松原洋一・UAG美術家研究所

近世から明治中期頃までに活動していて、ネット検索しても出てこない画家を中心に紹介しています。ただいま青森県を探索中。

写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした前田寛治

2017-03-06 | 画人伝・鳥取


文献:近代洋画・中四国の画家たち展、前田寛治展-一九三〇年協会の仲間とともに-

鳥取県中部の中北条村国坂の農家の二男として生まれた前田寛治(1896-1930)は、倉吉中学を卒業後、東京美術学校を卒業して倉吉中学に赴任したばかりの中井金三の勧めもあって画家を志し、上京して東京美術学校に入学した。在学中から休暇ごとに帰郷し、中井が結成した「砂丘社」に創立当初から参加、鳥取の子供たちや田園ののどかな風景を好んで描き、叙情あふれる作品を多く残している。前田が美術学校卒業後にフランス留学を決意した際には、中井は我がことのようにその資金集めに奔走したという。前田はフランスから帰国した年に帝展で特選を受賞、その後も帝展で発表する一方、木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、佐伯祐三とともに「一九三〇年協会」を結成、意欲的な作品で当時の日本洋画界に新風を巻き起こした。さらに「前田写実研究所」を開設、後進の指導にあたるとともに、写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした。しかしほどなく病に倒れ、33歳の若さでその生涯を閉じることとなった。前田の没後、一九三〇年協会は活動を停止し、同年独立美術協会が結成されると、会員の大半が同会に加わり、一九三〇年協会は分裂し、解散した。

前田寛治(1896-1930)
明治29年中北条村国坂生まれ。倉吉中学で、東京美術学校を卒業した中井金三から石膏デッサンの指導を受けた。卒業後は中井の勧めもあって画家を志し、大正4年に上京、同郷の森岡柳蔵に連れられ黒田清輝を訪ね、白馬会葵橋洋画研究所を経て、大正5年に東京美術学校西洋画科に入学した。同級生には伊原宇三郎、鈴木千久馬、田口省吾、田中繁吉らがいた。大正9年には中井金三を中心に結成された砂丘社に参加、作品や詩を発表した。大正10年美術学校を卒業し同年の帝展に初入選、さらに翌年の平和記念東京博覧会で褒状を受賞した。画家として順調なスタートを切った前田は、倉敷で見た大原コレクションにヨーロッパへの思いを強め、パリ留学を決意した。

大正11年末から2年半パリに留学した前田だったが、その留学生活はけっして恵まれたものではなかった。しかし、制作には意欲的に取り組み、セザンヌ、ゴッホ、ブラマンク、キュビスムなど多様な描法を研究するとともに、クールベの写実主義にも着目、一時期、労働者や工場の風景も描いた。また、中学の同級生で社会主義思想家の福本和夫とも交流し、唯物史観的な思想に影響を受けた。パリ留学最後の年には、「西洋婦人像」や「ブルターニュの女」など、留学中の集大成ともいえる作品を描いている。

大正14年にフランスから帰国、同年の帝展で特選を受賞した。その後も帝展を発表の場とする一方、翌年にはパリで親交を深めた木下孝則、小島善太郎、里見勝蔵、佐伯祐三とともに「一九三〇年協会」を結成、意欲的な作品で当時の日本洋画界に新風を巻き起こした。以後は帝展、一九三〇年協会展を舞台に活動した。また、本郷の洋画研究所に「前田写実研究所」を開設し、後進の指導にあたるとともに、留学中の研究成果である著書『クルベエ』を出版するなど、多くの画論や随筆を発表、写実理論を作品と執筆の両面から確立しようとした。昭和4年、帝展で帝国美術院賞を受賞するが、翌年の昭和5年、病のため33歳で死去した。


鳥取の近代的文化運動の中核となって活動した中井金三と砂丘社

2017-03-03 | 画人伝・鳥取


文献:鳥取県立博物館 郷土と博物館31、倉吉の美術100年展、前田利三遺作展

明治末期から大正にかけて、東京美術学校で学んだ新進気鋭の指導者たちが、鳥取中学、師範学校、倉吉中学に着任し、広く洋画が普及していった。さらに、大正末期から昭和初期になると、美術だけでなく芸術全般の活動が全県的に波及していく。この時期に中心的指導者の役割を果たしたのが中井金三(1883-1969)である。中井は東京美術学校卒業後、学内に残るよう勧められたが、家業が倒産したため帰郷して倉吉中学に勤め、前田寛治をはじめ、多くの教え子たちを育てた。また、大正9年には中井を慕って集まったメンバーたちと文化団体「砂丘社」を結成、絵画、文学、音楽など芸術全般にわたる普及活動をすすめ、鳥取における近代的文化運動の中核となって活動した。同時期に久米福衛を中心とした「黒鳳会」や、藤井禎三郎の「白鳳会」が結成され、多くの若者が芸術に目覚め、美術運動が盛んになっていった。「砂社社」の創立メンバーは、中井を中心に、卒業生の前田寛治、石亀正美、河本緑石(1897-1933)、増田英一(1901-1993)、卒業したばかりの高塚弥之助、前田利三(1902-1979)と、在校生の石亀忠利(1902-不明)、加藤晃だった。のちに小椋繁治(1888-1969)、波田野幸治(1892-1965)らも同人に加わった。

中井金三(1883-1969)
明治16年倉吉市中河原生まれ。実家は酒造家。明治30年に上京して銀座日本橋の自家酒販売店に居を定め、杉浦重剛の書生などをしながら日本中学を卒業した。明治37年に白馬会研究所でデッサンを学び、翌年東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝に師事した。青木繁の「海の幸」に感銘を受け、竹島、隠岐の島を取材、漁民をテーマにした卒業制作「河岸」を描き、代表作となった。卒業後も学内に残るよう勧められたが、家業倒産のため帰郷、倉吉中学の図画教師となり、卒業後に指導した前田寛治をはじめ、多くの教え子を美術系の学校に進学させた。大正9年には「砂丘社」を結成、鳥取における近代的文化運動の中核となって活動した。大正10年からは倉吉高等女学校も兼務した。外光派を基調とし、風景や静物を明るい色彩で描いた。特にバラを愛し、自宅の庭で育てたバラを題材に多くの作品を制作、「バラの画家」と称された。昭和44年、85歳で死去した。

