松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

青森県の創作版画の祖・今純三

2018-11-06 | 画人伝・青森

青森市新町通り夜景「青森県画譜第六集」今純三

文献:今純三・和次郎とエッチング作家協会、青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、青森県近代洋画のあゆみ展、青森県近代版画のあゆみ展、東奥美術展の画家たち、津軽の美術史

大正時代に、青森県の文化面に大きな影響を与えた「六花会」やその後に結成された「白躍会」で活躍した洋画家に今純三(1893-1944)がいる。今純三は弘前市に生まれ、小学校卒業後に一家で上京した。明治42年からは太平洋画会研究所で中村不折らの指導を受け、さらに黒田清輝の白馬会葵橋洋画研究所、岡田三郎助の本郷絵画研究所で学び、帝展に入選するなど活躍した。しかし、関東大震災を期に青森に帰郷、その後は油彩から版画に転じ、銅版画、石版画の研究に没頭、山本鼎が提唱した「芸術性にあふれた版画」を生み出していった。

今純三が青森に帰ってきた大正12年頃は、まだ日本において銅版画・石版画の方法は確立されておらず、それぞれ各人が試行錯誤しながら取り組んでいた時期だった。師範学校で教鞭をとったこともある今純三のアトリエには、棟方志功、松木満史、鷹山宇一、阿部合成、関野凖一郎、小館善四郎、川村精一郎、下沢木鉢郎ら、教え子や芸術家を目指す若者たちが多数訪れ、今純三の制作方法を貪欲に学んだ。

しかし、今純三に教えを受けたなかで、のちに本格的に銅版画・石版画の制作をしたのは関野凖一郎だけだった。関野も今純三がそうしたように自宅に銅版画研究所を開いて若者たちに教えたが、石版画が版画家たちの間で本格的に行なわれるようになったのは、戦後を迎えてからだった。石版画を試みた戦後の青森県の作家としては、関野をはじめ、七尾謙次郎、村上善男、山内ゆり子、戸村茂樹らがいる。

今純三(1893-1944)こん・じゅんぞう
明治26年弘前市生まれ。兄は今和次郎。明治39年弘前市立城西小学校卒業後、一家で上京。同年独乙学協会学校中学部に入学するが、明治42年同学校を中退して太平洋画会研究所に入り、中村不折らの指導を受けた。明治43年白馬会葵橋洋画研究所に移り、黒田清輝、岡田三郎助に師事。明治45年藤島武二、岡田三郎助が新設した本郷洋画研究所に入り、研究生第1号として登録された。同期に中村研一、長谷川潔、硲伊之助らがいた。同年早稲田工手学校建築科の夜学に入学、小山内薫らが主催する自由劇場の舞台背景制作に従事した。大正8年帝展入選。大正12年関東大震災に被災し青森に帰郷、青森市で個展を開催した。この頃から石版画、エッチングの研究に着手するようになる。大正13年弘前市で個展を開催。大正15年青森市の印刷会社啓明社に勤務し石版技法を研究した。昭和2年青森県師範学校図画科教授嘱託となる。昭和6年東奥美術展覧会の審査員。昭和8年青森県師範学校を退職して東奥日報社編集局嘱託となり「青森県画譜」の制作に着手。昭和14年青森市で個展を開催し、その後上京。昭和15年日本エッチング作家協会の設立に参加。昭和19年、東京において52歳で死去した。