松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま宮城県を探索中。

青森初の洋画研究所を開いた大和田篤治と大川亮

2018-11-01 | 画人伝・青森

夕涼み 大川亮

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、 青森県近代洋画のあゆみ展、津軽の美術史

青森県初の「洋画研究所」は、明治30年代後半、大和田篤治と大川亮によって青森市に開かれた。南津軽郡に生まれた大川亮(1881-1958)は、中学時代から絵を描き、画家になることを望んでいたが、家族の反対にあい、上京して農業実科(現東大農学部)に入学した。しかし、画家への思いは絶ち難く、家族に隠れて東京美術学校に移り、洋画を岡田三郎助に、日本画を岡田秋嶺について学んでいた。ところが、そのことが後見人の叔父に発覚してしまい、送金を止められたためやむなく帰郷、青森御料林局に勤務することになった。

高知県に生まれた大和田篤治(1875-1913)は、小山正太郎が主宰する不同舎で学び、その後は図画の教員となり、明治37年に青森市内の第三中学校に赴任した。大和田も大川と同じく日本画を岡田秋嶺について学んでいたこともあり、二人は意気投合するものがあったと思われ、第三中学校内にデッサンを主とした洋画の研究所を組織した。研究所の会員は約20名で、中学生のほか、藤野草明、森飛雪、越前翠村、女性では、落合ラン、渡辺まさ子らがいた。ラン、まさ子は、野外写生をした県内初の女性たちといわれている。

研究所は、明治42年に大和田の高知県師範学校への転勤をもってその活動を終了するが、大和田が育てた教え子たちは、青森市の洋画団体「北洋画会」の設立へ、さらに大正期に設立された重要な東京在住の芸術家たちの団体「六花会」の設立の主要メンバーとなり、青森県の洋画の発展に貢献している。

大川亮(1881-1958)おおかわ・りょう
明治14年大光寺村生まれ。東奥義塾に入学するが途中で八戸中学に転校。同校卒業後は東京の農業実科(現東大農学部)に入学。絵への思いは絶ち難く、家族に隠れて東京美術学校に入学し、岡田三郎助について学んだ。しかし明治36年に後見人の叔父に発覚してやむなく帰郷、青森御料林局に勤務した。このころ大和田篤治とともに青森県初の「洋画研究所」を第三中学校の教室を借りて開いた。明治38年、志願して歩兵第三十一連隊に入り、軍役後の明治40年大光寺村村会議員に当選。以後四期連続当選した。大正2年農事研究所を組織して各集落ごとに農事実行組合を組織した。昭和33年、77歳で死去した。

大和田篤治(1875-1913)おおわだ・とくじ
明治8年高知県生まれ。高知県の高等小学校卒業後、明治24年に神田小川町にあった淑美館で鉛筆画、コンテ画を10カ月くらい修業。明治26年に小山正太郎の開いた画塾・不同舎に入り、5年間学んだ。不同舎を出た後は図画の教員となり、明治33年から37年まで富山県魚津中学校の図画教員、明治37年に青森市の第三中学校に赴任となり、同中学校内に洋画の研究所を組織した。明治42年郷里の高知県師範学校に転勤。大正2年、38歳で死去した。



近代画説 13―特集[画塾]と[美術学校]
クリエーター情報なし
三好企画
『絵画(レビュー感想)』 ジャンルのランキング
この記事についてブログを書く
« ワーグマンに洋画を学んだ松... | トップ | 本格的な洋画を津軽に持ち帰... »
最近の画像もっと見る

画人伝・青森」カテゴリの最新記事