河本緑石(1897-1933)
明治30年倉吉市福光生まれ。本名は義行。倉吉中学校卒業。盛岡高等農林学校卒業後、兵役についた。同校の一学年上にいた宮沢賢治と、文学同人誌「アザリア」を発行するなど交流を持った。四十連隊の入隊中「砂丘社」の結成に参加、同人誌では編集を担当した。自由律俳句や詩のほか油彩画も描いた。詩集『夢の破片』、遺稿集『大山』などの著書がある。昭和8年、水泳訓練中の事故のため、36歳で死去した。

増田英一(1901-1993)
明治34年生まれ。倉吉中学校卒業。大正9年名古屋高等工業学校建築科に入学、在学中に「砂丘社」の結成に参加した。大正11年に同校を中退して上京、川端画学校で藤島武二に師事した。兵役ののちに帰郷したが、昭和6年二科展に初入選したため、翌年再び上京して教職のかたわら本格的な制作活動をおこなった。昭和20年戦災によって作品と家財を失い再度帰郷した。昭和25年に倉吉美術展の創設に参加、以後、倉吉市展、鳥取県展などの審査員をつとめた。昭和33年日本水彩画会山陰支部の結成に参加、昭和44年から支部長をつとめ、水彩画の普及に尽力した。平成5年、92歳で死去した。

前田利三(1902-1979)
明治35年北条町国坂生まれ。倉吉中学校卒業。大正9年「砂丘社」の結成に参加した。同年上京し、川端画学校を経て翌年東京美術学校に入学した。在学中に中央美術社展、光風会展に入選した。卒業後は駒込林町に住み、横山潤之助、佐藤敬、永田一脩、浅野孟府らと同人展を開催した。昭和2年帝展に初入選した。昭和5年から14年まで神戸にいた砂丘社の仲間・石亀忠利の紹介で神戸市立諏訪山尋常小学校の図画専科教員として勤務した。昭和15年に中国に渡り、北京、天津で制作、翌年帰国し神戸市の小学校につとめたが、昭和24年帰郷した。以後、鳥取西高、倉吉東高などの美術講師をつとめるかたわら、倉吉美術協会創立に参加するなど、地元文化の向上に貢献した。昭和54年、77歳で死去した。

石亀忠利(1902-不明)
明治35年生まれ。倉吉中学校在学中に「砂丘社」の創立に参加し、以後メンバーとして活動した。大正11年の「砂丘」3号では、前田利三とともに編集を担当し、大正13年まで「砂丘」の表紙絵を描いた。

小椋繁治(1888-1969)
明治21年倉吉市新町生まれ。鳥取師範学校を中退し、検定試験によって教員免許を取得。関西美術院を経て大正8年に上京、本郷洋画研究所で岡田三郎助に師事し、油彩、水彩の技法を学び、陶器の知識も得た。大正15年から「砂丘社」の同人になった。昭和2年から中国に渡り、天津を拠点に各地で制作した。昭和15年から日本水彩画会会員となり、昭和33年に増田英一らと山陰支部を結成した。戦前は、水彩画会展、二科展、一水会展などに出品、戦後は倉吉に戻り、倉吉市展、鳥取県展などの創立に尽力した。昭和44年、81歳で死去した。

波田野幸治(1892-1965)
明治25年倉吉市東仲生まれ。米子中学校から倉吉中学校に移り、卒業後、朝鮮に渡り教員養成所で資格を得て小学校の教員となった。帰国後の大正13年に「砂丘社」の同人になった。昭和40年、73歳で死去した。


森岡柳蔵ら東京で学んだ鳥取出身の洋画家

2017-03-01 | 画人伝・鳥取


文献:甦る郷土の美術家たち、倉吉の美術100年展、米子美術館所蔵目録Ⅱ、鳥取県立博物館 美術資料(絵画)目録、没後50年森岡柳蔵展図録、生誕130年記念香田勝太展図録

遠藤董が伝えた油絵の技法や新しい洋画の思想によって、鳥取県の洋画界はしだいに活気を帯び、上京して美術を学ぶものも出てきた。森岡柳蔵(1878-1961)は明治31年に上京、黒田清輝の主宰する天真道場(のちの白馬会研究会)に学んだのち、東京美術学校に入学した。明治38年には香田勝太が同校に入学、藤田嗣治らとともに黒田清輝、和田英作に学んだ。二人とも卒業後は中央に残り、大正期にかけて文展や帝展で活躍した。また、砂丘社を創設し鳥取洋画の中心的指導者となる中井金三も、明治37年に上京し、翌年東京美術学校に入学している。

森岡柳蔵(1878-1961)
明治11年東郷町生まれ。小学校卒業後、倉吉の酒造家に奉公のかたわら画を描いた。20歳の頃に上京、黒田清輝の主宰する天真道場(のちに白馬会研究所と改称)に学んだのち、東京美術学校西洋画科選科に入学した。明治36年に卒業後、清国北京大学に2年間つとめた。明治44年に京都の染織家・龍村平蔵の工房で一年間図案の仕事をしたのち、東京に戻り文展などに出品した。大正11年から3年間フランスに留学し、前田寛治や藤田嗣治らと交遊しながら研鑽を積み、サロン展出品した。生来無口で、孤独を好み、絵を描くことを生活として楽しんだという。昭和36年、84歳で死去した。

香田勝太(1885-1946)
明治18年日野郡溝口町生まれ。明治38東京美術学校洋画科に入学、藤田嗣治らとともに黒田清輝、和田英作に学んだ。大正6年6月頃から森岡柳蔵らとともに、和田英作のもとで帝国劇場の壁画制作に従事し、完成後も引き続き藤田嗣治らと舞台背景画の制作に携わった。同年文展に初入選し、以後帝展、新文展に出品した。大正15年から昭和4年までフランスに渡り、サロン・ナショナル、サロン・ドートンヌなどに出品した。昭和6年東京女子美術専門学校西洋科教授に就任。昭和19年疎開のため帰郷し、翌年「疎開芸術家のクラブ」として、郷土ゆかりの辻晉堂、田渕巌、笹鹿彪、大江賢次らと「麓人会」を結成、地元の文化芸術活動の発展に貢献した。昭和21年、62歳で死去した。

