死去した。

松平不騫(1755-1840)
宝暦4年生まれ。府内藩大給氏第六代藩主。松平近形の長男。本名は松平近儔。幼名は秀之助、のちに五左衛門。藩務のかたわら、俳諧をよくし、江戸の雪中庵大島蓼太の門に学び、雪中庵不騫と号し、さらに太乙楼、晩年には雪登斎とも号した。画は狩野由信の教えを受け、藩絵師・初代木崎隆川にも学んだ。天保11年、86歳で死去した。

木崎隆川(初代)(不明-不明)
府内藩絵師。名は英美。藩の命により江戸で狩野由信について画を学んだ。師由信に従って日光廟の修復御用をつとめたこともある。その後、藩の絵師として藩士に召し出され、茶坊主などをつとめた。六代藩主不騫に寵愛され、画作などの援助もした。画歴は不明な点が多いが、府内藩札寿老図は隆川の作であり、絵馬や天井絵も各地に残している。没年は不明だが、75歳の遺作も残っている。

木崎隆川(2代)(1803?-1872)
府内藩絵師。初代木崎隆川の子。名は言美、通称は波之助、または隆蔵。別号に洞月斎などがある。画は狩野派の父に学んだ。門人も多い。明治5年、69歳で死去した。



府内藩 (シリーズ藩物語)
現代書館
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