松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

英国に帰化した水彩画家・松山忠三

2018-11-05 | 画人伝・青森

豊作 松山忠三

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、 青森県近代洋画のあゆみ展、津軽の美術史

青森県の洋画家で最も早く海外に渡ったのは、水彩画家の松山忠三(1880-1954)とされる。松山は、北津軽郡板柳町の大地主の家に生まれた。生家は、津軽随一の大長者といわれた井筒屋の別家にあたるが、父親の事業の失敗により親子は離散、松山は北海道の函館に渡り、新聞屋、デパートで働いていたが、母の大病の知らせを受け帰郷、母の病気回復後は、青森市の青湾学舎青年部の夜学に入学した。

明治39年に上京、当時流行していた水彩画の魅力に引かれ、丸山晩霞の家に寄寓しながら太平洋画会研究所や水彩画講習所に通った。この頃は、日本の水彩画が全盛期を迎えており、太平洋画会の三宅克己や、明治美術会の大下藤次郎らが活躍し、明治40年には、大下、丸山らが日本水彩画研究所を創設、松山は幹事として同会に所属した。

明治43年、松山は師の丸山の再渡欧に同行してロンドンに渡った。英国では、チェルシーにある美術学校チェルシー・アート・スクールに学び、その後も英国で活動、大正5年には王立芸術院とナショナル・ポートレート・ギャラリーに出品、王立芸術院には昭和14年までの間に5回出品、スコットランドのロイヤル・スコティッシュ・アカデミーに入選し、英国水彩画協会の会員の資格を得た。

晩年は第二次世界大戦が長期化するなか、英国と敵国である日本人であるということで、英国水彩画協会の会員資格の返還を迫られたり、外出の制限を受けたり、末の息子を戦争で失うなどの苦難が続いた。戦後は、英国人の妻の強い要望もあって、英国に帰化、一度も日本に帰ることなく、彼の地において74歳で死去した。ロンドンにある漱石記念館には70点余りの作品が収蔵されている

松山忠三(1880-1954)
明治13年北津軽郡板柳町仲町生まれ。明治23年兄とともに函館市に奉公に出たが、明治29年母親の大病の報を聞き青森に帰郷。母の病気回復後、青森市松森にある私立青湾学舎青年部の夜学に入学した。明治39年に上京、太平洋画会研究所や水彩画講習所に通った。翌年、水彩画講習所が小石川水道端に移り改称した日本水彩画研究所に幹事として入所。明治41年太平洋画家展覧会に出品。水彩画の専門誌「みずゑ」にも数回掲載された。明治43年丸山晩霞の再渡英に同行し、英国に渡り、チェルシーの美術学校の夜学に通い、昼は古い家具の修理や漆塗りの仕事をした。ロイヤル・アカデミーなどに出品し、英国水彩画協会の会員となった。昭和22年英国籍を取得。昭和29年、74歳で死去した。