田渕巌(1901-1986)
明治34年西伯郡会見町生まれ。大正10年上京して川端画学校び、翌年東京美術学校洋画科に入学、猪熊弦一郎らとともに藤島武二、黒田清輝に学んだ。昭和11年新制作派協会結成に参加。昭和19年疎開のため帰郷、香田勝太らとともに麓人会を結成。以後米子農工学校、米子東高等学校などで教鞭をとった。昭和61年、86歳で死去した。

笹鹿彪(1901-1977)
明治34年米子市生まれ。香田勝太帰郷展に感銘を受け画家を志すようになった。大正9年上京、本郷絵画研究所で岡田三郎助に師事した。大正10年帝展に初入選し、以後連続で出品、日展評議員、参与をつとめた。大正13年焼失した本郷絵画研究所の再建、本郷絵画展(のちの春台美術展覧会)の結成につとめた。昭和20年に帰郷し、麓人会に参加した。昭和52年、76歳で死去した。


鳥取にはじめて本格的な油絵を伝えた郷土教育の父・遠藤董

2017-02-27 | 画人伝・鳥取


文献:鳥取県立博物館 美術資料(絵画)目録 1980近代洋画・中四国の画家たち展、鳥取女子短期大学研究紀要第41号・遠藤董と鳥取県立鳥取図書館の設立

鳥取県にはじめて本格的な油絵を伝えたのは、のちに「鳥取の郷土教育の父」と称される遠藤董(1853-1945)である。遠藤は、狩野派の藩絵師・根本雪峨に学んだのち、東京に出て高橋由一の画塾「天絵社」に入り、油絵の技法を習得した。明治12年には師の油絵を持参して帰郷し、鳥取に西洋画を広めた。その後、高等小学校の校長をつとめ、退職後は私立鳥取図書館、私立鳥取女学校、私立鳥取盲唖学校の創設などに尽力、教育者として活躍した。

遠藤董(1853-1945)
嘉永6年鳥取市材木町生まれ。遠藤重嘉の長男。幼名は東造、のちに藤蔵、さらに董と改めた。8歳で藩校尚徳館に入学し、学問を修めた。画は狩野派の藩絵師・根本雪峨に学んだ。明治8年に広島師範を卒業すると、当時の新しい思想に共感して翌年には上京、高橋由一の画塾「天絵社」に入り、油絵による西洋画を習得した。明治12年に師の油絵を持参して帰郷、鳥取に西洋画を広め、鳥取洋画壇の創始者となった。その後は、明治41年に鳥取高等小学校校長を辞任するまで23年間初等教育に従事した。明治23年、因幡高等小学校の専任校長だった時、学校内に「久松文庫」の名称で図書収集を開始し、これが鳥取県の近代図書館のはじまりとされる。明治35年には鳥取市教育会長に就任し、「久松文庫」を「鳥取文庫」に改め、図書館として正式に発足させ、自ら文庫長となり、明治40年には規則を改正して「鳥取文庫」を「私立鳥取図書館」とした。大正7年、私立鳥取図書館の建物、図書などの一切を鳥取市に寄贈し、鳥取市立図書館とし館長をつとめた。また、明治41年には私立鳥取女学校(のちの静修高女)を設立、校長兼教諭として女子教育に尽力した。明治43年には私立鳥取盲唖学校(現:県立盲学校・県立鳥取聾学校)を創立して初代校長となり、昭和15年に辞めるまで、県特殊教育確立のために尽力した。昭和20年、93歳で死去した。


明治・大正生まれの鳥取出身の日本画家

2017-02-24 | 画人伝・鳥取


文献:米子美術館所蔵目録Ⅱ、倉吉の美術100年展、甦る郷土の美術家たち、前田直衞-鳥取が生んだ孤高の画人、情熱と郷愁の画人中島菜刀、八百谷冷泉 ふるさと鳥取に残した足跡

鳥取市の左官の家に生まれた八百谷冷泉(1887-1959)は、地元の中住道雲に師事したのち、京都に出て山元春挙に入門した。大阪美術学校で後進の指導にあたるとともに、矢野橋村、小杉放庵、福田平八郎、菅楯彦らと「墨人会」を結成して技術向上につとめた。ほかには、京都市立絵画専門学校で学んだ勝谷木僊(1894-1978)、中島菜刀(1902-1955)、持田卓人(1906-1995)、桑野博利(1913-2008)らがいる。また、伊東深水、橋本明治に師事した濱田台児(1916-2010)は、日展で活躍、理事長をつとめた。

八百谷冷泉(1887-1959)
明治20年鳥取市職人町生まれ。家業は左官。本名は甚一。幼いころから画を好み、はじめは同じ職人町に住んでいた中住道雲に師事して「起雲」と号した。またこの頃には青谷町出身の恩田節園にも日本画を学んでいる。明治43年、日露戦争、旧満州の守備兵として配属されるが、かたときも画帳を離さず写生に励んだという。2年後、帰郷し浪華絵画競技会や巽画会で褒章を得るなど、次第に頭角をあらわしはじめ、大正4年、意を決して京都に出て、山元春挙に入門、雅号を「其雲」に改めた。昭和9年、矢野橋村からの要請で大阪美術学校助教授となり、のちに教授となった。この年に雅号を「大樹」に改めた。学校で後進の指導にあたるとともに、矢野橋村、小杉放庵、福田平八郎、菅楯彦らと「墨人会」を結成するなど、さらなる技術向上につとめた。9年にわたって大阪に居住したが、戦争の激化により大阪美術学校が閉鎖、さらに軍医少尉としてラバウルに赴任していた長男の戦死もあり、失意のなか、神経痛のため家族を残して単身鳥取へ帰郷した。その際、温泉が体によかったということで雅号を「冷泉」に改めた。鳥取では県展、市展の審査員をつとめるなど郷土の美術振興に尽力した。その後再度大阪に戻るが、再度病を得て、昭和34年、72歳で死去した。

勝谷木僊(1894-1978)
明治27年米子市生まれ。その後大阪に移った。本名は滋夫。父は南画家の勝谷米荘。京都市立絵画専門学校に入学して西山翠嶂に師事、在学中に帝展に初入選した。卒業後も翠嶂門下生として学び、堂本印象、上村松篁らと青甲塾の同人となった。戦時中は作品制作を中止し短歌や茶道に明け暮れるが、戦後再び日展で活躍する。師の翠嶂没後は世間からも遠ざかり、写実一筋に大山山容に取り組んだ。昭和53年、87歳で死去した。

