松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

紫の糸で長い髪を束ね、大道を闊歩した鬼才・片山楊谷

2017-02-06 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画、因幡画壇の鬼才 楊谷・元旦

長崎の医師の家に生まれた片山楊谷(1760-1801)は、幼くして親を亡くし、画道で身を立てることを決意し、絵筆を携えて諸国を歴遊した。大坂、甲斐、江戸などを巡り、寛政5年に鳥取を訪れた際、鳥取藩西館の池田冠山にその画技を認められ、その家臣だった茶道家の片山家を継ぐことになった。長崎特有の異国情緒漂う画風に、奇抜は構図、鮮烈な色彩を用いて特異な作品を多く残した。その風貌は、体つきは小さかったが、鳶のように角ばったいかり肩をしていて、鋭い眼光を放ち、へりくだることのない厳しい気性にあふれていたという。常に紫の糸で頭髪を束ね、大道を堂々と闊歩し、人々の注目を浴びていたと伝わっており、大酒飲みの逸話も残している。

片山楊谷(1760-1801)
宝暦10年長崎生まれ。旧姓は洞。名は貞雄(あるいは雄敬)、通称は宗馬、別号に洞観、画禅窟などがある。落款にはよく瓊浦を用いた。医師・洞雄敬(あるいは雄山)の子。宝暦13年、4歳で父を亡くし、画で身を立てるべく筆を携えて諸国を歴遊した。『画伝誓文』によると、備中川崎、大坂、甲斐、江戸などを巡り、寛政元年から2年は但馬、そして寛政5年に鳥取を訪れ、その際に鳥取藩西館の池田冠山に画技を認められ、茶道家・片山宗把の養子となって片山姓を名乗った。また、『鳥取藩史』によれば安永5年には鳥取の黄檗寺院・興禅寺を訪れ、医師・中川東山のもとに留まったとも伝わっている。寛政7年に京都に出て、西本願寺に寓して画名を挙げ、妙法院真仁親王に召されて「蓮下鯉魚之図」を描き、さらに光格天皇に献上の数十幅を描いている。師系は定かではないが、『画伝誓文』によると中国の画家・費漢源(不明-不明)の画法を伝えたとある。人物の頭髪や動物の体毛の一本一本を一筆一筆で描き出す「毛描き」を用い、奇抜で斬新な構図を得意とした。享和元年、但馬の湯村温泉において42歳で死去した。

費漢源(不明-不明)
片山楊谷が師事したと伝わる中国の画家。浙江省呉興の人。名は瀾、字は漢源。浩然と号した。伊孚九、張秋谷、江稼圃とともに「来舶四大家」と称され、山水、人物、花卉をよくし、四人のなかでも最も多才な画家だったといわれる。享保19年にはじめて長崎に来航し、その後宝暦6年ころまでの間に数回来日したとされる。伝存作品は少ない。



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