松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま岩手県を探索中。

本格的な洋画を津軽に持ち帰った羽場金司

2018-11-02 | 画人伝・青森

自画像 羽場金司

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、青森県史叢書・近現代の美術家、 青森県近代洋画のあゆみ展、津軽の美術史

明治も終わり頃になると、東京美術学校西洋画科に青森県出身の若者たちも入学をはじめた。大川亮をはじめ、羽場金司、関彦四郎、大橋貞一らである。大正2年に東京美術学校を卒業した羽場金司(1886-1916)は、藤島武二教室で学んだ本格的な洋画を弘前市に持ち帰った。その3年後、29歳で短い生涯を閉じるが、羽場は洋画の真髄を津軽に最も早く伝えた青森県における油絵のパイオニアといえ、その志しは、交流のあった関彦四郎らに引き継がれた。

関彦四郎(1888-1961)は、明治42年東奥義塾を卒業後、早稲田実業学校に入学。ほどなく東京美術学校に転入、黒田清輝を中心とした白馬会研究所にも通った。明治43年東京美術学校の予科、その後西洋画科に入り藤島武二教室に学んだが、大正4年に父の病気のために中退。帰郷後は、油絵のほか、彫刻、墨絵、木版画の制作も行なった。また、大正8年に津軽で初めての洋画団体である「弘前洋画同好会」を結成、大正10年に名称を「北斗社」に改めた。

北斗社は、解散する大正14年までの間に7回の洋画展を持続的に開いた。北斗社の同人には関をよく助けた佐々木順威をはじめ、長尾源太郎、多田源蔵、中村一郎、笹森清一郎、小野忠明、早野弘太郎らがいた。

羽場金司(1886-1916)はば・きんじ
明治19年弘前市生まれ。実家は小友の庄屋をしていた家柄。旧制弘前中学校卒業後、体が弱いため1年浪人し、明治42年東京美術学校に入学。そこで藤島武二に学んだ。在学中結核におかされるが、大正2年に卒業。弘前に帰り病魔と戦いながら絵を描き続けるが、大正5年、29歳で死去した。

関彦四郎(1888-1961)せき・ひこしろう
明治21年弘前市生まれ。父清造は第五十九銀行勤務。明治42年東奥義塾を卒業後、早稲田実業学校に入学。ほどなく東京美術学校に転入、白馬会研究所にも通った。明治43年東京美術学校の予科、その後西洋画科に入り藤島武二教室に学んだが、卒業間近の大正4年父親の病気のため中退して帰郷した。北斗社の中心となり指導的役割を果たした。昭和36年、73歳で死去した。

大橋貞一(1888-1967)おおはし・ていいち
明治21年弘前市生まれ。旧姓は古郡。実家は代々医者の家系。明治39年に弘前中学校を卒業。羽場金司とは同期。卒業後は東京美術学校に進んだ。一説には最初日本画科に入り、その後西洋画科に移ったとされ、日本画の作品も残っている。在学中に青森師範学校で開催された北洋画会展に水彩画を出品、弘前美弘会の会員となった。大正4年に東京美術学校を卒業し、名古屋中学校、満州の大連中学校で教鞭をとり、個展も開催したが、満州事変によって昭和6年頃東京に帰った。昭和42年、79歳で死去した。