金沢虹坡(1900-1990)
明治33年米子市高尾生まれ。本名は善正。明治44年上京して東京美術学校日本画科に入学し川合玉堂に師事し、卒業後も門下生として学んだ。中央展で受賞するが、その後は師の玉堂の教示に従い公募展出品を断念した。以来中央画壇から離れ、古来の日本画の探求に徹した。平成2年、91歳で死去した。

中島菜刀(1902-1955)
明治35年八頭郡生まれ。本名は益雄。家業は旅芝居をしていた。17歳で京都に出て山元春挙の画塾「早苗会」で学び、2年後京都市立絵画専門学校に入学、養鶏場で働きながら苦学して24歳で卒業した。この頃より「菜刀」と号し、冨田溪仙に私淑するようになる。昭和4年院展に初入選、以後院展に出品した。昭和30年、53歳で死去した。

持田卓人(1906-1995)
明治39年西伯郡生まれ。大正14年に京都市立絵画専門学校を卒業し、冨田溪仙に師事した。昭和4年春の院展に初入選し、以後院展に出品した。昭和13年大阪朝日新聞社の従軍画家として北支戦線に派遣された。同年、関西院展派の中堅と「白御会」を結成した。
平成7年、90歳で死去した。

桑野博利(1913-2008)
大正2年倉吉市秋喜生まれ。京都市立絵画専門学校を卒業後、中井宗太郎に学びながら研究科に進み、榊原紫峰に私淑した。昭和14年新文展に初入選、以後、戦後の日展まで出品した。昭和20年から24年まで京都市立絵画専門学校で指導にあたった。昭和28年池田遙邨に師事し青塔社に入った。昭和46年の紫峰没後は日展を離れ、広く指導を続けた。平成2年から3年まで司馬遼太郎が週間朝日に連載した「街をゆく」の挿絵を担当した。平成20年、94歳で死去した。

前田直衞(1915-2008)
大正4年鳥取市用瀬町鷹狩生まれ。父親が24歳で没したため、母の実家の前田家で育てられた。小学6年生の時、祖父母をたよって大阪に出て、3年後に洋画家の松原三五郎の紹介で菅楯彦の内弟子となった。さらに楯彦の推薦により橋本関雪に師事、関雪にとって最後の弟子となった。昭和35年院展に初入選、以後院展に出品した。平成20年、93歳で死去した。

濱田台児(1916-2010)
大正5年鳥取県気高郡浜村町生まれ。本名は健一。19歳の時に伊東深水の内弟子となり、深水没後は橋本明治に師事した。昭和16年新文展に初入選、以後も日展を中心に活動し、昭和50年に日展内閣総理大臣賞を受賞、平成7年から9年まで日展理事長を務めた。昭和55年日本芸術院賞を受賞、昭和59年日本芸術院会員になった。平成22年、93歳で死去した。


浪速の町絵師・菅楯彦

2017-02-22 | 画人伝・鳥取


文献:没後五十年 菅楯彦展 浪速の粋 雅人のこころ、大阪商業大学商業史博物館紀要第9号、菅真人遺作展図録

鳥取に生まれた菅楯彦(1878-1963)は、幼くして父で日本画家の菅盛南とともに大阪に移住した。父の没後は特定の師にはつかず、諸派の画法を研究し、独自のスタイルを確立した。常に勉学を怠ることなく、画事のみならず、漢学、国学、雅学などを身に付け、その歴史観をもとに浪速の風俗を描く町絵師として活躍、自らを「浪速御民」と称した。晩年には日本画家として初の日本芸術院賞・恩賜賞を受賞した。楯彦の異父姉の子にあたる菅真人(1896-1983)は、楯彦に師事しその画風を継承、楯彦没後は顕彰活動の中心となり活動した。

菅楯彦(1878-1963)
明治11年鳥取市生まれ。本名は藤太郎。菅盛南の長男。幼いころ父とともに大阪に移住した。11歳の時に父が病に倒れたため高等小学校を2年で中退し画業に入り、「盛虎」と号して襖絵を描くなどして生計を助けた。父の没後は特定の師につくことなく、襖絵や幻灯絵の彩色を手伝いながら、自作の縮図帖により、四条派、狩野派、土佐派、浮世絵派などを模写し研究した。さらに寸暇を惜しんで勉学を怠らず、漢学を山本梅崖に、国学・有識故実を本居派の鎌垣春岡について学んだ。この際に師の春岡の楯彦の号をもらった。楯彦とは「国を守る男子」という意味で、『万葉集』から引用したものであるという。また、明治34年に大阪陸軍地方幼年学校の嘱託となり美術と歴史を教えていた時には、ここで松原三五郎に洋画を学んだ。さらに翌年には、森正寿に師事して雅亮会に入って舞楽を学んだ。晩年には四天王寺舞楽協会長を勤め、伝統の雅楽保存に貢献。昭和33年に日本画家として初めてとなる日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、昭和37年には初の大阪名誉市民に選ばれた。昭和38年、85歳で死去した。



菅真人(1896-1983)
明治29年倉吉市生田生まれ。本名は昇。菅楯彦の異父姉の子。大正2年に陸軍幼年学校受験のため東京に出るが失敗し、大阪まで戻り菅楯彦に師事した。その後一時帰郷したが、昭和6年に再び大阪に行き、以後楯彦の助手をつとめた。昭和12年には大森富平、直原放青らと三艸社を結成、大阪三越で展覧会を開催した。楯彦の画風を継承し、歴史風俗画を多く描いた。昭和38年の楯彦没後には顕彰活動の中心となり、昭和49年の倉吉博物館開館にあたっては、楯彦を美術部門の柱とするべく貢献した。昭和58年、86歳で死去した。


四条派を学んだ青木図南と門人の菅盛南

2017-02-20 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、菅盛南展図録

京都に出て四条派の柴田義董に学んだとされる青木図南(1790-1859)は、特に人物画を得意とし、一見して誰を描いたかが分かるほどの技量だったと伝わっている。しかし、同時代の鳥取藩内には、御用絵師の沖一峨(1797-1855)、鳥取藩の学制改革につとめ南画をよくした儒者・正墻適処(1818-1875)、土方稲嶺の門人で鯉の名手と謳われた黒田稲皐(1787-1846)らがおり、図南は彼らの影に隠れた存在だったといえる。門人には鳥取の近代日本画を代表する菅楯彦の父・菅盛南(1844-1897)がいる。

青木図南(1790-1859)
寛政2年生まれ。鳥取藩の家老・荒尾近江の家臣。活動の詳細は不明な点が多いが、土方稲嶺の息子・稲林や稲嶺の門人らとの合作が伝わっていることから、一時期稲嶺について学んだ可能性が考えられる。また、京都に出て四条派の柴田義董に学んだとされる。安政6年、70歳で死去した。



菅盛南(1844-1897)
弘化元年生まれ。菅楯彦の父。名は大次郎、字は直方、旧姓は三輪。幼いころから画を好み、はじめ青木図南に学び、師の一字をもらい「南保」と号した。ついで、丹後の宮津から父の蟠龍を慕ってきていた長谷川盛嶺について学んだ。この時、前の師匠の一字を残し、盛嶺の一字をもらい「盛南」と改号した。その後、京都に出て塩川文麟に学んだとされるが、残された作品や資料が少なく詳細は定かではない。京都から帰ってからは、山陰各地を遊歴し、旅絵師のような生活をしていたと思われる。明治30年、54歳で死去した。

三輪蟠龍(1803-1879)
享和3年生まれ。菅盛南の父。儒学者で医者。名は泰然、字は芳喬。筑後国浮羽郡大石村の旧家佐藤家の長男。学問の志をたて家督を弟に譲り、15歳で豊後国日田にあった広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入り漢学を修めた。その後、長崎から京都を巡り、儒学および医学を学んだ。さらに江戸に出て研鑽を積み、江戸で医療を開始、それにあわせて私塾を開き門下生を教育した。明治12年、77歳で死去した。


鳥取ゆかりの近世南画家

2017-02-16 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち藩政時代の写生画と文人画、米子美術館所蔵目録Ⅱ、鳥取縣書画百藝名人集

米子の漁師の家に生まれ、のちに大山寺に入って僧となった嗒然(1796-1861)は、独学で画法を修得し、「嗒然の千枚書き」と称されるほど多くの作品を残した。おなじ米子出身の越寛一(1803-1864)は、江戸に出て谷文晁に学び、諸国を巡遊したのち京都に留まり、文人墨客と交友を重ねた。大阪堺に生まれた牧野芝石(1840-1903)は、鳥取出身の父の跡を継いで医師をしていたが、学問を好み、書画をよくし、幕末には鳥取に戻って画を描いた。奈良の寺の家に生まれた三枝真洞(1840-1868)は、幕末の混乱期に因幡・伯耆の各地を転々としながら寺子屋を開いて子弟を教え、多くの詩書画を残した。また、幕末に鳥取に生まれ、明治以降に活躍した南画家としては、黒部拈華(1856-1933)、岩越鉄庵(1846-不明)、中住道雲(1858-1943)らがいる。

嗒然(1796-1861)
寛政8年米子皆生生まれ。実家は漁師。本姓は八幡。幼いころから画を好み、指で砂に馬を描き、爪で壁に牛の図を刻んで遊んでいたという。11歳の時に大山寺西明院谷円流の僧務となり、台腎に師事し、剃髪して名を台貫と改めた。そのかたわら画をよくし、40歳ころからしばしば八幡、岸本、安来方面に滞在し、書画漢詩などに没頭した。晩年は大山寺を出て八幡村に草庵を営み、迎嶽観主人太虚と号した。「嗒然の千枚書き」と称されるほど多くの作品を残した。文久元年、66歳で死去した。

越寛一(1803-1864)
享和3年米子生まれ。船越寛一とも称した。商家・牧野家に生まれ、のちに豪農・船越龍叟の養子となった。本名は船越太郎右衛門道貞、幼名は松太郎、諱は道貞。別号に岱雲、了秀、寛冽、馬晁、了晁、牧寛一、翠雲越寛一、白嶺越寛一などがある。画を好んだ養父の影響で、幼いころから船越家に来る各地の文人墨客たちから文化的な刺激を受けて育った。19歳の時に鳥取で数カ月修行したのち、江戸に出て谷文晁に師事した。同年、父の病気のため帰郷したが、再び山陽、長崎、諫早、岡山、名古屋、京都を遊歴し、京都では四条派の岡本豊彦やその養子・亮彦と交流し、数点の合作を残している。40歳頃、父の死を機に帰郷し、船越家7代目として父の手掛けた新田開拓事業を引き継いだ。以後は米子に留まり、訪れてくる文人墨客をもてなし、風雅を楽しんだ。文久4年、62歳で死去した。

牧野芝石(1840-1903)
天保11年大阪堺生まれ。名は順造。父の佐々木北洋は鳥取鹿野の出身の医師。名は静修。佐々木伯堂と称し、のちに鳥取藩ゆかりの牧野家を継いだ。別号に雲烟眼過處主人、十梅堂主人などがある。若いころから学問を好み、書をよくし、詩文を藤井竹外、森田節斎に学び、のちに正墻適処に学び、画を父に学んだ。はじめ家業を継ぎ医師をしていたが、勤王の志を抱き、全国の志士と交友し、大和の十津川の変に際して志士を隠匿した疑いにより堺を逃れ鳥取に移住した。晩年は鳥取中学校の書道教授をつとめた。南画の普及につとめ、浄瑠璃を愛した。酒豪であったため病み、明治36年、64歳で死去した。

三枝真洞(1840-1868)
天保11年大和国生まれ。実家は浄土真宗浄蓮寺。本名は蓊、僧名は浄尚。別号に青荷、青樵堂、山跡方外史、真洞人などがある。近くの村の今村文吾の私塾に通って儒学、国学を修め、京都に出て伴林光平に国学、和歌、書を学び、藤本鉄石に南画の技法を学んだ。文久3年、天誅組の挙に応じて大和五条に馳せ参じたが失敗し、但馬を経て因幡に逃れた。その後、因幡・伯耆の各地を転々としながら、飯田年平や正墻適処らと交流し、寺子屋を開いて子弟を教え、多くの詩書画を残した。鳥取を去った翌年の慶応4年、天皇謁見途上の英国公使パークスの一行を、浪士林田衛太郎と二人で智恩院付近で襲ったが失敗し、捕らえられて処刑された。34歳だった。

黒部拈華(1856-1933)
安政3年鳥取市辻売町生まれ。本部泰翁の義弟。牧野芝石と交流があった。京都に出て日根対山に南画を学んだのち、東京に出て学問を修めた。昭和8年、78歳で死去した。

岩越鉄庵(1846-不明)
弘化3年生まれ。鳥取市中町に住んでいた。長三洲の流れを汲み、山水花鳥を得意とした。第2回内国絵画共進会にも出品した。

中住道雲(1858-1943)
安政5年鳥取市職人町生まれ。中住憲梁の子。名は憲明。別号に桃生柳雨がある。幼いころから画を好み、祖父・虎岳について土佐派の画法を学び、のちに狩野派の藤岡神山に入門、ついで稲岡天真に南画を学び、さらに蓮井竹山に円山派を学んだという。全国絵画共進会で三等賞を受けるなど各展で受賞した。昭和18年、86歳で死去した。


鳥取藩の学制改革につとめた正墻適処とその高弟・山内篤処

2017-02-14 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち藩政時代の写生画と文人画、正墻適処とその系譜、山内篤処伝

鳥取藩の藩医の子として生まれた正墻適処(1818-1875)は、はじめ建部樸斎に経学を学び、のちに江戸、大坂に出て学を修め、多くの文人と交流した。詩文を好み、書画をよくし、温雅な作品を多く残している。諸国を遍歴したのち、36歳の時に鳥取に戻り、藩儒官となって学制改革や政務にあたり、藩士の教育にあたった。好学の青年たちがその門を叩き、その中でもっとも早く入門したのが、高弟とされる鳥取藩士・山内篤処(1835-1885)である。篤処もまた詩書画をよくし、絵は個性的で激しいものがあったという。

正墻適処(1818-1875)
文政元年鳥取生まれ。藩医泰庵の長男。名ははじめ新蔵、のちに薫。別号に朝華、研志堂がある。少年のころは武をもって身を立てようと志し、剣道、槍術を専念していたが、たまたま槍術の師の訓戒を受け、悟るところがあって建部樸斎について漢学を修めた。16、7歳の時に儒家・佐善家の養子となったが、25歳で佐善家を去り、諸国修業の旅に出た。大坂では藤沢東畡に入門し、27歳ころには江戸に出て佐藤一斎に入門、昌平黌に入学した。諸国を遍歴したのち、嘉永6年、36歳の時に鳥取に帰って藩儒官となり学制の改革につとめ、尚徳館で藩士の教育にあたった。また、幕末から維新の激動期にあって国事周施に奔走した。44歳の時に藩命で肥前、佐賀、長崎を探索、この年に「研志堂詩鈔」を発刊した。明治6年、56歳の時に久米郡松神に移り、私塾を開いて近郷の子弟の教育につとめ、そのかたわら詩書画をよくした。明治8年、58歳で死去した。

山内篤処(1835-1885)

天保6年鳥取生まれ。名は衡、字は叔平。嘉永6年に正墻適処の研志塾に入門、安政5年には江戸に出て塩谷宕陰の門に入った。翌年、鳥取藩西館藩主池田清緝の侍講になり、一度鳥取に戻るが、また江戸に出たと思われる。万延元年、清緝に従って駿河鎮護のため約一年間駿河に滞在した。文久2年、清緝が没したため侍講の仕事は消滅、翌年中老で江戸にいた矢野能登に引き取られて江戸詰めの探索となった。元治元年、沖剛介とともに水戸に探索に行った際、鳥取藩の改革を決意、矢野能登を含めた3人で江戸を出て鳥取に戻るが、途中で矢野は病死した。明治3年、福本藩改革の仕事につき、福本少参事となり改革の中心人物となる。その後は、米子教習学校、米子明道小学校、鳥取遷喬小学校などの校長を歴任し、故郷の教育に尽力した。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品、褒詞を受けた。明治18年、51歳で死去した。


鳥取南画の祖・赤山水の建部樸斎

2017-02-10 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画

鳥取で最初に南画を描いたのは、鳥取藩西舘藩士・建部樸斎(1769-1838)とされる。樸斎は、家督を継いだ24歳頃から経学を修め、書を学び、画をよくした。師系は明らかではないが、詩書画すべてに巧みで、画は好んで山水を描いた。画面構成は、近景に大樹を配し、これをもとに、山、飛泉、渓流を描き、草屋、人物を加え、上部に詩を入れるというスタイルで、赤鉄鉱の顔料である代赭をうっすらと施して藍を添えた「樸斎の赤山水」と呼ばれる清雅な作風を創造した。

建部樸斎(1769-1838)
明和6年鳥取生まれ。通称は東五郎、諱は嘉、字は遯夫、名は憲、あらためて穉。別号に黙斎、黙処、餐霞、敦今、糞叟、狄肉散人、黙庵などがある。曽祖父の七太夫の代から鳥取藩西館池田家に仕えた。少年のころは文学を好まなかったが、妻が鳥取藩の儒者で医者だった堀徴の妹であったことや、姉が儒者で詩文家の伊良子大洲の妻となったことにより、その影響を受けて学問を志したと思われる。寛政4年、父・文蔵の死により、24歳で家督を継いだ頃から、自ら経学を修め、詩を学び、書は中村元儀の流れを学んだ。西館当主・池田冠山に厚遇され、経書の講義をし、詩作の相手をした。40歳で退役してからは公務の務めを断り、風雅の世界に没頭し、晩年にいたるまで詩書画に専念し多くの山水図を残した。天保9年、70歳で死去した。


谷文晁の実弟・島田元旦

2017-02-08 | 画人伝・鳥取


文献:因幡画壇の鬼才 楊谷・元旦藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画

谷文晁(1763-1840)の実弟として生まれた谷元旦(1778-1840)は、鳥取藩江戸留守居役を務めていた島田図書の養子となり、島田家を継いで島田と改姓した。15歳離れた兄・文晁のもと、元旦は幼いころから画才を磨き、中国諸家の画法を摂取した山水画や、南蘋派の手法による花鳥画を手がけ、「黄初平図」など油彩画も試みている。青年期の元旦は、文晁から強い影響を受ける一方、十代後半には京都・大坂を訪れ、木村蒹葭堂や浦上玉堂とも接し、また円山応挙の門をたたいたとも伝わっている。また、幕府の調査隊の一員として蝦夷へ行き、『蝦夷風俗図式・器具図式』『蝦夷山水器物図巻』『蝦夷奇勝画稿』など多くの資料を残している。

島田元旦(1778-1840)
安永7年江戸生まれ。谷文晁の実弟。父の谷麓谷は幕府の与力だったが、詩人として知られている。名は文啓、字もしくは通称は季允、のちに寛輔と改めた。1月1日に生まれたことから元旦(げんたん)と号した。別号に昴斎、嘯月斎、香雲軒、梅花軒、後素軒などがある。谷一族は画才に恵まれており、姉の舜英(1772-1832)や妹の紅藍(1780-不明)、谷文晁の先妻・幹々(1770-1799)も画をよくし、谷文晁の養子・文一(1787-1818)、実子の文二(1812-1850)も画家として知られている。

『鳥取藩史』に記載されている元旦の孫の口伝によると、元旦が13歳の時、文晁に叱責されて家を出て京に上がり、円山応挙の門に入り、応挙没後は南蘋画法を自ら研究し、前後7年で江戸に帰ったと伝わっている。また、寛政5年から翌年にかけて大坂の木村蒹葭堂のもとを11回訪問し、同年冬には江戸に戻っていることも資料に残っていることから、元旦が青年期に上京していることは明らかながら、正確な上京期間は不明である。

寛政11年、幕府が派遣した蝦夷地開発のための大規模な探検隊に加わり、松前から東海岸沿いを厚岸まで実地踏査し、東北、蝦夷地の風景や風俗、器物、動植物などを写生、『蝦夷風俗図式・器具図式』や『蝦夷山水器物図巻』『蝦夷奇勝画稿』など多くの資料を残している。

享和元年、鳥取藩江戸留守居役を務めていた島田図書の養子となり、養父を補佐するかたわら、たびたび藩より絵の制作も命じられている。文政2年、養父の図書が没し、42歳で正式に家督を相続した。文政12年、御国勝手を命じられ鳥取に帰ったが、日光東照宮修復の御礼使者として江戸に赴くなど、たびたび江戸に出ていた。天保11年、63歳で死去した。


紫の糸で長い髪を束ね、大道を闊歩した鬼才・片山楊谷

2017-02-06 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画、因幡画壇の鬼才 楊谷・元旦

長崎の医師の家に生まれた片山楊谷(1760-1801)は、幼くして親を亡くし、画道で身を立てることを決意し、絵筆を携えて諸国を歴遊した。大坂、甲斐、江戸などを巡り、寛政5年に鳥取を訪れた際、鳥取藩西館の池田冠山にその画技を認められ、その家臣だった茶道家の片山家を継ぐことになった。長崎特有の異国情緒漂う画風に、奇抜は構図、鮮烈な色彩を用いて特異な作品を多く残した。その風貌は、体つきは小さかったが、鳶のように角ばったいかり肩をしていて、鋭い眼光を放ち、へりくだることのない厳しい気性にあふれていたという。常に紫の糸で頭髪を束ね、大道を堂々と闊歩し、人々の注目を浴びていたと伝わっており、大酒飲みの逸話も残している。

片山楊谷(1760-1801)
宝暦10年長崎生まれ。旧姓は洞。名は貞雄(あるいは雄敬)、通称は宗馬、別号に洞観、画禅窟などがある。落款にはよく瓊浦を用いた。医師・洞雄敬(あるいは雄山)の子。宝暦13年、4歳で父を亡くし、画で身を立てるべく筆を携えて諸国を歴遊した。『画伝誓文』によると、備中川崎、大坂、甲斐、江戸などを巡り、寛政元年から2年は但馬、そして寛政5年に鳥取を訪れ、その際に鳥取藩西館の池田冠山に画技を認められ、茶道家・片山宗把の養子となって片山姓を名乗った。また、『鳥取藩史』によれば安永5年には鳥取の黄檗寺院・興禅寺を訪れ、医師・中川東山のもとに留まったとも伝わっている。寛政7年に京都に出て、西本願寺に寓して画名を挙げ、妙法院真仁親王に召されて「蓮下鯉魚之図」を描き、さらに光格天皇に献上の数十幅を描いている。師系は定かではないが、『画伝誓文』によると中国の画家・費漢源(不明-不明)の画法を伝えたとある。人物の頭髪や動物の体毛の一本一本を一筆一筆で描き出す「毛描き」を用い、奇抜で斬新な構図を得意とした。享和元年、但馬の湯村温泉において42歳で死去した。

費漢源(不明-不明)
片山楊谷が師事したと伝わる中国の画家。浙江省呉興の人。名は瀾、字は漢源。浩然と号した。伊孚九、張秋谷、江稼圃とともに「来舶四大家」と称され、山水、人物、花卉をよくし、四人のなかでも最も多才な画家だったといわれる。享保19年にはじめて長崎に来航し、その後宝暦6年ころまでの間に数回来日したとされる。伝存作品は少ない。


鳥取画壇の祖・土方稲嶺、鯉の名手と謳われた門人の黒田稲皐と小畑稲升

2017-02-03 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画、鳥取縣書画百藝名人集

鳥取画壇の祖と称される土方稲嶺(1741-1807)は、鳥取に生まれ、江戸に出て宋紫石の門に入り南蘋派を学んだ。のちに京都に移り、一説には円山応挙に師事したとされる。寛政10年に鳥取藩絵師として召し抱えられ、58歳で帰郷した。大画面の構成にすぐれ、写実性と装飾性の調和に創意を凝らし、生物の一瞬の動作をとらえた作品や、南画風の山水図を多く残した。稲嶺に写生画法を学んだ黒田稲皐(1787-1846)は、鯉を得意とし、鯉を描いては師の稲嶺に匹敵する名手とされた。また、稲皐に学んだ小畑稲升(1812-1886)も鯉の絵をよく描いた。稲嶺の家系は、子の土方稲林(1796-1859)、孫の土方稲洋(不明-不明)へと続き、稲皐の家系は甥の黒田稲観(不明-不明)に受け継がれた。稲観は画をよくしたが、若くして没した。

土方稲嶺(1741-1807)
寛保元年生まれ。字は子直、名は廣邦、のちに鳥取藩御用絵師になってから廣輔と改めた。初号は虎睡軒。鳥取藩の家老・荒尾志摩の家臣・土方弥右衛門の子。幼いころから画を好み、沈南蘋の画風を慕って江戸に出て宋紫石の門に入った。門人の中でも右に出るものがなかったという。のちに京都に移住し、粟田宮家に仕えた。寛政10年帰郷し、藩御用絵師となったが、寛政12年には江戸詰を命じられた。没年にいたるまで制作を続け、画題、技法ともに幅広く、鳥取画壇の祖と称された。子に稲林がいて、跡を継いで藩の絵師となった。高弟に黒田稲皐がいて、画系を受け継いだ。文化4年、67歳で死去した。



黒田稲皐(1787-1846)
天明7年生まれ。名は文祥、通称は六之丞。初号は稲葉。幼いころから画を好み、土方稲嶺について写生画を学んだ。弓馬、刀槍、水練など、武芸全般に長じ、藩主・池田仲雅に仕えた。仲雅没後は画業に専念し、家に鷹を飼い、池に鯉を放してその生態を観察し、写生をした。特に鯉の絵にすぐれ、「鯉の稲皐」と称された。甥の稲観、小畑稲升が画系を受け継いだ。弘化3年、60歳で死去した。



小畑稲升(1812-1886)
文化9年鳥取市吉方生まれ。名は広助、のちに成章。初号は五石。幼いころから画を好み、鯉の名手と謳われた黒田稲皐に師事し、自身も鯉を得意とした。弘化2年鳥取城二の丸造営の時、新殿に屏風などを描き、翌年は京都に出て中林竹洞のもとで修行し、その年の冬、藩御用絵師に取り立てられた。嘉永5年には画道修業のため3年間江戸に出た。晩年は岩美町荒金に住み、明治19年同地において、75歳で死去した。


橋本秀峰ら鳥取の狩野派の絵師

2017-02-01 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、鳥取縣書画百藝名人集

鳥取藩士だった橋本秀峰(1796-1883)は、文芸や書にも広く通じ、江戸の藩務のかたわら鍛冶橋の狩野探淵に師事し、野馬図を得意とした。鳥取出身で、はじめ秀峰に学んだ大岸探海(1819-1868)は、江戸に出て鍛冶橋の狩野探淵に学び、のちに鳥取藩御用絵師となった。そのほか狩野派の絵師としては、はじめ狩野の画法を学び、のちに好んで男女の姿を諧謔的に描いた二熊一笑(1792-1857)や、京都の狩野永常の門人となり御即位式大典の御襖を描いた森岡永眠(1766-1822)らがいる。

橋本秀峰(1796-1883)
寛政8年生まれ。鳥取藩士・林淇園の二男。同じく鳥取藩士だった橋本家の養子となった。通称は斧蔵。父の淇園は衣川長秋に歌を学び、香川景樹とも親交があった。父の薫陶を受けた秀峰も同じく風流を好み、歌書画をよくした。歌は父及び中島宜門に学び、主に守雄と名乗った。書ははじめ住山龍斎に、のちに松野神谷に学んだ。画ははじめ鳥取の息吹惟広に学び、のちに江戸の藩務のかたわら鍛冶橋狩野探淵に師事した。弘化3年の鳥取城二ノ丸新築にあたっては屏風を描いた。明治2年に隠居し、風月を友として余生を送った。明治16年、88歳で死去した。

大岸探海(1819-1868)
文政2年生まれ。鳥取の人。鳥取藩御用絵師。はじめ橋本秀峰に学び、孤峰と称した。長じて江戸の鍛冶橋の狩野探淵の門人となった。安政4年、鳥取藩御用絵師となった。慶応4年、50歳で死去した。



二熊一笑(1792-1857)
寛政4年鳥取生まれ。幼いころに狩野派を学んだが、江戸に出てさまざまな画風を研究して一機軸を案じ、戯画を得意としるようになったと伝わる。時期は不明ながらのちに茶禿となり、鳥取の立川町萬屋横丁に住んだという。安政4年、66歳で死去した。

森岡永眠(1766-1822)
明和3年生まれ。京都の狩野永常の助手となり、御即位式大典の御襖を描いた。屈指の金具彫刻の名人と称された。文政5年、57歳で死去した。


根本幽峨と鳥取の門人

2017-01-30 | 画人伝・鳥取


文献:藩政時代の絵師たち、根本幽峨の伝記と画業、鳥取縣書画百藝名人集

鳥取城下の商家に生まれた根本幽峨(1824-1866)は、江戸に出て沖一峨の門人となり狩野派の画法を修め、藩の御用絵師となった。多数の模本を残すとともに屏風や掛軸など多くの作品を描き、亀井琴嶺(不明-不明)、河田翠涯(1822-1900)、藤岡神山(1825-不明)ら郷土で活躍する絵師を育てた。弟で門人の根本雪峨(1828-1901)は、幽峨の跡を継いで狩野派の画を描き、明治年間には京都府画学校で教鞭をとった。

根本幽峨(1824-1866)
文政7年生まれ。鳥取城下の商家・砂田屋の長男とされる。幼名は重三郎。別号に鷲峯がある。幼いころから画を好み、凧や幟に武者絵を描いて売っていたという。長じて江戸に出て沖一峨の内弟子となった。江戸では一峨のもとで絵画修行に励むとともに藩の御用の絵画制作に従事していた。嘉永7年に絵画修行の年限が満ちたのでいったん帰郷し、後にまた江戸に出た。安政5年に正式に藩の御用絵師となった。元治元年には沖剛介が起こした堀庄次郎暗殺事件のため一時断絶となっていた沖九皐一家を預かり、慶応2年に家名が再興されるまで沖家の世話をした。師の一峨と同様に各画法に通じ、狩野派の伝統手法にのっとった山水図や各派を折衷した作品を残した。幕末から明治に鳥取で活躍した亀井琴嶺、河田翠涯、藤岡神山ら、鳥取で多くの門弟を育てた。慶応2年、43歳で死去した。

亀井琴嶺(不明-不明)
八頭郡米岡の人。根本幽峨の門人。奇人にして雪舟の筆を慕っていたと伝わる。

河田翠涯(1822-1900)
鳥取市馬場町に住んでいた。根本幽峨の門人。山水人物を得意とした。茶もよくした。

藤岡神山(1825-不明)
鳥取市下臺町庚申堂横手に住んでいた。根本幽峨の門人。

根本雪峨(1828-1901)
文政11年生まれ。根本幽峨の弟で門人。幽峨の養子となって跡を継いだ。幽峨のほか、沖一峨や菊田伊洲に学んだ。藩邸新築の際には師とともに制作にあたり、明治2年には因伯隠三州の地図製作に携わった。京都府画学校の教授をつとめた。明治34年、73歳で死去した。